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2013年01月07日
やっと糸魚川市がヒスイに対して少し動き出しそうです。(いいかげん待ちくたびれましたが…)
私は不本意ながらヒスイの領域においての「作れない側」の事も考えていましたが、これからは考える必要がなくなるでしょう。
答えは一つしかなく「真っ当な作る側の者」と協力しない限り、糸魚川での正当な商いは不可能です。(これ以外に選択肢が残っていない)

正直、「頭の中が成長しないまま老けていった連中」ばかりだと心底諦めていましたが、「適切に年を重ねた年輩者」が存在したのだと嬉しく思っています。
これは外的要因での強制的な現象なのかもしれませんが、それでも問題ありません。(歴史的にも外の人達の方が意識が高いのは証明されていますし)

ともあれ、まずは糸魚川市が認めるべき糸魚川ヒスイの担い手は、「作る側である事」が確定しました。(それも伝統文化を繋ぐ小規模な産業が望ましい、要は燃費の良い継承者が必要なわけです)

今後はもっと細かなルールを作って行くのでしょうが、結果的に私が望む「正当な領域」に成る事は間違いないでしょう。

そこで、これより先の「作る側の中での選別の必要性」を書こうと思います。(選別するほど本物がいませんけどね…)

私達が去年「未来を任せる政党や政治家」を選別したように、この先「未来を任せる糸魚川ヒスイの担い手」の選別が必要になります。(有権者に相当するのは、興味のある人だけですけどね…)
「一切必要がない」って事になると伝統文化の継承が行われないので、その結末が認められる事はないでしょう。(保護とは活用されている存在の規制であり、ほったらかしにする事を保護とは言わない)

以前に書いた「綺麗な水と濁った水」にあるように、現段階は濾過されて「作り手・売り手・買い手」の姿はハッキリと見えるステージとなりました。
そして最高の結果を出す条件は「高い商品力(作品力)・高い販売力・高い購入力」の三つが揃った時である事も明確になっています。
後は各々の適切な判断が、この領域を「高みに進める事」にも「どん底に落とす事」にも影響していくでしょう。
見るべきはその者の「魂」であり、それを見極められたなら劣化する事はありません。


※一応、糸魚川ヒスイを扱う者の選別をしない場合の事も書きます。

■糸魚川で選別を進めない場合
5年前に提案したように「業者ごとブースを分ける事」と「産地ごとブースを分ける事」がどうしても必要になってきます。
糸魚川では「ミャンマー産ヒスイを扱わない」となれば、業者ごとのみ分ければ良いですが、その分別がどこまで信用できるかは扱う業者次第です。
新しくなる前の物産センターでは、業者ごとブースに分かれていたそうです。

当時は業者の激しい抵抗にあいましたが、現在では必要性が認知され多くの人に求められているので、さすがに同じ結果にはならないかと思います。
私だけでなく、過去にブース分けを求めた人はいましたが、ことごとく却下されました。(社長ですら無理でした…)
この事で学んだのは「雇用されていては変えられない現状」で、「外からでしか変えられない現実」も知りました。

もしここで同じ結果になるのなら、もうこれは「どれだけ自分の扱う商品に自信か無いのか」と言う事を自己申告しているのと同じです。
もしかしたら「自身で扱っている商品の真贋すら分かっていない業者」もいるのではないでしょうか?
とにかく、あの業者ごちゃ混ぜの「隠れみの体勢」を変えないと信用は得られないでしょう。

これは「食中毒」と同じ事で、お店が食中毒を起こしてしまったのなら営業停止になるのは当然の事です。
責任の所在を明らかにして、堂々と販売していけば誰も文句は言いません。(別の文句は出ますがね)

後は作らない業者は海外で大量生産して行くので、糸魚川ヒスイの大量消費が問題となるかと思います。
海外に出すので「どっちの産業か分からなくなる事」も問題で、時にはヒスイをすり替えられる事もあるそうです。
こうなると糸魚川ヒスイの分析データを集積している鑑別機関に出して、一つ一つ分析してもらうしかないでしょう。(データの揃っている鑑別機関は準備してあります)

この場合、その判断を購入側にのみ押しつける事になるのは間違いないでしょう。
何であれ外でも闘えず、内でも正当に運営できない業者はどうにもならない。

糸魚川で「ミャンマー産ヒスイを扱う正当な理由」がどうしても思い浮かばない…。


■糸魚川で選別を進める場合
当然、糸魚川市民である事が大前提です。
担い手の資格としては「日本レベルで考える」か「糸魚川レベルで考えるか」で条件は変わってくるでしょう。
まずは糸魚川レベルでの資格を考えてみると、糸魚川での「伝統文化の継承」はそこまで古くなく(古代に存在した伝統が最近まで知られていなかったので)、最低条件となる事は物産センター内の「加工所での委託加工」になるのだと思います。
糸魚川で長く続いてきた事だし、基本が詰まっている作業でもあるし、ガラス越しに見ていれば加工が出来る人だって事が誰にでも分かるし。(現在は正常に機能していないので、早急な対応を求めている最中です)
海岸転石の鑑定もするので、鉱物の知識と古代の知識もある程度必要になるし、一般のお客さん相手の仕事として、常に「保護」の責任を持つ事になります。
後は「生きる姿勢」でしょうね…、一番重要だけと一番分かりづらい。

以前に働いていたので、その重要性の高さは良く理解しています。
ただ職場としての環境が良くないので、改善した方が良いと思われる事があります。
1日8時間の加工を、あの古い機械を使い一人で何日も続ける事は、かなり重労働なので3人くらいをローテーションさせて運営すると良いかと思います。(作れるなら業者がローテーションで担っても良いかと)
要するに雇用するのではなく、業務委託の体勢にすれば良いのですね。
ここの加工所には「ある程度の支援」が必要になるかと思います。
ある程度の支援がないと、未来にも残す必要がある糸魚川ヒスイを、無駄に消費して生きる「魂の消費者」が誕生してしまう。

それと同時に、糸魚川ヒスイを使う事を許すライセンスも必要となるでしょう。
これは国の認定、あるいは新潟県か糸魚川市の認定する「公の資格」である必要があります。(伝統工芸師は形骸化しつつあるので別のが良いかと…)
重要なのは、「公の機関の保証である」って事です。
どうしてでも「公にも責任を持たせる事」が必須条件となります。

日本レベルでは「審査基準の統一」が困難ですので、今は考えなくても良いかと…。
そもそも「糸魚川で糸魚川ヒスイを扱うライセンス」であり、それで作られてきた品(大珠や勾玉など)の正当後継者を裏付けるライセンスではく、外での「商売としての保証」として使う資格でもないので、糸魚川レベルでの範疇で良いと考えています。

この事により糸魚川では正当な者でなければ糸魚川ヒスイを扱えなくなり、不当な者は外へ出て商売する事になるでしょう。(地下経済は無くならないでしょうけどね)
これはあくまでも糸魚川での「糸魚川ヒスイを扱って生きる者の条件」であり、換金せずに小規模な個人の趣味ならば大した問題にはならないと思います。(他県での商売についても規制は無いと思いますが、印象は変わることでしょう)

それと作り手は日本で言う職人スタイルを目指すのか、イタリア・ドイツ・フランスの言う職人スタイルを目指すのかで、かなり方向性(活動形態・表現法など)は違ってくると思います。
どちらが良いのかは、自身で決めていく必要があるでしょう。(けっこう重要な選択だったりしますから)

この問題はジオパーク以前の問題であり、人としての生き方を象徴する問題なのだと思います。

確実に言える事は「傷を舐め合う者達」は「傷を持たない者」を恐れています。
正当に生きられたら、より不当な生き方が露わになる事を怖がっているのが分かります。
しかし「罪と罰」がこの世に在る限り、罪を犯した者は相応の罰を受けるのは当然でしょう。

賢者は歴史から、愚者は経験から学ぶと言いますが、どちらでも良いので学んで下さい。
かつて信用を失った経験が全く活かされていないし、まだ喉元を過ぎてもいないのですから。
このままでは「まちぐるみで詐欺を行っている」と思われても仕方がないでしょう。

これから糸魚川市も大変でしょうが、今まで放置していたのが間違いだったのだから覚悟を決めて決断してください。(決断ができない事は人としての無能さを表します)

糸魚川ヒスイにおいて、糸魚川市が成すべき事は昔も今も変わっていません。
2013年01月01日
明けましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします。

支えて下さる方々のおかげで、無事に年を越すことが出来ました。
今後とも創作活動に尽力していきますので、協力をお願いします。


今回は八咫烏が神玉として完成しました!

計画では須世理毘売か事代主を制作する予定でしたが、先に八咫烏のデザインが思いついたのでこちらを優先して作ってみました。
今年に相応しい存在でもあるので、必然的に生まれたようにも思えます。


デザインのモチーフは「星」(南十字星)です。
八咫烏は「王の導き手」であり、「太陽神」としても崇められている存在です。
ちょっと分かりづらいかと思いますが、下方の尖った部分(小さな二つの穴が開いている部分)が頭で、そこから両翼が広がり、輝く星を包むように三つの尾をデザインしています。
本来伝承では三本足という事ですが、導き続ける存在として「決して留まることのない存在」を強調するべく、足を持たないデザインを考えました。(尾が足の代わりになっても面白いかと考えました)


八咫烏に込めたコンセプトは、「導く・示す・輝く」です。
先の見えない現実の中で、自分の信じる夢や目標に向かい続ける希望を象徴しています。
それと同時に、自身でも人に道を示すような生き方が出来るよう願いを込めています。
八咫烏自体が輝いているのでは無く「輝き導く希望を尾で包み込んで飛んでいる」事を重視して、希望さえあれば誰もが人を導く存在に成り得る事を伝えています。
こちら側の尾の部分は、星=恒星として太陽の意味合いを強く込めてあります。
光線を表現すると同時に、尾を表現するために二つの深い溝と四本の丁字(表側の)を加工してみました。


また「王の導き手」として、上向きにした際に「輝く星が王冠をかぶっている」ように見えるデザインにもしてあります。
モチーフの南十字星は、南の四神が朱雀である事も考えて北極星にはしていません。(そもそも北極星は王者の星だし、王を玉座に導く姿がヨハネにも似ているので十字星かと)
とにかく八咫烏は王そのものではなく、王を導き支える存在と私は考えています。

私が考える王の資質は「純粋である事」の一点のみです。
純粋で在るから支えようとする人々が存在するのであって、その人達に知識があれば国は繁栄するのだと考えます。(王は守らなくてはいられない存在)
簡単なように思えますが「純粋である事」と言うのは人間である以上、かなり困難な条件である事は歴史が示しています。

では人でなかったら…、例えば糸魚川のヒスイ自体が「王である」と考えたなら、ヒスイ自体が穢れる事はなく、「穢れた」としたならばそれは人の責任である事になります。

純粋な存在に関わり、それを活かすも汚すも人次第…。
どうかその存在を汚すことなく、自分を高めて創作活動を行って行きたいです。(現代では誰かの八咫烏に成ることが、最も求められる生き方なのかもしれません)
2012年12月27日
今年最後の拾い納めとして浜辺に行ってきました。
この日は寒波が来る前の晴れた日だったので、そんなに寒くはありませんでしたが、波は相変わらず強めに打ち寄せていました。(今の時期にしては穏やかな波でしたが)

歩く範囲は限られていたので探し回らず、ただ波を眺めていました。
拾い納めと言っても自分の中での行事のようなもので、拾えなくて当然と思って海に「無事に今年が終わる」って事を報告している感じです。(この時期に不動滝へは行けないんです…)

しかし、しばらくすると明らかに他とは違って光が膨張している存在を確認したので、波の引き際に拾いに行きました。


良く練られた透明度の高い良質の白緑ヒスイの漂石です。
緑色は暗めの青緑っぽい色をしていますが、それが海を映しているようで魅力的です。
今までのサンプルの中でも、このレベルのヒスイを拾えたのは初めてだと思います。(昔に拾っていた愛好家の爺さんは、もっと凄いヒスイを持っていますけどね…)
水に濡れた雪のような質感は、良質ヒスイの特徴と言えるかと思います。


白色の部分には細かいヒスイ輝石が幾らか見られますが、緑色の部分は細密になり溶け合うように混ざり合っています。
画像は載せてないですが、裏側には緑色は入らず白も暗く濁っているのが見られます。
たま、所々に茶色で線状に入った石目がある事など、コンサワの青ヒスイに似た特徴も見られます。(酸化した付着物と言う感じではなく、一体化してる感じです)


青みがかった暗めの緑色ではありますが、光にかざすと全体が美しく輝きます。
この柔らかな緑を見る度に、やがて来る暖かな春を思い出す事ができます。
ヒスイとは「厳しい冬を越え、生命溢れ、期待溢れる季節の到来が約束されている事を再認識させてくれる存在」なのだと私は感じています。

全く期待していなかったので、この出会いはとても嬉しいです。
偶然なのですが必然に思える、何か自然から祝福されているように感じる、これらの感情は人の思い込みなのでしょうが、幻想社会に生きている人類が、現実世界で運命と思える接点と遭遇するのは、とても不思議な感覚で高揚します。(今後も頑張ろう!と思える現実との接点、そういうのは大歓迎です)


今年も色んな方々に支えてもらい、なんとか来年を迎える事ができます。
ヒスイとの出会い、人との出会いは共通していて、とても大事なのだと実感しています。
来年は巳年ですので、年男として攻めの姿勢で創作活動して行きたいと思います。

後は加工納めが残っています…、すごい寒いので火鉢で暖をとりながら進めています。
例の如く「年始の挨拶代わり」としてアップできればと考えています。(ちょっと計画から逸れた作品を制作中ですけど…)


それではみなさん、よいお年を!
2012年12月17日
イザナギとイザナミの神話で、ちょっと思いついたので書いてみます。
現代の事柄に当てはめているだけなので、本当の意味とかじゃありません。


国生みと神生み、この神話を現実と合わせて考えてみました。
まずヒノカグツチが生まれるまでの期間は「交際期間」だったのではと考えます。
共有する世界観を構築していき、お互いとても惹き合っていた最高の時期だったと言えるでしょう。(早い話、恋愛中のピークだったと言うことですね)

その後、結婚をして子供(ヒノカグツチ)が生まれます。
神話では産道を焼いて死に至らしめたとありますが、「産道を焼く」という表現自体を「出産」として捉えてみました。(それだけの苦しみが出産にあるのだと男の私でも想像がつきます)
ヒルコは「生まれる事が叶わなかった最初の子」として考えるべきでしょう。

また「死に至らしめた」と言う表現は、母となった事で以前とは異なる存在となったとの表現ではと考えます。
では何故「イザナギが怒り我が子の首を切り捨てた」という表現を使ったのかですが、簡単に言うと「最愛の女性を奪い変貌させた自身の子に憎悪した」って事だと思います。

実際に子を殺したのでは無く「いなければ良かった」と、その存在自体を疎ましく思い、生ませた事を後悔したのではないでしょうか。(この時のイザナギは父親として幼稚で不完全な存在だったに違いない)

それからは家庭という奈落(地獄)のような期間を過ごす事になるイザナギですが、その中でもかつてのイザナミを求めて生活していきます。
しかし探した結果、より醜い部分を目の当たりにしてしまい、恐れ戦く事になったと考えます。(これはイザナギ(男)の主観での話です)
最初の子を失ったイザナミの心情を考えれば、生まる事が叶った子(ヒノカグツチ)を過保護に育ててもおかしくないです。

その後、家庭にお金を持ってくるだけの「換金要員」としてだけの人生に嫌気がさし、二人は大喧嘩をして離婚する事になったのだと考えられます。(神話の世界にはお金は在りませんので、イザナギはそれに相当する何か(時間かも)を持って来るだけの存在となり下がったのでしょう)
原因としては、やはり子供を優遇しすぎて「夫を蔑ろにした」とイザナギが感じたからでしょう。
もしかすると、イザナギは最後まで父親に成る事はできなかったのかもしれません。

そこで第三者(弁護士とか)を入れて離婚をするのですが、親権をイザナミが持つ事になり慰謝料と養育費をイザナギが支払う事となったと考えます。
あの約束事は「稼いだお金(に相当する何か)の三分の二を妻に支払う」と言う事後処理と言えます。(キクリヒメの立場は弁護士か裁判官とかでしょうか…)

ともあれ、これでイザナギは自由の身となり新たな生活を手に入れます。
後に別の「ある女性」との間に1姫2太郎をもうけるのですが、その時期の事は詳しく書かれてはいません。
禊ぎにより三貴子が誕生したとあるので、寂しさと悲しみの涙を流していたら「とある女性」が同情して支えてくれたのではないでしょうか。
その事で、あらゆる悲しみ(穢れ)から解放された事を「禊ぎ」として表現したのかもしれません。
八十神は「思い出」となった過去の記憶の欠片達と考えて良いかと思います。(後にイザナギが幸せに暮らしたのか、良き父親になったのかは明らかになってはいません)

こうして見ると、イザナギがアダムでイザナミがリリスで、とある女性がイヴにも思えてきますね…。
神話の原点は同じ場所なのでしょうから当たり前ではあるんですけどね。

そう言えばアマテラスとスサノオも同じように仲違いして、追放されたスサノオは新たな地で国津の家系を誕生させる事になります。(似たもの親子って事でしょうか…)
後にツキヨミの仲裁で復縁したのではと私は考えています。(剣と勾玉のくだりはツキヨミの計らいって考えでの話)

もしかしたら、この時のスサノオはイザナギとイザナミの子である「ヒノカグツチが成長した存在」なのかもしれません。(神話にはスサノオが二人存在している)
アマテラス・ツキヨミとは異母兄弟となるので、諍いが絶えなかったとしても不思議ではないです。(今で言うところの相続争いに該当するかと…)

もう一人のスサノオについては良く分かっていませんが、性格を考えれば既に大海原に出て別の国を目指していたとしても、有り得ない話ではなさそうです。(もっと言えばスサノオの伝説は別々の二人の冒険が、一つに合わさって伝わった話なのでは…、と思っています)

いや、もしかしたら海に出た方が「ヒノカグツチが成長した存在」なのかも…。
う〜ん、やっぱり正確な事は分かりませんね。


話が逸れましたが、こんな感じで良くある現代の男女関係を当てはめてみました。
結果としては現代を予言しているかのように、見事的中していると言わざるを得ない。(男女関係はその頃からあまり変化してないって事かもしれませんが…)

でもこれって「最初の結婚は次のステージに進むための試練であり、その後に子々孫々と繋がる家系を築ける」って事で受け取ったらいいのか…。

それとも反面教師として教訓とし、「お互い思い合って成長していけば、こんな遠回りをしなくても幸せになれる」って事で受け取ったらいいのか…。

結局、上記の事は神話の真意では無いでしょうから、真剣に考えなくても良いか…。
(現実はイザナミであって、イザナギを当てはめても意味無いかも)




※一応書いておきます。
私の作品である勾玉(イザナギ)には、こういった意志は込めていません。
あくまでもイザナギは「夢・理想・時間の創造神」であり、光を担う偉大な始神の一柱として制作しています。
そして今後も理解者がいる限り、納得のいく勾玉(イザナギ)を作って行かねば成らないと考えています。
2012年12月07日
こちら糸魚川も寒さの厳しい冬に突入しました。
雨の日が多くなり、海は荒れ放題。

そんな日々でも奇跡的に穏やかな日がありましたので、海辺に行って来ました。


雪ようにキラキラとヒスイ輝石が美しい白翠ヒスイの漂石です。
所々にですが、淡いですが明るい翠が入っているのが見られます。
眺めていると、雪解けにフキノトウが芽吹く景色が見えてきます。


画像では分かり難いのですが、こちら側の方がヒスイ輝石がキラキラと輝いています。
色だけでなく、新雪のような、白い絹のような質感もヒスイの魅力の一つですね。
このヒスイは純白では無く、ほんのりと翠が溶け合っているのが見てとれます。


練られているタイプのヒスイなので、弱い光源でもぼんやり透けます。
翠が全体を染めるまでにはなりませんが、透った光が膨張するように輝きます。
浜辺では色んなタイプのヒスイが拾えますが、このタイプのヒスイに出会えれば「運が良かった」と言っていい出会いだと私は思います。


ちなみにクリソプレースです。(ヒスイじゃありません、一緒に拾えたので紹介します)
かなり良い状態で拾えたのではないかと思っています。
殆どの石英系の鉱物は、海ではガサガサになっている物が多いです。
しかしこの二つは乾いても粉っぽく成らず、表面が滑らかな質感なのでよほど硬度があるのでしょう。
あるいは海で漂った期間が短かったのか…、何であれ淡翠と濃緑のサンプルが手に入ったのは嬉しい限りです。

こういった状態ならばヒスイでなくても、残す価値があるかと私は考えています。
まだまだ糸魚川には「未来に残すべき小さな存在」があるので、可能な限り見つけておきたいです。(最終的な展示場・展示方法も、今から考えておく必要がありますね)



今の時期は波も高く風も激しいので、よっぽと状態が良くない限りは海に近づかない方が賢明ですが、良い状態の時は釣り人も多く訪れるので、それを目安として訪れると安心かもしれません。(一人より心強いでしょうし…)

くれぐれも危険な状態で無理をしないで下さい。(損得勘定でやってる者は自己責任で勝手にどうぞって感じですけど…)
ボーダーラインを超えてしまうと、もう誰からも同情されなくなります。
2012年11月27日
今回は迦具土と素戔鳴の新作を紹介をしていきます。

火之迦具土神「雷火」-壱-


無数に走る黒い稲妻模様がある滅紫のヒスイで制作しました。
これと同じヒスイで武御雷神「天尾羽張」-壱-も制作してあります。
神話で綴られる悲劇に関わる重要な神を、イメージに合う同じヒスイで形にしました。(怒りと悲しみを表現し、それでも先に向かう強固な意志を込めてあります)
デザインから少し外し加工を攻める事で、イザナギの魂がボロボロ寸前になった状態も表現してみました。

半身とも言えるべき存在を失いながらも、闇に落ちる事なく、傷ついた魂に僅かな火を灯しながら新たな神々を創りだしたイザナギの神。
くすみながらも紫色に輝く魂が、現代に生きる誰かの希望となる事を願っています。


建速素戔鳴尊「傍若無人」-弐-


かなり純白に近く透明度も高い白ヒスイで制作しました。
一般的に白色は多く存在すると言われていますが、多いのは「白っぽいヒスイ」です。
殆どの白ヒスイは混じった色で、薄い灰色だったり、黄ばみがあったり、薄い翠が入ったりします。
色として「純白」と「漆黒」は非常に珍しいと言えるかと思います。(探しても容易には見つからない稀少な存在です)

そんな白ヒスイで、これから訪れる冬を題材にした作品を作りました。
厳しい冬のイメージはもちろんの事、雪化粧した「美しい世界をもたらす存在」としても表現してあります。(スサノオなので、必ず厳しさは付いて回ります)
分かる人には分かったと思いますが、通常のスサノオより腹部を丸く仕上げています。
スサノオのイメージを大切にするならば、あまり丸っこく作る事は適切ではありませんが、今回は雪の「柔らかさ」や「儚さ」も込めたかったので、可能な限り曲線を付けてあります。
難しいのはバランスを崩すと「牙を抜かれた太った龍に成りかねない」って事です。
良質なので艶も付き、納得のいく作品に仕上がって満足しています。


この時期の加工は寒くて大変ではありますが、時間をかけて一つ一つ丁寧に創作して行こうと思います。
それが糸魚川ヒスイを使う者の使命であり、条件なのだと感じている毎日です。
2012年11月17日
現代は物が過剰に溢れるデフレ状況と言いますが、考えようによっては当然の姿なのかもしれません。(その為の機械化なんだし)

それに同じシナリオが国を変えながら進んでいるだけ、しかもそのシナリオが国を移る毎に劣化していくから、消耗するスピードも速くなります。(試行錯誤のコストがないから)
いわば現代のシステムは王政の劣化版と言ったところではないでしょうか…。(国の名を語って国民相手に商売している連中の低賃金労働者換金システム)

ともあれ現在の姿は戦後の日本人が夢みて追い求めてきた「理想郷」だと思えます。
物が溢れる、特に生活必需品が溢れている世の中に幸福を感じる事ができないのは、現代人の人間性に問題があるのかもしれません。

大きな要因としては「バブル時代」にあると私は考えます。
あの時代で狂った基準(ウイルス)に侵され、正常な機能を失った人達が多くいるのだと考えます。

特に田舎は仕組みを知らない人達が「お祭り騒ぎ」をしていたので、何故始まり何故終わったのかも知らない人が多いようです。
だから、まだあの時代が来るのではないかと胸を躍らせている人もいるし、もう一度あの高揚感を味わいたいと中毒症状を起こしている人もいます。

きっと、この人達は「現代での世の中の幸せ」に気づく事はないのでしょう。


それと同時に「物が在って当たり前」の現代に生まれた人達の基準も気になります。
ある意味で「満ち足りている状態」から始まるので、浅ましさからはある程度は切り離されているでしょうが、逞しさからも遠ざかっているでしょう。(家庭環境にもよりますが)

この日本は世界有数の法治国家ではありますが、純粋な力を完全に排除してはいません。(って言うか不可能ですけど)

完全な法治国家と言うのは「完璧な事後処理能力と抑止力」を持った国となります。

そもそも法律とは自然(人)が振るう「純粋なる力の行使」に対しては即効性がありません。
いかにそれを封じ、起こった事件・事故を適正に処理できるかが求められる条件となります。

本来、「純粋なる力の行使」と言うのは自然界しか許されていません。(許す許さないの範疇にありませんが…)
これは人類では止めようが無く、打ち消しようも無く、平等に命を育み、平等に命を消していきます。
老若男女、善人悪人、人格に関係なく、正に「平等」に行使されます。(人がそれをすると無差別殺戮となり、許される事はありません)
自然の摂理の中においては、それに従うしかないのが生物の性でしょう。

人は動物として、小規模ですが「純粋なる力」を持って生まれてきますが、人間界ではその行使を許されてはいないのです。
それが平和であり、協調であり、理想であるのですが、未だ未熟な事もあり暴力という形で行使される事があります。(規模が小さいなら小競り合いですみますけど)

正にその瞬間には法律は無力であり、唯一の対処方は己の「純粋なる力の行使」だけとなっています。
ある意味で「純粋なる力」は、暴力の唯一の防衛策になるとも言えるでしょう。

最近では敗戦国として骨抜きにされ、家畜根性が板に付いた現代人に今になって刀を持てと言ってくる国があります。
扱いやすいよう小動物のようにしておいて、国力が下がってきたら軍備増強を求めるなんてよっぽど焦っているのでしょう。(他人事じゃないですけどね…)

どんな兵器も扱う者の力量が高くなければ、望む結果には繋がりません。(馬鹿が使えば正しく凶器)
なので、まずは日本で徴兵制度を作ることから始める必要があるでしょう。

あの領域は、かなり単純な序列があって、たとえ上司でも能力が低ければ部下は慕ってはくれません。
上司が率先して見本を示す事で、士気の向上を得る事ができます。(上に立つ者の力量が高ければ高いほど志気が高まるわけです)

まぁ、これは現場の隊員の話であって、上層部の頭脳明晰の人達には当てはまらない事でしょうが、隊員が「その連中の為に戦うのではない」と認識していれば統制は乱れずに済むでしょう。(叩き上げでない限り基本的には軽視されている)

もし徴兵制度を取り入れるのなら、この「物の溢れた時代」に生まれた者の鍛錬には有効なのかもしれません。

どうしたって「戦後の理想郷」である現状を守りたいなら、「純粋なる力」を正しく使う鍛錬をしていく必要はあるでしょうね。(正常な人間なら、誰だって戦争なんてしたくないですけどね)


何であれ「守る存在」を見出さなければ、物事の道理は理解できないでしょう。
ブランドが何故、誇らしい存在なのかは「売れてなんぼ」の商人ですら守る領域だからですね。

人として大切にする領域、それも多くの人が、あるいは有能な人が、そんな領域が在ることを認識してほしいです。
それと、その存在を壊したい「器の壊れた者」も同時に存在している事も…。
2012年11月07日
これはもう5年くらい前に、ある人に提出した提案になります。
当時は今よりも当然若かったので、かなり理想主義的な提案となっています。
しかし、現在でもこの方法でないと糸魚川としてのヒスイブランドは、成り立たないであろうと考えています…。


■提案の詳細

◎ヒスイブランドの要点
・糸魚川を中心としてブランド化を推進する。(当たり前の話なんですが…)
・クリエイター・デザイナー・プロデューサーの三つの人材が必要。
・人材に伴い下記に上げる三本柱が必要になる。


◎三本柱の趣旨
・様々な客層に対応し、更に信用を得る為に特化した組織を三つ作る必要がある。
・糸魚川ヒスイは男性、ミャンマーヒスイは女性、コラボは両性の性質をもつ。
・商売である以上は女性がメインなので、女性専用の品を主力とする。
(コラボによるユニセックスな品も同様)
・いずれの組織も地元の人が上に立って、チームを作りブランド化を進める。



かなり大雑把な提案ではありますが、ヒスイ鉱物の商品として三つの領域を合わせる事が重要と考えています。(糸魚川ヒスイだけでは商業ブランドには成らない)

どうしたって糸魚川産のヒスイをブランド化できるのは、作る側の人なので「作れない業者」の役割を分けて考えなくてはなりません。(ブランドを支え継続させる力として、大きく貢献してくれます)
また、糸魚川ヒスイを商売に近づけすぎると「守るべき存在」で無くなるので注意が必要となります。(全体の20%としているのは極力、商売から切り離す必要があるから)

作る事のできない業者は必ず人を使う必要があって、最終的なビジネスモデルは「いかに人を低コストの労働力として使うか」という手法に成らざるを得ない。(作る事も売る事もできない場合はより多くの人を使う事になる)

地元では経営が不可能となり外での商売が必要となるのは、日本から出て海外で商売する企業と同じ理由が在るからです。(規模に問題があり、収支のバランスがとれない)

しかし、個体よりも大きなものを動かす事が可能なので、ミャンマーと繋がってもらい処理のされていないミャンマーヒスイを糸魚川にもたらし、現地で低賃金労働者を確保してもらう必要があります。(良くも悪くも業者数が多いので、その繋がりを利用できる事が利点と言える)

アイデアは糸魚川で生み出して、商品として具現化するのはミャンマーで行うのが一番低コストなのだと考えます。
ここで重要な事は、ミャンマーで作り出す商品は「ミャンマーヒスイの商品である」という事が必要条件となるでしょう。(処理されていないミャンマーヒスイの品)

多分、作れない業者は「糸魚川ヒスイをミャンマーへ持って行って加工させる」事を考えるでしょうが、「他国で作られた糸魚川ヒスイの商品」にどれほどの需要が出るのでしょうか…?(産地偽装から制作地偽装となって行くだけでは…)
結局は他の商品と同じように量産され、品が溢れ、価値を失って行くだけです。(糸魚川ヒスイが減っていくので限度がありますけど)
それに、これではヒスイブランドの格上げにはなりません。

やがてミャンマーが発展するにしたがって、力関係が変わり排除されていきます。
これは国境を越えるのは簡単ですが、人種を越える事は非常に困難な事の証明です。

全体の20%ではありますが、間違いなく糸魚川ヒスイの柱が大黒柱であり、現在の狂ったビジネスモデルに当てはめてはならない領域ということを認識する必要があるように思えます。

よって「作れない業者」には、この日本でミャンマーヒスイの価値を高めてもらわなければなりません。
そして糸魚川ヒスイとコラボレーションする事で、商売としての主力となるコラボ商品を開発していくのが、糸魚川としてのヒスイブランドになると考えています。

この事により、現在の「産地が入り交じった状況」をデメリットからメリットに変える事のできる唯一の方法であるとも考えます。(それぞれのパーツの明記は必要)

それと原石の扱いですが、現在の拾った物を売る「乞食商売」から脱却して、糸魚川市が管理販売するシステムを作る必要があります。
この領域には、いわゆる「地下経済」的なものが存在していて、裏で動く「忍」のような者達が存在します。(小規模ですけど)
当然の事ながら表である「侍」の世界へは出られません。(忍んでこその忍)
基本的に、領収書が出せないのでは商売にならないですよね…。

なのでこの領域を表に出すのなら、ここでの作業は行政が担う必要があります。
原石を売ったお金は、財政として市民の為に使えるシステムにすれば良いでしょう。

この目の肥えた、洗練された日本人に通用する商品を作り出さなければ、商売としての糸魚川ヒスイは終わりを向かえる事でしょう。(商売として海外へ出て通用する領域のものでもありませんので、日本国内で評価されるしかない)
安く売る努力をするよりは、価値を高める努力をしたほうが良いかと考えます。

もう一つの道は、個体として「守るべき存在」となる道ですが、これは作る側でしか担えず、地元の住民に認められる「伝統の担い手」でなくては不可能です。
商売から切り離したとしても「存在を維持してくれる人々」を得ていれば、小規模ながらも活動は続けていけるでしょう。

これは生き方でしか証明できず、かなりの時間を必要とする為、完全に商売から切り放たれる事はないでしょう。
有名な芸術家たちがそうであったように王族・貴族のパトロンか、支えになる民衆が無くては不可能です。

現代では国や市の補助を受ける事が可能ですが、条件は厳しいものとなるでしょう。
最近は、日本自体が「守るべき存在」を見失っているように思えますし…。
(その作り手が守るべき存在でない場合は、消えていくのが定めでしょうね)



この提案は「人材が揃えば」の話になりますので、その時期が来た時にでも参考程度にしてもらえればと考えています。

まずは各々が、個人レベルで進められる計画を行うのが得策でしょう。
(あれから5年が経ち、少しずつですが糸魚川ヒスイは進歩しているようです)
2012年10月27日
すっかり秋の気候になり、糸魚川も過ごしやすくなりました。
寒暖の差が激しいので体調管理には気を付けなくては…。

最近、私の庭には昆虫(私が好きな)が多く生息するようになりました。
今日は私の中でベスト5に入っているカマキリを紹介します。


花壇の中にいたので、つかまえて手に乗せてみました。
「なんだここは?」って感じで不思議そうにしています。(歩き回った為、画像がブレまくり腕まで行ってしまった…)
綺麗な翠色の身体も肌色の前では「擬態の効果が出まい」って感じで撮影しました。
しかしこのフォルムは格好いい!、やっぱり大人になってもカマキリは私にとって格好が良いと感じる昆虫でした。


こちらに気づき、鎌を広げて威嚇の体勢を見せてくれました。
数多の昆虫を恐れさせる姿なのでしょうが、よく見ると顔が可愛いです。
カマキリに命を取られない側の、余裕のある人間(私)ならではの感想ですね。
それにしてもヒスイのような美しい身体(特に目)をしていて、感動してしまいます。


斜めからのカットですが、黒目はこちらを常に監視しています。
微動だにしない身体とは別に、目だけは「いつなんどき」でも対応できるよう研ぎ澄ましています。
ちなみに身体がスマートなので雄のカマキリだと思います。


ちょっとアップしてみました。
顔が斜めでも、ちゃんと黒目がこちらを見つめています。
カマキリにとっては緊張の場面なのでしょうが、私には愛嬌のある顔にしか見えません。
「ん、なに?」って感じで映って見えてるのは、私だけではないでしょう。


久しぶりの対面に満足したので、花壇に戻してあげました。
やっぱり植物の中に居ると見つけ難くなりますね。
身体の色を場所に応じて変えられるなんて、不思議な事だと改めて感じました。

不思議と言えば、何故かカマキリはアスファルトの道路に出ている事が多いです。(その上、動く気配もないんですよね)
そして、そこで「シャー」って感じのポーズをとっていたりします。
あれを見ると「おい、車に轢かれるぞ」とツッコミたくなりますね…。

その度に、カマキリを草むらに移しているのですがキリがない。
日の当たる家の玄関の黒い扉にも登っているので、日光(体温)に関係があるのかもしれません。
もし体温調整だとしたら、草むらに移しても迷惑な可能性がありますね…。
それとも産卵の季節ならではの行動なのだろうか?

産卵期と言えば、カマキリは産卵中に「雌が雄を食べる」と言いますが、その行動はかなり希なようです。(日本のカマキリでの話)
習性としてあるのでは無く、餌の減少によって起こりうる事故みたいな感じのようです。(好き好んで共食いなどはしないって事ですね)

ここら辺は人間と良く似ているなぁ〜、と感じてしまいました。(人間には望んで喰い合う者もいますが)
まぁ、人も実際に血肉を喰らいはしませんけどね…。

こんな事もあって幼少の記憶が甦り、また昆虫を調べたくなってきた今日この頃です。(でも蟻や蜂(ミツバチ以外)は嫌いなんですよね〜、って好きな人の方が希か…)

マクロを見るよりミクロを見た方が創作のヒントは見つかります。(フラクタルと出会える)
2012年10月17日
今回は天照と素戔鳴の新作を紹介をしていきます。
(新作と言っても8月に仕上がった品ですが…)

まずは天照「幻日」の紹介です。




この天照は、ライチの果肉のようなヒスイで制作しました。
ここまで透明度が高く、無傷な糸魚川のヒスイも珍しいです。
若干ですが淡い緑に染まっている部分があり、雲のような模様もある事から「幻日」
シリーズの一作目として制作しました。
まるで幻の太陽のように、神秘的で神々しい作品に仕上がってくれました。
7月に制作した天照「陽炎」と同じヒスイで制作してあります。(場所が違うのでこ
ちらの方が白地が多いです)

次は素戔鳴「天上天下」と「雲蒸龍変」の紹介です。




この作品も、天照「幻日」や「陽炎」と同じヒスイから制作しています。
前回の一作目より濃い緑色が入った部分を使用する事ができました。
表裏に緑が入るよう気を付けて加工し、何とか理想通りに仕上がりました。
この「天上天下」は二作目ではありますが、まさに唯我独尊の風格を持った作品となっ
たので満足しています。




こちらも同タイプのヒスイで制作した作品です。
天照「幻日」と同じく緑色が少ない部分ではありますが、その流れる雲を映したよう
な模様が「雲蒸龍変」シリーズにはピッタリでした。
一部分に明るい翠が入っていて、濃緑がスタンダードであるこのヒスイには珍しい発
色をしています。
このタイプのヒスイは透明度も高く、美しい艶も出ますので仕上がった作品からは気
品を感じます。

しかし、このヒスイは稀少なので、作品を多くは作れないでしょう。(更に無傷でな
いと駄目という高いハードルがありますし…)
作る品に気を付けながら、有効に加工していく必要があります。

これで月読も作らなければと考えていますが、三貴子を揃えてしまうと手放したくな
くなるのが私の悪い癖でもあります…。

どの作品も手元に置いておきたいという思いはありますが、認めてくれた人がいたの
なら手放さなければ失礼ですね。(生活費も稼がなければならないし…)
2012年10月07日
糸魚川も10月に入り少し過ごしやすくなりました。
今年の夏は暑さがスゴ過ぎて創作が進みませんでしたね…。
(今月からは芸術の秋と言う事もあり、少しは進めていきたいです)

海から創作のヒントを得る事と気晴らしも兼ねて、ヒスイを拾いに海岸へ行ってきました。


海で拾えるタイプの練られた青ヒスイの漂石です。
淡青の氷砂糖のような質感で、日光下ではとても美しく見えます。
乾いてくると若干、白さか増しますが磨けばピカピカになる良質ヒスイです。
水色の霜降り肉のようにも見えるのは私だけでしょうか…?


裏側は表面だったらしく、擦れた痕が見られます。(おそらく川擦れ)
衝撃や粗い粒子で擦れてしまうと、ヒスイ輝石自体に傷が付きます。
粗い傷が多い分、乾くと白さが際立ってしまいます。
このタイプのヒスイは鱗状にクラックが入り、割れると平面状になるようです。


光を当てると水色に透けて、氷山のカケラのように輝きます。
青色は寒色なので、見ているだけでもちょっと涼しく思えてきます。
磨けば「空気が混じった氷のカケラ」か「雲が流れる早朝の秋空」のような表情を見せてくれると思います。
青ヒスイは珍しいので、拾えてラッキーでした。

こっちは緑ヒスイの漂石です。


こっちも練られた質感の良質な緑ヒスイの漂石です。
少し暗い緑色ですが、透明感があるので光によって全体に色が映ります。
所々にチカチカと小さなヒスイ輝石を確認できます。


裏側にも緑が通っていて、ツルっとした質感をより強く感じます。
海での段階である程度の光沢があり、指ざわりもしっとり滑らかです。
磨き行程に手間が少ない良質ヒスイだと分かります。


光を当てると美しい緑色が膨張し、木漏れ日を浴びている感じになります。
暗い緑も、この時ばかりは生命の色を放つヒスイだと主張しているようです。
久しぶりに良い緑ヒスイと出会う事ができて満足です。


沢山の人がヒスイを探しに海岸へ来ていました。
慣れていないからなのでしょう、ヒスイを拾えずにいる人が多いです。
それでも楽しんでいる人達を見ると、本当に「好きなんだなぁ」と感じます。
いずれきっと拾えますから「頑張って下さい!」と励ましています。

幾つも拾えるようになった先には、幾つかの問題も出てきますので、その時は初心を忘れないでほしいです。

拾い集めたヒスイ達の「将来的(最終的)なカタチ」を考えておく必要があります。
(加工するとかの話じゃなく、扱いについてのカタチです)
それぞれのカケラ(コレクション)を展示し伝える施設があれば良いのに…。
2012年09月27日
今でこそ勾玉が糸魚川に定着していますが、古代を見ると糸魚川での勾玉文化が、いかに新しいものであるかがわかると思います。

主だった理由としては遺跡から「完成されたヒスイの勾玉が出てこない事」です。
軟玉の勾玉1個と未完成のヒスイ勾玉は幾つか出土していますが、何故か完成されたヒスイの勾玉が出土していません。(軟玉勾玉は他国からもたらされた見本の可能性があるかと)

ここで考えるに、もともと糸魚川では勾玉という存在は認知されておらず、大国主の訪れと同時に出雲から入ってきた文化なのではないでしょうか?

そもそも北陸の文化圏は大珠なので、糸魚川も大珠の文化だったように思えます。
また勾玉は、そのデザイン自体(姿形)に大きな意味を持たせていて、当初は材質は問われなかったのではと考えています。(意味を持つまでは道具であったかと)

勾玉デザインの出所に関しては諸説ありますが、国内であれ国外であれ「日本で勾玉として確立した時点での存在」は日本の勾玉として語っても良いと思います。
それぞれの国に「確立した時点での存在」が在るのでしょうから、同じ存在として共有する必要は無いと思います。(この問題は中国や韓国とは絶対に共有しえないでしょう)
他国に押しつけず、共有もせず、自国だけで考えていれば良い問題と思っています。

何故か材質に「緑色の素材」と言うルールがあり、その事もあり堅牢なヒスイで作られるようになったとも考えられるし、ヒスイと言う石の価値を知っていて材質のグレードアップの為にヒスイを用いたとも考えられます。(材質を金・プラチナにしてアクセサリーの価値を高めるのと同じ原理)

あるいはヒスイ自体の不思議な力を感じ取っての事かもしれません。(上の全てを含んだ理由である可能性もあるかと)

出雲の碧瑪瑙は蛇を連想させる暗緑色が価値が高く、勾玉にその碧瑪瑙を使う事で蛇(龍)の力である「畏怖と生命力」を込めたように思えます。(ちょっと玉(ぎょく)に近い概念を持っているような気がする)

一方のヒスイでの勾玉には畏怖は感じられず、植物を連想させる新緑と深緑の「包容力と生命力」を込めたように思えます。(暗緑色のヒスイもあるので畏怖も兼ねる事が可能)

この事でヒスイで作られた勾玉とヒスイ以外で作られた勾玉では、微妙に「用途の違うもの」が在るのだと考えられます。

きっと奴奈川に勾玉文化が入った時に、ヒスイの大珠が持つ意味合いと混ざり合ったのではないかと考えています。
そして、より洗練された姿となり、全国にその存在が知られるようになったのだと思います。

ともあれ、大国主が訪れるまでは糸魚川では勾玉は認知されていなかったと考えます。

では、それ以前にヒスイで何を作っていたのでしょうか?

もし大珠を作っていたとしても、やっぱり数が少なすぎる気もしますが…。


余談ですが、もし大珠を作っていたとしたら勾玉制作を依頼された時に「何て面倒な作業で、何てヒスイを無駄にする形なんだろう」って思ったに違いありません。(大珠は宝飾に近い概念を持っているような気がする)

加工をすれば分かりますが、大珠に比べて勾玉はヒスイを無駄にします。
簡単な話、大珠の「横っ腹をえぐる」のですから。

これはどう見てもデザイン重視の存在であって、素材のヒスイを大切に使おうとはしていませんね。(大切にしようとする加工人は、後に誕生していきますけど)

現在、勾玉デザインを使う理由は「売りやすいから」と言うのが定石で、大珠より存在が確立していて、古代として、ヒスイとしての潜入観念から使われています。(個人規模では、明確な思想をもって加工している人も幾人かいるようですが…)
大珠は身に付け方すら良く分かっていませんので、乗っかりづらいようですね。


本題に戻り「ヒスイで何を作っていたのか」なのですが、良く分かりませんね。
ヒスイは在ったけど、それで何も作っていなかったのかもしれません。
あるいは外から来た加工人が、加工しては売りに行った可能性もあります。(その場合は在庫がたくさん出土するはずなのですが)
ただの原石供給地であったのかもしれません…。

創作とは「ある程度の余裕」が無くては生まれてきませんので、当時の糸魚川はそこまで潤ってはいなかったのでは無いでしょうか?

貧しくても「心に余裕」があれば可能ですが、あの堅牢なヒスイを加工する為には「情熱という名の根気」か、心の貧しさから成る「物欲」のどちらかが現在でも必要不可欠となります。
そこまでの情熱が古代の糸魚川にあったのかは疑問ですし、物欲であるならば品数と交易ルートを持っていなくては説明が付きません。
糸魚川の立地を考えるに物流は、かなり乏しかったと考えられます。(日本海は荒れるし)

しかし噂ではありますが、発掘作業中に出土品を盗んで持っていく人達がいたと聞いていますので、大切な証拠品が無くなっている可能性もあるのかもしれません。

他国が奴奈川にヒスイが在ると知り得た理由の証拠があれば…、それともやはり大珠がその証拠となる唯一の存在なのだろうか…?
(ヒスイが上がる浜辺から辿って探したのだろうか?)


こうなると、もう何だか分からなくなりましたが、勾玉文化の定着は糸魚川では新しい時代での話だった事は間違いないかと思われます。(文化が入ってきた時期は古いですが、定着には至らなかったようですし、現在でも文化と言えるほど成熟していない)

もし元々の土着文化が存在していたら、現在に失われている事はとても残念な事です。
もっと何か形跡があれば気づけるのに…。(無くても創っていけば良いんですけどね)

過去と言うのは、未来以上に分かりにくいものですね…。

以前にも書いたように、糸魚川には未だ「未知の領域」が眠っていると信じて活動して行こうと思います。
2012年09月17日
そろそろ糸魚川ヒスイを使う為の、最低条件を真剣に考える必要がありそうです。

資源というのは大きく見れば「地球の共有財産」でありますが、これだけ規模が大きいと国として上手く使えません。
よって地球規模から国家規模として資源の所有権を主張するわけですが、もっと小さく考えれば都道府県となり、更に市町村となり、個々人となります。

もし糸魚川ヒスイを「共有財産」として考えた場合、日本国よりも先に糸魚川市の、糸魚川市民の共有財産となるわけです。
なので、この「共有財産」を使うのならば「糸魚川でのヒスイ領域の発展に貢献しなければならない」ってのが最低条件となります。
これは国家レベルの商売でも同じ条件が付きます。(他国の資源を使うのだから当然の話になりますね)

本来はどの商売もそうでしたが、現在では商売に国境が無くなっています。
正確には、無くなっていると言うより「無くしてる連中がいる」ってのが現実です。

その方が使い易いのでしょうが、国家は人も資源と考えていますので、いつまでも他国の都合の良いように使われているはずもなく、然るべき時には排除されます。

これが矛盾する二つの領域である「保護と活用」の難しいところでしょう。
(言い換えれば理想と現実となり、おもいっきり反比例する世界です)

国家を「守護する事」と「発展させる事」には常に矛盾が付きまとうのですね。


■ここからは糸魚川の共有財産とした前提での話です。

共有すべきは得た利益では無く、高められた「誇り」である事が肝心です。
もし利益を共有したいのなら、相応の働きをする必要があるのは当然の事になります。
(利益を配当しても一人1円にもならないし、何もせずにお金が入る訳が無い)

特に重要な事は、その利用によって「私腹を肥やす」事は許されません。
一つの商売として括る事は出来ず、必ず「糸魚川に貢献する条件」が付きます。
基本的にこの仕事で家族は養えず、例外として共に発展に貢献する場合のみ許されます。(双方が加工し、子供が後を継ぐ条件でのみ可能となる)
それと同時に地域(国)の補助を受ける権利も生まれます。

もしヒスイで儲けたいのならば、処理したヒスイを大量に売れば良いです。
天然であると例え外国であっても、その国の発展に貢献する条件が付きますが、処理品は資源と見なされず、純粋な換金の品と言っても良い存在になります。

糸魚川ヒスイを活用すると決めたい以上、保護する領域を明確に決める必要があります。(例えば原石のままの販売は禁止し面積を定めたプレートで販売するとか、原石を購入する際は定められた機関で個人情報及びヒスイ画像等を記録するとか)

まずは商売とする上での、ルール作りが最優先となるわけですね。
これが決まらなければ、無法地帯となり「何でもあり」の状態となります。
どんな遊びもルールが無ければ面白くありませんし、楽しみを共有できません。
(使いこなせずに在庫処分するくらいなら、糸魚川に返還してほしい…)

保護とは規制を設ける「収縮」であり、活用とは規制を緩和する「拡大」であるので、そのバランスが大事です。(宇宙じゃないんだから拡大し続ける事などは不可能で、増えれば増えるほど一つの価値が劣化していく)

何度も言いますが、これで糸魚川が得るのは「名誉である」って事が重要です。

以上の事で分かるように糸魚川ヒスイを自由に使いたいのならば、最低の条件である「糸魚川でのヒスイ領域の発展」に貢献しましょう。

それが地域(他国)の「財産」を使用する最低限の礼儀(ルール)なのだから。
(そもそも礼儀とは闘争から生まれた戦闘回避術でもあるのです)

これにより、例え他が糸魚川と同等の糸魚川ヒスイを保有しても、その使い方を糸魚川が発展させていれば問題なく「糸魚川ヒスイの主導権」は維持できるでしょう。

とにかく糸魚川ヒスイの使い方での新技術や、新デザインなどを糸魚川発とする事が肝心です。(だからといってデザインを売り渡すわけでは無い)
そして、この領域でのデザインは具現化しないと意味がないので必ず形にする必要があります。(賞金では無くデザインの具現化にお金を使った方が良い)

サンプルを二点作成し、本人用と糸魚川での展示用とに分けるのが望ましいです。(そして然るべき場所に展示する必要があります)
ここではデザインの主導権の問題では無く「何処発なのか」が大切で、その扱い方(魅せ方)がともて重要になります。

これが正常に機能した際には、デザインした人は可能な限りの協力をして頂きます。
糸魚川の「共有財産」なのだから、筋を通してもらうのが当然のルールでしょう。

それに伴い、住民の意識も高めていかなければ誰も協力せず、発展もありません。
特に糸魚川ヒスイを扱う者の劣化は、ブームと同時に拡大しているようです。
(一部の日本人は中国人や韓国人を蔑みますが、日本人の中にも「蔑んでる一部の中国人・韓国人と同類の者」が存在している事実をちゃんと認めて恥る必要がある)

もう現在は国の品格以前に、個々人の品格の問題になっているのです。



と、前提での理想を書きましたが、世の中そんなに単純ではないですね…。
せめて甲府の前例を教訓にして、同じ結果にだけはなってほしくないですよ。

しかし保護が「立前」で、活用が「本音」だとしたら、こんなに難しく考える必要は無いですけどね。(それと時が解決する問題でもあるんですよね…。)
2012年09月07日
良く知られている神話の、この二つの物語は良く似ています。(これは私の勝手な解釈なので「こんな事を思っている人もいる」って事で読んで下さい。)

詳しいことは神話を読んでもらえばきっと分かるでしょうが、おおまかに言えば「ほぼ同じ筋書きの物語を登場人物を代えてやり直した」って感じかと私には思えます。

この二つの異なっている部分は、登場人物以外に「閉じこめる」が「閉じこもる」事に変わっている事や、恐れて逃げる側が「男女逆」って事が主に言えるかと思います。
(後は約束事がお祭りに変わっている事や、場所が黄泉でなく高天原である事など)

また、黄泉比良坂でのイザナミ・イザナギ・ククリヒメはスサノオ・アマテラス・ツキヨミとして見ることも出来るかと思います。
担っている事が、かなりカブっていて同一として見えても不思議じゃないかと…。

余談ですが、死者のイザナミと生者のイザナギの間をとりもったククリヒメですが、生者からの解釈は「死者を黄泉に括りつける」として安寧をもたらし、死者からの解釈は「生者に黄泉を荒らさせない」として安息をもたらしているのだと考えます。(この黄泉比良坂での話は死者のイザナミが不憫すぎる気がする)
葬儀に菊の花を手向ける習慣も、ククリヒメと何か関係があるのだと考えます。(菊理媛と書いてククリヒメと読むらしい)

話は戻って、天岩戸ではアマテラスは解放されスサノオは追放されますが、黄泉比良坂と違ってその後のスサノオは英雄となるよう描かれます。

こっちでは温情を感じますので、先の黄泉比良坂で得た教訓が活かされた形になっているようにも思えます。

黄泉比良坂では意味不明なほど男(イザナギ)を優遇していますが、天岩戸では女(アマテラス)が優遇され、更に男(スサノオ)に温情さえも与えています。

この事から、当時の男女間のバランスの変化を感じる事が出来るのかもしれません。

この二つの物語で私が感じる事は、避けようのない「繰り返しの連鎖」があるものの残され繋がれた知識を使えば、結果を大きく変えられ、先へ進む事ができるって事です。

私には天岩戸から出たアマテラスの姿は、イザナギが約束を守り黄泉の神に許されて現世に再び現れたイザナミにも見えます。
何故か天岩戸の物語はイザナギの深い後悔の念が反映し、一緒に居られなくても生きていて欲しいと言う願望を叶えているようにも思えます。

ある意味でイザナギがイザナミを殺してしまった事を、天岩戸では機織女の死に置き換える事で両者の死別を回避させたようにも思えます。(醜さは皮を剥がされた馬で対応した?)
結果的に両者は決別するのですが、先に繋がる別れ方をした事が特徴でしょう。

もしかしたら古事記は物語と言う存在の「流れ」を作った書物なのかもしれません。
でもそれを確認しようが無いんですけどね…。(作者が生存していないしね)

なんであれ、この二人が天地を担う事になるのだから一件落着と言えるかと思います。
離れていても表裏一体、この男女の住み分けが壊れる時には一時的な争いが起きるのでしょうが、その時は男が大国主のように「縁の下の力持ち」でいられたらバランスは保たれるのだと思います。

きっと人類とは入れ替わり立ち替わりにより、バランスを保つ存在なのでしょうから。
(男女の役割分担も大切ですが、世代交代の方が重要になるかと思われます)
2012年08月27日
私が目標としている「神々との交歓」ですが、何も今から始まった事ではありません。
人類が誕生した時点から現在にまで繋がれた、究極のテーマだと考えています。

そして人類は進化しながら、そのテーマの答えに少しずつ導かれていると考えます。
この時代で日本人は「神が何であるか」を、再認識する事になるかと思います。

人の背中に翼を生やし、頭に光の輪を頂く理想像では無く、顔や手を幾つも持たせ、馬力の応用で人何体分の力を有する事を表現した造形品でも無く、大きさを利用して存在の偉大さを顕示する建築物でも無い。
(芸術品・文化財としての価値は計り知れませんが…)

それら全ては神々と繋がる入口であり、触媒である事を理解するでしょう。
多くの人々に分かり易くする「人の為の表現法」である事を知る事になります。

私の計画での現在を担う「生玉」も、その意味を伝える為に多くの品を制作する必要があると考えていましたが、その必要も無さそうです。(適正な数は作ります)
もう「そのもの」が人間社会に大きな影響を示し始めていますから。

古から続く習慣の全ては、神々との交歓に必要な「大切な基本」です。
習慣として持ち歩くお守りは、それ自体が全ての力を与えるものでは無く、求める存在と人とを繋ぐ鍵だと考えて良いでしょう。
よって「鍵と扉」を認知できなければ、その存在の加護を得る事は不可能なのです。

その扉が何処にあるのか、どう見つけるのかは自分自身の感覚を研ぎ澄ませて探すしか方法は無いかと思います。(その為に人は思考能力がある)
基本を忘れた生き方を続けるのなら、その扉を見つける事も開く事もできません。

人は視覚に頼って生きていますので、当然その習性を利用した判断基準が成されます。
原始的な感覚なのでとても惑わされ易いのですが、その感覚の先を進まなければ、いつまでたっても真実を見る事はできません。

芸術も視覚を意識しての表現方が多くなっていて、それが仮想空間であっても正確な評価ができなくなっています。

全ては「基本」をいかに身に付けているかで、生き方は大きく変わります。
そして、その基本をどれだけ研鑽するかが、人に求められる生き方だと考えます。
(他者との比較は必要なく、今ある基本を高めていけば道は開けるでしょう)

現代に、どのような教育が大切かを再認識する必要があるでしょう。
(この全てが義務教育の延長となっている社会を変える必要がある)
2012年08月17日
糸魚川では海岸でヒスイを拾えるのは有名ですが、ヒスイ以外にも「綺麗なカケラたち」を拾う事ができます。

今回は、そのカケラたちの一部を紹介してみます。




コランダムと言う、ルビーやサファイアの原石となる鉱物です。
青色なのでサファイア系の発色となります。(サファイアはルビーよりも色の幅が多い)
もちろん宝石になる程の純度は無く、鉱物として同じってだけの事ではありますが、その中でも今回のコランダムは綺麗な分類に入るかと思います。
和名は漢字は違いますが、ヒスイと同じ鋼玉(こうぎょく)と書きます。

最初は紫ヒスイかと思い拾いましたが、発色・質感・重さが違うので初心者で無ければ、コランダムだと気づく事が可能だと思います。(ヒスイ以上にレアな石)
透明度は低く、端の一部分が若干、青紫色に透けるくらいです。
小さいですが、初めて拾ったにしては満足のいくコランダムです。




一般的に軟玉と言われている、ネフライトと言う鉱物です。
中国の玉(ぎょく)の大半は、このネフライトを指しています。
初心者が良くヒスイと間違える鉱石で、軟玉と言う事もあり「柔らかいヒスイ」と勘違いされる人もいますが、これは全く別の鉱物です。

糸魚川で拾えるネフライトは、くすんだ緑色が多く石質もあまり良くありませんが、たまに良質のネフライトを拾う事ができます。
大抵は小さいのですが、中には手の平くらいの良質ネフライトも存在します。

石質の見極めは、乾いた時に「ヒスイと同じような質感」であれば良質となります。
表面が白くならず、艶やかな質感です。(手の汗などで擦らない状態で確認する)
色調は様々ですが、透明度の高さが良質になる条件のようです。




チューライトと言う、ゾイサイト(灰簾石)の一種の鉱物です。
漢字では桃簾石と書くようで、「桃」ではなく「桜」であったら…、とよく思います。
(桜の方が日本的に感じるからってだけの理由ですが…)

青色だとタンザナイトになるようで、その場合は一気に価値が上がるようです。
ピンク色のチューライトも最近は認知されるようになり、価値が上がりました。

大抵のチューライトはピンク色が薄く、白色に近いものが多いです。
海で見かける事も少ないので、ヒスイ並にレアな石あり、その為か昔はピンクヒスイとして扱ったらしいですが、全く別の鉱物なので誤解のないようお願いします。

石質の見極めは、ヒスイと良く似た結晶が緻密である事と、ピンク色が濃い事です。
透明度は、質による差があまりなく、弱い光でもぼんやりと透けます。(現段階の糸魚川で拾う事が可能なチューライトの透明度です)
普通の海岸石とは明らかに色調が違うので、あれば見落とす事はないでしょう。



■注意事項です。
ここ糸魚川でヒスイを含めた綺麗な鉱物を拾えるのは、とても浪漫がありますが常識の範疇での採取をお願いします。
許容範囲を超えた所行の場合、「盗賊」として末代まで恥を曝す事になります。
(糸魚川を国とするなら略奪者となり、住民ならば国賊となるのでしょう…)
2012年08月07日
人類が必ず渇望すると言われる「不老不死」について考えてみました。

まず、原点として日本神話で考えてみました。
始まりの神である「生と担うイザナギ」と「死を担うイザナミ」、以前はイザナミが死を担うのは理解できないと思っていましたが、イザナミが担っているのは「現」である事が分かりました。(そしてイザナギが「夢」であると)

死は生物である以上、必ず訪れる「避けようのない現実」です。
イザナミは神でありながら、現実を受け入れて死に向かいましたが、イザナギは現実に向かい合えずに逃げました。
その際に黄泉比良坂に大きな岩を置いて、現実が追いつくのを防いだわけです。

これは別にイザナギが情けないと言いたい訳では無く、イザナギこそが「究極逃避」を確立した神だと言えます。
誕生したばかりの生命に直ぐ死が訪れるのでは、あまりにも悲しすぎます。
生まれてから死に向かう「時」を創り出してくれたと言えるでしょう。

もっと言えば、海を担う素戔嗚(息子)が、深海である伊邪那美(母)を守護し、太陽を担う天照(娘)が、全ての光である伊邪那岐を守護し、時を担う月読(息子)が、そのバランスを管理しています。
また姉弟では、天照(姉)が日中の素戔嗚(弟)を見守り、月読(兄)が夜の素戔嗚(弟)を見守り、その月読(弟)を天照(姉)が照らし見守っています。
(理想である1姫2太郎のバランスです)

これは人間社会の男女・家庭・姉弟(兄弟)の関係にも繋がっています。
現実を担うイザナミ(母)が優遇されるバランスとなっており、女性としての、母としての重要性を感じる事ができます。(息子は母を守る存在)

話は戻りますが、黄泉比良坂に置いた大きな岩は「意志」であると考えています。
この意志が衰退するにつれて、岩が小さくなり現実が漏れ出すのでしょう。
人は生への執着は強くなりますが、生への意志が弱くなる生き物です。

死へと向かう際、後世に何かしら三分の一は残せる生き方をしなければ…。
それが黄泉比良坂で男女の始神が交わした約束事ですから。

日本の神話では、不老不死は始まりの神ですら叶わなかった事が分かります。
(私達は究極逃避が確立した後を生きていますので十分かと…)

最近では男女の役割が逆転して行く傾向がみられます。
女性が人間社会での現である家庭から、夢である仕事(遊び)に移行しています。
これはバランスの崩壊を招きますので、男は大国主のように「現」を担う存在へと変わる必要があるでしょう。


今度は不老と不死を別にして考えてみます。
不老はそのままの通り「老いない」って事でしょうが、肉体が老いないって事であり精神が老いないって事では無さそうです。(気は狂うでしょう)

精神が老いない(劣化しない)となると、いつでも新鮮な感動を得る事が出来るのでしょうが、それはつまり「記憶しない」って事になるので、意味が無です。
(不死で無い場合は、簡単に事故死・餓死するでしょうね)


次は不死ですが、老い以外から解放された存在と言えるでしょう。
これが輪廻転生の記憶保存版だとしても、2回くらいなら楽しめるでしょうが、それ以降は飽きるかと思います。
こうなるとクリアしたゲームを、引継ながら無限に繰り返すようなものですね…。
(地獄のような試練であって、決して幸せではない)

傷を負っても再生するのでしょうが、痛みからは解放されいないかと思います。
やっぱり精神がもたない事が重大な欠陥となりますね…。

結局、理想を追求すると「鈍感な死なない存在」って奴になりなす。
全感覚を鈍くする事でしか、不老不死の精神を健全に保つ事は不可能でしょう。
ただ「無限に生きるだけ」を求めているのなら問題は無いのでしょうが…。


色々と考えてみましたが、こんな間抜けな存在を誰が求めるのでしょうか?

命は限りがあるから一生懸命に生きるのだと、これで再認識できました。
今を精一杯生きて、自分という存在を確立して行こうと思います。
2012年07月27日
この間、同郷より嬉しい来客がありました。
私よりも若い男女のカップルが、当工房を訪ねて来てくれたのです。
(自宅兼工房となっていますので、想像した感じとは違ったかもしれません…)

糸魚川のヒスイに惹かれ、この地に足を運んだところ、当工房を知ったそうです。
地道に宣伝していた事が役に立って嬉しい限りです!

いろいろと話を聞いていると、二人とも創作に理解がある人達でした。
女性は絵を描く仕事をしているらしく、共通する創作の話で盛り上がりました。
男性は日本神話に詳しく、彼女を支える良き理解者と言うのが良く分かりました。
作る側と支える側と言う、バランスのとれた二人で羨ましい限りです。

何よりも嬉しかったのが、年齢の近い世代の人に理解された事でした。
ヒスイというのは、どうしても「年輩向け」と言うイメージが強く根付いています。
そして現実的にも、年輩者でなければ購入が困難な価格でもあります。

若者に魅力を感じさせる為には、昔のスタイルを変えていく必要があります。
しかし、姿形は合わせられても、価格を合わせる事は非常に困難となります。
手をかけるほどコストが増えて、ヒスイのランクを落としても解決しません。
低価格で引き入れるのでは意味が無く、購入意欲を引き出す必要があります。

現在は自ら「低賃金使用人となる暇な爺さん達」がいて、暇つぶしで商売ごっこをしているので異常な価格設定になっている領域がありますが、バイト感覚での産物なので、それで生活し続ける事も未来を創る事も不可能です。
(年金をもらい、生い先も短いから可能な遊びで、そこには何の大義名分も無い)

何よりも「爺さんと中年男のラブロマンス」って状況をどうにかしたい。
(どうしても男だけだとこうなる、ムサイだけで情緒がない…)

これでは魅力的な未来へのビジョンには成りません。

申し訳ないですが、将来的に若い女性を道化として祭り上げる必要が出るでしょう。
それも、無駄に高いプライドを持たない「道化としての使命」を果たせる女性を…。
(道化とは本来、人を楽しませる存在であり、現代ではシンボルですから)

そして、そのイベントを支える市民(国民)や工芸士を育成できれば、糸魚川がヒスイにおいての主導権を握る事も出来るでしょう。(その前に、やれねばならない事がたくさん在るが…)
糸魚川という国が考える事ですが、この領域の知識を私達も得る必要があります。
ヒスイに興味が無くても、どんな仕事でも根本は同じです。(国政の縮図)

国産ヒスイは糸魚川の、更には日本人のアイデンティティーに関わってくる存在で、慎重に扱わないと民度にも影響し、先進国の笑い者になりますので注意が必要です。
(作った本人が価値を下げると、その価値が高いとは誰も肯定できなくなる)

このヒスイにおいて、中国が日本を何と呼んでいるかと言うと「ダストボックス」と呼んでいます、要するに価値のないモノを換金できるゴミ箱って事ですね…。
(安ければ良いと言う日本人の価値観を利用しながら馬鹿にしているのが現実)

結局、肥満体の現代ビジネスと言うのは「低賃金労働者換金システム」を使わないと成り立たないものとなっていて、天下りに依存し続ける「終身雇用家畜システム」と、競争という名目で外野が儲ける「軍鶏賭博システム」に蝕まれているわけです。

どこで歪んだのかは知りませんが、今はそんな世の中になっています。

そんな世の中で、私の創作を理解・評価してもらえた事を心から感謝します。
所有する二つの神玉が、二人の未来を共にするお守りとなる事を願っています。

私も前を向いて進めば、きっと良い結果をもたらすと信じて活動して行きます。


これから少しずつ、人の進化(変化)は分かれていくように思われる。
姿形は良く似ているけど違った進化形態、そんな生物は地球には多数いますし。
2012年07月17日
またまた、浜辺で綺麗なヒスイの漂石に出会う事ができました!
不動滝へ遊びに行ってから運が付いたのだろうか?




海で拾えるタイプの青ヒスイの漂石です。
青色と言っても、青緑のヒスイが殆どでスカイブルーのヒスイは見た事がありません。
紺色だったり青緑色だったりと、青ヒスイの色調は日本海と同じように思えます。
海での青ヒスイは良く練られていてるタイプが多く、結晶が小さい良質が多いです。
透明度もあって、透かすと魅力的に輝きます。(紺色は強い光でないと透けません)
色が濃くなると透明度が低下するのは、ヒスイ全般に言える事だと思います。




こっちは良質な濃緑ヒスイの漂石です。
私が万葉ヒスイと呼んでいるヒスイの上位に、このタイプが存在します。
角閃石は一切なく、その色調だけを残して緑と翠が溶け合ったようなヒスイです。
普段は暗く濁ったように見えますが、光にかざすと鮮やかな緑色が浮かび上がります。
質も練られているので、磨けば最高の光沢を出せるヒスイである事が分かります。
このクラスなら誰が見てもヒスイだと分かるので、喜んで拾って行く事でしょう。




もう一つは、良質な紫ヒスイの漂石です。
こちらも海で拾えるタイプの紫ヒスイで、明るく柔らかい紫色の発色が特徴です。
ヒスイ自体は結晶が細かく透明度も高いのですが、粘り(耐久力)が低いように思えます。
加工での経験で、他のヒスイと比べると衝撃に若干弱い印象を受けました。
このタイプの紫ヒスイは繊細に出来ているのかもしれません。(発色自体も繊細だし)
しかし貴重な「このタイプの紫ヒスイ」を加工する事は、ごく希な事なので、あまり重要な事ではないかもしれませんね…。
光の透過は抜群で、明るい紫色が膨張するかのように沸き上がってきます。


しかし、どれもサイズが小さいのが悔やまれます。(サンプルとしては十分ですが)
こんな時、愛好家なら「ビックライトが在ったら!」と思った事があるでしょう。
自分の意志で自在に大きく出来たらどれだけ幸せか…、でもあれって対象物の解像度も高めてくれるのだろうか?
単純に大きくなると結晶自体も大きくなり、ただ粗だけのヒスイになってしまう…。
そんな、どうでも良い事を考えてしまう今日この頃なのでした。
2012年07月07日
最近仕上がりました(仕上げている)品の紹介をします。


ある事があって生玉の制作を控えていましたが、久しぶりに水の生玉を作ってみました。
まだ磨きを出していませんが、これはこれで可愛らしい姿だと思います。
生玉は土水火風の四大元素をデザインした品で、それぞれの属性に「静と動」の2つの表現を入れています。
紋様もそれに合ったヒスイを選んでいて、今回の二つには「波の紋様」と「川の紋様」のあるヒスイを使用しました。
どちらも動きのある存在ですが、動のデザインに波の紋様を、静のデザインに川の紋様を合わせています。
テーマに合った紋様のあるヒスイを探すのは困難ですが、運良く見つける事が出来たらテンションが上がって制作意欲が湧いてきます。
仕上がりましたら改めてアップしていきます。



こちらは抜群の透明度がある濃緑ヒスイを加工した品です。
このタイプは緑色の部分にヒビが多く、大きなサイズの品を作る事ができません…。
良質のヒスイなのでヒビに沿って切断・研磨し、少しでもヒスイが無駄にならないように工夫して加工をしています。
明るい翠ではありませんが、古の日本人が好んだ色(濃緑)だと言われています。
質が良いので、艶が段違いに映える作品を仕上げる事ができます。
シルバー925で作ったロゴやパーツを組み合わせてストラップにしています。



こちらも同じ良質のヒスイを加工した品になります。
白い部分の方がヒビは少ないですが、大きな品を作るだけの面積は滅多にありません。
ある時は雲のように、ある時は雪のように、澄んだ白色が季節によって輝きます。
透明度も高く、艶も美しく出せるヒスイなので大切に加工しています。
シルバー925で作ったロゴやパーツを組み合わせてストラップにしています。


こちらが同じヒスイのヒビの無い部分で制作した品です。
表側にも裏側にもヒビが無い部分を、慎重に探し出して制作しています。
本来ヒビは、入ってしまっても仕方がなく、逆に魅力として見出せる領域も在るのですが、どうしても多数の共有を求める場合は「皆が分かり易い基準」が必要となります。
ヒビの魅力を「共同幻想の領域」にまで構築できれば、多くの人と共有できるのでしょうが、比較対照が多すぎるので、まず不可能でしょう。
希少性の高さから言っても、ヒビの入らない品の方が貴重なので、他者に奨める場合(商売として)はこちらの方が間違いなく良いでしょう。



女性の千聖さんが作った品です。
白と緑のヒスイは、私が提供した良質のヒスイを加工したものです。
淡青のヒスイで作ったロゴと合わせて、女性用のストラップにしてあります。
青ヒスイは3つを使用して、夏らしい涼しげなスタイルにしたそうです。
貴重である青ヒスイですが、このタイプもヒビが多くどうしても避けきれません。
普段使いでは割れる事はありませんので、その点は安心して下さい。


これからも少しずつですが、作品を作っていきますので気長にお付き合い下さい。
今の世の中がどう変わっても、お金の対極にある美術の領域は消滅する事はないと考えていますので、生きている限りは挑戦して行きたいです。
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