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2013年05月27日
現場も変わり、ほぼ初めからの発掘作業を体験しています。

前回は終盤からの参加だったので、現在の作業は少し退屈だったりします(笑)。
でも初めからの調査行程を体験できるので、これも勉強。
出土する土器も少なく土木作業っぽい段階ではありますが、真剣に取り組んでいきます。

それにしても、一緒に作業している年輩者の方々のタフさには驚きます。
特に女性、糸魚川は働き者の女性が多いと言いますが、まさにその通りだと感じました。
これでは男はヒモに成りかねない…、とさえ思わせます(笑)。

しかし年輩の男性にも凄い人がいて、私が同じ年になっても「同じ事ができるのだろうか?」と考えてしまう。
翡翠の領域にいるので失望しがちな年輩者でしたが、ここではそれを払拭させてくれます。
精神が浄化され、始めの心持ちに帰れる気がします。

使っている道具にも少しは慣れてきましたが、まだ余計な力が入っているようです。
道具を使いこなしてこその人間、この発掘が終わる頃には完璧に扱えるようになりたいと思います。



少し話は変わって、糸魚川に翡翠の勾玉の完成形が出土しない理由を考えてみました。

どうしても「翡翠の完成勾玉が一つも出ない」と言う疑問が解消されないのですが、私が根本的な部分を間違えているかもしれません。

翡翠の勾玉は、糸魚川の地で一般の民は持っていなかったのではないでしょうか?(縄文時代でも例外無く)
持っていなかったのなら問題が解決しますね…。

刀狩りもそうでしたが、一旦多勢に持たれると回収する事は不可能となります。
大珠は少し出回ったのかもしれませんが、翡翠の勾玉は誕生した時点で強力な権力者の管理を受けていたと考えると納得できます。(大珠も豪族しか持っていなかったらしいし)

例外は絶対にあり、どこかに埋めて隠す人もいるし、付けたまま孤独に死んだ者もいると思います。(保存条件に問題があるのかもしれませんが…)

でもそれが一切無い、とするならば翡翠の勾玉は権力の管理下にあったのだと思います。
もっと言えば、権力者に献上する為に定型化されたのでは?とさえ思えてきました。
作れる者全てを管理できる存在、そんな存在がいなければ、作っていたのに「一切出てこない」という糸魚川の現状は理解できないです。(奴奈川姫の段階で、そのシステムは確立されていた?)
まぁ、時代が時代なので「制限されていた」程度かもしれませんが…。

今の糸魚川で考えると、この地から全ての勾玉を持っていくのは不可能です。
数が多すぎするし、持ち主も多すぎてどうにもなりません。
でも、こうなる前に管理されていたのなら話は別ですよね…。(しかも現代と違って作れる人は限られていたのだから)

ただ糸魚川で大規模に作られていたのなら、やはり一つくらいは翡翠の勾玉が出ても不思議ではないです…。
もしかしたら、糸魚川で翡翠の定型勾玉が作られていた期間は、とても短かったのではないでしょうか?(奴奈川の地でなく、現在の糸魚川の地での話)

全ての職人は移った後に本領発揮、そんな気がします。
或いは宝飾職人のように厳しい管理・監視の元、この地で勾玉を作っていたとか…?。
何か不備があったら命を奪われる、そんな厳しい掟があったのかもしれません。(それが権力者によってか、作る集団のルールによってかは分かりませんが)


何であれ、この状況では作家は必用では無かった気がします。
作家は束縛を嫌いますし、勾玉は既に定型で、それ以降は職人の仕事になるかと思います。
でも一緒に移動した作家は間違いなくいると思います。(職人の領域を求められていただけで…)

良く出てくる未完成品も、実は職人の未完成ではなく、職人のいなくなった地で残った人が見様見真似で作った品なのではないかとさえ思います。(磨製石器を制作・流通させていた人達とかが)
そうなると、翡翠の定型勾玉が出ていないと言えますね…。

私は、職人なら未完成品を残したりはしないように思えるのです。
また、残った者達は翡翠原石を移った職人優先に供給していたのでは?と考えます。(転石や石割した翡翠を)

この時代より翡翠の勾玉は権力者の証となりますので、後に糸魚川の民が翡翠の勾玉を持てたはずもないですね。
翡翠の勾玉は当時の権力者のみが所有し、長い間一般化しなかった。
更に、権力者以外が持っていた場合、厳しい非難があったのかもしれません。

とにかく「翡翠の定型勾玉は完全に管理されていた」とすれば、理解できます。
或いは単純に、現代と同じように「原産地に良い品が残らない」の理由である可能性もあり、良い品は中央に集まっていったってだけかもしれません…。(この場合、糸魚川の民は翡翠の勾玉に興味がなかった事になるのでは…)


これは私の個人的な感想で、現在も分からない事だらけです。
そして間違いなく言えることは、完全に解明できる事はありません。(全人類と共有できるレベルでの解明は不可能)

それでも考えてみる事は必用で、これは人に赦された「最高の想像」なんだと感じています。


何度も書きますが、これは個人的な意見ですので。
2013年05月26日
今回も、前回と同じ海で出会った赤石を加工しました。


中央部分に近くなったので質が安定するかと思ったのですが、逆により不純物が多くなりました。
その効果?で、魅力的な模様が背部に広がってくれました!
その反面、艶はより不安定となり、自然が作りだした存在を扱う難しさを改めて感じました。




異玉の「千変の幼生」シリーズです。
前回と同様に加工の際は、工具などが真っ赤に染まりました。
作品の形が形だけに「私は産婆さんか」と自分にツッコミながら作成しました(笑)。

不思議な事に黒色の不純物の方が硬く、質もしっかりしています。(おそらくは瑪瑙)
所々に黄色の弱いインクルージョンが入り、艶だしの行程でも削れてしまいます。
均等な面、艶出しには成っていませんが、風合いのある姿には仕上がったと考えています。

赤い部分は粘りが弱く加工の最中にポロっと取れたりして、何度か泣きそうになりましたね…。
当初は足の部分がもっと長かったのですが、欠けていく度に短くなっていきました。
でも加工を終えてみると、丁度良いバランスになったかと思います。


この幼生より千変しながら万化の蛹へと向かう、一つの自然の流れを表現できたかと思います。

これから暑くなり、自然界は謳歌する生命達で溢れていきます。
祝福された季節は短いので、一日を大切に懸命に生きようと思います。
2013年05月21日
◇健御名方富命彦神別(譲渡済みです)
この石はわたくしの玉作人生20年の中で初めて出逢った赤い石。



通常の赤玉と言われる鉄石英系の赤玉とは全く異なり、青玉のような極めて希少な赤い蛇紋岩で長く我が家の神棚におまつりしておりました。
ある朝、手を合わせていると「目が合った」気がして、やっと玉にすることを認めていただいた気がしました。本当に龍の心臓のごとき「威」を感じる大いなる奴奈川の底なる玉です。


奴奈川赤石より砥ぎ出したる赤龍の玉。
全面に真紅の流水紋を持ち、まるで龍の心臓の如く猛々しい恐るべき「威」を持つ勾玉です。
身から迸る赤の威力、血脈の様に走るインクルージョンは命の胎動を感じます。
光源により姿を変え、見る者を強引に納得させる「威」には畏怖を覚えます。



◇沼川の翠鳥
長い間、海中で揉まれた小さな海岸漂着石から磨ぎ出しました。



手が大きい玉作 工人はこの玉を砥ぐに当たり、指だけではなく木で押え道具を拵え、この形状を生み出しました。
一つしか作れませんでしたが、なかなか良い光も生み出せたと思います。


奴奈川の渚に着いた硬玉より砥ぎ出した緑鳩の玉。
全身が翠色に煌き、夕日に映える小さな姿は翠鳥そのものです。
小さいながらも十分に奴奈川の「威」を備え、しとやかに慎ましく持たれる方をお守りする奴奈川勾玉になりました。

玉作 工人   拝
2013年05月17日
今日で今までの区画は、終わりを向かえました。(お疲れ様でした!)

少し前から、新潟県のお偉方が視察に来て急かされていました…。
スケジュール通り進んでいないので「今月中に終わるのか?」と言われていたようでしたが、この遺跡を見て「それだけしか言えないのだろうか?」と疑問に思ってしました。
まぁ、それがその人達の仕事なのだから仕方ないのでしょうけどね…。

そんな事は良いとして、今日は最後に作業を終えた遺跡の簡単な説明を聞き、その遺跡から出土した品々を少しですが説明を受けながら見せてもらいました。
4500年前の村…、完全な姿ではありませんが、自分の目で見ることができて幸せです。
そこで使われていた道具の数々、素晴らしいの一言です。
耳飾りなどもあり創作へと発展した「心の安定」を感じる事もできました。

発掘作業で疲れていた人達も、これを見てとても盛り上がりました。(皆、スケジュールの調整と、寒暖の激しさでまいっています…)

そして何より私が気になっていた、赤石(鉄石英)での石器がありました!
自分の目で見るまで確実と言えませんので、ちょっと心配していましたが、これで古代でも赤石は使われていた事が私自身で確認できました。
今回の赤石は磨製石器ではありませんでしたが、道具として使われ発展して行ったのは間違いないので、いずれ赤石の磨製石器にも出会える事でしょう。(打製石器だけでしたが、赤石の矢尻もありました)

ヒスイも幾つか出土したのですが、加工された品は無く、割られているものが少しあったくらいです。
これは憶測ですが「そのまま流通させていたか」それとも「石割の段階まで行い他へ移したか」だと思います。(両方である可能性も)
遺跡はここだけではありませんので、奴奈川の別の地域に持って行ったとしても不思議ではないかと。
ヒスイの加工には特殊な技術と道具が必用なので、その者(者達)が居る集落へ石割した後に持ち込んだ可能性もあるかと思います。(ここには勾玉の加工に必用な形の砂岩が見あたらない)
この遺跡では幾つも打製石器を作っているのだから、ヒスイの石割くらいは出来た可能性があります。
割っておけば移動は容易なので、奴奈川以外の地域にも持って行ったのではと考えます。

ちょっとした分業があったのだろうか…、それともやっぱり、ここで加工していたのだろうか…?
これだけヒスイや磨斧が出て、ヒスイの加工品が出ないのは異常としか思えない。(大珠なら作れたはず)
私は古代の工人が加工した品を、奴奈川の民が全て手放したとはどうしても考えられないんですよね…。
持ち主が移動していったのなら納得がいきますが、全ての持ち主が移動する現象は普通ではないです。

なので私は、糸魚川にはヒスイの勾玉は絶対に存在すると考えます。
何かの理由で出てこない、それが古代人による理由なのか、現代人の都合なのかは判りませんが…。

と、現時点での私なりに考えたのですが、全く分かりません(笑)。

なんであれ次に調査する現場もありますので、まだまだ色んな遺物に出会えると思います。
夏に近づくにつれ作業的に大変になるのでしょうが、数千年前の存在と対面できる経験は、創作を受け継ぐ私にとっては、代え難い体験となるように思います。

運良く今回のような、遺跡調査に立ち会えた事を嬉しく思います。
この事で色んな事が分かっていくような気がします。
2013年05月15日
海で出会った赤石を加工してみました。


流石は鉄石英、切断するのに時間がかかりました。
そして何より凄いのは、赤に染まる手、水、機械…。
今更ですが、赤石の加工は血塗れのようになります(笑)。
普段は白い粉が殆どなので、赤い粉が大量に出るとビビってしまいます。(水に溶けると血に見えます)
まるで指を切断しかたのような鮮血色、初めてならビックリする事でしょう。



異玉の「万化の蛹」です。(先にサナギを作ってしまいました…)
あえて不純物の多い部分で加工してみました。
この色に、この模様、とても面白いです。
しかも頭の部分には無色の瑪瑙があり、なかなか良い味を出してくれました。
形は体験で感じ取った、縄文風のデザインにしてみました。
サナギは二度目の卵化とも言って良い段階なので、「万化の蛹」は大珠の意味合いを込めた作品となります。(私個人の認識による表現です)

不純物が多いため艶が統一されていない部分もありますが、かえってそれが古代を感じさせてくれる要素だと感じています。

順番が逆ですが、千変の幼生も作りたいと思います。
2013年05月13日
黒曜石は天然ガラスのため、その加工には非常に気を使います。
硬さは天下一品なのですが、堅牢さがまるでありません。



そのため、打撃成形で形を整えることは容易なのですが、磨き成形を開始すると、途端に細かく表面が飛び始めます。
この解決方法は、柔らかい砥石、つまり木の板に研磨砂を付けて磨くことで解決しました。 ちょうどスリガラスを磨いて透明にする感じです。
非常に勉強になった攻玉でした。


旧石器時代から使われ続けた黒曜石。
長野県和田峠産の原石を縄文の玉に砥ぎ出しました。
その姿は山の獣の牙の様に鋭く、色合いは琥珀の様に透き通り天然のインクルージョンが織りなす色合いは圧倒的迫力です。
内部にはこの石が生まれた時に出来た時の気泡が封じ込められ悠久の大地の浪漫を感じます。
2013年05月11日
元々は押上の浜で冬の寒い時にぽつんと砂浜に打ち上げられた標石です。
海でだいぶ揉まれ手にした時から透けるような美しさでした。



転石と言う事もあり打撃破砕は行いませんでしたが、気の遠くなるほどの時を奴奈川の海の中で過ごし、悠久の時を越えて縁により生まれた「玉しずく」。
遠く奴奈川に暮らした縄文人の気持ちになって生み出した逸品です。


ヌナカハの河川より出でたる硬玉より砥ぎ出した奴奈川の清流。
身はあくまで小さく、姿はあくまで可愛く。
新発見技術による限界領域での管錐穿孔による魂入れ。
結晶粒に逆らわない砥石入れによる磨き込み。
この手仕事により生み出された玉しずくは、光源で驚くほど姿を変えます。
時には気高く凛とした姫、時には小さく可愛い女の子。
水色、白色、薄緑色に変化する姿は本当に水量で姿を変える姫川の様です。
神奴奈川姫も子供の頃、持っていたであろう玉しずくです。
2013年05月07日
連休も明けて、再び遺跡掘りの再開です。
現在の区画は今月中には終わらせる予定のようですが、未だに土器や石器が大量に出てきます。
人員も増員されたので、総力戦となりそうです。
そう言えば若い女性2人が新たに入りましたが、遺跡に興味があるのかは現段階では不明です(笑)。

現在、私が掘っているベルトでは研磨された斧1個と翡翠原石1個がでました。(土器は普通に出ます)
そこからは沢山の石や砂岩が出たので、掘っている最中に翡翠が出そうな予感はしていました。
翡翠はそこまでグレードの高いものでは無く、表面は打撃をした痕や打撃された痕も無く、研磨された痕も見られません。

もっとも、石器を研磨する事に使っていたのならば研磨痕は残るはず無いですね…。(翡翠の方が硬いので削れない)
逆に磨製石器は研磨痕が少し残っていて、古代人が「丁寧に仕上げた」って事が同じ加工をする者には良く分かります。(とても丁寧に作られています)

例え蛇紋岩であっても加工は容易ではありません。
古代で「道具と言う存在」がいかに大切だったのかが感じられました。
その道具が創作の原点であり、人に豊かさをもたらし、人に表現する喜びをもたらしたのだと感じます。

現代は道具が範疇からはずれ、機械として人を追いつめる存在となっています。
人が道具として使いこなせるレベル、このバランスが大切なのだと思います。
人が進化するか、機械を退化させるか、いずれにしろ人が機械を超えている事が条件となります。
結局、機械を超える存在というのは、人の創作性なんですよね…。

この体験によって、原点の在り様を学べそうな気がします。



悠久の時にふれた事で、無性に海へ出かけたくなりました。
何か良い出会いがあるのではないか…、そんな期待が不思議に湧いてきます。

その日は風が強く波も強めに打ち寄せていて、割と大きな石が上がっていました。
幾つか翡翠も拾えましたが紹介する程の質ではありません…、でも良い発色の赤石と出会う事ができました!



よく糸魚川に有る赤石は、赤色がくすんでいたり紫がかっていたりしています。
しかし今回の赤石は、赤色が一段階違っていて鮮やかさを放っていました。
それに、このサイズは海では珍しく、加工するには十分な大きさです。

遺跡では赤石は見ていないので、ここの古代人は集めていなかったのかもしれませんが、漆により赤に染まった土器は大量に出てきます。
それに赤色は太陽を示す色、古代人にとって感心が無かった筈はありませんね…。
私では詳しく分からないので、専門の人達に聞いてみようと思います(笑)。

何であれ魅力的な石、これで異玉を作ってみようと思います。
生玉の「火の精霊」を作るにも相応しいですね…、何だか創作意欲が湧いてきます!


「悠久の時に結ばれし絆を、今再び取り戻す」何だか楽しくなってきます。
2013年05月06日
この硬玉は当初酷い皮を被っており、外見からは玉になるとは思えませんでした。
ある時雨が降り、その原石が濡れた時に「ピキッ」て感じるものがありそこから研磨を始めました。



磨いて行くうちにだんだんと美しい肌が見え始め、この何とも言えない感覚の世界による引き合わせと言うものを感じました。
攻めるにつれ、その形が女性っぽくなり、スタイルの良い玉になりました。
ぜひ、その身を表に出す佩用をしていただければ嬉しいです。


角閃石を伴った硬玉より砥ぎ出したる奴奈川の深山。
身はあくまで細く、「威」は限りなく高く。
打込錐による片側打撃穿孔、頭には三条の丁子、手仕事の限界まで攻め込み生まれた深山の精霊。
麗しい妖艶な姿とはうらはらに、若草のように透ける透過光は恐るべき力を生み出し、持たれる方を守護します。
これぞ「奴奈川の底なる玉」だと玉作 工人は思います。

玉作 工人   拝
2013年05月02日
布留玉「八雲」「神魂」「佐太」をご紹介致します。

「八雲」「神魂」「佐太」三作の玉の原石は、全て同じ石から生まれました。玉造りの仕事は、加工に適した原石を探し出すことから始まります。青舟は京都府北部の丹後から、はるばる、翡翠の産地新潟県糸魚川まで足繁く通い、玉造り適した石を探しています。現地の石屋さんを巡る事もあれば、時には海岸におり自ら翡翠の原石を採集することもあります。いきつけの店もあり、現地の店主さんに頼めば、e-mailで画像を送ってもらったり、電話一つで原石自体を送ってもらうことも出来ますが、自ら足を運び、己の目で見て品定めをしなければ納得出来ません。それは、青舟の生来の性分なのです。

この三作品の原石は現地のとある石屋さんで巡り会う事になりました。通い慣れたお店でありまして、勾玉の話、翡翠の話やら、あれやこれや盛り上がっていると、店主さんがおもむろに立ち上がり、店の奥から一抱え程もある石を持って来られました。


「これは参考までに…」と前置きがあり、見せてもらったのですが、手に取ってじっくりと観察すると、ズッシリとした重みがあり、石目、クラックはありますが、まず目を引いたのは、その深いアオの色合いです。深緑色の発色は申し分なく、表面から垣間見えるトロリとした飴のような質感…。まさに、長年追い求めていた原石そのものです。採集場所は、はっきり教えてはもらえませんでしたが、石の表情から姫川上流の石であろうと推察しました。であるならば、一昔前に採集された石「昔の石」と呼ばれるもので、現在では採集出来ない貴重な石と言う事になります。


店主さんは、前置きの通り、販売する気はないらしく、その日は、すごすごと退散する事になりましたが、あのような石を見せられて、じっとしてはいられません。まさに、矢も楯もいられぬといった状態で、再度、お店を訪ねる事となりました。参考品と言っても流石に、店頭に並べるような石ではないようで、「あの石は…」と店主さんにお尋ねすると「ああ…あの石ね…。」とあまり気は進まないようでしたが、前回と同様、手にとって見せて頂く事が出来ました。再度、石の状態を確認しましたが、以前の見立てに間違いはなく、どうしても譲ってほしいと店主さんに交渉を開始しました。しかし、答えはノー。げっそりと落ち込みながら帰路につきました。ですが、このまま諦めるわけには参りません。日を改め再度、訪問。粘り強く交渉を続けました。「そこまで、おっしゃるなら…」と最後には店主さんが折れ、渋々ながらも譲って頂く事が出来ました。

このようにして仕入れた貴重な原石ですが、その大きさ故、勾玉に加工する為には、そのまま加工を開始するわけには行きませんでした。まずは原石の中でも工作に使用する部分と使用しない部分を分け、加工出来る大きさに切断します。大きな翡翠になると表面の色は分かっても石の内部の色の入り具合は、ある程度の予測は出来ますが、実際カットしてみないと分かりません。カットしてみると発色の良い加工に適した部分は4分の1から5分の1程度でした。

この原石から、青舟は“古代出雲の王の御霊を乗せる舟”をイメージし、生み出さされた三作品を布留玉の社では“出雲三作”と位置付けました。三作は古来の玉では最も完成されて形体とされる“丁字頭勾玉”です。


出雲三作 其の壱 布留玉 八雲




命名の由来は、古代出雲の枕詞でもある“八雲立つ“から頂いております。三作の筆頭にふさわしい、縦の大きさは5cmを越える大玉に仕上がりました。この大きさは伝世の玉でも稀に見る大きさであります。しかも、縦・横の大きさだけでなく厚みも1.6cmとしっかりと、とってありますので、丁子の彫りの品位も相まって手にした時の圧倒的な存在感・迫力は、青舟が今まで造ってきた玉とは一線を画するものがあります。

元来、糸魚川の石には石目やクラックが多いので、それらを避けて形成すると、どうしても小さな玉となってしまいます。八雲の場合には、あえてそれらを避ける事はせず、玉の個性として、玉の魅力が、いかんなく発揮されるように取り込む事に心血を注ぎました。石目やクラックが入る事を嫌われる方がおられるのかも知れませんが、青舟としては翡翠及び勾玉を他の宝飾品と同列に捉えている訳ではありません。勾玉作品であり“いにしえの美”として完結させる事が何より重要な事なのであります。

石質はとろりと深みのある肌合いで、頭は爽やかな印象を受けます。色は全体に入っていますが、特に“逆くの字側”の色合いは豊かです。中でも背部外側から尾部にかけては濃緑色の発色が良く、際立っています。厚みをしっかりとるとなると、色調は深くなりますが透明感は沈みがちとなる事が多いです。しかし、この作品に関しては、透明感が高く、これだけの厚みがあっても光を通して透過光で見ても大変、魅力的な作品となっていまます。


この玉の画像をよく見て頂くと、玉の背中の真ん中から尾部にかけて亀裂が入っているのが確認して頂けると思います。ここは元々石目が入っており、加工中に真っ二つに破断しました。普通であれば割れたしまった以上、加工を中断するか、小さいサイズの玉に作り直すところですが、青舟には完成した玉の姿が見えていたのでしょう。幾日も破断した玉の断面を眺めている青舟の背中が印象的でした。そして突如、思い立ったように、破断した部分を樹脂接合し、再度加工を開始しました。苦難を乗り越え、ようやく完成したこの玉は、“威風”を放つ、青舟渾身の作となりました。
2013年04月30日
異玉の新作、千変の幼生の紹介をします。




白地に淡い翠が入ったヒスイで制作しました。
遅い春の訪れと共に、誕生し成長する幼生を表現してみました。
口をつけることで、可愛らしい姿に仕上がったかと思います。(葉をガツガツ食べる感じを出しました)
ヒスイ自体も透明度が高く、光にかざすと彩雲のような景色をその身に映します。




こちらも白地に淡い翠が入ったヒスイで制作しました。
横幅をもたせたので、ゆっくりと動くのんびり屋の幼生となりました。
こちらには切れ込みによる口はつけませんでしたが、モシャモシャと葉を食べる感じは表現できたかと思います。(ちょっと動物っぽいかな)
光にかざすせば、魅力的な模様と彩が映し出されます。


俗に言うと「子持ち勾玉」の部類になるのでしょうが、私的には定型勾玉はサナギに近い状態だと考えている為、その状態で子を持つ事には疑問があります。(これは個人的な考えです)
なので私は異玉として、始まりにして千変する幼生を表現しています。

今のままでも独特な魅力がありますが、やがて万化の蛹となり、精霊の加護を受け羽化へと向かいます。
どんな存在にも順序があり、その過程での姿も表現して行きたいと考えています。

現在で私の最終形態である神玉へと成長させておけば、未来ではその先へ進む「成長を表現する者」が現れると考えています。
そうなれば、この遊びは終わる事はありません。

これが現実になれば、私が生まれてきた意味も在ったのだと思えます。(その時は生きてませんが)



仲間との出会いや遺跡発掘の体験で、自分の原点に戻れそうな気がしています。
色んな鉱物での創作、私の原点はここにあります。
結局、異玉も生玉も色んな種類の鉱物で加工する為に作ったカテゴリーで、自由な創作を担っています。(特に異玉が担っています)

ヒスイの縛りがあるのは神玉だけ、なのにいつしか一つの基準にとらわれていたようです。
これでは自由な発想やデザインは生まれてきませんね…。
それぞれの役目を見直して、再構築していかねばと思っています。

今回の異玉はヒスイで作りましたが、次回からは赤石や軟玉などでも加工したいと思います。

ちなみに事代主のデザイン案が出来ました。
後は試作を重ねてデザインの調整をして行く段階となりました。
完成のお披露目は、恒例としている一月一日に出したいと考えています。(この加工が仕事納めとなり、この展示が仕事始めとなる感じです)
2013年04月27日
只今、縄文遺跡の発掘を体験しています!
いずれは経験しなければと思っていましたが、ちょうど注目される遺跡が出たので思い切って体験する事にしました。
私の創作テーマでもある「悠久に結ばれた絆の再生」に、近づくにはどうしても必要な経験となります。



初日に翡翠を発掘!、宝探しのようで興奮しました。
高いグレードではありませんが、現在の基準として見ても良い翡翠だと思います。
これで加工すれば、必ず良い作品が仕上がると感じました。

他にも黒曜石の矢尻を一つ発掘したのですが、写真を撮るのを忘れました…。(翡翠で頭がいっぱいでした)
それに掘り当てた度に写真を撮っていては、作業が進まないんですよね。
休憩時間などを利用して撮影していますが、土器などは掲載して良いものか分からないので確認してからアップします。

何であれ数千年前の古代遺産…、かなり感動してます。
古代に作られた(使われた)品を現代で、しかも私が手にしているのですから!
この経験で僅かですが、悠久の時と繋がったような不思議な感じがしました。
念のために書きますが、発掘した品は自分の物にはなりません。

私が入ったグループの区画では翡翠は三個発掘されて、どれもが良い翡翠でした。
翡翠を集める、古代人と同じ事を現在に行っている自分と「共通する何か」を見つけられたら、今後の活動も進化して行くように思えました。
残念ながら翡翠は原石の状態のみで、加工品はありませんでしたが…。

この作業は労働的に考えれば決して良い条件では無いでしょうが、勉強として考えれば魅力的な作業だと思います。
作業員は年輩者が殆どですが皆良い人達ばかりで、地道に発掘作業しています。
若者で考古学などが好きな人達はいますが、現場にはおらず三十代は私だけです(笑)
調査員の人達や建設会社の人達の中には、同年代〜年下の人はいます。

糸魚川は何処を掘っても遺跡が出るようですが、今回の遺跡は特別重要なんだそうです。
すごい数の土器や石器が出ていますし、当初は土偶なども出たようです。(墓が在ったようです)
やはり糸魚川には重要な存在が眠っていますね…。
信じて活動していて良かったです。
そうすると奴奈川姫の墓も存在しそうですが、古墳時代の人ではないので墓の場所を特定する事自体が困難なのだそうです。

今までちゃんと調べなかったのでしょうか…?、糸魚川はまちを発展させて「都会モドキ」に向かうより、遺跡のまちとした方が良いように思えます。
どうせ人が来ないのなら、いっそのこと特化してまち全体が文化財になった方が面白いです。
駅を降りたら古代のまち、そんな魅せ方を用いたまちづくりも必要となってくる時代ですから。

ちなみに遺跡付近には奴奈川神社があります。


古くから此処に在ったのではなく、遷された神社なのだそうですが意味があっての事だと思います。
この時から、遺跡の存在を知っていた人がいたのかもしれませんね…。

この地には謎がまだまだ残っています!
定期的に遺跡掘りはありますので、なるべく参加して勉強したいと思います。

この事で、自身の創作活動の幅が広がれば嬉しく思います。

私の創作スタイルは物語の具現化ですが、現実の歴史を知っておく必要があると考えます。
その知識が礎となり、新たな創作に進めるのだと信じて向かいたいと思います。
2013年04月24日
大勾玉であった事で砥石の作成に難儀しましたが、蛇紋岩ゆえの石質により攻玉は比較的順調でした。
穿孔は片側棒錐打撃穿孔、硬玉片による丁子加工、木砥による研磨と古墳時代の工程で再現しました。


奴奈川蛇紋岩より砥ぎ出したる緑の龍。
その身から湧き上がる「威」は森林の力そのものです。
形は古墳時代最末期、仏教が伝来し古神道とせめぎ合っていた頃の、勾玉文化の最終形状を生み出しました。



御統になった時、この大勾玉は最高の力を出すと玉作工人は思います。
温度、湿度、光によって色を変化させながら身から出る蛇紋岩の「威」は古代において、「物の怪」除けとして使われたのだと思います。
奴奈川蛇紋岩だけが持つ不思議な力です。

玉作 工人   拝
2013年04月22日
攻玉も非常に難しく難儀しましたが、青玉として原石の中に本来あった形をうまく出せたと思います。




この石は15年前に見つけたのですが、この縁(えにし)をずっと待っていてくれたのだと感じました。


海沿いにお住まいの方、海外に良く行かれる方の護りとして使っていただければ、最高の奴奈川の護りとなる事を匠として感じております。


奴奈川青玉より砥ぎ出したる蒼海の玉。
片側に穏やかな凪の海、片側に恐ろしき荒れた海を持つ恐るべき「威」を持つ大勾玉です。
光源により姿を変えるその身はから発する「威」には畏怖を覚えます。


玉作 工人   拝
2013年04月17日
私が制作した勾玉、伊邪那岐「桜空」-壱-の紹介をします。


この紫ヒスイは、かなり昔のヒスイらしく、紫ヒスイとしては珍しく練られた質です。
初めは頭の部分に濃い紫色がありましたが、研磨しているうちに薄れていってしまいました。
どうしても曲線が必要な部分は、色が残り難いです。


こちら側は、より紫色が薄くほぼ白色に近いです。
でも桜色に染まる空に浮かぶ「淡紫の雲」として見る事ができます。
ここまで質が良いヒスイだと、より上品さが際立ちます。


練られた紫ヒスイなので、厚みがあっても光を透します。
光を受けて膨張しながら透る姿は、暁の空や黄昏の空をも感じさせてくれます。
色も残り、透明度の高い、そんな紫ヒスイは現在では希な存在になりました。


当初からあったヒビ(石目)だったのですが、あえて避けずに大きめの玉を制作しました。
小さな玉では存在感が薄れてしまうし、無駄も多くなります。
そもそも数を多く作る、そんな事に興味はありませんし。

私はヒビを「非なる美」とするも「秘めたる美」とするも、作り手と持ち手次第だと考えています。
この姿は「舞い散る桜の花びらを玉が映し出した」として、私は見ています。

しかし、それを強要してはならず、同じ景色を見る事ができる人に所有されるのが一番幸せなのだと思います。

私の作品は殆どが自己完結しており、共有するのが困難だと思います。
しかしそれは作品の定めでもあり、そういう作家として生きるのだから覚悟しなければなりません。

今後も一方通行な品を創っていきますが、そんな中でも共有してもらえる人達に出会えたら嬉しく思います。
2013年04月14日
大所川にて十数年前に採取した小さな転石から砥ぎだしました。
工程は平面出し、背砥ぎ、穿孔までは同じですが、この玉はえぐり形状が独特の為、荒研磨砥石を最初に成型し、その抉り形状を移す形で砥ぎ込んで行きます。



極めて緻密、堅牢なため攻玉には難儀しましたが、原石の中に潜んだ優美な形は表に出す事が出来たと思います。


砥石の一当たりひと当たりに心を込めて、内磨砥石を振り込み、持たれる方の護りとなるように祈りながら攻めました。
奴奈川の川面を渡る春風を感じていただければ幸甚です。


形状は古式奴奈川弥生末期の形で、頭に刻み込まれた三条の丁子、まさに大王の「威」を持った勾玉です。
透ける流水紋、そこに流れる一条の翠。
清流に春の訪れを告げる玉に仕上がりました。
完全な手研磨が生み出す光は上代玉作工人の真骨頂です。

玉作 工人   拝
2013年04月09日
玉作さんの作品「沼川の神桜」の制作行程です。

朝より攻め始め、破砕、二平面出し、背砥ぎ、内研磨、魂入れ(穿孔)、荒研。
ここまで延べ時間28時間。

内研の砥石作成に思ったより時間がかかりましたが、やはり腕が鈍っており、時間がかかってしまいます。





この硬玉、だいぶ前に奴奈川の方より縁あっていただいたものですが、非常に緻密、極めて堅牢でかなり難儀しました。その方曰く、50年くらい前に手に入れた物だそうで、「今はこんなのは無い」と話されていました。

その色は、確かな桜色、頭には若葉の緑色、「威」は極めて高いです。
ここまで透明度が出てくると、ラベンダー色は本当に気品ある桜色になります。

この玉の良い所は、頭に薄い青葉色を携えたところでして、ぜひ女性に持っていただければ良いなと思っています。

玉作とは各工程の積み重ねで、最終的にその成否が決します。
どこかで手を抜けば必ず後でそれは返って来ます。

古式玉作とはそういうものです。

この形は元々、この玉石の中にあったもので私がそれを外に出したにすぎません。
あくまで「縁」(えにし)これ以上でも、これ以下でもありません。



玉を攻める時の心理状態は「神駆ける」とでも申しましょうか。
完全に無心でただひたすら攻め込みますから、あっという間に一日が終わってしまいます。


名は「沼川の神桜」
神奴奈川姫を待つ場所で咲いた古式奴奈川勾玉です。
乳白色とほのかな紫、頭には春の新緑を持ち、透ける紫に流れる流水模様から発する「威」は古より綿々と続く、大いなる護りとなります。

玉作 工人 拝
2013年04月07日
私が常々思うことは「デザインの劣化」です。
例をあげると今使っている「文字」なのですが、元は一つ一つが単体のデザインであったのに、共有する事で繋ぎ合わされ大量に使われるようになりました。

これは伝達として進化しましたが、デザインとして劣化したのだと認識しています。
もともと伝達の為に生み出されたので、当然の進化なのでしょうが劣化しているのも事実です。
簡単明瞭であるべきで、言霊を尊ぶ人には怒られそうです…。

共有はコミュニケーション能力であり、人として大切ではありますが度が過ぎれば個性を失います。
だからと言って個性がありすぎても協調し難く、人間社会で生き辛くなります。

創作の上での劣化は「同じものを作る」と言う問題が原点なのだと考えます。
理由は、同じ存在を多く作ると必ず劣化していくからです。
更に同じ人が同じ存在を大量に作った場合、自分自身で作品を劣化させている事になります。

しかし文字と同様、ある程度の数を作らないと他者とは共有できません。
勾玉を見れば分かるように、その姿形は数多の共有を得て様々な素材で具現化されています。
その為、姿形としては劣化し、古代人の価値感を大きく下回る結果となっています。(しかし存在的には、三種の神器として共有される域にまでなっています)

唯一無二で存在しうる、そんな存在が「創作の絶対神」になるのだろうと私は考えています。(日本の神々は八百万にして唯一無二の存在)


私達は神では無く人なので「限りなく唯一無二に近い存在」を追い求めて行くしかないのでしょう。
私は加工を仕事としていますので、創り出す品は必ず劣化していきます。(同時に共有もされますが…)

それを防ぐ事にも繋がる「新たなデザイン」を増やして食い止めようとするのですが、今度は「デザインと言う存在自体」が劣化していくのです。

何かを消費しなければ、何かを生み出せない、それが生命の理なのかもしれません。
作品の劣化を防ぐのか、デザインの劣化を防ぐのか…、バランスよく考えて活動しなければと心の底から感じています。
今後は自身で「適正数」なるものを、基準として構築する必要がありそうです。

ガラパゴス化、大いに結構です、日本の独自性を保つのに過分な共有は必要ではありません。(こういった文化の領域での話です)

多分、純粋な創作活動を求めるのなら、強力なパトロンが必要不可欠になるかと思います。
しかし今の時代は王政でもありませんし、中途半端な民主主義で成されています。
どうにも「作る側」には、生き辛い時代なのだと感じます。


物を作り続ければ、より完成度の高い作品が仕上っていきます。
それは、一度制作した品が基準となり、更に上を目指すからだと思います。
そうやって人は成長していくようで、その性からは逃れられないようです。

姿形が同じゃ無くても、身体で憶え経験してきた事は無意識に手を動かすようで、人の学習能力の凄まじさを改めて感じます。

ここは潔く、その習性を使いこなし、高みを求めてたいと私は考えます。(制限も持ちながら)


理解しておけねば成らない事は、ヒスイ製品は「工芸品を兼ねているが、民芸品では無い」って事です。(更に言えば雑貨でもないです)
ヒスイは上位の存在なので下位に下る事も可能ですが、本質である「精神の石」や「お守り」である事は忘れてはいけません。

民芸品の要素を加えるにも「ぐい呑み」レベルにし、雑貨の要素を加えるにも「根付け」レベルで止めるべきでしょう。(どちらも工芸品を兼ねている品なので)

常に精神文化(お守り)の要素を大切にして、今後も人の傍にあり続ける存在として繋げていくべきだと考えます。

そんな私達の活動を「生きている限り見続けたい」と、願ってくれる人と出会えれば最高です。(近い将来、唯の傍観者では、見続ける事は不可能となっていくでしょう)



話は変わりますが、神玉工房のトップ画像をアレンジしました。
トップ画像の奴奈川姫が「何故、天津神の力を行使しているか?」は、私にとって奴奈川姫が「最高の巫女」だからです。
きっと八千矛神(建速素戔鳴尊という説も)が、この奴奈川の地を訪れた理由はヒスイだけで無く、奴奈川姫の巫女としての能力を必要としたからなのでしょう。
奴奈川姫はヒスイの「守護者」として森羅万象の力を体現する、そういった力が在ったのだと思っています。

なので今度は、国津神バージョンのデザインもしていきます。(神玉の国津神が仕上がった後の話ですが…)

かなり個人的な意見なのですが、出雲で表向き翡翠が流通していないのは、碧瑪瑙の立場が無くなるという理由だけでなく「翡翠の品だけあっても力を行使できる者がいない」って事が主な理由のように思えます。
出雲大社の勾玉は、備えた者が奴奈川姫と一緒にいる事で発揮される加護だったのではと考えます。(翡翠としても文化財としても、国宝である事は変わりません)
2013年03月27日
久しぶりに現実の事を書きます。
現実の事は同じようなことを繰り返し書きますので、興味がない人や飽きた人は読まないで下さい。


人それぞれに大切な存在があるかと思います。
そこには特別な感情が存在し、自分を構成する「何か」が在るのだと考えます。

そこでいつものように色々と考えてみました。

まず、糸魚川にとって大切な存在は何でしょうか?

多分、まちとしては「観光地という存在」にする(戻して行く)事を望んでいるのだと思います。
糸魚川が観光地として成り立つ為に、最も必要となる存在…、それは「フリーのお客さん」です。
フリーのお客さん無しでは、どれだけ団体客を回しても「借金の利子を払い続ける」だけで終わります。
理由は簡単で、利益が低く、その為にサービスが劣化し、結果的にリピーターが生まれないからです。

やがて団体客の食事はジャンクフード化し、時間に縛られる事で観光としての自由も無く、せっかくの糸魚川の良さは伝わらないでしょう。(既得権益にどっぷり浸かったルートだし…)

ここで認識する必要があるのは、フリーのお客さんは「別格」だという事です。
きっと差別とか言われるかもしれませんが、一緒にできるわけが無いんです。

自ら糸魚川に訪れ、観光し、宿泊し、ヒスイも購入する。
今の世の中で考えれば「絶滅危惧種」と言っても過言ではない気がします。
こういった人達がお金を有益に使ってくれるのですから、お抱え運転手なみのサービスをしても良いように思えます。
これを実践しているのは、個人規模の民宿やペンションで、その人達はお客さんに正面から向き合っています。

もっと、こういった人達から学ぶべきだと思うのですが…。

公僕は税金で生きてるから見栄を求めるのは分かりますが、見た目が派手な団体客だけでは観光地として成り立つ事は不可能です。(バブルの時期ですら不可能だったのですから…)
外に向けてのパフォーマンスだとしても、もう騙される時代じゃないです。

フリーのお客さん在って、初めて観光が成り立ちます。
(団体を入口として考えているのでしょうが、今のツアーでは引き金にすらならない)


これはどんな商売でも同じ基本であって、私の仕事で当てはめると「卸」が団体に当たります。(ようするに団体客=卸業者ですね)
これを続けてしまうと、一時的にはお金は入ってきますが、時が経つほど自分の首を絞める事になっていきます。
守るべき存在が何なのか、これを理解していないと志を繋げていく事など不可能です。

では他に方法がない場合で、条件の悪い卸をせずに「どうやって乗り越えるか」と言うと、別の仕事をすれば良いのです。
私の協力者の人達も、別の仕事をしながら創作活動をしています。

人によっては「趣味の領域」として馬鹿にするでしょうが、結果的に「価格の破壊」も「志の劣化」も起きません。
創作とは「ある程度の安定」があれば行えて、作品を生み出す事が可能です。
ハッキリ言って、よっぽど趣味の人達の方がモラルがあります。(無い連中もいますが…)

逆に「この仕事一本で生きる」と言うのは格好良いですが、執着するあまり「背に腹はかえられない」って状態になり、何を守って行くのかさえ分からなくなって行きます。
現在はそういった「担い手モドキ」が多く、ヒスイの領域が壊れている理由もそこにあります。(これが消耗品である場合は、執着して大量消費に向かうのは仕方がない事なのでしょうが)

この領域が一生の仕事として成り立っていたのは、遥か昔の事なのでしょう。
現代のシステムでは「共有できない個体能力」は僻みや嫉妬しか生み出さないようです。(日本のスポーツの現状を見れば一目瞭然、先進国で一番支援していない国ですから)
なので「見せ物」として共有する事が、多勢に対する唯一の方法となるのでしょう。

しっかし年金で生きてる暇な爺さん達が、望んで値を壊しているのは理解不能ですね…。
もしかしたら「大切な存在が最初から無い者達」なのかもしれません。(あるいは諦めたのか…)
そしてそれに寄生する初老…、これが繰り返されていくのでしょうか…。

糸魚川はジオパークじゃなくて、ジジパークとなっている気が…。(ちゃんとした年輩者もいますけどね)
ちなみに、この仕事をしていると暇な爺さんの話し相手をする事があります。
そこで始まるのが「昔は良い時代だった」という昔話、そして武勇伝…。(正直、紀元前の話ですか?と思わずツッコンでしまう…)


ヒスイにおいて糸魚川はこのまま「卸問屋の末端」という扱いで良いのだろうか?
糸魚川は「外から逃げてきた者」や「逃げ帰ってきた者」そういった中での乞食〜乞食予備軍がヒスイを扱う事を放置してきすぎたんだと思います。(昔は必要悪だったんでしょうが、もう現在では容認されない)
若干「あぶく銭で育った二代目の生業」って現状もありますけど…。(あと爺さん達の暇つぶしも…)

糸魚川ヒスイって「そいった者達の滑り止め」なのでしょうか?
そういった者たちに消費される為に在るのでしょうか?

ジオパークによりヒスイの管理を強化するのは良いですが、同時に人の管理も強化すべきなのでは?
もう「誰がそうなのか」が分かっているんだから…。(盗掘で警察に何度も捕まっている者もいるんだし)

後は新たな「外から逃げてくる者・逃げ帰ってきた者」を把握して、ヒスイに近づけなければ良いだけのように思えます。
市場が濾過された為、そういった若者が新規で現れる事は少ないでしょうが、団塊の世代はやりかねない。

糸魚川市は福利厚生が充実しているそうで「外から逃げて住み着く者がいるので困っている」と、糸魚川市民も言っています。(一般移住者では無く、殆どが市民として税金を納めていない者達)
こういう人達は、元の国(県)へ強制送還するのが得策でしょうね。

この人達は「弱者」でも無いし「ホームレス」でもありあせん。(乞食とホームレスは違う)
全てが「モドキ」であり、必要最低限である「束縛」からも逃げている者達です。

お金を必要とするなら「束縛」に向かう必要があって、皆が羨む「自由」だけで生きていけるほど、この世界は単純ではありませんよ。


念の為に書きますが、何も団体客や卸業が悪と言うわけではなく、バランスが大事で「主力とすると破滅する」って事です。
消費していく存在では無いので、一つ一つを大切にする事が絶対条件となります。(ヒスイのような存在を大勢と共有した場合、価値は薄まり物だけが消費されていきます)

糸魚川を観光地としたいのなら、過剰に団体客に頼らず、個々の旅行者に「いかに訪れてもらえるか」を考えた方が良いかと思います。
ちなみに宣伝する側が「明確な糸魚川の魅力」を認識していないと、ガキの使いで終わります。

間違いなく言える事は「ヒスイが絶対的な魅力」って事で、後は付録みたいなものです。
ゆるキャラとかに力を入れるのも良いですが、そもそもに「特色のないまちの苦肉の策」なんだから、糸魚川は王道であるヒスイをちゃんと高めていく必要があります。

しかし規模が大きすぎると、どうにも成らない事もあるんですよね…。(現在の観光地が成り立たない理由は、幾つもの要因が重複していて複雑になりすぎてる)
今更どうにもならない…、そんな現実は今の日本(世界)には山ほど在りますし。

糸魚川市に出来なければ誰かがやるしかない…。
ヒスイを最小限の消費で済ませ、劣化させず、古代人の価値観をそのまま創作で体現しうる存在…、そういう人が一つの時代に多く生まれ活動したのなら、全世界に誇れる日本の古代文化を示せるのかもしれません。
そうすれば、同時に糸魚川へ訪れる人も増えるのだと思います。(待ってられないでしょうけどね…)


今回の結論は「自分が認めた存在くらい、最後まで支えてみせろ」って事になりますね。(ちょっと話がまとまってない気が…)

男は「30歳にして立つ」と言い、「40歳で迷わず」と言います。
40歳になるまでに、迷わない生き方を完成させなくてはなりません。(40歳は初老だし)



最近考えるのですが「価格競争」って何を競っているのでしょうか?
文字道理に考えれば価格を競っているのでしょうが、競争というのだから勝敗があるはずです。
で…、何をもって勝ちなのでしょうか?
安く売るのが勝ちなのか、高く売るのが勝ちなのか、適正価格で売るのが勝ちなのか…。(歴史あるオークションとは明らかに違う)
売る側と売る側の競争なのか、売る側と買う側の競争なのか…。

純利益を多く出せる売り方が勝ちなのだとすると、仕入れを限りなくゼロに近くする必要があります。
そうなったら「拾ったものをそのまま売る乞食商売」が勝ちになるのでしょうか?
人を奴隷として働かせ、稼ぐ商売が勝ちになるのでしょうか?
どんな売り方をしても利益が出れば勝ちなのでしょうか?

競争というからには明確な基準(ルール)があるはず、もし無いのならこれはもう、競争という名で隠した「ただの呪い」ですね。
何でもかんでも競争という文字を付けて、正当化しないでもらいたい。
2013年03月17日
ibitsに新しく「奴奈川の玉匠」の玉作工人さんが協力してくださる事になりました!
これによりギャラリーとしての総合力が増すことでしょう!
これをきっかけに、純粋に創作活動を目指す人達の励みになると嬉しいです。

玉作さんは私にとって「揺籃の師」であり、今回の縁をとても感謝しています。
今後は活動を再開されるので、青舟さんと同様にお互いを高め合う関係を築ければと思っています。

作品はどれもオーダーメイドで、更に完全手作業で行っているとの事です。
徹底した拘り(制限)、容易に真似できるものではありません…。

ご自身のHPには、数々の作品を閲覧できるようになっています。
悠久の時に思いを馳せる時間を、堪能できるかと思います。


私が望み認める本物とは「自身に制限を持った人」になります。
それと合わせて自分の世界をある程度、表現できる美的センスを必要とします。
当然ながら自分が何者なのかを明らかにし、表でも活動できる人が必要となります。
要は「どこの馬の骨とも分からない者」とは付き合えないわけです。


この多くの人が「必要としないであろう存在」を作り続け、そんな世の中にでも所有を求める人がいて、縁が導くままに出会う奇跡はとても神秘的だと感じます。
つい先日もその出会いがありましたので、尚のこと強く感じます。

人智の及ばない領域は確かに在って、共振するかのように強く結びつく、その現象を必然のように認識できるのだから、人間て本当に不思議な生き物だとつくづく思います。

今後もゆっくりとですが、志を共有できる人達と協力しあって骨組みを作っていきたいと思います。
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