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2013年04月09日
玉作さんの作品「沼川の神桜」の制作行程です。

朝より攻め始め、破砕、二平面出し、背砥ぎ、内研磨、魂入れ(穿孔)、荒研。
ここまで延べ時間28時間。

内研の砥石作成に思ったより時間がかかりましたが、やはり腕が鈍っており、時間がかかってしまいます。





この硬玉、だいぶ前に奴奈川の方より縁あっていただいたものですが、非常に緻密、極めて堅牢でかなり難儀しました。その方曰く、50年くらい前に手に入れた物だそうで、「今はこんなのは無い」と話されていました。

その色は、確かな桜色、頭には若葉の緑色、「威」は極めて高いです。
ここまで透明度が出てくると、ラベンダー色は本当に気品ある桜色になります。

この玉の良い所は、頭に薄い青葉色を携えたところでして、ぜひ女性に持っていただければ良いなと思っています。

玉作とは各工程の積み重ねで、最終的にその成否が決します。
どこかで手を抜けば必ず後でそれは返って来ます。

古式玉作とはそういうものです。

この形は元々、この玉石の中にあったもので私がそれを外に出したにすぎません。
あくまで「縁」(えにし)これ以上でも、これ以下でもありません。



玉を攻める時の心理状態は「神駆ける」とでも申しましょうか。
完全に無心でただひたすら攻め込みますから、あっという間に一日が終わってしまいます。


名は「沼川の神桜」
神奴奈川姫を待つ場所で咲いた古式奴奈川勾玉です。
乳白色とほのかな紫、頭には春の新緑を持ち、透ける紫に流れる流水模様から発する「威」は古より綿々と続く、大いなる護りとなります。

玉作 工人 拝
2013年04月07日
私が常々思うことは「デザインの劣化」です。
例をあげると今使っている「文字」なのですが、元は一つ一つが単体のデザインであったのに、共有する事で繋ぎ合わされ大量に使われるようになりました。

これは伝達として進化しましたが、デザインとして劣化したのだと認識しています。
もともと伝達の為に生み出されたので、当然の進化なのでしょうが劣化しているのも事実です。
簡単明瞭であるべきで、言霊を尊ぶ人には怒られそうです…。

共有はコミュニケーション能力であり、人として大切ではありますが度が過ぎれば個性を失います。
だからと言って個性がありすぎても協調し難く、人間社会で生き辛くなります。

創作の上での劣化は「同じものを作る」と言う問題が原点なのだと考えます。
理由は、同じ存在を多く作ると必ず劣化していくからです。
更に同じ人が同じ存在を大量に作った場合、自分自身で作品を劣化させている事になります。

しかし文字と同様、ある程度の数を作らないと他者とは共有できません。
勾玉を見れば分かるように、その姿形は数多の共有を得て様々な素材で具現化されています。
その為、姿形としては劣化し、古代人の価値感を大きく下回る結果となっています。(しかし存在的には、三種の神器として共有される域にまでなっています)

唯一無二で存在しうる、そんな存在が「創作の絶対神」になるのだろうと私は考えています。(日本の神々は八百万にして唯一無二の存在)


私達は神では無く人なので「限りなく唯一無二に近い存在」を追い求めて行くしかないのでしょう。
私は加工を仕事としていますので、創り出す品は必ず劣化していきます。(同時に共有もされますが…)

それを防ぐ事にも繋がる「新たなデザイン」を増やして食い止めようとするのですが、今度は「デザインと言う存在自体」が劣化していくのです。

何かを消費しなければ、何かを生み出せない、それが生命の理なのかもしれません。
作品の劣化を防ぐのか、デザインの劣化を防ぐのか…、バランスよく考えて活動しなければと心の底から感じています。
今後は自身で「適正数」なるものを、基準として構築する必要がありそうです。

ガラパゴス化、大いに結構です、日本の独自性を保つのに過分な共有は必要ではありません。(こういった文化の領域での話です)

多分、純粋な創作活動を求めるのなら、強力なパトロンが必要不可欠になるかと思います。
しかし今の時代は王政でもありませんし、中途半端な民主主義で成されています。
どうにも「作る側」には、生き辛い時代なのだと感じます。


物を作り続ければ、より完成度の高い作品が仕上っていきます。
それは、一度制作した品が基準となり、更に上を目指すからだと思います。
そうやって人は成長していくようで、その性からは逃れられないようです。

姿形が同じゃ無くても、身体で憶え経験してきた事は無意識に手を動かすようで、人の学習能力の凄まじさを改めて感じます。

ここは潔く、その習性を使いこなし、高みを求めてたいと私は考えます。(制限も持ちながら)


理解しておけねば成らない事は、ヒスイ製品は「工芸品を兼ねているが、民芸品では無い」って事です。(更に言えば雑貨でもないです)
ヒスイは上位の存在なので下位に下る事も可能ですが、本質である「精神の石」や「お守り」である事は忘れてはいけません。

民芸品の要素を加えるにも「ぐい呑み」レベルにし、雑貨の要素を加えるにも「根付け」レベルで止めるべきでしょう。(どちらも工芸品を兼ねている品なので)

常に精神文化(お守り)の要素を大切にして、今後も人の傍にあり続ける存在として繋げていくべきだと考えます。

そんな私達の活動を「生きている限り見続けたい」と、願ってくれる人と出会えれば最高です。(近い将来、唯の傍観者では、見続ける事は不可能となっていくでしょう)



話は変わりますが、神玉工房のトップ画像をアレンジしました。
トップ画像の奴奈川姫が「何故、天津神の力を行使しているか?」は、私にとって奴奈川姫が「最高の巫女」だからです。
きっと八千矛神(建速素戔鳴尊という説も)が、この奴奈川の地を訪れた理由はヒスイだけで無く、奴奈川姫の巫女としての能力を必要としたからなのでしょう。
奴奈川姫はヒスイの「守護者」として森羅万象の力を体現する、そういった力が在ったのだと思っています。

なので今度は、国津神バージョンのデザインもしていきます。(神玉の国津神が仕上がった後の話ですが…)

かなり個人的な意見なのですが、出雲で表向き翡翠が流通していないのは、碧瑪瑙の立場が無くなるという理由だけでなく「翡翠の品だけあっても力を行使できる者がいない」って事が主な理由のように思えます。
出雲大社の勾玉は、備えた者が奴奈川姫と一緒にいる事で発揮される加護だったのではと考えます。(翡翠としても文化財としても、国宝である事は変わりません)
2013年03月27日
久しぶりに現実の事を書きます。
現実の事は同じようなことを繰り返し書きますので、興味がない人や飽きた人は読まないで下さい。


人それぞれに大切な存在があるかと思います。
そこには特別な感情が存在し、自分を構成する「何か」が在るのだと考えます。

そこでいつものように色々と考えてみました。

まず、糸魚川にとって大切な存在は何でしょうか?

多分、まちとしては「観光地という存在」にする(戻して行く)事を望んでいるのだと思います。
糸魚川が観光地として成り立つ為に、最も必要となる存在…、それは「フリーのお客さん」です。
フリーのお客さん無しでは、どれだけ団体客を回しても「借金の利子を払い続ける」だけで終わります。
理由は簡単で、利益が低く、その為にサービスが劣化し、結果的にリピーターが生まれないからです。

やがて団体客の食事はジャンクフード化し、時間に縛られる事で観光としての自由も無く、せっかくの糸魚川の良さは伝わらないでしょう。(既得権益にどっぷり浸かったルートだし…)

ここで認識する必要があるのは、フリーのお客さんは「別格」だという事です。
きっと差別とか言われるかもしれませんが、一緒にできるわけが無いんです。

自ら糸魚川に訪れ、観光し、宿泊し、ヒスイも購入する。
今の世の中で考えれば「絶滅危惧種」と言っても過言ではない気がします。
こういった人達がお金を有益に使ってくれるのですから、お抱え運転手なみのサービスをしても良いように思えます。
これを実践しているのは、個人規模の民宿やペンションで、その人達はお客さんに正面から向き合っています。

もっと、こういった人達から学ぶべきだと思うのですが…。

公僕は税金で生きてるから見栄を求めるのは分かりますが、見た目が派手な団体客だけでは観光地として成り立つ事は不可能です。(バブルの時期ですら不可能だったのですから…)
外に向けてのパフォーマンスだとしても、もう騙される時代じゃないです。

フリーのお客さん在って、初めて観光が成り立ちます。
(団体を入口として考えているのでしょうが、今のツアーでは引き金にすらならない)


これはどんな商売でも同じ基本であって、私の仕事で当てはめると「卸」が団体に当たります。(ようするに団体客=卸業者ですね)
これを続けてしまうと、一時的にはお金は入ってきますが、時が経つほど自分の首を絞める事になっていきます。
守るべき存在が何なのか、これを理解していないと志を繋げていく事など不可能です。

では他に方法がない場合で、条件の悪い卸をせずに「どうやって乗り越えるか」と言うと、別の仕事をすれば良いのです。
私の協力者の人達も、別の仕事をしながら創作活動をしています。

人によっては「趣味の領域」として馬鹿にするでしょうが、結果的に「価格の破壊」も「志の劣化」も起きません。
創作とは「ある程度の安定」があれば行えて、作品を生み出す事が可能です。
ハッキリ言って、よっぽど趣味の人達の方がモラルがあります。(無い連中もいますが…)

逆に「この仕事一本で生きる」と言うのは格好良いですが、執着するあまり「背に腹はかえられない」って状態になり、何を守って行くのかさえ分からなくなって行きます。
現在はそういった「担い手モドキ」が多く、ヒスイの領域が壊れている理由もそこにあります。(これが消耗品である場合は、執着して大量消費に向かうのは仕方がない事なのでしょうが)

この領域が一生の仕事として成り立っていたのは、遥か昔の事なのでしょう。
現代のシステムでは「共有できない個体能力」は僻みや嫉妬しか生み出さないようです。(日本のスポーツの現状を見れば一目瞭然、先進国で一番支援していない国ですから)
なので「見せ物」として共有する事が、多勢に対する唯一の方法となるのでしょう。

しっかし年金で生きてる暇な爺さん達が、望んで値を壊しているのは理解不能ですね…。
もしかしたら「大切な存在が最初から無い者達」なのかもしれません。(あるいは諦めたのか…)
そしてそれに寄生する初老…、これが繰り返されていくのでしょうか…。

糸魚川はジオパークじゃなくて、ジジパークとなっている気が…。(ちゃんとした年輩者もいますけどね)
ちなみに、この仕事をしていると暇な爺さんの話し相手をする事があります。
そこで始まるのが「昔は良い時代だった」という昔話、そして武勇伝…。(正直、紀元前の話ですか?と思わずツッコンでしまう…)


ヒスイにおいて糸魚川はこのまま「卸問屋の末端」という扱いで良いのだろうか?
糸魚川は「外から逃げてきた者」や「逃げ帰ってきた者」そういった中での乞食〜乞食予備軍がヒスイを扱う事を放置してきすぎたんだと思います。(昔は必要悪だったんでしょうが、もう現在では容認されない)
若干「あぶく銭で育った二代目の生業」って現状もありますけど…。(あと爺さん達の暇つぶしも…)

糸魚川ヒスイって「そいった者達の滑り止め」なのでしょうか?
そういった者たちに消費される為に在るのでしょうか?

ジオパークによりヒスイの管理を強化するのは良いですが、同時に人の管理も強化すべきなのでは?
もう「誰がそうなのか」が分かっているんだから…。(盗掘で警察に何度も捕まっている者もいるんだし)

後は新たな「外から逃げてくる者・逃げ帰ってきた者」を把握して、ヒスイに近づけなければ良いだけのように思えます。
市場が濾過された為、そういった若者が新規で現れる事は少ないでしょうが、団塊の世代はやりかねない。

糸魚川市は福利厚生が充実しているそうで「外から逃げて住み着く者がいるので困っている」と、糸魚川市民も言っています。(一般移住者では無く、殆どが市民として税金を納めていない者達)
こういう人達は、元の国(県)へ強制送還するのが得策でしょうね。

この人達は「弱者」でも無いし「ホームレス」でもありあせん。(乞食とホームレスは違う)
全てが「モドキ」であり、必要最低限である「束縛」からも逃げている者達です。

お金を必要とするなら「束縛」に向かう必要があって、皆が羨む「自由」だけで生きていけるほど、この世界は単純ではありませんよ。


念の為に書きますが、何も団体客や卸業が悪と言うわけではなく、バランスが大事で「主力とすると破滅する」って事です。
消費していく存在では無いので、一つ一つを大切にする事が絶対条件となります。(ヒスイのような存在を大勢と共有した場合、価値は薄まり物だけが消費されていきます)

糸魚川を観光地としたいのなら、過剰に団体客に頼らず、個々の旅行者に「いかに訪れてもらえるか」を考えた方が良いかと思います。
ちなみに宣伝する側が「明確な糸魚川の魅力」を認識していないと、ガキの使いで終わります。

間違いなく言える事は「ヒスイが絶対的な魅力」って事で、後は付録みたいなものです。
ゆるキャラとかに力を入れるのも良いですが、そもそもに「特色のないまちの苦肉の策」なんだから、糸魚川は王道であるヒスイをちゃんと高めていく必要があります。

しかし規模が大きすぎると、どうにも成らない事もあるんですよね…。(現在の観光地が成り立たない理由は、幾つもの要因が重複していて複雑になりすぎてる)
今更どうにもならない…、そんな現実は今の日本(世界)には山ほど在りますし。

糸魚川市に出来なければ誰かがやるしかない…。
ヒスイを最小限の消費で済ませ、劣化させず、古代人の価値観をそのまま創作で体現しうる存在…、そういう人が一つの時代に多く生まれ活動したのなら、全世界に誇れる日本の古代文化を示せるのかもしれません。
そうすれば、同時に糸魚川へ訪れる人も増えるのだと思います。(待ってられないでしょうけどね…)


今回の結論は「自分が認めた存在くらい、最後まで支えてみせろ」って事になりますね。(ちょっと話がまとまってない気が…)

男は「30歳にして立つ」と言い、「40歳で迷わず」と言います。
40歳になるまでに、迷わない生き方を完成させなくてはなりません。(40歳は初老だし)



最近考えるのですが「価格競争」って何を競っているのでしょうか?
文字道理に考えれば価格を競っているのでしょうが、競争というのだから勝敗があるはずです。
で…、何をもって勝ちなのでしょうか?
安く売るのが勝ちなのか、高く売るのが勝ちなのか、適正価格で売るのが勝ちなのか…。(歴史あるオークションとは明らかに違う)
売る側と売る側の競争なのか、売る側と買う側の競争なのか…。

純利益を多く出せる売り方が勝ちなのだとすると、仕入れを限りなくゼロに近くする必要があります。
そうなったら「拾ったものをそのまま売る乞食商売」が勝ちになるのでしょうか?
人を奴隷として働かせ、稼ぐ商売が勝ちになるのでしょうか?
どんな売り方をしても利益が出れば勝ちなのでしょうか?

競争というからには明確な基準(ルール)があるはず、もし無いのならこれはもう、競争という名で隠した「ただの呪い」ですね。
何でもかんでも競争という文字を付けて、正当化しないでもらいたい。
2013年03月17日
ibitsに新しく「奴奈川の玉匠」の玉作工人さんが協力してくださる事になりました!
これによりギャラリーとしての総合力が増すことでしょう!
これをきっかけに、純粋に創作活動を目指す人達の励みになると嬉しいです。

玉作さんは私にとって「揺籃の師」であり、今回の縁をとても感謝しています。
今後は活動を再開されるので、青舟さんと同様にお互いを高め合う関係を築ければと思っています。

作品はどれもオーダーメイドで、更に完全手作業で行っているとの事です。
徹底した拘り(制限)、容易に真似できるものではありません…。

ご自身のHPには、数々の作品を閲覧できるようになっています。
悠久の時に思いを馳せる時間を、堪能できるかと思います。


私が望み認める本物とは「自身に制限を持った人」になります。
それと合わせて自分の世界をある程度、表現できる美的センスを必要とします。
当然ながら自分が何者なのかを明らかにし、表でも活動できる人が必要となります。
要は「どこの馬の骨とも分からない者」とは付き合えないわけです。


この多くの人が「必要としないであろう存在」を作り続け、そんな世の中にでも所有を求める人がいて、縁が導くままに出会う奇跡はとても神秘的だと感じます。
つい先日もその出会いがありましたので、尚のこと強く感じます。

人智の及ばない領域は確かに在って、共振するかのように強く結びつく、その現象を必然のように認識できるのだから、人間て本当に不思議な生き物だとつくづく思います。

今後もゆっくりとですが、志を共有できる人達と協力しあって骨組みを作っていきたいと思います。
2013年03月07日
ヒスイでibitsロゴを制作したストラップが仕上がりました。
自分が作った品には、全てロゴを入れていきたいと考えて色々と試してきましたが、ヒスイで制作する事が一番相応しく、コストも少ない事が分かってきました。
結局、小規模な仕事なので「自分が動く事が利益になる」これが基本なんですよね。

ケータイがスマートフォンに変わっていく世の中で、ケータイストラップの用途は見込めませんが、バックや財布などに付ける用途は残っています。
どういった使い方があるのかを示すのも、表現の一つなので追々提案したいと考えます。

今回仕上がった品の簡単な紹介をしていきます。
カケラは幾つかの名称に分けて、そのヒスイに合うコンセプトで仕上げています。

叢雲のカケラとなる品


雨雲のような模様と色調のヒスイのカケラを使用したストラップです。
灰色は色として人気が低く、ありがちな色として認識されてしまいがちです。
でもその中でも魅力のある模様や、一つ一つ違った色の魅力を感じてもらえたらと思い制作しています。
今回のヒスイは透明度も高く、光に透けます。
灰色は銀色としても捉えられ、シルバーと合わせるとより効果が出せます。(そっちの作品も作って行きます)


芽吹のカケラとなる品




雪の下から芽吹くような模様と色調のヒスイのカケラを使用したストラップです。
白地に明るい翠が綺麗なので、スタンダードなヒスイとして認識されています。
光を受ける事で、より翠が膨張するので立春を表現するにはうってつけです。
冬には暖かさを、夏には涼しさを感じさせてくれると思い制作しています。
このタイプを海岸で拾うには、かなりの運と労力が必要でしょう。


万葉のカケラとなる品




緑と翠の葉が交るような模様と色調のヒスイのカケラを使用したストラップです。
芽吹のカケラと母石を同じとする、1ランク上のヒスイとなります。
その夏を想わせる彩は、木々のざわめきを感じさせ、風をも表現しているようです。
まさに「万葉」の言葉が似合い、古代へ思いを馳せる浪漫のあるヒスイです。
透明度もある程度あり、夏に一番輝くヒスイとなるでしょう。


翠雪のカケラとなる品





冬の終わりを想わせる模様と色調のヒスイのカケラを使用したストラップです。
抜群の透明度があり、雪解け水のように澄んだ緑色をしたヒスイです。
ガラスのような質感をしていて、暑い日には涼を感じさせてくれます。
キメが細かく磨く前では、ヒスイ輝石があまり見らない角砂糖のような質感です。
ヒスイのグレードで見ると、高い方に入るヒスイのカケラです。


森緑のカケラとなる品


朝靄の森を感じさせる模様と色調のヒスイのカケラを使用したストラップです。
全体が淡く緑に染まっていて、モヤモヤとした景色が山脈をも感じさせてくれます。
透明度は高くないですが、外では全体で光を膨張させて発色している印象を与えます。
萌立つ森林のように、これから始まる事への期待感を膨らませてくれます。
芽吹や万葉とは異なる緑が、違った魅力を発しています。


彩雲のカケラとなる品



日の光に色づく雲の模様と色調のヒスイのカケラを使用したストラップです。
遠目では白色だけに見えますが、すごく淡い翠がフワッと入っています。
光に透かす事で、より翠を感じる事ができるので「彩雲」に相応しいヒスイだと感じます。
このヒスイは芽吹と同じ母石であり、白地を雪と見るか雲と見るかで分けています。
模様が多く翠が淡いカケラを使用し、奥に隠れている美を見出す品となっています。


どの品もヒスイのibitsロゴを付けています。
このロゴは私自身には重要ではありますが、お客さんとしては必要ないのかもしれません。
ですが自分の品に愛着を持たせる為にも、こういった存在は必要だと感じています。

独立は自身で立つ事ですが、歩き出すには周りの支えが必要となります。(一人だけで進むだけなら独歩・独走として表するでしょう)
前に進む為に、どれだけの人に支えられるかが今後の課題となりそうです。

我を通しながらも支えられる…、それは流石に無理があるでしょうけど…。
2013年02月27日
古代の遺産である大珠や勾玉は範囲が広く、どこまでを大珠とし、どこまでが勾玉とするのかはハッキリと区別されていません。
なので私の作品では大珠と称されている品を、大珠と垂飾に分けて表現していこうかと考えています。

垂飾となる作品





主な違いとしては、「大きさ」や「形」によって分けられるかと思います。

大珠と言うのだからまずは大きさが一番大事だと思うし、玉や球では無いので楕円型のスタンダードな形が理想的だと感じています。
例外として、大きく台形に近い形も大珠として制作していこうと考えています。
大きさと同等に需要となるのが「お守り」と成る存在として作る事だと感じています。
サイズは3cm以上を基本とし、穴の位置も中心よりやや上くらいを基本とします。

垂飾となるのは「小さく丸みも少ないアクセサリー」となる、手軽で意味合いの少ない首飾りとして行こうと考えます。
一番の違いはサイズになりますが、大きくても角を持つデザインは垂飾として、あくまでも装飾品としていくのが特徴となります。

結局、大珠も首飾りとすると垂飾とほぼ同じ姿になってしまいますが、トップの部分を大珠と呼ぶのかで違いを出せると考えます。

でも「何故分けるのか」と疑問に思う人もいるかと思いますので説明しますと、私にとってイザナミとなる存在を普通の装飾品と区別する為です。
なので私の中での区別であり、古代遺産を区別しているのではない事を理解して下さい。

垂飾はトップでも販売しますので、自分好みの首飾りを作ってみても楽しいかと思います。(大珠は大きく意味合いが強いので、アクセサリーとしては使いづらいかも…)

今回紹介した品や、前回のイザナギ(勾玉)などは物産センターに出品しますので、そこで直に見てもらえると嬉しく思います。
毎月ブース代を払っていますので、神玉工房と明記してあります。(分からなかったら店員に聞いて下さい)
ネットに出していない品もありますので、糸魚川を訪れた際にはお立ち寄り下さい。


正直な話、品が行ったり来たり、お金が行ったり来たりする事だけを望む場合、糸魚川でヒスイ加工の仕事をする意味なんて殆どありません。
都会へ行って制作販売していた方が、よっぽどお客さんが来ることでしょう。(生活費は高くなりますが…)
糸魚川でこの仕事をする意味合いは、糸魚川に訪れる「ヒスイ好きのお客さん」を増やし、ひっそりとした伝統文化を共有し、海での浪漫を感じてもらい、糸魚川という地域の「神秘性」やヒスイにとっての「聖地」としての重要性を認識してもらいたいという思いがあるからです。(遠すぎて訪れが困難な人には、作品で伝えられるよう努力しています)
仮想空間ではありますが、ギャラリーとして「見るだけで満足する人」にも対応していきたいと考えています。(ネットは販売も兼ねています)
ギャラリーとしての収入はありませんが、大切な事は「活動を見てもらう事」であり、この領域が必要だと捉えてくれる人々の発掘を目的としています。

また現実的な問題として、保護を担う者よりも「活用を求める者が多すぎる」という事実があり、今後は保護を担う加工施設の「再生と維持」が絶対に必要となります。
全くバランスが保たれていないので、まずは各々に保護となる規制を構築する必要があると考えてます。(糸魚川ヒスイは他の資源と違いすぎる部分があり、それに伴う責任も大きい)

それを個人のレベルで高めていき、それと同時に周りの底上げに貢献する事が必要な事だと考えます。


人というのは、世界の半分が幻想(共同幻想)で成り立っていて「思いの強さ」によって自身の細胞を使いこなす事も可能です。
今流行のナチュラルキラー細胞なるものも同じで、幻想世界の「思い」が現実世界に反映され、結果として自身の生存に大きく関わってくるわけです。

これは人の幻想自体が根源ではなく、自身の能力を引き出す術を原始の時点で、人が自然から学んだ事が大きな要因となっています。
それが遺伝子として子々孫々まで繋がれている「人と自然の絆」なのです。(すでに自律神経みたいなもので、魂の琴線にふれると自動的に発動する力)

もし人が自分自身を使いこなせているのなら、自律神経で動く心臓を自身の意志で止めたり、動かしたり自由に出来るでしょうし、病気なんて存在は一切無くなるでしょう。
今現在、自身と言える存在は自我であり「魂」と呼ばれる存在となります。
その魂で発した思いを精神や肉体に、いかに影響させるのかが「自分という人間」を使いこなす唯一の方法なのだと考えます。


心に余裕がない時代には目先の魅力しか容認できず、そういった品(等価交換が可能であろう品)を求めて行きます。
それは間違いでは無いのですが、あまりにも「面白くない」です。
結局は「面白いと思えるほど心に余裕がない事」が原因であり、この大きな要因は不景気によるものです。
しかし、そんな中でも「心を豊かに保てる人達」も存在しますので、その少数の人達に向けた創作活動も必要となると考えています。
伝統を守りながら、伝統にとらわれない、それが継承するって事だと私は思います。


毎回、似たような事を書きますが、それだけヒスイにとっての「現状が進んでいない」って事でもあります。
状況が進むまで同じ事を書き続ける事が、大切な継続力に繋がるのだと考えています。



ちょっと話は違いますが、日本のお札は完成度が高すぎる気がします。
あれでは交換券としてのレベルを超えている…、ユーロ札レベル(ちょっと綺麗なチラシ)くらいに止めないと「目で価値を判断する事に慣れた日本人」には逆効果に思えます。
どうしても「使ってこそのお金だ」という領域を超えている気がするんですよね…。

だからってわざわざ印刷のレベルを下げるのもどうかと思いますが、もう日本は最高クラスの印刷技術がある事は他の国々も理解しているでしょうから、もう少し考えた方が良い気がします。(普段使い用のお札を作るとか…、そう言えば二千円札、あれは一体なんだったんだろうか?)
良く見えすぎて「使う事を躊躇う事」にも繋がっているように感じます。
その代わり硬貨は、ユーロの硬貨のように高レベルの水準にした方が良いかと思います。

これも以前に書いた気が…。
2013年02月17日
前回は珠玉の企画を書いたので、今回は完成したイザナギ(勾玉)の紹介をしていきます。

伊邪那岐「萌芽」(ほうが)


白〜灰色の地に明るい翠が全体に広がるヒスイで伊邪那岐「萌芽」を砥ぎ出しました。渓谷の雪解けに芽吹く命を映し、始まりの喜びと成長の期待を表現しています。

形はスタンダードにして、芽そのものをデザインした作品となっています。
頭の部分に濃い萌黄色が入るように加工し、そこから広がっていく淡翠が渓谷の春を感じさせてくれる作品に仕上がりました。
所々に入る石目も岩肌に走る断層として見ると、自然の創った造形美として受け取る事ができるかと考えています。
それに幾つもの工程を耐え抜いた石目なのでかなり堅牢、作り手としてもヒスイに対し感謝しています。


伊邪那岐「玄斗」(げんと)


黒〜灰色の地に緑色が流れるヒスイで伊邪那岐「玄斗」を砥ぎ出しました。龍のように全身を流れる緑色が、武人に受け継がれる猛々しい血脈を表現しています。

お尻の部分を持ち上げた形にして、勇ましい士魂をデザインした作品となっています。
流れる緑が多く入るように加工し、黒い炎を宿す鎧を纏い、その身に龍脈が猛々しく流れる武士を感じさせる作品に仕上がりました。
所々に入る白く流れる石目を熱気・闘気として見ると、まるで自分に合わせて呼応している命として受け取る事ができるかと考えています。
幾つもの工程を耐え抜いた堅牢な鎧として、人に降りかかる災難からも守ってくれると感じています。


伊邪那岐「青海」(おうみ)


全身を青〜水色に染めるヒスイで伊邪那岐「青海」を砥ぎ出しました。波を想わせる斑模様と色彩は、美しくも激しい糸魚川の海を表現しています。

頭とお尻の部分を尖らせる形にして、満ち引きする波をデザインした作品となっています。
波を感じさせる模様が入るように加工し、時には穏やかな波として、時には激しく打ち寄せる糸魚川の海を感じさせる作品に仕上がりました。
所々にうっすらと入る石目は、より波を強調している景色であり、満ち引きを繰り返し生命を育む母なる海として受け取る事ができるかと考えています。
幾つもの工程を耐え抜いた堅牢な肌は、光に照らされて輝く大海原を感じさせてくれます。
(ヒスイの青は空と見るよりも、海と見る事の方が相応しく思えます)


伊邪那岐「神蛇」(かんなぎ)



灰色の地に黒色が流れるヒスイで伊邪那岐「神蛇」を砥ぎ出しました。蛇の鎌首を連想させるその姿は、遥か古代、奴奈川姫と出会った大国主が所有した勾玉を表現しています。

頭を丸く作りお尻を持ち上げた形にして、蛇の鎌首をデザインした作品となっています。
極力、顎の部分を削り込んで加工し、敵意に対して一歩も引かず、敵対する者を威嚇し恐怖させる大蛇の意志を込めた作品に仕上がりました。
大国主が所有したとする勾玉をイメージし、奴奈川姫が所有する巫(かんなぎ)との運命的な出会いを強く表現していきます。
なので本当の意味で完成するのは、奴奈川姫の大珠である巫(かんなぎ)が仕上がった時なのかもしれません。
(もし八岐大蛇が八千矛神の一部とするならば、この勾玉を八つ備えていたとして考えても面白いです)

勾玉の加工としては難しい部類に入るデザインですが、神玉を作るよりは行程が少なくて助かります。
でもシンプルなだけにバランスは難しく、普段よりも全体を見ながらの研磨が必要となってきます。

後、糸魚川のマスコットである「ぬーな」のデザインは勾玉を持っていますが、あれは大国主に出会った後の奴奈川姫として私は見ています。
糸魚川で出土しているのはヒスイの大珠なので、元々それが奴奈川姫の所有した品の原型として計画していこうと考えます。(その方が糸魚川としてもメリットがある気が…)
あまりに「ヒスイ=勾玉」が先行しすぎて、地域文化と矛盾している気がするのは私だけなのでしょうか…。



異玉・生玉・神玉と同様に、珠玉にも専用の箱を用意しました。
蓋の裏には共通で神玉工房と入れてあります。
人によっては箱は必要ないのでしょう、しかし作り手として完成度を高める為には、どうしても必要となる付加価値として用意しています。(私が制作した珠玉だけの箱で、他の作り手の珠玉には、それぞれの納め方があります)



全く話は変わるのですが、イザナギのナギを「蛇」とするなら、イザナミのナミは何を意味するのでしょうか…?
イザは共に「誘う」を意味しているとして、イザナギは「蛇を誘う」と考えられます。
もしイザナミのナミが「波」とするならば、この二人の始神は出雲に深く関係している神として見ることができますね。(今更ですかね…)
蛇を誘い、波を誘う、他に当てはまる地域があるのだろうか…。
蛇と波だけを考えれば沖縄とかもあるのですが、出雲ほど神秘的な伝承(蛇が海を渡ってくる伝承)も残っていないし、無理がありそうです。(波だけを考えれば海岸沿いの地域すべてが当てはまる…)

まぁ、イザナまでを「誘う」とするならば、ギとミしか残らずしかも多くの意味を持ちすぎてキリがなさそうです。
さらにイザナギまで、イザナミまでを「誘う」とすれば、これ以外の意味は「込めていない」って事になりますね…。

ともあれ、まだまだ日本神話には謎が多いので、この浪漫は終わることは無いでしょう!
2013年02月07日
珠玉を新しく作るに当たって、ちょっとした物語が必要かと考えます。(作品に深みを出す為と、作家として古代の模倣ってだけでは創作性が無さすぎる…)

まずは大珠(イザナミ)の名前をアイヌ語で表現しようかと思います。
大珠は北陸の文化だと私は考えていますので、アイヌの文化が最も相応しいと感じ計画しています。

○大珠(イザナミ)
伊邪那美「冬」(マタ)  白
伊邪那美「岩」(シュマ) 黒
伊邪那美「草」(キナ)  翠・緑
伊邪那美「雨」(アプト) 青
伊邪那美「花」(ノンノ) 紫

ここには入っていない色もありますので、相応の名を付けて完成させたいです。
デザインの固定は無く、色や模様で名を分けようかと現在は考えています。(やっぱりアイヌって格好良い!)

次は勾玉(イザナギ)の名前ですが、こちらも色や模様で付けていきたいと思っています。
こちらはアイヌ語は使わず、倭を意識した作品になっていくと思います。

△勾玉(イザナギ)
伊邪那岐「白礼」(はくれい)  白
伊邪那岐「玄斗」(げんと)   黒
伊邪那岐「萌芽」(ほうが)   翠・緑
伊邪那岐「青海」(おうみ)   青
伊邪那岐「桜空」(おうぞら)  紫

こっちも他の色がありますので、相応の名を付けて完成させたいです。

また例外として、この二つの存在に共通する名前を付け、専用デザインで表現しようとも考えています。

大珠 伊邪那美「巫」 (かんなぎ)専用デザイン
勾玉 伊邪那岐「神蛇」(かんなぎ)専用デザイン

この二つのデザインモデルは奴奈川姫と大国主の「二人が所有した珠玉」を表現しよと考えています。
私の考えでは、奴奈川姫が所有したのは大珠(イザナミ)だと思っているので、大国主の訪れにより「同じ名の存在が出会った運命」を強く表現したいと考えています。

また、大国主の勾玉(イザナギ)デザインですが、出雲の定型ではなく「蛇の鎌首」を表現したデザインを考えています。(古代の遺産にもあるワラビやコゴミのようなデザインです)

糸魚川で「奴奈川姫(巫)と大国主(神蛇)が出会った伝承」をより分かりやすく、誰にでも理解できるように日本神話に合わせながら表現していけば、外国人にも伝わるのではと考えます。(ここでの大国主にはオオナムチも含めています)

伊邪那岐「萌芽」(ほうが)


伊邪那岐「玄斗」(げんと)


伊邪那岐「青海」(おうみ)


伊邪那岐「神蛇」(かんなぎ)


こんな感じで、古代の宝物を表現してみても面白いと思い計画しています。
勾玉(イザナギ)の試作は、仕上げを残しているだけで近々完成しますが、大珠(イザナミ)の試作はもう少し先になりそうです。

珠玉の作品は、大きめのサイズで作りたいと考えています。
小さいとアクセサリーの意味合いが強く、お守りの意味合いが弱くなります。
作品としての存在感も弱くなるので、ある時は腰に下げるような根付けのように、ある時は神棚に祀れるお守りのように存在感を強くして表現したいと考えています。


一応、明記しておきますが「奴奈川姫と大国主が所有していた品はこれだ!」と既成事実にしたわけではなく「私の考える物語の主人公の話」だとでも理解して下さい。

歴史の主導権を持ちたいわけではなく、自身の表現を深めたいってだけです。(古代遺産での主導権の奪い合いなんて興味がありませんので)

私はヒビや石目などを美として捉え、人気の低いヒスイでも魅力を引き出す事ができる作家を、一流のヒスイ作家と呼ぶのだと考えています。
更に欲しい物がなくなった現代人ですら求める、悠久の時を越える「不滅の宝」を誕生させる事ができれば、その存在を超一流と称するのだと思います。

その存在に私がどれだけ近づけるのか…、それを考えるとワクワクして生きている意味を見出せた気がします。


競い合う事、その事自体は「人としての成長の一部」である事は間違いないのですが、それが成長の全てではありません。
何度も書きますが「それが必要な時期がある」ってだけで、いつまでも競い合っていたら新たな命にまで恐怖して排除しかねません。
自分以降の発展を許さず、残りの人生を保身に費やし、お山の大将・裸の王様として頭を狂わせながら生きていく事になるでしょう。
そういう者は軽蔑されて、死後も名誉を回復する事は不可能でしょう。

多分、競争をいつまでも続ける人というのは、「一度も一番になった事がない人」か「義務教育の期間に十分に競い合っていない人」なのだと思います。(普通は飽きるはずなんです…)

今後も成長を望む人達に願うのなら「過去の偉人・古代遺産」を見本とし、勝ち負けではなく、どれだけ近づけたか、どれだけ近づけるのかを望んで頂きたいものです。(経済成長は身近な存在と競い合うしか選択肢は無いのかもしれません…)

常に高みを目指し、今は亡き偉大な先人を見習い、何を学ぶべきかを追い求めて生きると、人はもっと幸せになれるのかもしれませんね。
2013年01月27日
ヒスイの原石(主に漂石)の理想的な展示方・換金方を考えてみました。
簡単に言ってみれば「不動産の概念を少し取り入れる」って方法です。

まず展示場を用意し、所有者の名前を表記してヒスイを展示します。
その施設のみでの販売や購入を認可し、持ち主が変われば名前も変えていきます。

重要な事は「ヒスイ自体は持ち出せない」とする事です。
要は「展示する権利と販売する権利だけを持たせる」って事ですね。

結局、お金が回れば良いだけの人達もいるのだから「ヒスイは動かず消費せずにずっと展示してある」という状態にしておけば良いのではないだろうか?
その施設での販売手数料は施設の運転資金にでもすれば良いかと思います。

しかし例外として「自己顕示・自己満足」として購入する人もいるかもしれませんので、その場合はその人が死ぬまで完全に価値が守られる事でしょう。

これにより糸魚川から外へヒスイ鉱物が出る事も少なくなるだろうし、何よりも「守ろうとする者」と「換金目的の者」とが区別できます。(頻繁に名前が変わっていけば換金目的と見られる)
なんだか今問題となっている「名誉をとるかお金をとるか」で早期退職を悩む教職員(公務員)みたいですね…。
換金した事で地元からは軽蔑されるかもしれませんが、結果的に守られるのだからそこまで非難はされないように思えます。(要はそのお金を「何に使うのか」で決まるのだと思います)

どうしても「未加工のヒスイ鉱物を公然と換金したい人達」には、こういった方法もあるのでは無いだろうか…、と考えてみました。(その施設で同時に加工品も販売すれば人が集まるように思えます)

しかし「条件付きの所有」なのでお金の回りは良くないでしょうね…。

まぁ、本来の目的は「展示して未来に残す事」なのでサブ的な意味合いとなりますが、「換金が可能」としなければ興味を持たない者が多くいる事も事実なのです。

また、よっぽど立派な建物で展示しなければ自己顕示欲を満たす事ができず、出展者が集まる事はないでしょうね。(共有するギャラリーとしての魅せ方も大切になるので、空間デザイナーみたいな人が必要になるでしょう)

そう考えると糸魚川では、もうヒスイ王国館かフォッサマグナミージアムでしか不可能ですね。(責任の観点から行政関連施設である必要がある)
ああいった施設をもっと使いこなせないものだろうかと本気で思ってします…。

特にフォッサマグナミージアムで私的に疑問なのは、新鉱物を探すのに必死になっている事です。
新鉱物とは人間社会では知られておらず名前が無いってだけで、発見以前からもずっと在り続けた鉱物です。
名前を付けて支配したい気持ちも分かりますが、自然界が創り出した存在なので完全な支配は不可能です。
それに純粋な研究心からの発見ならば、研究者らしい名前を付けた方が良いように思えます。(新鉱物は独立した機関か、独立した学者が調べれば良い事だし)

とにかく、この二つの施設が再生しない限り、糸魚川での翡翠文化の再生は大きく進む事はないでしょう。

ハッキリ言って「保護するべきもの・活用すべきもの」の優先順位は決まっていて、まず地層とかは保護するまでもなく誰も壊しませんよ。
理由は「興味がある人が少ないから」でお金に直結しないので壊れようがないんです。
壊されるとしたら「多数が興味あるもの」で、お金に直結する存在です。

それに世界が求めているのはインディアンジュエリーに繋がったような独特の文化であり、歴史的にそれらは保護しないと「換金」によって壊される事が歴史的にも証明されています。

残念な事に糸魚川(日本)では、翡翠文化は途切れた時代(表向き)がありますが、虫川での瑪瑙工場から繋がる「意志を刻む魂」は糸魚川に今も健在です。
そこからの繋がりを大切にして独特の文化を開花させていけば良いだけです。
糸魚川では「ヒスイと呼ばれる存在に意志を刻む事を異常なほど大切にする」という習慣を根付かせて行けば良いだけの話です。(他鉱物での加工も含め)

自然によって海からヒスイ(宝石)が打ち上げられると言う神秘的な自然現象があるのだから、自然と融合した人としての神秘性も大切にしていく必要があるのです。(これを書くのは二回目だったような…)

問題は作り手を育成するに当たって「誰が協力してくれるのか?」です。
まず地元企業の協力は得られない事は六年前から断言されています。
では行政が作り手の育成を支援してくれるのでしょうか…?

市が駄目なら県で、県が駄目なら国で、国が駄目なら世界で、世界が駄目なら人種を越えた「魂の共有者達」で守る以外に道は残されていません。(最終的には自身で守るしかないんですけどね)

もっと深刻な問題は地元の若者で「ヒスイ及び加工に興味のある人がいない」って現実なんでしょうけどね…。


と、こんな感じで1月は理想を書いてみましたが、どう考えても「理想を現実に近づける為のシステム」が必要となりますね…。(現実的に市場が澄みすぎても上手くはいかないし)
結局は、かなりの財力と権力がある独裁者でなくては、短時間で大きな組織や仕組を動かす事は不可能なんですよね。

まずは考えを整理して「自分ができることをして行こう」と再認識できました。

どんな状況になっても「作品を創り続ける事」これが私のするべき事なのだと思っています。
そういう人間が活動して行けば、かなり小規模ながらも「古代からの絆」は繋がっていくと信じています。


※只今、大きめの勾玉(イザナギ)を制作中です。


勾玉を久しぶりに加工していると「欲しい勾玉が見つからなかったから自分で作った」という初心に戻った気分になります。
今後は珠玉ロゴも新しくして、違ったデザインの勾玉(イザナギ)を制作しています。
同時にいろんな大珠(イザナミ)も作ってこうと思います。

自分が欲しい品を作っていけば、最終的な作品の居場所は保証されています。
常に誰かに肯定され未来に繋がっていく、そんなカタチを求めて活動して行こうと思います。(所有者が亡くなっても「かつて肯定されていた作品」として残ってほしい)

今後もヒビや石目を美と捉え、作品として媚びない品を作っていきます。
2013年01月17日
※この話は世界に呪い(のろい)呪い(まじない)が在るのだとしたらの話です。

現在の「限られた領域で喰い合うデフレ社会」は、古の呪いである「蠱毒」と同じ状況を成しています。
なので、その領域で作られた商品には僅かながら呪いを帯びていても不思議ではありません。
物が売れない理由は需要がなくなった事もありますが、人が本能的に感じ取っているのではないでしょうか…。

そんな状態の社会が良くなる訳がありませんし、今後もデフレが続くのなら、より呪いの力は増して行くでしょう。
もしかしたら「世界に呪詛を刻む事」を目的としている者が、世界にいるのかもしれません。
今の状況を利益とし、継続する事を望む側は必ず存在していますので。

この状況を打破するにはどうすれば良いのでしょうか…?

私が思いつく事は「毒を以て毒を制す」という考え方です。
要するに「呪い(のろい)には呪い(まじない)を以て対処する」って事です。

しかし、現実的に呪い(まじない)に相当する行動とは何なのだろうか…?
インフレに向かう全ての事になるのだと思うのですが、具体的には良く分かりませんね。

景気が気分の影響を強く受ける事から「楽しくなるような事」には間違いはないでしょうが…、昔ならば「お祭り」という行事で担えたのでしょうけど、現在は毎日がお祭りみたいな日常でもあるので効果は薄いでしょう。

何であれ「信仰心を煽る事」が大昔からの対策で、お金を信仰している現代人にはやはり「お金そのもの」をばらまくのが一番効果があるのでしょう。
しかし、お金が「人間社会における便利な交換券」と認識していないと、くだらない事に使わされる恐れがあります。
重要な事は「物と換える」って事で、根本が物々交換から始まっている事を忘れず、仮想空間のデータだけの存在に使うお金は最小限で良いです。

呪い(まじない)の領域も行きすぎれば問題が生じるので、バランスをとる事が重要な課題となるでしょう。
結局はどちらも毒、そう考えると「人間社会は毒で満ちている」って事になるのでしょうか…。(二つの毒の耐性を持てば関係ないでしょうけどね)

幻想社会がどんどん進んでいく中、人はそれに対応しきれるのだろうか?
人類が何をしたいのか、何をすべきかさえも分からなくなっている気がします。

一度、原点に戻って考えた方が良いのではと思う事があります。

今の人は「人を使う者・人に使われる者・自身を使う者」の三タイプが存在しています。
この三つは個体に少なからず同時に存在し、どの領域をメインとするかで生き方に違いが出ます。

これは自分で決めていく事が可能で、段階ごとに移り変わる事も可能です。
結局は「自分の選択次第」であり、その領域を選択したのなら相応の生き方をするのは当然となるでしょう。(別の領域に行くのなら相応の行動が必要となります)

現状の自分がどのタイプかを見定め、それを全うするも良し、段階を進めるのも良し、個人の自由ですが、何もせずに僻むのだけはやめて下さい。

とにかく邪魔、全く邪魔でしかない。(後が閊てるから、引退するなり独立するなりして道をあけて頂きたい)
こんな思いを女性は「何世紀も抱えていたんだな」と思うと同情してしまう。
しかし、その溜め込んでいた不満が力となり、女性が現在を大きく変えていくのは間違いないでしょう。
そして、その伸び代を使って、現在を担ってもらうしかないですね…。
でも「伸び代の限界」は在りますので、人はその先の事を考えておく必要があるります。

国民が増え難くなりますが、人類自体は増えているので地球的には問題ないか…。
この先、更に人類が増えて行くのなら身体のサイズを半分にする方法を考えた方が良いような気がします。
どうしたって「群れて生きる弱者」と言う割には身体がデカ過ぎますね。(ホビットくらいで丁度良い)


商売では「作る側・売る側・買う側」の三つがありますが、それとは別に「餓鬼」という領域があります。
要するに必要も無いのに「作りまくる・売りまくる・買いまくる」がそれで、一切満たされる事のない器の壊れた存在です。

餓鬼が存在しているのだから、もうこの世は地獄と同じって事ですね…。
呪いどころの話じゃないのかもしれません。

とにかく、人を子飼いにし使役する事しか頭にない連中に言いたい!「王族にでもなったつもりですか?」と…。
所詮は根っからの貧乏人、餓えに苛まれている人達です。
そんな人達に「鷹は餓えても穂を摘まず」って言葉を教えてあげたいものです。

時に人は「右」や「左」として例えられる事がありますが、右であろうが左であろうが人をひっぱく事は可能なんですよ。
重要な事は「よっぽどの事がない限りその選択はしない」とする意志が大切であり、それが人としての最大の証であるのだと私は考えています。


少し話は違うのですが、糸魚川のヒスイ関係者はジオパークに認定された重大さを理解しているのだろうか…?(ある意味、開国と同じなんですよ?)
どうも現場の人達(末端ですが)に危機感が無く、情報統制されている感がある。(ここは小さな中国みたいだ)
知ろうとしていない、思考が止まった人達だからかもしれませんが…。

これは「その人達にとってかつて無い危機」なんです、日本からも監視され、世界からも監視されるのですから。
今までのように癒着してどうにかなるシステムじゃ無くなるのです。
言い張って正当化される問題でもなく、今までやってきた事実が表にでるわけです。
もし「騙しが糸魚川の伝統文化だ」と断言したのら不当とは言えませんが、そんな低レベルの伝統文化なら守る必要もありません。

今後に起こる事は、そういった者達が一カ所のショップに大勢集まりだすでしょう。
持っている在庫をどうにか処分するため、真と嘘を混ぜながら販売していく為に。(その者が表に出る事はない)
人を騙すのに、真実と偽りを混ぜ合わせる事は騙しの常識でしょうし…。

今回、認定の更新があるようですが、取り消される事はまずないと思われます。
こういったシステムは、切り捨てるのでは無く「改善させていく」のが定石です。
条件付きの認定となり、次回までの改善を要求されるわけです。(簡単に言えば執行猶予みたいな感じです)

若い世代の罪でもないのにその罰を負わせられる…、全くこの世は闇に満ちていますね。
2013年01月07日
やっと糸魚川市がヒスイに対して少し動き出しそうです。(いいかげん待ちくたびれましたが…)
私は不本意ながらヒスイの領域においての「作れない側」の事も考えていましたが、これからは考える必要がなくなるでしょう。
答えは一つしかなく「真っ当な作る側の者」と協力しない限り、糸魚川での正当な商いは不可能です。(これ以外に選択肢が残っていない)

正直、「頭の中が成長しないまま老けていった連中」ばかりだと心底諦めていましたが、「適切に年を重ねた年輩者」が存在したのだと嬉しく思っています。
これは外的要因での強制的な現象なのかもしれませんが、それでも問題ありません。(歴史的にも外の人達の方が意識が高いのは証明されていますし)

ともあれ、まずは糸魚川市が認めるべき糸魚川ヒスイの担い手は、「作る側である事」が確定しました。(それも伝統文化を繋ぐ小規模な産業が望ましい、要は燃費の良い継承者が必要なわけです)

今後はもっと細かなルールを作って行くのでしょうが、結果的に私が望む「正当な領域」に成る事は間違いないでしょう。

そこで、これより先の「作る側の中での選別の必要性」を書こうと思います。(選別するほど本物がいませんけどね…)

私達が去年「未来を任せる政党や政治家」を選別したように、この先「未来を任せる糸魚川ヒスイの担い手」の選別が必要になります。(有権者に相当するのは、興味のある人だけですけどね…)
「一切必要がない」って事になると伝統文化の継承が行われないので、その結末が認められる事はないでしょう。(保護とは活用されている存在の規制であり、ほったらかしにする事を保護とは言わない)

以前に書いた「綺麗な水と濁った水」にあるように、現段階は濾過されて「作り手・売り手・買い手」の姿はハッキリと見えるステージとなりました。
そして最高の結果を出す条件は「高い商品力(作品力)・高い販売力・高い購入力」の三つが揃った時である事も明確になっています。
後は各々の適切な判断が、この領域を「高みに進める事」にも「どん底に落とす事」にも影響していくでしょう。
見るべきはその者の「魂」であり、それを見極められたなら劣化する事はありません。


※一応、糸魚川ヒスイを扱う者の選別をしない場合の事も書きます。

■糸魚川で選別を進めない場合
5年前に提案したように「業者ごとブースを分ける事」と「産地ごとブースを分ける事」がどうしても必要になってきます。
糸魚川では「ミャンマー産ヒスイを扱わない」となれば、業者ごとのみ分ければ良いですが、その分別がどこまで信用できるかは扱う業者次第です。
新しくなる前の物産センターでは、業者ごとブースに分かれていたそうです。

当時は業者の激しい抵抗にあいましたが、現在では必要性が認知され多くの人に求められているので、さすがに同じ結果にはならないかと思います。
私だけでなく、過去にブース分けを求めた人はいましたが、ことごとく却下されました。(社長ですら無理でした…)
この事で学んだのは「雇用されていては変えられない現状」で、「外からでしか変えられない現実」も知りました。

もしここで同じ結果になるのなら、もうこれは「どれだけ自分の扱う商品に自信か無いのか」と言う事を自己申告しているのと同じです。
もしかしたら「自身で扱っている商品の真贋すら分かっていない業者」もいるのではないでしょうか?
とにかく、あの業者ごちゃ混ぜの「隠れみの体勢」を変えないと信用は得られないでしょう。

これは「食中毒」と同じ事で、お店が食中毒を起こしてしまったのなら営業停止になるのは当然の事です。
責任の所在を明らかにして、堂々と販売していけば誰も文句は言いません。(別の文句は出ますがね)

後は作らない業者は海外で大量生産して行くので、糸魚川ヒスイの大量消費が問題となるかと思います。
海外に出すので「どっちの産業か分からなくなる事」も問題で、時にはヒスイをすり替えられる事もあるそうです。
こうなると糸魚川ヒスイの分析データを集積している鑑別機関に出して、一つ一つ分析してもらうしかないでしょう。(データの揃っている鑑別機関は準備してあります)

この場合、その判断を購入側にのみ押しつける事になるのは間違いないでしょう。
何であれ外でも闘えず、内でも正当に運営できない業者はどうにもならない。

糸魚川で「ミャンマー産ヒスイを扱う正当な理由」がどうしても思い浮かばない…。


■糸魚川で選別を進める場合
当然、糸魚川市民である事が大前提です。
担い手の資格としては「日本レベルで考える」か「糸魚川レベルで考えるか」で条件は変わってくるでしょう。
まずは糸魚川レベルでの資格を考えてみると、糸魚川での「伝統文化の継承」はそこまで古くなく(古代に存在した伝統が最近まで知られていなかったので)、最低条件となる事は物産センター内の「加工所での委託加工」になるのだと思います。
糸魚川で長く続いてきた事だし、基本が詰まっている作業でもあるし、ガラス越しに見ていれば加工が出来る人だって事が誰にでも分かるし。(現在は正常に機能していないので、早急な対応を求めている最中です)
海岸転石の鑑定もするので、鉱物の知識と古代の知識もある程度必要になるし、一般のお客さん相手の仕事として、常に「保護」の責任を持つ事になります。
後は「生きる姿勢」でしょうね…、一番重要だけと一番分かりづらい。

以前に働いていたので、その重要性の高さは良く理解しています。
ただ職場としての環境が良くないので、改善した方が良いと思われる事があります。
1日8時間の加工を、あの古い機械を使い一人で何日も続ける事は、かなり重労働なので3人くらいをローテーションさせて運営すると良いかと思います。(作れるなら業者がローテーションで担っても良いかと)
要するに雇用するのではなく、業務委託の体勢にすれば良いのですね。
ここの加工所には「ある程度の支援」が必要になるかと思います。
ある程度の支援がないと、未来にも残す必要がある糸魚川ヒスイを、無駄に消費して生きる「魂の消費者」が誕生してしまう。

それと同時に、糸魚川ヒスイを使う事を許すライセンスも必要となるでしょう。
これは国の認定、あるいは新潟県か糸魚川市の認定する「公の資格」である必要があります。(伝統工芸師は形骸化しつつあるので別のが良いかと…)
重要なのは、「公の機関の保証である」って事です。
どうしてでも「公にも責任を持たせる事」が必須条件となります。

日本レベルでは「審査基準の統一」が困難ですので、今は考えなくても良いかと…。
そもそも「糸魚川で糸魚川ヒスイを扱うライセンス」であり、それで作られてきた品(大珠や勾玉など)の正当後継者を裏付けるライセンスではく、外での「商売としての保証」として使う資格でもないので、糸魚川レベルでの範疇で良いと考えています。

この事により糸魚川では正当な者でなければ糸魚川ヒスイを扱えなくなり、不当な者は外へ出て商売する事になるでしょう。(地下経済は無くならないでしょうけどね)
これはあくまでも糸魚川での「糸魚川ヒスイを扱って生きる者の条件」であり、換金せずに小規模な個人の趣味ならば大した問題にはならないと思います。(他県での商売についても規制は無いと思いますが、印象は変わることでしょう)

それと作り手は日本で言う職人スタイルを目指すのか、イタリア・ドイツ・フランスの言う職人スタイルを目指すのかで、かなり方向性(活動形態・表現法など)は違ってくると思います。
どちらが良いのかは、自身で決めていく必要があるでしょう。(けっこう重要な選択だったりしますから)

この問題はジオパーク以前の問題であり、人としての生き方を象徴する問題なのだと思います。

確実に言える事は「傷を舐め合う者達」は「傷を持たない者」を恐れています。
正当に生きられたら、より不当な生き方が露わになる事を怖がっているのが分かります。
しかし「罪と罰」がこの世に在る限り、罪を犯した者は相応の罰を受けるのは当然でしょう。

賢者は歴史から、愚者は経験から学ぶと言いますが、どちらでも良いので学んで下さい。
かつて信用を失った経験が全く活かされていないし、まだ喉元を過ぎてもいないのですから。
このままでは「まちぐるみで詐欺を行っている」と思われても仕方がないでしょう。

これから糸魚川市も大変でしょうが、今まで放置していたのが間違いだったのだから覚悟を決めて決断してください。(決断ができない事は人としての無能さを表します)

糸魚川ヒスイにおいて、糸魚川市が成すべき事は昔も今も変わっていません。
2013年01月01日
明けましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします。

支えて下さる方々のおかげで、無事に年を越すことが出来ました。
今後とも創作活動に尽力していきますので、協力をお願いします。


今回は八咫烏が神玉として完成しました!

計画では須世理毘売か事代主を制作する予定でしたが、先に八咫烏のデザインが思いついたのでこちらを優先して作ってみました。
今年に相応しい存在でもあるので、必然的に生まれたようにも思えます。


デザインのモチーフは「星」(南十字星)です。
八咫烏は「王の導き手」であり、「太陽神」としても崇められている存在です。
ちょっと分かりづらいかと思いますが、下方の尖った部分(小さな二つの穴が開いている部分)が頭で、そこから両翼が広がり、輝く星を包むように三つの尾をデザインしています。
本来伝承では三本足という事ですが、導き続ける存在として「決して留まることのない存在」を強調するべく、足を持たないデザインを考えました。(尾が足の代わりになっても面白いかと考えました)


八咫烏に込めたコンセプトは、「導く・示す・輝く」です。
先の見えない現実の中で、自分の信じる夢や目標に向かい続ける希望を象徴しています。
それと同時に、自身でも人に道を示すような生き方が出来るよう願いを込めています。
八咫烏自体が輝いているのでは無く「輝き導く希望を尾で包み込んで飛んでいる」事を重視して、希望さえあれば誰もが人を導く存在に成り得る事を伝えています。
こちら側の尾の部分は、星=恒星として太陽の意味合いを強く込めてあります。
光線を表現すると同時に、尾を表現するために二つの深い溝と四本の丁字(表側の)を加工してみました。


また「王の導き手」として、上向きにした際に「輝く星が王冠をかぶっている」ように見えるデザインにもしてあります。
モチーフの南十字星は、南の四神が朱雀である事も考えて北極星にはしていません。(そもそも北極星は王者の星だし、王を玉座に導く姿がヨハネにも似ているので十字星かと)
とにかく八咫烏は王そのものではなく、王を導き支える存在と私は考えています。

私が考える王の資質は「純粋である事」の一点のみです。
純粋で在るから支えようとする人々が存在するのであって、その人達に知識があれば国は繁栄するのだと考えます。(王は守らなくてはいられない存在)
簡単なように思えますが「純粋である事」と言うのは人間である以上、かなり困難な条件である事は歴史が示しています。

では人でなかったら…、例えば糸魚川のヒスイ自体が「王である」と考えたなら、ヒスイ自体が穢れる事はなく、「穢れた」としたならばそれは人の責任である事になります。

純粋な存在に関わり、それを活かすも汚すも人次第…。
どうかその存在を汚すことなく、自分を高めて創作活動を行って行きたいです。(現代では誰かの八咫烏に成ることが、最も求められる生き方なのかもしれません)
2012年12月27日
今年最後の拾い納めとして浜辺に行ってきました。
この日は寒波が来る前の晴れた日だったので、そんなに寒くはありませんでしたが、波は相変わらず強めに打ち寄せていました。(今の時期にしては穏やかな波でしたが)

歩く範囲は限られていたので探し回らず、ただ波を眺めていました。
拾い納めと言っても自分の中での行事のようなもので、拾えなくて当然と思って海に「無事に今年が終わる」って事を報告している感じです。(この時期に不動滝へは行けないんです…)

しかし、しばらくすると明らかに他とは違って光が膨張している存在を確認したので、波の引き際に拾いに行きました。


良く練られた透明度の高い良質の白緑ヒスイの漂石です。
緑色は暗めの青緑っぽい色をしていますが、それが海を映しているようで魅力的です。
今までのサンプルの中でも、このレベルのヒスイを拾えたのは初めてだと思います。(昔に拾っていた愛好家の爺さんは、もっと凄いヒスイを持っていますけどね…)
水に濡れた雪のような質感は、良質ヒスイの特徴と言えるかと思います。


白色の部分には細かいヒスイ輝石が幾らか見られますが、緑色の部分は細密になり溶け合うように混ざり合っています。
画像は載せてないですが、裏側には緑色は入らず白も暗く濁っているのが見られます。
たま、所々に茶色で線状に入った石目がある事など、コンサワの青ヒスイに似た特徴も見られます。(酸化した付着物と言う感じではなく、一体化してる感じです)


青みがかった暗めの緑色ではありますが、光にかざすと全体が美しく輝きます。
この柔らかな緑を見る度に、やがて来る暖かな春を思い出す事ができます。
ヒスイとは「厳しい冬を越え、生命溢れ、期待溢れる季節の到来が約束されている事を再認識させてくれる存在」なのだと私は感じています。

全く期待していなかったので、この出会いはとても嬉しいです。
偶然なのですが必然に思える、何か自然から祝福されているように感じる、これらの感情は人の思い込みなのでしょうが、幻想社会に生きている人類が、現実世界で運命と思える接点と遭遇するのは、とても不思議な感覚で高揚します。(今後も頑張ろう!と思える現実との接点、そういうのは大歓迎です)


今年も色んな方々に支えてもらい、なんとか来年を迎える事ができます。
ヒスイとの出会い、人との出会いは共通していて、とても大事なのだと実感しています。
来年は巳年ですので、年男として攻めの姿勢で創作活動して行きたいと思います。

後は加工納めが残っています…、すごい寒いので火鉢で暖をとりながら進めています。
例の如く「年始の挨拶代わり」としてアップできればと考えています。(ちょっと計画から逸れた作品を制作中ですけど…)


それではみなさん、よいお年を!
2012年12月17日
イザナギとイザナミの神話で、ちょっと思いついたので書いてみます。
現代の事柄に当てはめているだけなので、本当の意味とかじゃありません。


国生みと神生み、この神話を現実と合わせて考えてみました。
まずヒノカグツチが生まれるまでの期間は「交際期間」だったのではと考えます。
共有する世界観を構築していき、お互いとても惹き合っていた最高の時期だったと言えるでしょう。(早い話、恋愛中のピークだったと言うことですね)

その後、結婚をして子供(ヒノカグツチ)が生まれます。
神話では産道を焼いて死に至らしめたとありますが、「産道を焼く」という表現自体を「出産」として捉えてみました。(それだけの苦しみが出産にあるのだと男の私でも想像がつきます)
ヒルコは「生まれる事が叶わなかった最初の子」として考えるべきでしょう。

また「死に至らしめた」と言う表現は、母となった事で以前とは異なる存在となったとの表現ではと考えます。
では何故「イザナギが怒り我が子の首を切り捨てた」という表現を使ったのかですが、簡単に言うと「最愛の女性を奪い変貌させた自身の子に憎悪した」って事だと思います。

実際に子を殺したのでは無く「いなければ良かった」と、その存在自体を疎ましく思い、生ませた事を後悔したのではないでしょうか。(この時のイザナギは父親として幼稚で不完全な存在だったに違いない)

それからは家庭という奈落(地獄)のような期間を過ごす事になるイザナギですが、その中でもかつてのイザナミを求めて生活していきます。
しかし探した結果、より醜い部分を目の当たりにしてしまい、恐れ戦く事になったと考えます。(これはイザナギ(男)の主観での話です)
最初の子を失ったイザナミの心情を考えれば、生まる事が叶った子(ヒノカグツチ)を過保護に育ててもおかしくないです。

その後、家庭にお金を持ってくるだけの「換金要員」としてだけの人生に嫌気がさし、二人は大喧嘩をして離婚する事になったのだと考えられます。(神話の世界にはお金は在りませんので、イザナギはそれに相当する何か(時間かも)を持って来るだけの存在となり下がったのでしょう)
原因としては、やはり子供を優遇しすぎて「夫を蔑ろにした」とイザナギが感じたからでしょう。
もしかすると、イザナギは最後まで父親に成る事はできなかったのかもしれません。

そこで第三者(弁護士とか)を入れて離婚をするのですが、親権をイザナミが持つ事になり慰謝料と養育費をイザナギが支払う事となったと考えます。
あの約束事は「稼いだお金(に相当する何か)の三分の二を妻に支払う」と言う事後処理と言えます。(キクリヒメの立場は弁護士か裁判官とかでしょうか…)

ともあれ、これでイザナギは自由の身となり新たな生活を手に入れます。
後に別の「ある女性」との間に1姫2太郎をもうけるのですが、その時期の事は詳しく書かれてはいません。
禊ぎにより三貴子が誕生したとあるので、寂しさと悲しみの涙を流していたら「とある女性」が同情して支えてくれたのではないでしょうか。
その事で、あらゆる悲しみ(穢れ)から解放された事を「禊ぎ」として表現したのかもしれません。
八十神は「思い出」となった過去の記憶の欠片達と考えて良いかと思います。(後にイザナギが幸せに暮らしたのか、良き父親になったのかは明らかになってはいません)

こうして見ると、イザナギがアダムでイザナミがリリスで、とある女性がイヴにも思えてきますね…。
神話の原点は同じ場所なのでしょうから当たり前ではあるんですけどね。

そう言えばアマテラスとスサノオも同じように仲違いして、追放されたスサノオは新たな地で国津の家系を誕生させる事になります。(似たもの親子って事でしょうか…)
後にツキヨミの仲裁で復縁したのではと私は考えています。(剣と勾玉のくだりはツキヨミの計らいって考えでの話)

もしかしたら、この時のスサノオはイザナギとイザナミの子である「ヒノカグツチが成長した存在」なのかもしれません。(神話にはスサノオが二人存在している)
アマテラス・ツキヨミとは異母兄弟となるので、諍いが絶えなかったとしても不思議ではないです。(今で言うところの相続争いに該当するかと…)

もう一人のスサノオについては良く分かっていませんが、性格を考えれば既に大海原に出て別の国を目指していたとしても、有り得ない話ではなさそうです。(もっと言えばスサノオの伝説は別々の二人の冒険が、一つに合わさって伝わった話なのでは…、と思っています)

いや、もしかしたら海に出た方が「ヒノカグツチが成長した存在」なのかも…。
う〜ん、やっぱり正確な事は分かりませんね。


話が逸れましたが、こんな感じで良くある現代の男女関係を当てはめてみました。
結果としては現代を予言しているかのように、見事的中していると言わざるを得ない。(男女関係はその頃からあまり変化してないって事かもしれませんが…)

でもこれって「最初の結婚は次のステージに進むための試練であり、その後に子々孫々と繋がる家系を築ける」って事で受け取ったらいいのか…。

それとも反面教師として教訓とし、「お互い思い合って成長していけば、こんな遠回りをしなくても幸せになれる」って事で受け取ったらいいのか…。

結局、上記の事は神話の真意では無いでしょうから、真剣に考えなくても良いか…。
(現実はイザナミであって、イザナギを当てはめても意味無いかも)




※一応書いておきます。
私の作品である勾玉(イザナギ)には、こういった意志は込めていません。
あくまでもイザナギは「夢・理想・時間の創造神」であり、光を担う偉大な始神の一柱として制作しています。
そして今後も理解者がいる限り、納得のいく勾玉(イザナギ)を作って行かねば成らないと考えています。
2012年12月07日
こちら糸魚川も寒さの厳しい冬に突入しました。
雨の日が多くなり、海は荒れ放題。

そんな日々でも奇跡的に穏やかな日がありましたので、海辺に行って来ました。


雪ようにキラキラとヒスイ輝石が美しい白翠ヒスイの漂石です。
所々にですが、淡いですが明るい翠が入っているのが見られます。
眺めていると、雪解けにフキノトウが芽吹く景色が見えてきます。


画像では分かり難いのですが、こちら側の方がヒスイ輝石がキラキラと輝いています。
色だけでなく、新雪のような、白い絹のような質感もヒスイの魅力の一つですね。
このヒスイは純白では無く、ほんのりと翠が溶け合っているのが見てとれます。


練られているタイプのヒスイなので、弱い光源でもぼんやり透けます。
翠が全体を染めるまでにはなりませんが、透った光が膨張するように輝きます。
浜辺では色んなタイプのヒスイが拾えますが、このタイプのヒスイに出会えれば「運が良かった」と言っていい出会いだと私は思います。


ちなみにクリソプレースです。(ヒスイじゃありません、一緒に拾えたので紹介します)
かなり良い状態で拾えたのではないかと思っています。
殆どの石英系の鉱物は、海ではガサガサになっている物が多いです。
しかしこの二つは乾いても粉っぽく成らず、表面が滑らかな質感なのでよほど硬度があるのでしょう。
あるいは海で漂った期間が短かったのか…、何であれ淡翠と濃緑のサンプルが手に入ったのは嬉しい限りです。

こういった状態ならばヒスイでなくても、残す価値があるかと私は考えています。
まだまだ糸魚川には「未来に残すべき小さな存在」があるので、可能な限り見つけておきたいです。(最終的な展示場・展示方法も、今から考えておく必要がありますね)



今の時期は波も高く風も激しいので、よっぽと状態が良くない限りは海に近づかない方が賢明ですが、良い状態の時は釣り人も多く訪れるので、それを目安として訪れると安心かもしれません。(一人より心強いでしょうし…)

くれぐれも危険な状態で無理をしないで下さい。(損得勘定でやってる者は自己責任で勝手にどうぞって感じですけど…)
ボーダーラインを超えてしまうと、もう誰からも同情されなくなります。
2012年11月27日
今回は迦具土と素戔鳴の新作を紹介をしていきます。

火之迦具土神「雷火」-壱-


無数に走る黒い稲妻模様がある滅紫のヒスイで制作しました。
これと同じヒスイで武御雷神「天尾羽張」-壱-も制作してあります。
神話で綴られる悲劇に関わる重要な神を、イメージに合う同じヒスイで形にしました。(怒りと悲しみを表現し、それでも先に向かう強固な意志を込めてあります)
デザインから少し外し加工を攻める事で、イザナギの魂がボロボロ寸前になった状態も表現してみました。

半身とも言えるべき存在を失いながらも、闇に落ちる事なく、傷ついた魂に僅かな火を灯しながら新たな神々を創りだしたイザナギの神。
くすみながらも紫色に輝く魂が、現代に生きる誰かの希望となる事を願っています。


建速素戔鳴尊「傍若無人」-弐-


かなり純白に近く透明度も高い白ヒスイで制作しました。
一般的に白色は多く存在すると言われていますが、多いのは「白っぽいヒスイ」です。
殆どの白ヒスイは混じった色で、薄い灰色だったり、黄ばみがあったり、薄い翠が入ったりします。
色として「純白」と「漆黒」は非常に珍しいと言えるかと思います。(探しても容易には見つからない稀少な存在です)

そんな白ヒスイで、これから訪れる冬を題材にした作品を作りました。
厳しい冬のイメージはもちろんの事、雪化粧した「美しい世界をもたらす存在」としても表現してあります。(スサノオなので、必ず厳しさは付いて回ります)
分かる人には分かったと思いますが、通常のスサノオより腹部を丸く仕上げています。
スサノオのイメージを大切にするならば、あまり丸っこく作る事は適切ではありませんが、今回は雪の「柔らかさ」や「儚さ」も込めたかったので、可能な限り曲線を付けてあります。
難しいのはバランスを崩すと「牙を抜かれた太った龍に成りかねない」って事です。
良質なので艶も付き、納得のいく作品に仕上がって満足しています。


この時期の加工は寒くて大変ではありますが、時間をかけて一つ一つ丁寧に創作して行こうと思います。
それが糸魚川ヒスイを使う者の使命であり、条件なのだと感じている毎日です。
2012年11月17日
現代は物が過剰に溢れるデフレ状況と言いますが、考えようによっては当然の姿なのかもしれません。(その為の機械化なんだし)

それに同じシナリオが国を変えながら進んでいるだけ、しかもそのシナリオが国を移る毎に劣化していくから、消耗するスピードも速くなります。(試行錯誤のコストがないから)
いわば現代のシステムは王政の劣化版と言ったところではないでしょうか…。(国の名を語って国民相手に商売している連中の低賃金労働者換金システム)

ともあれ現在の姿は戦後の日本人が夢みて追い求めてきた「理想郷」だと思えます。
物が溢れる、特に生活必需品が溢れている世の中に幸福を感じる事ができないのは、現代人の人間性に問題があるのかもしれません。

大きな要因としては「バブル時代」にあると私は考えます。
あの時代で狂った基準(ウイルス)に侵され、正常な機能を失った人達が多くいるのだと考えます。

特に田舎は仕組みを知らない人達が「お祭り騒ぎ」をしていたので、何故始まり何故終わったのかも知らない人が多いようです。
だから、まだあの時代が来るのではないかと胸を躍らせている人もいるし、もう一度あの高揚感を味わいたいと中毒症状を起こしている人もいます。

きっと、この人達は「現代での世の中の幸せ」に気づく事はないのでしょう。


それと同時に「物が在って当たり前」の現代に生まれた人達の基準も気になります。
ある意味で「満ち足りている状態」から始まるので、浅ましさからはある程度は切り離されているでしょうが、逞しさからも遠ざかっているでしょう。(家庭環境にもよりますが)

この日本は世界有数の法治国家ではありますが、純粋な力を完全に排除してはいません。(って言うか不可能ですけど)

完全な法治国家と言うのは「完璧な事後処理能力と抑止力」を持った国となります。

そもそも法律とは自然(人)が振るう「純粋なる力の行使」に対しては即効性がありません。
いかにそれを封じ、起こった事件・事故を適正に処理できるかが求められる条件となります。

本来、「純粋なる力の行使」と言うのは自然界しか許されていません。(許す許さないの範疇にありませんが…)
これは人類では止めようが無く、打ち消しようも無く、平等に命を育み、平等に命を消していきます。
老若男女、善人悪人、人格に関係なく、正に「平等」に行使されます。(人がそれをすると無差別殺戮となり、許される事はありません)
自然の摂理の中においては、それに従うしかないのが生物の性でしょう。

人は動物として、小規模ですが「純粋なる力」を持って生まれてきますが、人間界ではその行使を許されてはいないのです。
それが平和であり、協調であり、理想であるのですが、未だ未熟な事もあり暴力という形で行使される事があります。(規模が小さいなら小競り合いですみますけど)

正にその瞬間には法律は無力であり、唯一の対処方は己の「純粋なる力の行使」だけとなっています。
ある意味で「純粋なる力」は、暴力の唯一の防衛策になるとも言えるでしょう。

最近では敗戦国として骨抜きにされ、家畜根性が板に付いた現代人に今になって刀を持てと言ってくる国があります。
扱いやすいよう小動物のようにしておいて、国力が下がってきたら軍備増強を求めるなんてよっぽど焦っているのでしょう。(他人事じゃないですけどね…)

どんな兵器も扱う者の力量が高くなければ、望む結果には繋がりません。(馬鹿が使えば正しく凶器)
なので、まずは日本で徴兵制度を作ることから始める必要があるでしょう。

あの領域は、かなり単純な序列があって、たとえ上司でも能力が低ければ部下は慕ってはくれません。
上司が率先して見本を示す事で、士気の向上を得る事ができます。(上に立つ者の力量が高ければ高いほど志気が高まるわけです)

まぁ、これは現場の隊員の話であって、上層部の頭脳明晰の人達には当てはまらない事でしょうが、隊員が「その連中の為に戦うのではない」と認識していれば統制は乱れずに済むでしょう。(叩き上げでない限り基本的には軽視されている)

もし徴兵制度を取り入れるのなら、この「物の溢れた時代」に生まれた者の鍛錬には有効なのかもしれません。

どうしたって「戦後の理想郷」である現状を守りたいなら、「純粋なる力」を正しく使う鍛錬をしていく必要はあるでしょうね。(正常な人間なら、誰だって戦争なんてしたくないですけどね)


何であれ「守る存在」を見出さなければ、物事の道理は理解できないでしょう。
ブランドが何故、誇らしい存在なのかは「売れてなんぼ」の商人ですら守る領域だからですね。

人として大切にする領域、それも多くの人が、あるいは有能な人が、そんな領域が在ることを認識してほしいです。
それと、その存在を壊したい「器の壊れた者」も同時に存在している事も…。
2012年11月07日
これはもう5年くらい前に、ある人に提出した提案になります。
当時は今よりも当然若かったので、かなり理想主義的な提案となっています。
しかし、現在でもこの方法でないと糸魚川としてのヒスイブランドは、成り立たないであろうと考えています…。


■提案の詳細

◎ヒスイブランドの要点
・糸魚川を中心としてブランド化を推進する。(当たり前の話なんですが…)
・クリエイター・デザイナー・プロデューサーの三つの人材が必要。
・人材に伴い下記に上げる三本柱が必要になる。


◎三本柱の趣旨
・様々な客層に対応し、更に信用を得る為に特化した組織を三つ作る必要がある。
・糸魚川ヒスイは男性、ミャンマーヒスイは女性、コラボは両性の性質をもつ。
・商売である以上は女性がメインなので、女性専用の品を主力とする。
(コラボによるユニセックスな品も同様)
・いずれの組織も地元の人が上に立って、チームを作りブランド化を進める。



かなり大雑把な提案ではありますが、ヒスイ鉱物の商品として三つの領域を合わせる事が重要と考えています。(糸魚川ヒスイだけでは商業ブランドには成らない)

どうしたって糸魚川産のヒスイをブランド化できるのは、作る側の人なので「作れない業者」の役割を分けて考えなくてはなりません。(ブランドを支え継続させる力として、大きく貢献してくれます)
また、糸魚川ヒスイを商売に近づけすぎると「守るべき存在」で無くなるので注意が必要となります。(全体の20%としているのは極力、商売から切り離す必要があるから)

作る事のできない業者は必ず人を使う必要があって、最終的なビジネスモデルは「いかに人を低コストの労働力として使うか」という手法に成らざるを得ない。(作る事も売る事もできない場合はより多くの人を使う事になる)

地元では経営が不可能となり外での商売が必要となるのは、日本から出て海外で商売する企業と同じ理由が在るからです。(規模に問題があり、収支のバランスがとれない)

しかし、個体よりも大きなものを動かす事が可能なので、ミャンマーと繋がってもらい処理のされていないミャンマーヒスイを糸魚川にもたらし、現地で低賃金労働者を確保してもらう必要があります。(良くも悪くも業者数が多いので、その繋がりを利用できる事が利点と言える)

アイデアは糸魚川で生み出して、商品として具現化するのはミャンマーで行うのが一番低コストなのだと考えます。
ここで重要な事は、ミャンマーで作り出す商品は「ミャンマーヒスイの商品である」という事が必要条件となるでしょう。(処理されていないミャンマーヒスイの品)

多分、作れない業者は「糸魚川ヒスイをミャンマーへ持って行って加工させる」事を考えるでしょうが、「他国で作られた糸魚川ヒスイの商品」にどれほどの需要が出るのでしょうか…?(産地偽装から制作地偽装となって行くだけでは…)
結局は他の商品と同じように量産され、品が溢れ、価値を失って行くだけです。(糸魚川ヒスイが減っていくので限度がありますけど)
それに、これではヒスイブランドの格上げにはなりません。

やがてミャンマーが発展するにしたがって、力関係が変わり排除されていきます。
これは国境を越えるのは簡単ですが、人種を越える事は非常に困難な事の証明です。

全体の20%ではありますが、間違いなく糸魚川ヒスイの柱が大黒柱であり、現在の狂ったビジネスモデルに当てはめてはならない領域ということを認識する必要があるように思えます。

よって「作れない業者」には、この日本でミャンマーヒスイの価値を高めてもらわなければなりません。
そして糸魚川ヒスイとコラボレーションする事で、商売としての主力となるコラボ商品を開発していくのが、糸魚川としてのヒスイブランドになると考えています。

この事により、現在の「産地が入り交じった状況」をデメリットからメリットに変える事のできる唯一の方法であるとも考えます。(それぞれのパーツの明記は必要)

それと原石の扱いですが、現在の拾った物を売る「乞食商売」から脱却して、糸魚川市が管理販売するシステムを作る必要があります。
この領域には、いわゆる「地下経済」的なものが存在していて、裏で動く「忍」のような者達が存在します。(小規模ですけど)
当然の事ながら表である「侍」の世界へは出られません。(忍んでこその忍)
基本的に、領収書が出せないのでは商売にならないですよね…。

なのでこの領域を表に出すのなら、ここでの作業は行政が担う必要があります。
原石を売ったお金は、財政として市民の為に使えるシステムにすれば良いでしょう。

この目の肥えた、洗練された日本人に通用する商品を作り出さなければ、商売としての糸魚川ヒスイは終わりを向かえる事でしょう。(商売として海外へ出て通用する領域のものでもありませんので、日本国内で評価されるしかない)
安く売る努力をするよりは、価値を高める努力をしたほうが良いかと考えます。

もう一つの道は、個体として「守るべき存在」となる道ですが、これは作る側でしか担えず、地元の住民に認められる「伝統の担い手」でなくては不可能です。
商売から切り離したとしても「存在を維持してくれる人々」を得ていれば、小規模ながらも活動は続けていけるでしょう。

これは生き方でしか証明できず、かなりの時間を必要とする為、完全に商売から切り放たれる事はないでしょう。
有名な芸術家たちがそうであったように王族・貴族のパトロンか、支えになる民衆が無くては不可能です。

現代では国や市の補助を受ける事が可能ですが、条件は厳しいものとなるでしょう。
最近は、日本自体が「守るべき存在」を見失っているように思えますし…。
(その作り手が守るべき存在でない場合は、消えていくのが定めでしょうね)



この提案は「人材が揃えば」の話になりますので、その時期が来た時にでも参考程度にしてもらえればと考えています。

まずは各々が、個人レベルで進められる計画を行うのが得策でしょう。
(あれから5年が経ち、少しずつですが糸魚川ヒスイは進歩しているようです)
2012年10月27日
すっかり秋の気候になり、糸魚川も過ごしやすくなりました。
寒暖の差が激しいので体調管理には気を付けなくては…。

最近、私の庭には昆虫(私が好きな)が多く生息するようになりました。
今日は私の中でベスト5に入っているカマキリを紹介します。


花壇の中にいたので、つかまえて手に乗せてみました。
「なんだここは?」って感じで不思議そうにしています。(歩き回った為、画像がブレまくり腕まで行ってしまった…)
綺麗な翠色の身体も肌色の前では「擬態の効果が出まい」って感じで撮影しました。
しかしこのフォルムは格好いい!、やっぱり大人になってもカマキリは私にとって格好が良いと感じる昆虫でした。


こちらに気づき、鎌を広げて威嚇の体勢を見せてくれました。
数多の昆虫を恐れさせる姿なのでしょうが、よく見ると顔が可愛いです。
カマキリに命を取られない側の、余裕のある人間(私)ならではの感想ですね。
それにしてもヒスイのような美しい身体(特に目)をしていて、感動してしまいます。


斜めからのカットですが、黒目はこちらを常に監視しています。
微動だにしない身体とは別に、目だけは「いつなんどき」でも対応できるよう研ぎ澄ましています。
ちなみに身体がスマートなので雄のカマキリだと思います。


ちょっとアップしてみました。
顔が斜めでも、ちゃんと黒目がこちらを見つめています。
カマキリにとっては緊張の場面なのでしょうが、私には愛嬌のある顔にしか見えません。
「ん、なに?」って感じで映って見えてるのは、私だけではないでしょう。


久しぶりの対面に満足したので、花壇に戻してあげました。
やっぱり植物の中に居ると見つけ難くなりますね。
身体の色を場所に応じて変えられるなんて、不思議な事だと改めて感じました。

不思議と言えば、何故かカマキリはアスファルトの道路に出ている事が多いです。(その上、動く気配もないんですよね)
そして、そこで「シャー」って感じのポーズをとっていたりします。
あれを見ると「おい、車に轢かれるぞ」とツッコミたくなりますね…。

その度に、カマキリを草むらに移しているのですがキリがない。
日の当たる家の玄関の黒い扉にも登っているので、日光(体温)に関係があるのかもしれません。
もし体温調整だとしたら、草むらに移しても迷惑な可能性がありますね…。
それとも産卵の季節ならではの行動なのだろうか?

産卵期と言えば、カマキリは産卵中に「雌が雄を食べる」と言いますが、その行動はかなり希なようです。(日本のカマキリでの話)
習性としてあるのでは無く、餌の減少によって起こりうる事故みたいな感じのようです。(好き好んで共食いなどはしないって事ですね)

ここら辺は人間と良く似ているなぁ〜、と感じてしまいました。(人間には望んで喰い合う者もいますが)
まぁ、人も実際に血肉を喰らいはしませんけどね…。

こんな事もあって幼少の記憶が甦り、また昆虫を調べたくなってきた今日この頃です。(でも蟻や蜂(ミツバチ以外)は嫌いなんですよね〜、って好きな人の方が希か…)

マクロを見るよりミクロを見た方が創作のヒントは見つかります。(フラクタルと出会える)
2012年10月17日
今回は天照と素戔鳴の新作を紹介をしていきます。
(新作と言っても8月に仕上がった品ですが…)

まずは天照「幻日」の紹介です。




この天照は、ライチの果肉のようなヒスイで制作しました。
ここまで透明度が高く、無傷な糸魚川のヒスイも珍しいです。
若干ですが淡い緑に染まっている部分があり、雲のような模様もある事から「幻日」
シリーズの一作目として制作しました。
まるで幻の太陽のように、神秘的で神々しい作品に仕上がってくれました。
7月に制作した天照「陽炎」と同じヒスイで制作してあります。(場所が違うのでこ
ちらの方が白地が多いです)

次は素戔鳴「天上天下」と「雲蒸龍変」の紹介です。




この作品も、天照「幻日」や「陽炎」と同じヒスイから制作しています。
前回の一作目より濃い緑色が入った部分を使用する事ができました。
表裏に緑が入るよう気を付けて加工し、何とか理想通りに仕上がりました。
この「天上天下」は二作目ではありますが、まさに唯我独尊の風格を持った作品となっ
たので満足しています。




こちらも同タイプのヒスイで制作した作品です。
天照「幻日」と同じく緑色が少ない部分ではありますが、その流れる雲を映したよう
な模様が「雲蒸龍変」シリーズにはピッタリでした。
一部分に明るい翠が入っていて、濃緑がスタンダードであるこのヒスイには珍しい発
色をしています。
このタイプのヒスイは透明度も高く、美しい艶も出ますので仕上がった作品からは気
品を感じます。

しかし、このヒスイは稀少なので、作品を多くは作れないでしょう。(更に無傷でな
いと駄目という高いハードルがありますし…)
作る品に気を付けながら、有効に加工していく必要があります。

これで月読も作らなければと考えていますが、三貴子を揃えてしまうと手放したくな
くなるのが私の悪い癖でもあります…。

どの作品も手元に置いておきたいという思いはありますが、認めてくれた人がいたの
なら手放さなければ失礼ですね。(生活費も稼がなければならないし…)
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