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2011年09月07日
現在の国産翡翠にとって大切な「i」が三つあると私は考えます。
このバランスを古代で上手に保っていた土地の頭文字をもらい、「糸魚川・出雲・伊勢」としています。

糸魚川は長者ヶ原で加工をしていた形跡が在るものの、発掘された品が少なすぎるし、加工技術が残されていないので主に原石共有地であった可能性があります。(私の個人的な考えですが…)
この地は翡翠文化の原点であり、原石の守人(管理)と言う大切な役割を担っていたように思われます。

出雲は現在でも青瑪瑙などの加工を伝える地であり、鉄を使いこなして工具も作る事が可能だったように思えます。(武器の研磨に大珠や勾玉は工具としても使えなくはない、製鉄にも翡翠は使えるらしい)
鉄や玉の加工技術に長けるこの地は、製造文化の礎を担っていたように思われます。

伊勢は培われてきた権威により、国宝や文化財を認定する権限があり、古代から珍重されてきた勾玉を三種の神器に入れる事が可能であったと思います。(しかし勾玉は翡翠に限定されてはいない…)
古代遺産である勾玉の品格を引き上げる為の、重要な役割を担っていた地のように思われます。

かなり大雑把な私の解釈ですが、この三つを仕事としての規模で言い換えると「原石保有力」「加工力」「企画・宣伝力」となるかと思います。
この三つを備えれば問題は無いのですが、一個人に全てを求めるのも…(才能とお金があればあるいは…)
翡翠原石の規模を考えても個人の規模では足らず、地域の規模にする必要があるのかもしれません。

例えば「糸魚川」を中心とした場合、必要なのは「加工力」と「企画・宣伝力」の二つとなります。
この二つを「原石保有力」と同等の力にすれば、再び翡翠文化を復活させる事が可能かもしれません。
しかし現状は圧倒的に「加工力」と「企画・宣伝力」が低く、今後は下がる一方だと予想しています。
とにかく加工の担い手がいません、今では「暇を持て余した人達の遊び」に成り下がっています。
(遊びからの派生ではありますが、信念を持った人でなければ文化として先には進まない…)

結局は国産翡翠の需要が低く、加工を仕事として生活する事が非常に困難なのだからでしょう。
もう一つの「企画・宣伝力」を特化させたとしても、本命の品が揃わないのでは本末転倒ですし、力を入れたからと言って現在の経済状況では十分な需要は出せません。(生活必需品が優先されるでしょう…)

また、現在の「原石保有力」も無限ではなく、将来的に見れば掘り出す権利を得る必要があります。
人は消費する事しか出来ない生物なので、翡翠自体を造り出す事は不可能です。(地球以外は無理)
偉大な表現者でも自然の立場での創造は不可能であり、人間社会での創作が人の限界となります。

この三つの「i」が衰退している大きな理由には、人としての「品格の欠損」が根本にあります。
ばら撒かれる原石、誇りを失った加工、地に落ちていく品格…。

永く開拓されていない領域だったので問題が沢山ありあますが、その分「伸び代」が十分にあるのと思いますので、ちゃんと向かい合えれば良い結果を出せるように思えます。

重要なのは「原点」をおさえながらも「過去」に囚われ過ぎない事が大切だと考えています。
全く過去を見ないのも問題なので、そのバランスに気を付けながら進めて行く事が肝心でしょう。
将来的にバランスをとり合える実力者達が必要となってくる事は間違いないですね…。
2011年08月27日
当サイトの「ibits」の語源には歪(いびつ)という文字を含ませています。
昔は正確な品が少なかった為、職人達はより正確で完成度の高い品を作る事に力を注いでいましたが、現代では機械の進歩によって正確な品が溢れている状態となっています。
そこで今では、あえて歪さを出して作る事が「手作りの証明」のようになり、手作業で作られた品の魅力を感じる事のできる一つのポイントとなっています。(精密機械などの部品は別として…)
ですが、この歪さは使い方が難しく、やりすぎると「手抜き」に見えてしまい販売しづらくなります。
元々、歪を魅力にして表現するのは芸術の領域なので換金能力は低く、理解されるのにも時間が必要です。

現代の人間社会と一緒で翡翠にも「優等生」と「劣等生」に似た存在があります。
初めから色の発色が良く、透明度も高く、ヒビが少なく、加工や販売に必要なコストが少ない、換金能力の高い良質な翡翠が優等生。
色の発色が悪く、透明度も低く、ヒビも多く、加工や販売に必要なコストが多い、換金能力の低い翡翠が劣等生となります。

優等生である翡翠は磨きがいがあって、目に見える成果を出し、誰もが評価できる憧れる存在となります。
所有できるのはお金を持った人達であり、頂点は社会で「特権階級」と位置づけられている人達です。
投資のしがいがあって、利益を出しやすいのでお金や地位を得る近道となります。

劣等生である翡翠は磨きが困難で、成果も見えづらい事もあり、誰もが評価しづらい存在となります。
しかし、加工や販売に向かい合う時間は多く、それ自体から魅力を引き出そうとするので「芸術」として高める事の可能な存在となります。
私にとっては、これほど思い入れのある存在も珍しく、自分を見ているようにも思えてしまいます。
時間を気にして手を抜くと、へそを曲げるように魅力が出なかったりと天の邪鬼な性質も良く似ています。
今の人間社会の基準がどうであれ、自分の気に入ったものに向かい合って時間を費やし、納得のいく作品を作れたのなら、それが劣等生であっても問題がないと考えています。
いずれは「翡翠」と言う肩書きも超えて評価されるように、自身が成長する時期が必要でしょうが、数多ある鉱物の中で国産翡翠の加工を選んだのだから、その真価を引き出す為に全力で挑戦したいです。

結局、優等生であるはずの「正確な品」に少しの歪さ(遊び)を求めるのは、その対象に「人らしさの証明」を求めているからだと私は考えています。
万人に評価を求めるから、より分りやすい要素を入れなければならず、それによる対価を急ぐから拘りが薄れていき、最終的に陳腐化して量産製品に手を出してしまうのでしょう。

歪さを魅力にできる領域は「手作りでの品」にしかあり得ず、それを風合いとして「美」とする人達も存在するのだから、翡翠を加工する人達にはこの劣等生の領域にも向き合って活動して頂きたいです。

直ぐに結果の出る領域では無いですが、優等生と劣等生の両方の魅力を引き出す道のりは、人間としての成長に大いに役立つと思います。(他の分野でも同じ事が言えると思います)

これからも「人らしさである歪」を大切に、手作りの仕事に向かい合っていきたいと思います。
2011年08月17日
世の中には様々な宗教が在りますが、原初の姿を残したモノは少ないようです。
殆どが神様に頼み事をして依存し、盲信する傾向にあります。

そもそも神が宿っているのは意味のある全ての存在であり、全ての人が神の血を引いていると言えます。
日本であれば天津神・国津神、あるいは双方の血を必ず受け継いでいます。
外国の血が入っていれば、その国の神の血も引いている事になります。
神様に頼み事をすると言うことは、自分の中の神に頼み事をしている事になります。
なので自身から神の力を引き出さない限り、何も起こらないし、何も解決しません。

その手段として呪文やお経などの儀式を行うことで、引き出そうとする事自体は問題はないのですが、その結果が自身に表れなければ全くの無意味となります。
儀式をした事で満足していては意味がなく、本来の目的である自身の神を引き出せたかが重要となります。
日本の神は八百万も存在し、どの血を引いているかで引き出せる力は限定されるでしょうが、長い年月の間に人の血は数多くの血と混ざり合い、様々な神をその身に宿しているはずです。
蓄積された知識を使い、全身の感覚を研ぎ澄まし、不屈の精神力で己の中にある扉を開け放つ事が、自身の神を感じ触れあう事ができる唯一の方法だと考えています。

キリストがそうであったように、己の神を解放すれば奇跡を起こすことも可能なのかもしれません。
全人類が己の神を解放できたなら、人は平等な存在となり全ての悲しみから解放されるのかもしれません。
人が夢見る理想郷を誕生させ、皆が幸せに暮らせる世界を創ることができるのかもしれません。

ただ、その神を生んだのも原初の存在である「地球」と言う事を忘れてはいけません、地球が在っての神であり、我々人類であるのです。
人が神と触れあうと言う事とは、母である地球と繋る事であり、それを感じる事ができれば人類は地球にとって不必要な存在では無くなると思っています。
2011年08月07日
芸能界もスポーツ界も、現代の女性の力は凄いものがありますね。
神話で言うなら、天鈿女命が岩戸を開けるために舞っている感じだと思います。

でも肝心の天手力男神(主に男全般)が今ひとつ力不足なので、天照を引き出せずにいるようですが…。
力士の魁皇が新記録をうちたて貢献しましたが、それでは足ないようで純粋な力(戦争ではなく)を必要とする仕事への取組が必要となっているように思えます。(男の真価が問われているのではないだろうか…)

肝心の思兼神(政治家や官僚)も知恵が足りていないからどうにもなりそうにない…。
今の日本は先進国の真似をして現在に至りますが、その先を創っていく力が全く足りていませんね。
思兼神には天手力男神の上手い使い方を真剣に考えて頂きたい。

今の私自身が望むのは、身体を動かして効率的に発電できる自力発電装置を作ってもらいたいです。
人の心臓は栄養さえとっていれば自立して動いていますので、それで生きている人間は自分の身体を動かして電力(エネルギー)を作るべき存在だと考えています。
そうすれば生活習慣病と言うくだらない病気もなくなるので一石二鳥だと思っています。

自然エネルギーを使っての自動発電も国には必要なのでしょうが、やはり自分の使う電気くらいは己でどうにか作くれないものかと思ってしまいます。
その装置も自分で作れたら最高なのでしょうが、流石に個として限界を感じてしまいますね…。

国が未だ解決策が出てこない以上は、天鈿女命には今まで通り頑張って舞い続けて頂くしかないでしょう。
天照が少しでも覗いたら、天手力男神は引っぱり出せるように鍛えておかなければなりませんね。
2011年07月27日
本日、新たな異玉が誕生しました。(以前から作業はしていました)
異玉の造形は基本的に機械を使わずに、電着ヤスリや砥石などで制作していますが、穿孔だけはリューターを使用しています。(これも厚みがあると結構大変な作業になります)

異玉計画は生玉(精霊)と融合させることで神玉へと姿を変えていく計画となっていて、今回の「紡ぎの幼生」は国津神の少彦名神の原形デザインとなります。
原形デザインと言っても羽化した姿を神玉とするので、成長過程と言った方が良いかもしれません。
どの精霊の影響を受けるかでデザインも変わっていくので、他の神玉にも変化していくでしょう。
また未来への楽しみ(苦しみ?)が増えました。


最近、昔のように自由な表現がしづらくなってきました。
気楽に思うまま造形をしていた頃に比べると、いろいろと考えすぎてしまうようで…。
実際に、何も考えずに作ってしまうと底の浅い意味不明の存在が出来てしまうので、それもそれで問題なのですが、そこに少しでも明確な意志をのせられたら作品として魅力的になっていくでしょう。
まぁ、こういったものは次から次へと出てきては陳腐化してしまい、一つの価値を下げてしまうので急ぐ必要はないのですが、未来へ繋げる為にも少しでも土台を固めておきたいですね…。

現在は節電が叫ばれているので、焦らずに自然にふれる時間を増やして創作のヒントを探してみます。
自然には全てのヒント(答えも)が存在していますが、意識して見ていないと発見できません。
「ウォーリーを探せ」みたいな感じで探すと楽しめるかもしれませんね。
2011年07月17日
糸魚川翡翠の加工で最も苦労する行程は「磨き」だと言っても良いと思います。
翡翠は堅いので造形も大変なのですが、複雑な形でも木彫などが出来る人なら工具次第で何とかなります。
(それでも時間と手間のかかる大変な作業には変わりませんが…)
造形した後に研磨剤を細かくしながら何度も同じ作業を繰り返し、荒削りでの研磨痕を消していきます。
それから本題の艶を付けていくのですが、造形が細かい程その作業が困難になり、翡翠輝石の細かさや不純物の有無などにも影響されていきます。

また、きめが細かくて透明感のある翡翠でも艶付けの難しい翡翠があります。
おそらく、翡翠輝石の配列に問題があるようにも思えますが、確かな事は分からず経験でそう言った翡翠を見分けるこが可能になります。(白翡翠に配列の乱れが多い気がします)

磨きにも種類がありますが、望まれるのは一般的に「鏡面・ガラス光沢」と言われている磨きになります。
この理由としては他の天然石の商品が鏡面仕様となっていて、見ため的にも綺麗で高価に見え事が最大の理由だと思います。(人間にとって、とにかく輝いてさえいれば良く見える)

大概の品はガラスでコーティングされているので、本来磨きがあまり出せない鉱物(トルコ石・ラピスラズリ・ソーダライトなど)も鏡面仕様になっている事があります。
処理されていない天然石(結晶体)のほとんどは振動・回転バレルによって全自動で磨かれています。

実際に岩石類は脆いものが多く、退色や風化によって使えなくなってしまうので特殊なオイルを染み込ませたり、表面をコーティングする事は商売上では常識となっています。(宝石ではエメラルドやオパールなど)
ヒビが多くてもコーティングする事で頑丈になり、ヒビ自体も見えづらくなって、更に鉱物自体を磨く必要もなく、色すらも付けられるといった事が商売上の大きなメリットとなるようです。
こうなると天然石を使う意味があるのか疑問になりますが、脆い鉱物には仕方がないのかもしれません。

翡翠は岩石の中では硬く頑丈で、それ自体に艶を付ける事の出来る鉱物ですが、結晶ではないのでバレルのみでの自動磨きでは上手く艶を出せず、長時間バレルに入れるため柔らかい部分が凹んでしまいます。
(光沢はヌメっとした樹脂光沢っぽくなります)
鏡面磨きをする場合は水を使わず、遠心力と摩擦熱が絶対に必要であり、勾玉などのシンプルな形なら全面を同じ様な艶に仕上げることは可能ですが、細かい彫刻(中国とかの)などの細かい溝などを同一の鏡面磨きにする事はどうにも不可能のように思えます。
(勾玉の腹部分は高速回転で何度も磨かないと均一な磨きは出せません)

作品として人生をかけている品なら何度も繰り返して、ダイヤモンドパウダーを使用しながら溝などを磨き上げることは可能ですが、これは膨大な時間と手間のかかる事なので商売には適応できません。
(一度、細かい部分の磨きをしてみれば解ると思います…)

なので、ここでもガラス等のコーティングが登場するわけです。
コーティングして一つの結晶体(均一の硬さ)としてしまえば、バレルでも容易に磨くことができます。
水晶などの石英は、このバレル磨きでピカピカになるので、それを応用したのだと思います。
ガラスを磨く場合は遠心力と摩擦熱は必要ではなく、低速回転で磨き上げる事も可能となります。

結論として、石質が良くシンプルな形の品であれば全体的な鏡面磨きは難しくなく、石質が不安定で複雑な形の品の場合は全面を同一の鏡面磨きにする事は不可能に近い事になります。
前者はバレルでの全自動磨きが可能ですが、後者はバレルでの全自動磨きが不可能となります。

糸魚川翡翠は石質が不安定な翡翠が多いので、そういった翡翠には鏡面磨きは適さないでしょう。
それでも糸魚川翡翠には風合いがあり、独特の魅力があるように私は思えます。
磨く必要のある翡翠は磨き、磨く必要のない翡翠は磨かなくても十分に良さを表現できると思います。

こういった事は女性は理解できるのですが、男性には理解できない人が多いようです。
男性の方が美意識が低いのかもしれませんが、もっと表現の自由を識った方が良いのでは無いだろうか…。

しかし、漫画と活字の普及の差のように、人が伝わりやすい方に流れるのは仕方がないのかもしれません。
2011年07月07日
古来より三つ巴と言われるバランスが存在します。
これを私の仕事に取り入れる場合、「作る側」「売る側」「買う側」の三つが適応されると考えます。

以前は「作る側」の力が一番強く、次第に傲慢になり怠惰な面が多くなっていき、やがて「売る側」に激しい怒りと嫉妬をもたらす存在となりました。
自分達がいなければ商売が行えないという「売る側」の弱みを握っていたからでしょう。

その酬いなのか、今度は「売る側」の力が一番強くなり、「作る側」は衰退して行きます。
原因として「安い人件費」や「安く作る事」の出来る国(人)と繋がった事が最も大きな要因です。
お前達がいなくても商売ができるという現実を「作る側」に思い知らせる意味合いもあったのでしょう。

しかし、現在は「買う側」の力が強くなりつつあります。(賢くなってもらわなくてはならない)
こちらの側の力とは「買う対象の知識を得る」と言う事であり、力を強めた「売る側」のカラクリを監視する事が可能な力となります。(とても重要な役割です!)

商人のモットウは「金にする」と言う事で、何であれ金にする事がこの人達の正義となります。
こちら側では「作る側のこだわり」は、全てコストとなり削減されていきます。
その手法は「知る者が知らない者から搾取する」事であり、優しく騙して利益を得る事を得意とします。

よって、この腐れた鎖を断ち切るのは「買う側」であり、その知識を伝えるのが「作る側」の役目です。

「作る側」から購入する場合は、欲する品に「どれだけ作者が向き合っているか」が値段の基準となります。材質も値段の内に入りますが、ほとんどの価値は「創り出す姿勢」と「作品の完成度」にあります。
(均等に出来ているかでは無く、天然鉱物なので魅力的に仕上がっているかが価値の基準となります)
※作る側には作る側の販売方法でお客さんに正面から対応する必要があります。

「売る側」から購入する場合は、欲する品の「原価」とお客さんの為に「どれだけ動いたか」が値段の基準となります。商品に乗せている利益を納得して貰う為、お客さんの要望に応える「きめ細かなサービス」が利益を得る正当な理由となります。(少なくとも相対での接客が絶対必要となります)
※売る側には売る側の販売方法でお客さんに正面から対応する必要があります。

構図としては「買う側」が「売る側」を監視して、「売る側」が「作る側」を監視して、「作る側」が「買う側」に知識を伝える事で「三つ巴」と言うバランスが保たれます。
この事でピラミットの構図ではなく、真円の力関係になり不当な利益を得る事が不可能となります。
このバランスの目的は「急速な変化」の防止で、「緩やかな変化」を維持して行く事が可能となります。

例えとして1500mを走るのに100m走のペースで走ってはゴールには辿り着けません。
ゴールの位置をしっかりと確認できて、完走できる力量を持ってから走る必要があります。
周りが走り出したからと言って焦って走っても完走出来ず、その人は踏み台とされるのが現在の商売です。
それに私の仕事は競う必要がないので、ベストを尽くして最後まで走る事ができれば成功と言えます。

気を付けることは監視し過ぎて「三竦み」になってはならないと言うことです。
物事が「緩やかに動く事」と「全く動かない」と言うのでは意味合いが全く違います。

ひと昔前から糸魚川は以前のアフリカと同じで、ただの鉱石供給地にしかなっていません。
(アフリカはダイヤなどの宝石が出ますが、こちらは翡翠と言う岩石なので需要は遙かに劣りますけど)

使いこなす意志が無く、志の高い加工人が育つ環境にもないので、この流れがこれからも続くのでしょう。
この「変化がない現状」によって、糸魚川が平和であるのかはちょっと疑問に思いますが…。
(逆に換金目当ての落ち武者みたいな連中が以前よりも増え続けているようです)

世界のジオパークによる規定の「保護と活用」は糸魚川翡翠には全く適応されていないのが現状です…。


余談ですが、「平和と戦争」も同じ事が言えます。
平和とは「変化の無い退屈な毎日」の事であり、刺激を求めると争いが生まれ、やがて勢いを増して様々な存在を蝕んでいきます。
もし全人類の精神が「変化の無い退屈な毎日」に耐えることが可能であれば戦争などは起こりません。
でも現実的には無理な話なので、変化を遅く緩やかにしていくしか方法はないでしょう。
戦争が商売である以上、これも知識が解決する事なのですが、今はそれを阻止されているのが現実です。

もしも、全く変化がなくても人類が幸せに暮らせるのであれば、それは新しい道であり、人間という生物を超越した存在と言えるのかもしれません。
2011年06月27日
今回仕上がりました「神緑の欠片」は、夏にぴったりの作品となりました。
躍動感ある深い緑色と高い透明度、そして艶やかな光沢がとても魅力的です。
ここまで質が良いと磨きの行程がとてもスムーズになり、手をかけるほど美しくなります。
真夏の日差しで青々と燃える木々のように、底知れない神秘の湖のように、どこか懐かしく人を惹きつける、かつて日本人がその姿に神(自然)を見て愛し敬った翡翠です。
デザインとして、生命力あふれる葉の形を元に、日差しを受けて煌めく水面を映し込んだ作品に仕上げてみました。
2011年06月17日
この二つの違いは知られているようでいて、あまり明確に伝わっていません。
同じ「ものづくり」として似通った部分が沢山あるので分かりづらいのかもせれません。

私が認識している限りで、分かりやすく極端な特徴を上げてみます。(あくまで私的解釈です)

・極端な作家
生粋の作家は常に作品を作る存在で、自分や自分以外の人間を使って無形のものを有形のものとします。利益に関係なく創作活動を行い、表現を自在に操り、その規模を大きくも小さくもする事ができます。他者が一切介入できない自身の世界(芸術)を根幹に持っている人達です。
(作家として生きれば作家となり、一流かは他者が好きに決める)

・極端な職人
生粋の職人は常に商品を作る存在で、その対象をより上手く、より速く仕上げる為に腕を磨き、他者の追従を許さないよう超絶技巧を求めてひたすら錬磨します。優劣を決めるのはその卓越した技巧のみと言う、とても器用で、拘りという世界(伝統)を根幹にもっている人達です。
(一つの基本を切磋琢磨し、親方に認められて初めて職人となる)

作る側の人には誰しもがこの両方を少なからず持っていて、どちらかに特化した人が「作家」や「職人」として呼ばれるのだと考えています。(現代では、ただの肩書きになりつつあるように思えますが…)

私の中にも両方の考え方あり、作家方面としては、「腕だけを磨いてもそれを活かす対象を創れない職人は駄目だ」と考えている反面、「自分の創り出したい表現を人に任せる作家は駄目だ」と思っている職人方面の自分がいます。

作家の視点から見ると、昔に存在している品を作るのは自分の技巧を高める為の練習であり、それをどれだけ上手に作ったとしても模造品や贋作となってしまいます。
作家にとって技巧を高めるのは己の表現を具現化したいからであって、復元したいからではありません。
でも過去の情報とは完全に決別する事は不可能なので、その情報に自分の表現を合わせ、高めた技術を使いこなして「自分オリジナル」の作品を作っていく事が大切になります。(売っていく事も大切…)

職人の視点から見ると、現代で完全な新しい存在を誕生させることなどは不可能であり、過去と正面から向き合えない者が作った品は駄作や不良品となってしまいます。(未来へも進めない)
職人にとっては基本が大切であり、その意志と技術を未来へと繋げていくことが必要不可欠となります。
しかし、職人は伝統を継がせる必要があるのに追従できない領域を求めてしまうので、技巧を高めながらも「継承者の育成」にも力を注ぐことが大切になります。

どちらにも大切な部分があり、注意すべき部分があって、どっちが正解と言うことはありません。
作っていく人にとっては「どちらも必要である」と言えると思います。
ただ、双方ともに言える事は、その「脆さ」や「危うさ」が作る人間を美しくしている事は事実です。
心は常に豊かでいて、生活はギリギリ安定くらいが一番良いバランスになると思います。

結局は同じ存在からの派生なので、私としては「人に依存せず自分でも表現して生きていける作家」を目指し、「腕を上げながら発想力を養い創作できる職人」も目指す事が大事なのだと考えます。
(私には親方がいないので本当の職人にはなれませんが、幼少の頃に画家である祖父に教わった表現技法や生き方を参考にして作家の道を進んで行きます)

過去に向かい合って錬磨して、現在で表現を加えて具現化し、それらを柱に未来へ繋げる道筋を創る。
それが最終的な目標であり、一個人の規模でも良いので実現して行きたい「信念」でもあります。
2011年06月07日
私が考える芸術の原姿は個人規模での「究極の遊び」だと考えています。
遊びは豊かな心から生まれて、「楽しむ」という気持ちを具現化した存在なのだと思います。
なので利益から遠ざかるほど「純粋な芸術」となり、小規模で底が深い美の世界になります。
よって、これを人と共有したいと考える場合、自分と他人が楽しめる「遊びのルール」が必要となります。
個人としての色を残しながら、新たな色を受け入れる許容領域が必要となります。

スポーツも遊びからの派生であり、「楽しむ遊び」として苦しい生活の中で生まれてきています。
いつからか、その「遊び」に明確な差を示し、より高度なシステムを取り入れるようになりました。
その「遊び」に対して才能がある人達が、より高レベルで楽しみたいという想いがあったのでしょう。
ですが、それだけでなく差をつける事で自分に多くの「利益」を得る事を求めたのも事実だと思います。

もともと遊びと言う「楽しみ」を本質としていたモノが、仕事として「苦しみ」を生み出す存在となっていき、更に競い合い利益を奪い合う存在へと変貌するのが、この分野の「商売での末路」だと考えます。

生まれ持った身体能力で差が明確に出るスポーツに比べて、芸術はそこまで明確に差がでません。
元が「個人規模の遊び」なので、絶対的な否定が不可能であり優劣は付けられません。(好き嫌いは別)
その人の表現なので、その存在自体を否定する事は自身以外を除き、誰も出来ないのです。
(自分自身で作り、コンセプトをもって誕生した作品に限りますが…)
こういった事もあり、作品とは他者が利用する際には、作者が死んだ後の方が扱い易くなっています。

他者との共有を求めた場合、「共感する人達との遊び」となり、共感しない人達とは遊びになりません。
共感する人達が多いほど、多数決の世の中なので影響力を持つようになります。(優劣とは別)
しかし、共感しない人達にまで共有を求めると、遊びのルールは大きく壊れ利益を求めるようになります。
どの分野でもそうですが、「純粋な遊び」のままでは大金は得られないと言うことですね…。

昔から生きていく業は、農耕か狩猟となっていて、遊びでは無いのは事実です。
でも今の世の中は資本主義という「換金システム」で動いており、お金を得る事が生き方となっています。
そうであれば、その換金システムを使いこなせば良いのだけの事になります。
お金は人が作りだしたモノであり、システムも人が作った存在です。
なのでお金を人が使う事があっても、使われる事があってはならないと考えます。
芸術家が表現を使いこなすように、このシステムも使いこなせば良いのです。
苦しい生活を過ごす為、精神のバランスを保つ為に遊びが生まれたのなら、生きる事には欠かせないはず。
そして、その存在に代価を払わない道理はないはずです、特に今のような世の中では…。

そのセンスによって左右されるかと思いますが、私的には最小限の利用で十分です。
芸術のルールを壊してまで、大金を得たいとは思いませんし…。
苦しみからは逃げられませんが、楽しみを本質とする存在と共に生きれば幸せは得られると思います。
世の中にはルールの壊れたモノが散らばっていて、その存在に怒りを感じますが、常に心を豊かに保ち「楽しみの本質」を忘れないように取り組んで生きたいと思います。

どれだけ芸術が時代により変わっても、「誕生と存在の理由」だけは変わらないと信じています。
2011年05月27日
私が思い描くibitsの未来の姿は、作家自身がお客様と正面から向かい合うシステムです。
これにより、作っては売り手に任せる「商品換金システム」と、それを売って利益を得る「ピンハネシステム」を完全に排除する事ができます。(作家同士の協力はします)
作品に対してお客様の質問に100%の受け答えが出来るのは、その作品を作った作者だけです。
今まで作る人は、お客様と向かい合う事から逃げすぎていたのではないでしょうか…。
何をそんなに恐れるのでしょうか?そんなに自分の作品に自信が無いのでしょうか?
芸術家とは人としての魅力を認めて貰わなければ、生きていくことは不可能です。
そして認めて貰うには、お客様と正面から向かい合うしか方法はありません。

画家や陶芸家などは、材料に特別な価値がないものを使って「特別な作品」を作ります。
その素材を扱うには、作品力と人間力が無ければ使いこなす事は無理でしょう。
けれど翡翠はある程度の価値が最初から認知されているので、まだ使い易い分類のはずです。
一般の人でも、ある程度その作品に対して評価を付けることができるはず。
ただ、そのせいもあり作品と商品の違いが曖昧になっている事実もありますが…。
どうしても一旦はお金の価値に変換しなければ、それを理解できない人達が多いのでしょう。

そもそも生命が鉱物を扱う原始の理由は「道具」として生きる為に使う事です。
その道具に、より使い易い「機能美」を求めて加工を施し、それによりある程度の生活の安定を得ると、そこに「造形美」を求めて表現を発展させたのだと考えます。
その姿のモチーフとなったのが、身近にあり共に生きている自然そのものだったのでしょう。
常に自然と一つで在りたいと言う願いを込めたのだと私は考えます。
換金のみを目的にして、人の文化に誕生したのではありません。

この部門での商売の基本は「安く仕入れて高く売る」と言いますが、現在では「安く仕入れたモノは高くはう売れない」という事がお客さんにバレています。
生きる術として換金目的のみで扱うのならば、原石でも販売していれば良いです。
拾ってきた石を売っていれば良いのです、あえてそれを造形する必要もないです。
造形し表現するのなら、換金とは別の理由が絶対必要になります。
この世界は、表現の為に存在する領域だと言っても過言ではないと考えます。
今は資本主義の世の中なので、お金を得ることは生活には欠かせませんが、それだけではあまりにも「心が貧しすぎる」と思います。
生活が豊かになったからと言って、必ずしも心が豊かになるわけでもありません。

現在、天然石として中国(他国)から入ってくる品は「切磋琢磨」の「磨」が抜けてます。
コスト削減で磨きをせずにガラスでコーティングをし、色がなければ着色をしています。
中国の言葉なのに残念でならない、それとも日本人がやらせているのかもしれません。
きっと「見栄えの良い品を安く」を求めたら、ここに行き着いたのでしょうね…。
また、国産翡翠を使って加工していても、換金目的だけでは心が貧しすぎる。

いい加減、自分達で作りましょうよ、作ってお客様と正面から向かい合いましょうよ!
そんな想いを込めて、ibitsは作家主導の組織にして行きたいと考えています。
現在は私が管理していますが、将来は作家達で支え合うお店にしたいです。
現実には、モラルがあって、国産鉱石を加工して、表現力のある同年代を探すのは難しいですが…。
それでも支えて下さる人達がいますので、未来に向けて進めると思います。
2011年05月17日
童話や諺などで、この二つが悪い例えとして教えられています。
蟻のように「コツコツと貯えていけば冬が来ても生きていける」と言う「備え」の大事さを説いているのでしょうが、キリギリスとして生まれた存在には、冬を越すことなど必要ではないです。
冬がくれば死ぬ、それまでの間を精一杯生きる事が、キリギリスにとって重要なのではないでしょうか…。
蟻から見れば遊んでいる様に見えるでしょうが、キリギリスはキリギリスとしての使命を全うしようと努力しています。
蟻がキリギリスに嫉妬しても、キリギリスが蟻に嫉妬しても、どうにかなる話ではないですね…。

蛙もそうですが、大海に出ても魚に食べられるだけ…、大海に出るには蛙のままではなく他の存在になる必要があります。
海水を泳いで生きていける「別の存在」に成らなければ、大海に出ても魚の餌食になるだけ…。
でも「蛙」として生まれた存在は、「蛙」を辞めることなどはできません。
だったら蛙として井戸を深く掘り下げて行けば良いのではないでしょうか…。
深く掘っていけば、大海には出られなくても別の大陸には出られるかもしれません。
囲われていた世界から出る事には違いありませんが、海よりは生存確立が高いかと思います。

結局は数多の知識や才能を備えても、使いこなせなければ意味がありません。
皆が平等に知識を得ても、才能を得ても、同じ人間(クローン)でない限りは個人差がでます。
人間は平等には出来ていません、それを羨んでも悔やんでも仕方がないです。
自分に出来ることを精一杯やって行けば良いのであって、争っても何も生まれてきません。
せいぜい「競う」くらいまでにしておいて、認めるべきものは認めなければキリがないと思います。

人は有限でありますが、人の欲望は無限であって宇宙のように膨張し続けて限界がありません。
満足することの無い存在は不幸せなだけです。(寿命により解放される仕組みには成っていますが)
自分が何をすべきなのか、蟻なのかキリギリスなのか、井の中の蛙なのか、を見定めて
身の丈にあった生き方をした方が幸せになれるのだと思います。

自分に無い力を必要とするならば、その力を持った人と協力し合えば良いです。
自分を知るためには、諦めがつくまで挑戦する必要がありますが、執着せずに結果を受け入れる勇気も必要でしょう。
それでも自分の「根幹」は他人に依存しない、自立した存在でなければならない…。
人と言うのは、非常に難しいバランスで成り立っているのだと感じています。


作る側として、糸魚川や甲府の現状に向き合うと闇に囚われそうになります…。
このまま鉱石における、日本の作る人の未来は「信念の腐敗」によって終わるかもしれませんね。
2011年05月07日
翡翠の緑には多くの種類がありますが、大きく分けると「明るい翠」と「深い緑」の2種類になります。
昔の翡翠の印象は透明感のある「深い緑」で、多くの日本人に愛されたようです。
中国では「明るい翠」に人気があり、太陽光で翠色が膨張するような淡い感じが好まれていました。
現在では翡翠と言ったら「明るい翠」が代表的になっているように思われます。
見栄えが良くて誰にでも魅力が伝わりやすいので、販売しやすいのも理由かと思います。
また、「明るい翠」には幅があり絶対数が多いので、供給面でも扱いやすい種類となっています。

それに比べて「深い緑」は幅が狭く、色が濃すぎると黒っぽくなったり、角閃石と混じり合ったりと石質的にも不安定で扱いにくい種類となります。
この系統はどうしても年輩向けの印象が強く、若い人達からは人気がありませんが、
逆に言えば幼稚ではない品格のある翡翠で「身につける人を選ぶ」という特徴があります。
そう言った事もあり、この系統は玄人好みの分類になっていて商売としてあまり表には出てきません。
画像にある品は、その中でも透明度も抜群で深い緑をもった最高クラスで作ってあります。
なかなか無い高品質の翡翠ですが、その良さは「知っている人」にしか理解されません。
こうした埋もれている翡翠は結構あるので、その良さを伝えて行きたいと考えています。
それを知った上で、判断して翡翠を購入されれば楽しさも増していくかと思います。

それとは別に気を付けたいのは「商品」と「作品」の違いです。
商品とは良く言えば「お客様の目線に立った品」であり、悪く言えば「人の顔色をうかがった品」です。
基準を決めて品の善し悪しを誰にでも解るようにしなければなりません。(ダイヤモンドが代表的)
この場合は、「翡翠の品質」と「職人の技巧」の二つが基準になっていくと考えています。
カラーダイヤのように「稀少」なものには、更にレベルの高い基準が設けられていて普通の人では手が出せません。
翡翠にも同じ事が言えますが、どんな世界でも「稀少なもの」は別格の扱いになりますので常識かもしれません。

作品とは良く言えば「独創的な世界を持った品」であり、悪く言えば「自分勝手で一方通行の品」です。
善し悪しの基準が難しく(無い?)、誰にでも解るような世界にはなっていません。
この場合は、「作品の好き嫌い」と「作者の好き嫌い」の二つが基準になっていくと考えています。
ここに職人クラスの技巧は、あまり必要でなくて純粋に「好き嫌い」での判断になるのでシンプルではあります。
作品にも解りやすい部門があり、絵画で言えば写実派の作品が解りやすく、印象派の作品になると朧気になっていきます。
その絵の上手いか下手を、実物と似ているかで判断して見てしまう人が多いので写実的な方が良く思えますが、
どんな作品であれ、見た瞬間に魂を揺さぶるような作品があれば、それが自分にあった品なのだと考えれば良いでしょう。
こちらも稀少という意味での「一点もの」として、別格の扱いになりますので高額になる作品が多く存在します。

それぞれの世界によって基準が違うので難しいですが、そこが魅力的な領域なのかもしれません。
それを楽しむ為にも、その対象への知識が必要条件となるでしょう。
2011年04月27日
この間から翡翠漂石を展示して、現在での国産翡翠の基準を明確にできればと考えています。
現在に採集可能な翡翠と、昔に採集可能であった翡翠を掲載していきたいと思います。
海や川から出るサンプルに、一つも該当しない翡翠があれば慎重に判断しなければなりません。
また、「透明度の高い翡翠」と「色の良い翡翠」とでは、どちらが稀少なのかも悩みます…。
現状での判断は、「透明度の高い翡翠」の方が稀少だと考えています。
透明度が低く色の鮮やかな翡翠は見た事があり、加工経験もありますが、
透明度の高い(ガラスに近い)翡翠は国産では見たことがありません。(良くて半透明)

ヒスイ輝石として鉱物で考えれば、無色透明であれば純度が高く貴重となります。
でも翡翠となれば「色」が必要となりますので、特に認知度の高い「翠」が貴重とされています。
最も良いのは「透明度が高くて色の鮮やかな翡翠」なのでしょうが、滅多にありません…。
この条件にはバランスが大事で、色が入りすぎると透明度が失われるようです。

同じ母石の質で色の希少性を考えると、紫と青がダントツで稀少と言えると思います。
双方が半透明と言える質さえ珍しく、大きな塊としても良質なものは無いのでは?と思われます。
(無色透明の翡翠は基準から除いています)

特に紫は一色タイプの原石を見た事がなく、原石中に脈として流れて存在している事が多いです。
この部類の紫は透明度が高く、小滝系の白〜灰色原石の中に見かけます。(糸魚川石も)
母石に混ざってしまっている事もあって、その場合は灰色っぽくて透明度が低くなります。
もう一つの部類の乳白色に紫が入る翡翠は、透明度は標準でチタン石などの不純物が多いですが、
白い母石が美しいので明るい紫色が映えて、原石の状態でも綺麗な姿をしています。

青翡翠は青緑や紺色に近い翡翠が主流となっていて、トルコ石のような青色は見たことが無いです。
一色タイプは青緑〜紺色が多く、色が濃いためか透明度が低く見えるものが多いように思われます。
もう一つの部類では青らしい青色がありますが、母石にヒビや茶色の不純物が入る事が多く、
白地の質も荒いので艶出しが困難なタイプが多くあります。
しかしバランスが良ければ、透明感のある美しい青色の翡翠となります。(青と言えるのはこっち?)

こうして考えると他の翡翠とは別の基準で見なくてはなりません。
それに色の混在している翡翠もありますので、混色翡翠とかにして分けた方が良いですね…。
(この混色翡翠は作品を作るには、とても魅力的な翡翠となります)

個人規模でも良いので、ある程度の基準を確立しておこうと思っています。
ただ芸術として表現すれば、どの翡翠もとても魅力的な存在です。
2011年04月17日
誰かが創ったものを真似て、あるいはモチーフにして造ることは難しい事ではありません。
デザインの根源は○と△(曲線と直線)であり、この二つが完全なオリジナルデザインです。
この二つで表現できない形は無く、この二つが含まれていない形も存在しません。
この二つが誕生した後のデザインは、その二つを組合せ使いこなしている事になります。
現代では「完全オリジナル」のデザインは「絶対に超えられない壁」として存在します。

人間はオンリーワンと言いますが、遺伝子的にはオンリーワンでは無く、
精神的にもすり込み(教育など)がありオンリーワンの思想はありません。
ですが、人には個々に宿る「魂」なる存在があると伝えられています。
その存在不確かな「魂」のみがオリジナルであり、オンリーワンと言えるのだと思います。
なので、魂のが形づくるデザイン・作品が「オリジナル」と言えるのだと考えています。
姿形だけでなく、そこに込められた「魂の意志」がなくてはオリジナルを誕生させる事は不可能。
そしてそれは器となり、所有者の魂をも受け入れる存在になっていきます。
「魂の器」とは人それぞれに違い、各々が持っていると考えて良いと思います。
人それぞれに好みがあるのは自分にあった器を探しているのだと思います。
余らないように、溢れないように、自分の魂がより自然に注がれる器をひたすら探し求める、
そう人は定められているのではないでしょうか…。

今の時代は無駄にデカイ建物を作り、「信仰の腐敗」をもたらしたゴシック期のような時代です。
そう考えれば、次は「再生」をもたらす作家の時代、「ルネサンス期」が訪れるでしょう。
その後に職人の時代であるバロック期へと繋がれ、商売の発展へと進んで行くのだと思います。

時代の流れは繰り返しますが、同じ円を描くのではなく、前に進みながら回っていきます。
乗りこなすには、以前よりも進化した表現力が必要となるでしょう。
芸術を目指す人々が「何を以て体現するか」がカギになるのかと思います。

私は、この糸魚川に国産翡翠による「糸魚川ルネサンス」が訪れる事を楽しみにしています。
でも私が生きている時代にルネサンスが訪れるかは分からないのですが…。
2011年04月07日
糸魚川の天津神社の裏には「天津神社本殿」と「奴奈川神社本殿」が並んでいます。
この地が大和に制圧された事で天津神社が表に出ていますが、本殿自体は並んで祀ってあります。
私は作品が仕上がると「二つの神社に報告に行く」と言う決まりを習慣づけています。
天津神社には天津神を、奴奈川神社には国津神などの作品を報告しています。
個人規模なので、柵も扉も閉まっている社に完成の報告と喜びを伝えている状態ですが…。
それによってどうなる事でも無いのですが、「習慣」を大切にしないと「芸術の進歩」もありません。

例えば「箸を使う」という習慣が無ければ、「箸の使い方」という美しい礼儀作法も存在しません。
食べるための動作に美を持たせて創り出された作法は、芸術となり文化となっています。
多くの人が美しいと認めなければ礼儀作法とはならなかったでしょう。
そしてその需要が高まり商売となる事で、「箸を制作する」という仕事を発展させます。
同時に量産化へ向かうため、美の劣化・価格の破壊を引き起こし、やがて商売として淘汰されます。
それでも芸術としての「箸の制作」は存在し、「箸の礼儀作法」の文化も残り続けます。
要するに、芸術の進歩がなければ「新しい商売」は生まれてこないと言えます。
商売のモデルとは「芸術」であり、原点は「習慣」だと私は考えています。
生きるために行っている事を美しく魅力的に表現した文化を、商売は利用しているのだと。
(その逆に芸術・文化を維持するために商売を利用している現実もある。)
なので箸を三本つかった作法を文化と出来れば、それに伴った商売が誕生する事でしょう。
もっと新しい習慣を生み出せば可能性は広がりますが、定着するのに300年はかかるかと思います。
それでも種をまかなければ芽が出ませんので、いろいろと挑戦してみる必要があります。

先進国は来る所まで来ましたので、後は原点からの発展が必要となるように思えます。
今現在の流行である「低賃金労働者育成システム」から脱却したいのなら、
個々の習慣を大切にして「己の信仰」をもって生きる必要があるのだと思います。
2011年04月01日
人それぞれを一つの国とするならば、他国(他人)に命綱を握られる事はあってはならない。
特に個人自営業は「独立主権国家」を成さなければ、植民地となり他国に安く使われてしまう。
一つの旗の元に集まる合衆国(企業)は、民主主義という鎖に縛られて思うように行動できない。
不景気の世の中では、民主主義も足枷となってしまう事は隠しようがない事実です。
自分がどのような国なのか、どんな国と成りたいのかを確認して進んで行かなければなりません。

個人自営業が考える事は国(日本国)の運営を小規模(個人の規模)にすれば良いです。
とにかく自給力と外交力を高めなければ、国の繁栄は不可能となります。(防衛力にも繋がる)
現在の商売として「値下げ」が主流となっていますが、この品は直接「国の繁栄」には貢献しません。
値下げシステムのカラクリを説明しますと、まず第一に守る項目として「国の運営」があります。
そこからブランド、この中にも優先順位があって大ブランド・中ブランド・小ブランドがあります。
その下に量産商品というモノがあり、これが臨機応変に値段を調整して「ブランドの維持」を担います。
この量産商品の調整が追いつかない場合、小ブランドの値段が変動します。
小ブランドでも調整出来ない場合、中ブランド→大ブランドと値段が変動して運営に影響を与えます。
ここまで影響が出てしまうとかなり厳しくなりますが、量産商品が売れている間は何とかなるでしょう。
今は不景気なので量産商品が価格破壊を起こすのは当然ですが、元々が「安く仕入れた品」であるので、
値下げの許容範囲がとても広く、大量にあるので在庫処分として転用が可能となっています。
このシステムで重要な事は、量産商品しか持たない国は「滅んでいく定め」にあると言うことです。
自国ブランドを持たない、自国ブランドを維持できない、そういう国は運営に限界がある事になります。
幾層にも成るピラミットを構築できないと、滅亡のリスクも大きくなると言う事ですね…。

しかしこのシステム…、余りにも人をバカにしているようにも感じる。
量産商品は大抵、もの凄い格差のある国(人件費の安い国)で作らされています。
特徴としては、見た目を重視するので様々な処理をしています。(着色やガラスコーティングなど)
安く売るから「許される」と言う暗黙の了解が成立しているようにも思えます。
でも量産と言えども全自動で作られているのでは無く、必ず主要な作業は人の手が入っています。
企業努力と称して簡単に価値を下げて良い存在では無いはずです。(特に作りもしない人達の都合で)
何かを踏み台にしなければ守れないシステム…、これが国や商売の本質なのでしょうか…。
扱う側に問題があるのか、購入する側に問題があるのか、その両方なのか。
分かることは、「この汚い領域から目を背けずに自分らしく生きられる道を探す必要がある」事です。
これが「自分という国」の根幹を成すための、生涯にわたる試練なのだと感じています。
2011年03月27日
国津神の大国主「八千矛神」が神玉として完成しました!
加工にもの凄く苦労しましたが、納得のいく仕上がりになりました。
大地の化身として獣形を基本とし、一つを千本とした八つの矛を額と背中に持たせました。
この神は八岐大蛇と同一視される事も多いので、矛を蛇の頭の形にして八岐大蛇の要素も含めています。
デザインモチーフとしては、天孫降臨(隕石落下)によって滅びたジュラ紀の主「恐竜」です。
国津神の特徴として、全てに戦化粧(丁字)を施していきます。(女神も…)

大国主はインドのヴィシュヌ神に良く似ています。
幾つもの化身が存在して大抵は英雄ですが、中には破壊神となっている事もあります。
また、大国主が役職名だとしたら「何代目大国主〜」という事もあり得ます。(総理大臣みたいに)
今の日本みたいに頭がコロコロと変わるようでは、いつ国譲りが起きてもおかしくありません。
実際の大国主には、ちゃんと日本国を治めてほしいですね…。
東北地方太平洋沖地震で被災された方々の為にも、全ての国民を束ねて復興しなくてはなりません。
2011年03月17日
聖書では人の千年王国が終わりを迎える頃、悪魔が世界に大災厄を招くと伝えられています。
人にとって眠っている地球が「神」ならば、目覚めた地球は「悪魔」となります。
人類が現状では満足できず、より便利な文明への欲望に負けた事で、
青く静寂な世界から赤く活発な世界に変貌する時期が近づいているのかもしれません。
その時は変わりゆく地球に適応できるかが、人類(生命体)の存亡に深く関わってきます。
今までのように「都合の良い事」を見て「都合の悪い事」は見ないという事が通用しなくなります。
嫌なモノをぼやかしていたフィルターが壊れ、無情な真実を背負って生きて行く事になるでしょう。
これからは常に危機感を持って生きなければ…。
本来、生きると言う事は「そう言う事」なのですから。

古い書籍は「真実をドラマチックに描いた物語」と私は考えています。
その物語が、未来に何を伝えたいのかを読み解く事が大切だと思います。
2011年03月07日
春に向けて糸魚川では、海と山の幸を味わえる季節になります。
海からはワカメ(めかぶ)が荒波によって浜に打ち上げられます。
新鮮な内に湯がいてポン酢で食べると大変美味しいです。
翡翠漂石を探しながら拾っている人達が多いです。(浜なので密漁にはならないでしょうか)
たまに魚も上がっていますが、「竜宮の使い」と言う魚が上がっていた時は驚きました。
あれを見たら恐竜という生物が、本当に実在したのだと改めて認識できました…。
戦慄が走るとは「この事か!」と感じました。(尋常じゃなく長くてデカい!)
山には山菜(フキノトウ・ウド・ギボシなど)が芽を出してきます。
この糸魚川も管理されている山が多いので勝手に入ると怒られます…。
なので川淵(姫川〜小滝川下流)を歩いていれば大抵の山菜は見つかります。
川に流れ込む雪解け水が栄養豊富なのか、立派な山菜を見つけることが出来ます。
山菜にはアクがあり、大量に食べても身体に良いものではありませんので、
春を感じ楽しめる程度に採取すると良いかと思います。

こういった遊びは楽しいのですが、どこまでやって良いのかが難しい…。
人様に迷惑のかからないように気を付けたいものです。
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