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2011年11月17日
一部の地元の人が、糸魚川のヒスイを大切にする理由の中には「故郷の誇り」があるからだと思います。
その誇りを肯定し続ける存在が絶対に必要であり、比較されたとしても揺るがない心を育てる必要があると考えています。

どうしても同じヒスイとしてミャンマー産の翡翠との比較がされますが、これは孔雀の雄雌と同じ様なもので、見栄えが良く「自己顕示」を満たすのが雄であるミャンマー翡翠で、地味ではありますが暖かみがあり奥深い品格によって「自己満足」をもたらすのが雌である糸魚川ヒスイです。

見た目だけの評価により、糸魚川ヒスイの愛好家は悔しい思いをする事が多くあります。
現在、日本に入ってくる翡翠商品は着色などの処理品なので比較の対象にはなりませんが、それを知らない人の言い分や、無着色の天然翡翠に対して明確な対応が出来ていないのが現実です。(糸魚川ヒスイを販売する人の知識が少ない事が原因の一つです)

なので比較された際には「盛りのついた雄の孔雀では無い」の一言で終わるように、糸魚川ヒスイのカリスマとなる品を、それぞれが構築して行かなくてはならないと考えています。

それにジェードとは「あばずれ」と言う意味が含まれていますので、そんなモノと同じにされたくもない。
東洋を差別しての隠語なのでしょう…、今では利益になる事が分り手のひらを返したようにジェダイトと改名して扱っていますが、その事実は消すことは出来ません。(消費し尽くしたら再び差別するでしょう…)
未だに翡翠と翡翠に類似している石全般をジェードと総称する西洋人(宝飾関係者)も沢山います。

こういった差別をされているのは派手なミャンマー翡翠であって、地味な糸魚川ヒスイではありません。
その違いを明確にしていかなくては「その他大勢」みたいな扱いをされ続けてしまいます。
(糸魚川ヒスイは赤色が無いので「翡翠」ではなく、「ヒスイ・ひすい」で良いと思います。)

この現状を打開するには、根幹である糸魚川市民が糸魚川ヒスイに対して誇りを持つ必要があり、それを実現にする計画が絶対に必要になると思います。(一応、案は在りますが将来に託します)
ここまで市自体がヒスイを表に出して宣伝しているのだから、今更後には引けないでしょう。
糸魚川での生活文化の一部として定着する必要があり、楽して儲けようとする姿勢を正す必要があります。
なによりも表面上の色に惑わされないで、モノクロであっても魅力を見出せる目を養わなければ…。

モノクロでも魅力的な品と認識でき、模様と色が入る事により品格を増す事を理解し、それを共有できる人達が大勢になれば何を言われても怖くはありません。
そして、それらを肯定し続ける存在(作品や人材)があって、初めて糸魚川ヒスイの真価を発揮できるのだと私は考えています。(作品と商品のハイブリットの品も必要になる)

それはやがて故郷に対する誇りを育て、郷土愛へと繋がり人の心を豊かにしていくのだと思います。

まずは発祥の地である糸魚川に定着させて、やがて日本全国にその基準を広め、その完成をもって世界に宣伝しなければ説得力が足らず真剣に聞いてはくれません。(まずはヒスイ愛好家の支持を得る必要がある)


実際、この糸魚川でも9割は表面しか見る事の出来ない人達で、その多くは商売にしている為に目先の利益を求め自己顕示している翡翠に向かってしまいます。(そして処理品に引っかかる)
ここでハッキリさせなくてはならいのは「翡翠」が好きなのか「ヒスイ」が好きなのかです。

この答えによって糸魚川が進むべき方向が変わってくると思います。

現実的に商売を考え、その利益にあやかろうとする人には「翡翠」の方が必要なのだと思います。
仕入れて売れるのですから簡単に翡翠商売に参加できます。(売れるかは自分次第ですが…)
その場合はミャンマー翡翠を主力として販売していく事になるので、糸魚川は糸魚川ヒスイという存在を事実上、放棄したと言う事になります。(甲府の水晶と同じ結果が待っているでしょう…)

今後、どのような未来を掴めるのかは分かりませんが、自身の道を進んで行くしか方法はありません。

この小さな地域でさえ私の一生では変えられないでしょう。(糸魚川生まれでもないですし)
それでも自分の信じる活動をして生きて行く事が、自分にとっての幸せの近道だと思っています。



※そろそろ現実のつまらない話ではなく、鉱物や加工の話を書いていこうと思います。
 糸魚川には面白い鉱物が沢山ありますので、自分の体験談と共に紹介していきます。
2011年11月07日
楽しみにしていたシルバー925のアイビッツロゴが仕上がりました。
○と△のデザインの組合せなので、とてもシンプルな形となっています。

色々と使えるので髪飾りや耳飾りに合わせた作品を作っても面白いかもしれません。

将来的には出品する全てに「ibitsと分かるアイテム」を付けて販売したいと考えています。
資金も必要だし、定着するのにも時間がかかるでしょうが、まずは行動しないと…。

とにかく身につけていて「誇らしい存在」を目指して活動して行かなくてはなりませんね。


今回はヒスイの加工では無いので、信用のある彫金の仲間にお願いして形にしました。
同時にシルバーパーツも幾つか制作し、シルバー925のパーツを使っての作品づくりが可能となりました。
外国からの品は銀の比率が低いらしく、作りも雑なのでどうにかならないものかと考えていたので、信用できる彫金の人と知り合えて良かったです。(基本的に日本製は全てシルバー925です)

制作者がハッキリしているおかげで開発の詳しい相談ができる事や、自分でデザインしたパーツも形にできるので表現の世界が広がりました。(自由にヒスイとのコラボが可能になりました)
どうしても初期費用は必要となりますが、作る人と繋がっているのでメリットの方が大きいです。

後は、どこかに国産のウッドビーズがあれば…、全てを国産の品で制作できたら良いのになぁ。
銀自体も日本で採取されたものを使えれば理想的なんですが…。(現在計画中です)

需要が無いから淘汰された分野ですが、反骨精神で活動している人もいるのではないかと考えています。
2011年10月27日
商売は「水と魚の関係」を例えると分かりやすいと思います。(無礼な例えではありますが非常に分かりやすいです…)

養分のある濁った水が「市場」とすると、そこに餌を垂らす釣り人が「売人」となり、その水の中を泳いでいる魚が「消費者」となります。
この状況は商売での初めのステージであり、魚である消費者には濁った水の中で売人が垂らす餌の姿がよく見えない(正確な判断ができない)状態になっています。
このステージでは偽り(疑似餌)が大半を占めていて「他の魚が食らい付いたから大丈夫」という錯覚にも似た感覚を与えて釣り上げる事が主流となります。
これは魚だけではなく、釣り人の側も「あっちがやっているから大丈夫」とう錯覚をおこし、同じ様な釣り方をしていきます。

しかし、この領域も永く続く事はありません。
同じ利益を喰らい合うのだから低迷するのは当然で、釣り人はより利益を得るために差別化していきます。
餌を良くする事がその方法となるのですが、水が濁っていては肝心の餌がよく見えません。
そこで水自体を濾過する事で餌を鮮明にさせて、準備した「差別化した餌」を投入します。
透明度を高めた水により疑似餌は正体を暴かれ、良くした餌はその中でより輝きを増していきます。
よって、このステージでは餌を改良した釣り人が勝ちとなります。(キリがあってのピンですから)

しかし、更にこれを真似る釣り人がいる為、この領域もスタンダードになります。
なのでもっと良い餌にして、もっと綺麗な水にして他者との差別化をしていくのですが、餌を良くし水を綺麗にして行くにつれ「住める魚」と「住めない魚」が出てきます。(釣り人も減るけど魚も減る)
ここまで来るとピンの餌でなければ食いつかなくなってきますので、それに対応する釣り人の負担が大きくなっていきます。(今までが楽をしすぎていたのでしょうけど…)

しかも水が綺麗になった事で、魚は水中からでも釣り人を見ることが可能となり、餌だけでなく背景も見るようになります。(どこで誰が造っているのか等)

高みへ登れば登るほど透明度が求められ、やがて「釣り人」と「魚」の立場が逆転していきます。
この領域を維持できるのは換金を目的としない芸術品だけであり、商売だと最高級の品でしか通用せず、そういった品は数が少ないので成り立つ事はありません。(小規模ならば引き延ばせますが…)

結局はピンの品もスタンダードとなり、価格を下げるしかないのが商品の定めで、需要があっても供給できなければその商売はすぐに破綻します。(高みに留まる事は不可能)
伸び代を失った部門は衰退して行き、放置される事で市場である「水」が(年月が流れて)再び濁っていくので、同じ様な事を繰り返して行きます。(学んだ人は疑似餌には引っかからなくなります)
消費者は優しく騙されていた事で、記憶には嫌な思い出としては残らずに、新たな消費者と共に「その流れ」にのって行くのか商売のシステムとなっています。

商売とは濁った水でしか利益を上げることは出来ず、その商売が芸術を支える一つの方法でもあります。
これは家庭をもった人と同じですが、絶対に守るべき存在は自分の家族であり、仕事はお金を得る為だけの手段でしかありません。(家庭を持つ事は「家族の夢」が自分の夢となる事ですから)

芸術家にとっては自身の作品が子であり、守るべき存在となります。(芸術家は家庭を望むべきでない)
その領域を守るために、「同じ制作部門で濁った領域」を持つか、「別の仕事をして濁った領域」に身を投じて支えるかの選択が迫られる現実があります。(他者に支えられる運の良い芸術家もいますが…)

濁り=養分=お金となりますので、お金を得るには濁った領域でしか稼ぐ事はできません。
この領域では制限(モラル)を持った人ほど利益は出ず、金儲けに徹した人には勝つ事は出来ません。

消費者がこの事実を知りながら購入する際は「本物を見抜ける眼力」を備えるか、「所詮は濁った領域の産物」として全てに過剰な期待を持たずに「お祭り感覚」で購入するしかありません。

日用品や電化製品などは使う事で違いが分かるのですが、最近はその違いも差がほとんどありません。
日本ではこの部門の市場(水)が綺麗になっている為、企業は利益を出す事が困難になり、低賃金労働者を使う事で現在の生活レベルを維持しています。(企業が国外に出ていく理由の一つ)
この部門では消費者でなく、偽りの領域を「制作者」に対応させるようになっています。

私達の生活レベルは発展途上国の低賃金労働者によって支えられているものであり、このまま知らぬ顔をして続けて行くのなら、近い内にその報いを受ける事になるでしょう。

商売とは「汚く稼いで綺麗に使う」と言われますが、現在では「汚く稼いで汚くに使う」になっているように思えます。(どちらが正しいのかは分かりませんが…)

この時期に、それぞれが商売との付き合い方を真剣に考える時期に来ていると私は考えています。
まずは「知る」事から始めて、適切な使い方を学んで行く必要があると感じています。

偽りの無い世界などは存在しないのでしょうが、その中でも最低限の節操を持って生きたいですね。
2011年10月17日
今回は主に絵画の手法である写実と印象について書きたいと思います。
同じ絵画でも手法が違うと表現を伝える方法がかなり違ってきます。

印象とはそのままの意味であり、人の「記憶」に伝える技法であります。(起源は画名)
人の記憶と言うものは、古ければ古いほど美化されていき、現実を凌駕していきます。
その記憶を引き出す技法として、全体のイメージだけを描いて朧げに表現するのが特徴です。
なので、見る側に同じ様な記憶が無ければ伝わりようも無く、現代では特に自然風景などの記憶が乏しいので記憶を引き出す印象画法は伝わりづらくなっています。
心境を描く際にも使われますが、同じ心境を体験した人にしか伝わらず、同じ時代に同じ境遇で生きた人々にこそ相応しい作品なのかもしれません。(記憶の鏡的な存在です)

写実は視覚に伝えるものであり、記憶を持たなくて良さが伝わる技法であります。
描き込むことでリアル感を出して、「その作品」を記憶とするだけの表現を込めていきます。
写真と違うのは現実よりも美化されていて、作者の記憶と感動を鮮明に写しだしている部分があります。
作品を通して記憶を共有する意味があり、その記憶の無い人に丁寧に表現しているのが写実画です。
印象と違うのは人の記憶を引き出すのでは無く、作者の記憶を共有するのが目的なのだと思います。
写実画と同じ対象を印象画で描いて見せたら、きっと写実画の記憶が甦る事でしょう。

絵画というものは結局は「記憶」が重要であり、幼少の頃の楽しい思い出や故郷の美しい景色は、人の誰もが美化されて記憶に残しています。
その記憶に勝るビジョンはなく、写真ですら当時の記憶を情緒豊かに残す事はできません。
人の記憶を引き出すには描き込みすぎず、記憶を共有するには感動自体もを描き込む必要があります。

この中間のような絵画は沢山ありますし、違う技法も多々存在していますが、対極のイメージがある印象と写実はその中でも重要で「面白い技法」だと感じています。
現在は幾つもの技法を混ぜて使うことが多いので、その意味合いもハッキリとしませんが「記憶に伝える」と言う本質は何も変わっていませんので、見る側も様々な記憶を養う事で絵画を楽しめるかと思います。

記憶を対象にして表現するのは全ての芸術に共通していて、遙か古代の記憶を持たない現代人にも「古の懐かしさ」を伝えられる唯一の表現方法だと思っています。

現代人の古代に対する一般的なイメージは、遺跡の復元物や博物館での展示・イラストだったりします。
しかし、与えられる記憶だけでなく「繋がれた絆の記憶」を引き出す事のできる作品を創り出す事が、私の夢であり国産翡翠作品としての最終目標となります。(その記憶が思い込みであっても全く構わない)

天然の骨董とも言える翡翠石を分解して新たに生まれ変わらせるのだから、同じように時を重ねてアンティークとして価値が付く作品「不滅の宝」を残すよう活動して行きたいと考えています。



※以前に糸魚川は「翡翠原石の供給地では?」と書きましたが、現在の姿を見て判断する事は「必ずしも正しい」とは言いきれないと考えるようになりました。
例えばエジプトも今の国を見るだけでは、発展した古代文明があったとは考えられないでしょう。
糸魚川も長者ヶ原遺跡付近は田中角栄の時代に工事したので、きちんと調査していない可能性があります。
そうであれば、まだまだ貴重な文化財があの一体には埋まっている事も考えられると思います。
なので、もう少しだけ糸魚川を信用して活動しようと思います。(現状の不埒は無視して行く)
2011年10月07日
日本神話にある黄泉比良坂での一件には、私的には疑問が多く存在します。
イザナミが「千の命」を断つと言い、その際にイザナギが「千五百の命」を生むと言ったとされていますが、どうもその順番や役割があべこべに思えてしまいます。

本質で考えると「生み出す」のは女性であり、「排除する」のは男性であります。
もし順番が違うとして、最初にイザナギが「千五百の命」を生むと言ってから、イザナミが「千の命」を断つと言ったのなら理解できるかと思います。
どんな存在も同じですが増えすぎると支障が出てきます。(増やせば良いというモノではない)
現在は少子化とされていて、国を維持するには税金を自動天引きする人員を多くすれば良いと言う現実がありますが、人数を増やしただけではもう何も解決されません。

今度は役割が逆だとすると、イザナギが「千の命」を断つと言ってから、イザナミが「千五百の命」を生むと言った事になり、これでも私は納得できます。
そもそも難産でイザナミが死んでしまった事により、その子供(ヒノカグツチ)の首をはねたのはイザナギ自身であり、どう考えても「生み出す」って感じでは無いですね…。
そのヒノカグツチの死によって数多の神が生まれたとされてはいますが…。(生と死は表裏一体って事を伝えたいのだろうか?)

これはアマテラスとスサノオの関係にも言えて、スサノオはアマテラスの創り出す存在を破壊する事が唯一可能な存在となっています。
しかし、それも三分の二までの事であり、全てを破壊することはないです。(滅亡しますので)
アマテラスにはツクヨミが常に側いて、協力しながら創り出していきます。(日進月歩ってやつです)
明けも宵も進んでいく事で膨大な数を生み出しますが、その三分の二を根の国(黄泉)の守護者であるスサノオが排除するバランスとなっています。
こう考えると古代での出雲が根の国と呼ばれ、蛇を信仰する文化がある意味が少し分かるように思えます。

これを男性と女性に当てはめて考えますと、現在は女性用の商品ばかりが多く生産されています。
そして造っているのは大体が男性であり、消費するのが女性というバランスになっていますね…。
これを逆にできなのだろうか…、女性が男性用の商品を造り、男性が消費するバランス。
男性がその三分の二を消費していく存在となれば、神々のバランスに近づけるような気がします。
男性をメインとするので規模は今よりは小さくなり、先へ進むスピードが緩やかになるかと…。
まぁ、そう簡単にはいかないでしょうが、将来的には選択肢に入りそうな事ではあります。

ここで重要な事は、足し算である「生み出す」って事より、引き算である「排除する」って事がとても重要な事で、もし人が足し算しか出来ない存在であれば、この先を進んでは行けないでしょう。
(人以外の生物ならば、足し算のみでも他の生物が引き算を担っている食物連鎖がある)

プラス思考・マイナス思考も同じで、マイナス思考は「慎重さ」をもたらす大事な思考です。
しかし、バランスとしてプラス思考はマイナス思考の一歩先を進まなければなりません。
人がプラス思考だけで生きていくとしたら、それは唯の馬鹿と言う存在になります。(実在しませんが)
誰もがマイナスを持っていて、それを乗り越えて一歩進むのが最良のバランスとなります。

とにかく生み出されるのは三分の一の割合が良く、「三歩進んで二歩下がる」のバランスが一番良いです。
三つ巴のバランスも、これを基礎にして進んでいきます。

日本の神話は言い回しが沢山あって、普通に読んでいても意味不明な事が多いです。
ですが本質からの広がりなので、探求していけば自分なりの解釈を掴めるかと思います。(答え合わせはできませんが…)
しかしあの文面で意味が通じていた時代って、かなり読解力にすぐれた人達の文化だったのだろうか…。
それかシンプルすぎて、逆に難しく考えてしまい、現在人には伝わりづらいのかもしれません。



現実と言うのは常に人類にとってマイナスなものでしか無く、本気でエコを考えたなら悲惨な結論になる。
マイナスだらけの世界を、一歩乗り越えるプラスを持って生きる事が人の定めなのかもしれません。
「知らぬが仏」と言う言葉があるのなら「知ってキリスト」と言う言葉があっても良いと思ってしまう。
現実の姿を知っても尚、真実を背負って前に進む事が「人が人である証明」なのでしょう。
それすら逃げて生きたいのならば、人を辞めるしか方法はないかと思います。
2011年09月27日
人類の文化の発展は、見方を変えると「現実逃避の発展」と言えるかと思います。
多くの人々が神とするイメージは見た目通りに「地に足が着いてない」です。
地球の理に囚われない絶対的な存在として人に恩恵や罰を与え、翼があって自由に空を飛び、太陽の様に光を放ち宇宙と繋がっている…。
地球を超えた存在であり、人が決して逃れられない地球との関わりからも解放された存在となっています。
あまりにも都合が良すぎるように思えます。(現実逃避の究極体が生み出した完全体って感じ)
地球の上位として宇宙を持ってきても規模がデカすぎて理解できない、計り知れない存在にしたいのは分かるのですが、現段階では付き合い方が分からないと思うのは私だけでしょうか…。

しかし日本に伝承されている古き神々を見ると、かなり「地に足が着いている」事が分かります。
日本人には「現実と向かい合う事の意味」が本能的に分かっていたのかも知れません。(家紋も植物だし)
全ての神の根源は自然(地球)から生まれた存在であり、現実での苦しみを堪え忍ぶ為には、自然との関わりで生まれる「喜び・楽しみ」が必要だと直感的に判断して誕生したのだと思います。(五〜六感によって)

現実をそのまま受け入れるように人類は進化しておらず、ひたすら逃げることに徹した結果、頭脳が発達して現代のような「人が住みやすい社会」にまで到達したのでしょうが、現実を受け入れ遺伝子自体を強化していった他の生物と比べるとあまりにも貧弱な存在となっています。
しかも「人にとって住みやすい社会」から生まれた人間は、より住みやすい社会を目指して行くので心が満たされる事がありません。

人が英知と呼ぶ科学で誕生した原発も、扱うのならば放射能を「分解できる遺伝子を持つ」、あるいはその科学を駆使して「分解する術を持つ」必要があるに決まっています。
原発を神のように宙に浮かせて、地球との関わりからも解放する事が可能なら別ですが…。

しかし、既に造られてしまった存在なので破棄する事は容易ではないでしょう。
遺伝子を強化してリスクを断つか、精神を強化して制限して行くか、そのいずれかの方法しかないかと…。
そして、そこから新たに向かい合う魂(未来を担う命)が生まれてくるのだと私は考えます。

人が現実逃避をするのは人で在る限り変えようが無く、無理に地に足を着けると途端に争いが始まります。
自然を神とする日本の神々も争いからは逃れられないようで、戦ってばかりいますね…。
結局、生きていく中で規模は違えど「現実逃避」と「争い」は存在していて、その中間に「自然(地球)と向き合う」って事が在るのだと考えています。

理解しておくべきは、現実逃避に傾きすぎると後始末が出来ず、現実直視に傾きすぎると戦争になる。
人は逃げることで現在の能力を得ましたが、時には向かい合う強さを持たないと足が地上から離れていき地球との関わりを忘れてしまいます。(這い蹲っても駄目…)

人の文化を大切にしながらも、地球との関わりも大切にしなければなりません。
2011年09月17日
今の社会の勢力図は勾玉と大珠の勢力図と関係があると私は考えています。
私の考えでは、勾玉はイザナギであり男性を象徴していて、大珠はイザナミであり女性を象徴しています。
(この場合の勾玉とは一般的に知られている定型であり、動物形などの異形とは別です)

土地として本来なら伊勢がイザナミであり、出雲がイザナギを担っているはずだったと考えています。
出雲の語源にはイザナミが関わってる説があり、日没の地(根の国)と言う事もあり女性(イザナミ)を象徴しているように思えますが、出雲大社の主神である大国主が男である事、卑弥呼が女性(男性だった可能性もありますが、女性で通す理由があったはず)である事、勾玉を制作している事からイザナギ(男)の地であると考えています。(武器も制作していましたし…)
今は名前が変わっていますが、天照(女)が伊勢となり、大国主(男)が出雲となっているので、私が考えている位置に治まってはいます。

現在は、三種の神器として剣(男)勾玉(男)鏡(女)のバランスとなり、あまり素材を限定せずに象徴(姿形)だけが国の宝として伝わっているので、男女共に勾玉デザインを求めるようになったかと思います。
私はこれが昔から現在へと続く、男女の勢力図に影響しているように思えてなりません。

大珠は勾玉を兼ねてもいて、女性がスカートとズボンを着用できる許容量の高さに似ています。
また、勾玉は単体でも見栄えしますが、大珠は装飾として着飾ってあげないと魅力を出す事が困難です。
男性が女性の魅力を見抜けず、女性自身も女性本来の魅力を認識していないから大珠は衰退して行き、上っ面の魅力に騙されて現在のような社会となったようにも思えます。

事実、今の「仕事」とされている行動の殆どには、男女の身体能力の差が関係していません。
男が必死に守ってきた領域も、取って代わる事が可能であり、消耗している男性より消耗されていない女性の方が伸び代があり、消費の面でも女性の客さんが圧倒的に多いので発展がスムーズになります。

ただ、障害となるのは男性なら立場(権力)に執着する年輩者ですが、女性の場合は更に男性全般が障害となる可能性があり、開拓にはかなりの精神力が必要となるかと思います。
どのような状況であっても女性は男性よりも障害が多く存在しますので、男性と同じやり方では乗り越え続ける事は、まず不可能となります。(女性としての向き合い方をすれば良いかと思います)

大珠も一緒で勾玉は国の神器となった事で、これ以上の高みは望めません。(上がる事も下がる事も無い)
だとしたら、大珠は国の宝では無く、「人の宝」として高めれば良いのではと考えています。
小規模で身近な所から開拓していき、時間をかけて人の宝となれば、即ち国の宝と同等になるでしょう。
(勾玉が通ってきた道ではありますが、更に進化させた表現を用いて行う必要がある)

神話でも時々、男女の立場が入れ替わったりして、「伊勢(日昇)はイザナギ(男)」、「出雲(日没)はイザナミ(女)」という時期から、「伊勢(日昇)はアマテラス(女)」で、「出雲(日没)はスサノオ(男)」というように男女が入れ替わって治められる時期がります。
本来、男が求めるべき品はイザナギ(勾玉)ではなく、愛する女性であったイザナミ(大珠)であり、今までのマイナスを補充するためにも、女性も少なからず大珠と向き合うべきだと感じています。
男性は黄泉の国まで追いかけて行くほど愛した女性(大珠)を、もう一度、思い出してほしいですね…。

大珠の姿は海から昇る太陽にも見えて、海に沈む太陽にも見えますので、どちらにも解釈できる事が大昔の物語りを面白くしているのかもしれません。

求愛の順序が違ってヒルコが生まれたり、他界の順序が違って黄泉比良坂での一件があったように、優先順位を間違えると不幸な事が起こりますが、長い目で見ると発展に繋がっています。(良くも悪くも)

重要な事は女性社会が理想と言うことではなく、男性社会と女性社会と中間社会の三社会がグルグルと回り続けて進んで行ければ、消耗される力を制限できると考えています。
(中間のニューハーフの方々の社会は感性が豊かなので面白いかもしれません)

現在の日本は西洋ナイズされていて、誰かが造った道を一方行しか進めていない気がします。
過剰な安定は人を腐らせますので、それぞれが制限できる精神力を持つ必要があるのかもしれません。


話はそれるのですが、スサノオの生まれた部分が疑問でしょうがありません。
アマテラスとツクヨミは瞳から誕生したのに、スサノオは鼻…、ちょっと格好悪いような気がします。
鼻は象徴なので意味があるのだと思いますが、やはり同じ瞳から生まれてほしいです。
そこで第三の目である「心眼」から生まれたって言う設定を思いつきました。(今更ではありますが)
この姉弟は三位一体なので「肉体のアマテラス」「精神のツクヨミ」「魂のスサノオ」となります。
心眼ならツクヨミではないかとも考えましたが、心臓は「魂の宿る臓器」にちなんで心の眼から誕生したのはスサノオとして考えて行きたいと思っています。(鼻が象徴する傲慢さが失われてしまいますが…)

以上、私の勝手な解釈でした…。
2011年09月07日
現在の国産翡翠にとって大切な「i」が三つあると私は考えます。
このバランスを古代で上手に保っていた土地の頭文字をもらい、「糸魚川・出雲・伊勢」としています。

糸魚川は長者ヶ原で加工をしていた形跡が在るものの、発掘された品が少なすぎるし、加工技術が残されていないので主に原石共有地であった可能性があります。(私の個人的な考えですが…)
この地は翡翠文化の原点であり、原石の守人(管理)と言う大切な役割を担っていたように思われます。

出雲は現在でも青瑪瑙などの加工を伝える地であり、鉄を使いこなして工具も作る事が可能だったように思えます。(武器の研磨に大珠や勾玉は工具としても使えなくはない、製鉄にも翡翠は使えるらしい)
鉄や玉の加工技術に長けるこの地は、製造文化の礎を担っていたように思われます。

伊勢は培われてきた権威により、国宝や文化財を認定する権限があり、古代から珍重されてきた勾玉を三種の神器に入れる事が可能であったと思います。(しかし勾玉は翡翠に限定されてはいない…)
古代遺産である勾玉の品格を引き上げる為の、重要な役割を担っていた地のように思われます。

かなり大雑把な私の解釈ですが、この三つを仕事としての規模で言い換えると「原石保有力」「加工力」「企画・宣伝力」となるかと思います。
この三つを備えれば問題は無いのですが、一個人に全てを求めるのも…(才能とお金があればあるいは…)
翡翠原石の規模を考えても個人の規模では足らず、地域の規模にする必要があるのかもしれません。

例えば「糸魚川」を中心とした場合、必要なのは「加工力」と「企画・宣伝力」の二つとなります。
この二つを「原石保有力」と同等の力にすれば、再び翡翠文化を復活させる事が可能かもしれません。
しかし現状は圧倒的に「加工力」と「企画・宣伝力」が低く、今後は下がる一方だと予想しています。
とにかく加工の担い手がいません、今では「暇を持て余した人達の遊び」に成り下がっています。
(遊びからの派生ではありますが、信念を持った人でなければ文化として先には進まない…)

結局は国産翡翠の需要が低く、加工を仕事として生活する事が非常に困難なのだからでしょう。
もう一つの「企画・宣伝力」を特化させたとしても、本命の品が揃わないのでは本末転倒ですし、力を入れたからと言って現在の経済状況では十分な需要は出せません。(生活必需品が優先されるでしょう…)

また、現在の「原石保有力」も無限ではなく、将来的に見れば掘り出す権利を得る必要があります。
人は消費する事しか出来ない生物なので、翡翠自体を造り出す事は不可能です。(地球以外は無理)
偉大な表現者でも自然の立場での創造は不可能であり、人間社会での創作が人の限界となります。

この三つの「i」が衰退している大きな理由には、人としての「品格の欠損」が根本にあります。
ばら撒かれる原石、誇りを失った加工、地に落ちていく品格…。

永く開拓されていない領域だったので問題が沢山ありあますが、その分「伸び代」が十分にあるのと思いますので、ちゃんと向かい合えれば良い結果を出せるように思えます。

重要なのは「原点」をおさえながらも「過去」に囚われ過ぎない事が大切だと考えています。
全く過去を見ないのも問題なので、そのバランスに気を付けながら進めて行く事が肝心でしょう。
将来的にバランスをとり合える実力者達が必要となってくる事は間違いないですね…。
2011年08月27日
当サイトの「ibits」の語源には歪(いびつ)という文字を含ませています。
昔は正確な品が少なかった為、職人達はより正確で完成度の高い品を作る事に力を注いでいましたが、現代では機械の進歩によって正確な品が溢れている状態となっています。
そこで今では、あえて歪さを出して作る事が「手作りの証明」のようになり、手作業で作られた品の魅力を感じる事のできる一つのポイントとなっています。(精密機械などの部品は別として…)
ですが、この歪さは使い方が難しく、やりすぎると「手抜き」に見えてしまい販売しづらくなります。
元々、歪を魅力にして表現するのは芸術の領域なので換金能力は低く、理解されるのにも時間が必要です。

現代の人間社会と一緒で翡翠にも「優等生」と「劣等生」に似た存在があります。
初めから色の発色が良く、透明度も高く、ヒビが少なく、加工や販売に必要なコストが少ない、換金能力の高い良質な翡翠が優等生。
色の発色が悪く、透明度も低く、ヒビも多く、加工や販売に必要なコストが多い、換金能力の低い翡翠が劣等生となります。

優等生である翡翠は磨きがいがあって、目に見える成果を出し、誰もが評価できる憧れる存在となります。
所有できるのはお金を持った人達であり、頂点は社会で「特権階級」と位置づけられている人達です。
投資のしがいがあって、利益を出しやすいのでお金や地位を得る近道となります。

劣等生である翡翠は磨きが困難で、成果も見えづらい事もあり、誰もが評価しづらい存在となります。
しかし、加工や販売に向かい合う時間は多く、それ自体から魅力を引き出そうとするので「芸術」として高める事の可能な存在となります。
私にとっては、これほど思い入れのある存在も珍しく、自分を見ているようにも思えてしまいます。
時間を気にして手を抜くと、へそを曲げるように魅力が出なかったりと天の邪鬼な性質も良く似ています。
今の人間社会の基準がどうであれ、自分の気に入ったものに向かい合って時間を費やし、納得のいく作品を作れたのなら、それが劣等生であっても問題がないと考えています。
いずれは「翡翠」と言う肩書きも超えて評価されるように、自身が成長する時期が必要でしょうが、数多ある鉱物の中で国産翡翠の加工を選んだのだから、その真価を引き出す為に全力で挑戦したいです。

結局、優等生であるはずの「正確な品」に少しの歪さ(遊び)を求めるのは、その対象に「人らしさの証明」を求めているからだと私は考えています。
万人に評価を求めるから、より分りやすい要素を入れなければならず、それによる対価を急ぐから拘りが薄れていき、最終的に陳腐化して量産製品に手を出してしまうのでしょう。

歪さを魅力にできる領域は「手作りでの品」にしかあり得ず、それを風合いとして「美」とする人達も存在するのだから、翡翠を加工する人達にはこの劣等生の領域にも向き合って活動して頂きたいです。

直ぐに結果の出る領域では無いですが、優等生と劣等生の両方の魅力を引き出す道のりは、人間としての成長に大いに役立つと思います。(他の分野でも同じ事が言えると思います)

これからも「人らしさである歪」を大切に、手作りの仕事に向かい合っていきたいと思います。
2011年08月17日
世の中には様々な宗教が在りますが、原初の姿を残したモノは少ないようです。
殆どが神様に頼み事をして依存し、盲信する傾向にあります。

そもそも神が宿っているのは意味のある全ての存在であり、全ての人が神の血を引いていると言えます。
日本であれば天津神・国津神、あるいは双方の血を必ず受け継いでいます。
外国の血が入っていれば、その国の神の血も引いている事になります。
神様に頼み事をすると言うことは、自分の中の神に頼み事をしている事になります。
なので自身から神の力を引き出さない限り、何も起こらないし、何も解決しません。

その手段として呪文やお経などの儀式を行うことで、引き出そうとする事自体は問題はないのですが、その結果が自身に表れなければ全くの無意味となります。
儀式をした事で満足していては意味がなく、本来の目的である自身の神を引き出せたかが重要となります。
日本の神は八百万も存在し、どの血を引いているかで引き出せる力は限定されるでしょうが、長い年月の間に人の血は数多くの血と混ざり合い、様々な神をその身に宿しているはずです。
蓄積された知識を使い、全身の感覚を研ぎ澄まし、不屈の精神力で己の中にある扉を開け放つ事が、自身の神を感じ触れあう事ができる唯一の方法だと考えています。

キリストがそうであったように、己の神を解放すれば奇跡を起こすことも可能なのかもしれません。
全人類が己の神を解放できたなら、人は平等な存在となり全ての悲しみから解放されるのかもしれません。
人が夢見る理想郷を誕生させ、皆が幸せに暮らせる世界を創ることができるのかもしれません。

ただ、その神を生んだのも原初の存在である「地球」と言う事を忘れてはいけません、地球が在っての神であり、我々人類であるのです。
人が神と触れあうと言う事とは、母である地球と繋る事であり、それを感じる事ができれば人類は地球にとって不必要な存在では無くなると思っています。
2011年08月07日
芸能界もスポーツ界も、現代の女性の力は凄いものがありますね。
神話で言うなら、天鈿女命が岩戸を開けるために舞っている感じだと思います。

でも肝心の天手力男神(主に男全般)が今ひとつ力不足なので、天照を引き出せずにいるようですが…。
力士の魁皇が新記録をうちたて貢献しましたが、それでは足ないようで純粋な力(戦争ではなく)を必要とする仕事への取組が必要となっているように思えます。(男の真価が問われているのではないだろうか…)

肝心の思兼神(政治家や官僚)も知恵が足りていないからどうにもなりそうにない…。
今の日本は先進国の真似をして現在に至りますが、その先を創っていく力が全く足りていませんね。
思兼神には天手力男神の上手い使い方を真剣に考えて頂きたい。

今の私自身が望むのは、身体を動かして効率的に発電できる自力発電装置を作ってもらいたいです。
人の心臓は栄養さえとっていれば自立して動いていますので、それで生きている人間は自分の身体を動かして電力(エネルギー)を作るべき存在だと考えています。
そうすれば生活習慣病と言うくだらない病気もなくなるので一石二鳥だと思っています。

自然エネルギーを使っての自動発電も国には必要なのでしょうが、やはり自分の使う電気くらいは己でどうにか作くれないものかと思ってしまいます。
その装置も自分で作れたら最高なのでしょうが、流石に個として限界を感じてしまいますね…。

国が未だ解決策が出てこない以上は、天鈿女命には今まで通り頑張って舞い続けて頂くしかないでしょう。
天照が少しでも覗いたら、天手力男神は引っぱり出せるように鍛えておかなければなりませんね。
2011年07月27日
本日、新たな異玉が誕生しました。(以前から作業はしていました)
異玉の造形は基本的に機械を使わずに、電着ヤスリや砥石などで制作していますが、穿孔だけはリューターを使用しています。(これも厚みがあると結構大変な作業になります)

異玉計画は生玉(精霊)と融合させることで神玉へと姿を変えていく計画となっていて、今回の「紡ぎの幼生」は国津神の少彦名神の原形デザインとなります。
原形デザインと言っても羽化した姿を神玉とするので、成長過程と言った方が良いかもしれません。
どの精霊の影響を受けるかでデザインも変わっていくので、他の神玉にも変化していくでしょう。
また未来への楽しみ(苦しみ?)が増えました。


最近、昔のように自由な表現がしづらくなってきました。
気楽に思うまま造形をしていた頃に比べると、いろいろと考えすぎてしまうようで…。
実際に、何も考えずに作ってしまうと底の浅い意味不明の存在が出来てしまうので、それもそれで問題なのですが、そこに少しでも明確な意志をのせられたら作品として魅力的になっていくでしょう。
まぁ、こういったものは次から次へと出てきては陳腐化してしまい、一つの価値を下げてしまうので急ぐ必要はないのですが、未来へ繋げる為にも少しでも土台を固めておきたいですね…。

現在は節電が叫ばれているので、焦らずに自然にふれる時間を増やして創作のヒントを探してみます。
自然には全てのヒント(答えも)が存在していますが、意識して見ていないと発見できません。
「ウォーリーを探せ」みたいな感じで探すと楽しめるかもしれませんね。
2011年07月17日
糸魚川翡翠の加工で最も苦労する行程は「磨き」だと言っても良いと思います。
翡翠は堅いので造形も大変なのですが、複雑な形でも木彫などが出来る人なら工具次第で何とかなります。
(それでも時間と手間のかかる大変な作業には変わりませんが…)
造形した後に研磨剤を細かくしながら何度も同じ作業を繰り返し、荒削りでの研磨痕を消していきます。
それから本題の艶を付けていくのですが、造形が細かい程その作業が困難になり、翡翠輝石の細かさや不純物の有無などにも影響されていきます。

また、きめが細かくて透明感のある翡翠でも艶付けの難しい翡翠があります。
おそらく、翡翠輝石の配列に問題があるようにも思えますが、確かな事は分からず経験でそう言った翡翠を見分けるこが可能になります。(白翡翠に配列の乱れが多い気がします)

磨きにも種類がありますが、望まれるのは一般的に「鏡面・ガラス光沢」と言われている磨きになります。
この理由としては他の天然石の商品が鏡面仕様となっていて、見ため的にも綺麗で高価に見え事が最大の理由だと思います。(人間にとって、とにかく輝いてさえいれば良く見える)

大概の品はガラスでコーティングされているので、本来磨きがあまり出せない鉱物(トルコ石・ラピスラズリ・ソーダライトなど)も鏡面仕様になっている事があります。
処理されていない天然石(結晶体)のほとんどは振動・回転バレルによって全自動で磨かれています。

実際に岩石類は脆いものが多く、退色や風化によって使えなくなってしまうので特殊なオイルを染み込ませたり、表面をコーティングする事は商売上では常識となっています。(宝石ではエメラルドやオパールなど)
ヒビが多くてもコーティングする事で頑丈になり、ヒビ自体も見えづらくなって、更に鉱物自体を磨く必要もなく、色すらも付けられるといった事が商売上の大きなメリットとなるようです。
こうなると天然石を使う意味があるのか疑問になりますが、脆い鉱物には仕方がないのかもしれません。

翡翠は岩石の中では硬く頑丈で、それ自体に艶を付ける事の出来る鉱物ですが、結晶ではないのでバレルのみでの自動磨きでは上手く艶を出せず、長時間バレルに入れるため柔らかい部分が凹んでしまいます。
(光沢はヌメっとした樹脂光沢っぽくなります)
鏡面磨きをする場合は水を使わず、遠心力と摩擦熱が絶対に必要であり、勾玉などのシンプルな形なら全面を同じ様な艶に仕上げることは可能ですが、細かい彫刻(中国とかの)などの細かい溝などを同一の鏡面磨きにする事はどうにも不可能のように思えます。
(勾玉の腹部分は高速回転で何度も磨かないと均一な磨きは出せません)

作品として人生をかけている品なら何度も繰り返して、ダイヤモンドパウダーを使用しながら溝などを磨き上げることは可能ですが、これは膨大な時間と手間のかかる事なので商売には適応できません。
(一度、細かい部分の磨きをしてみれば解ると思います…)

なので、ここでもガラス等のコーティングが登場するわけです。
コーティングして一つの結晶体(均一の硬さ)としてしまえば、バレルでも容易に磨くことができます。
水晶などの石英は、このバレル磨きでピカピカになるので、それを応用したのだと思います。
ガラスを磨く場合は遠心力と摩擦熱は必要ではなく、低速回転で磨き上げる事も可能となります。

結論として、石質が良くシンプルな形の品であれば全体的な鏡面磨きは難しくなく、石質が不安定で複雑な形の品の場合は全面を同一の鏡面磨きにする事は不可能に近い事になります。
前者はバレルでの全自動磨きが可能ですが、後者はバレルでの全自動磨きが不可能となります。

糸魚川翡翠は石質が不安定な翡翠が多いので、そういった翡翠には鏡面磨きは適さないでしょう。
それでも糸魚川翡翠には風合いがあり、独特の魅力があるように私は思えます。
磨く必要のある翡翠は磨き、磨く必要のない翡翠は磨かなくても十分に良さを表現できると思います。

こういった事は女性は理解できるのですが、男性には理解できない人が多いようです。
男性の方が美意識が低いのかもしれませんが、もっと表現の自由を識った方が良いのでは無いだろうか…。

しかし、漫画と活字の普及の差のように、人が伝わりやすい方に流れるのは仕方がないのかもしれません。
2011年07月07日
古来より三つ巴と言われるバランスが存在します。
これを私の仕事に取り入れる場合、「作る側」「売る側」「買う側」の三つが適応されると考えます。

以前は「作る側」の力が一番強く、次第に傲慢になり怠惰な面が多くなっていき、やがて「売る側」に激しい怒りと嫉妬をもたらす存在となりました。
自分達がいなければ商売が行えないという「売る側」の弱みを握っていたからでしょう。

その酬いなのか、今度は「売る側」の力が一番強くなり、「作る側」は衰退して行きます。
原因として「安い人件費」や「安く作る事」の出来る国(人)と繋がった事が最も大きな要因です。
お前達がいなくても商売ができるという現実を「作る側」に思い知らせる意味合いもあったのでしょう。

しかし、現在は「買う側」の力が強くなりつつあります。(賢くなってもらわなくてはならない)
こちらの側の力とは「買う対象の知識を得る」と言う事であり、力を強めた「売る側」のカラクリを監視する事が可能な力となります。(とても重要な役割です!)

商人のモットウは「金にする」と言う事で、何であれ金にする事がこの人達の正義となります。
こちら側では「作る側のこだわり」は、全てコストとなり削減されていきます。
その手法は「知る者が知らない者から搾取する」事であり、優しく騙して利益を得る事を得意とします。

よって、この腐れた鎖を断ち切るのは「買う側」であり、その知識を伝えるのが「作る側」の役目です。

「作る側」から購入する場合は、欲する品に「どれだけ作者が向き合っているか」が値段の基準となります。材質も値段の内に入りますが、ほとんどの価値は「創り出す姿勢」と「作品の完成度」にあります。
(均等に出来ているかでは無く、天然鉱物なので魅力的に仕上がっているかが価値の基準となります)
※作る側には作る側の販売方法でお客さんに正面から対応する必要があります。

「売る側」から購入する場合は、欲する品の「原価」とお客さんの為に「どれだけ動いたか」が値段の基準となります。商品に乗せている利益を納得して貰う為、お客さんの要望に応える「きめ細かなサービス」が利益を得る正当な理由となります。(少なくとも相対での接客が絶対必要となります)
※売る側には売る側の販売方法でお客さんに正面から対応する必要があります。

構図としては「買う側」が「売る側」を監視して、「売る側」が「作る側」を監視して、「作る側」が「買う側」に知識を伝える事で「三つ巴」と言うバランスが保たれます。
この事でピラミットの構図ではなく、真円の力関係になり不当な利益を得る事が不可能となります。
このバランスの目的は「急速な変化」の防止で、「緩やかな変化」を維持して行く事が可能となります。

例えとして1500mを走るのに100m走のペースで走ってはゴールには辿り着けません。
ゴールの位置をしっかりと確認できて、完走できる力量を持ってから走る必要があります。
周りが走り出したからと言って焦って走っても完走出来ず、その人は踏み台とされるのが現在の商売です。
それに私の仕事は競う必要がないので、ベストを尽くして最後まで走る事ができれば成功と言えます。

気を付けることは監視し過ぎて「三竦み」になってはならないと言うことです。
物事が「緩やかに動く事」と「全く動かない」と言うのでは意味合いが全く違います。

ひと昔前から糸魚川は以前のアフリカと同じで、ただの鉱石供給地にしかなっていません。
(アフリカはダイヤなどの宝石が出ますが、こちらは翡翠と言う岩石なので需要は遙かに劣りますけど)

使いこなす意志が無く、志の高い加工人が育つ環境にもないので、この流れがこれからも続くのでしょう。
この「変化がない現状」によって、糸魚川が平和であるのかはちょっと疑問に思いますが…。
(逆に換金目当ての落ち武者みたいな連中が以前よりも増え続けているようです)

世界のジオパークによる規定の「保護と活用」は糸魚川翡翠には全く適応されていないのが現状です…。


余談ですが、「平和と戦争」も同じ事が言えます。
平和とは「変化の無い退屈な毎日」の事であり、刺激を求めると争いが生まれ、やがて勢いを増して様々な存在を蝕んでいきます。
もし全人類の精神が「変化の無い退屈な毎日」に耐えることが可能であれば戦争などは起こりません。
でも現実的には無理な話なので、変化を遅く緩やかにしていくしか方法はないでしょう。
戦争が商売である以上、これも知識が解決する事なのですが、今はそれを阻止されているのが現実です。

もしも、全く変化がなくても人類が幸せに暮らせるのであれば、それは新しい道であり、人間という生物を超越した存在と言えるのかもしれません。
2011年06月27日
今回仕上がりました「神緑の欠片」は、夏にぴったりの作品となりました。
躍動感ある深い緑色と高い透明度、そして艶やかな光沢がとても魅力的です。
ここまで質が良いと磨きの行程がとてもスムーズになり、手をかけるほど美しくなります。
真夏の日差しで青々と燃える木々のように、底知れない神秘の湖のように、どこか懐かしく人を惹きつける、かつて日本人がその姿に神(自然)を見て愛し敬った翡翠です。
デザインとして、生命力あふれる葉の形を元に、日差しを受けて煌めく水面を映し込んだ作品に仕上げてみました。
2011年06月17日
この二つの違いは知られているようでいて、あまり明確に伝わっていません。
同じ「ものづくり」として似通った部分が沢山あるので分かりづらいのかもせれません。

私が認識している限りで、分かりやすく極端な特徴を上げてみます。(あくまで私的解釈です)

・極端な作家
生粋の作家は常に作品を作る存在で、自分や自分以外の人間を使って無形のものを有形のものとします。利益に関係なく創作活動を行い、表現を自在に操り、その規模を大きくも小さくもする事ができます。他者が一切介入できない自身の世界(芸術)を根幹に持っている人達です。
(作家として生きれば作家となり、一流かは他者が好きに決める)

・極端な職人
生粋の職人は常に商品を作る存在で、その対象をより上手く、より速く仕上げる為に腕を磨き、他者の追従を許さないよう超絶技巧を求めてひたすら錬磨します。優劣を決めるのはその卓越した技巧のみと言う、とても器用で、拘りという世界(伝統)を根幹にもっている人達です。
(一つの基本を切磋琢磨し、親方に認められて初めて職人となる)

作る側の人には誰しもがこの両方を少なからず持っていて、どちらかに特化した人が「作家」や「職人」として呼ばれるのだと考えています。(現代では、ただの肩書きになりつつあるように思えますが…)

私の中にも両方の考え方あり、作家方面としては、「腕だけを磨いてもそれを活かす対象を創れない職人は駄目だ」と考えている反面、「自分の創り出したい表現を人に任せる作家は駄目だ」と思っている職人方面の自分がいます。

作家の視点から見ると、昔に存在している品を作るのは自分の技巧を高める為の練習であり、それをどれだけ上手に作ったとしても模造品や贋作となってしまいます。
作家にとって技巧を高めるのは己の表現を具現化したいからであって、復元したいからではありません。
でも過去の情報とは完全に決別する事は不可能なので、その情報に自分の表現を合わせ、高めた技術を使いこなして「自分オリジナル」の作品を作っていく事が大切になります。(売っていく事も大切…)

職人の視点から見ると、現代で完全な新しい存在を誕生させることなどは不可能であり、過去と正面から向き合えない者が作った品は駄作や不良品となってしまいます。(未来へも進めない)
職人にとっては基本が大切であり、その意志と技術を未来へと繋げていくことが必要不可欠となります。
しかし、職人は伝統を継がせる必要があるのに追従できない領域を求めてしまうので、技巧を高めながらも「継承者の育成」にも力を注ぐことが大切になります。

どちらにも大切な部分があり、注意すべき部分があって、どっちが正解と言うことはありません。
作っていく人にとっては「どちらも必要である」と言えると思います。
ただ、双方ともに言える事は、その「脆さ」や「危うさ」が作る人間を美しくしている事は事実です。
心は常に豊かでいて、生活はギリギリ安定くらいが一番良いバランスになると思います。

結局は同じ存在からの派生なので、私としては「人に依存せず自分でも表現して生きていける作家」を目指し、「腕を上げながら発想力を養い創作できる職人」も目指す事が大事なのだと考えます。
(私には親方がいないので本当の職人にはなれませんが、幼少の頃に画家である祖父に教わった表現技法や生き方を参考にして作家の道を進んで行きます)

過去に向かい合って錬磨して、現在で表現を加えて具現化し、それらを柱に未来へ繋げる道筋を創る。
それが最終的な目標であり、一個人の規模でも良いので実現して行きたい「信念」でもあります。
2011年06月07日
私が考える芸術の原姿は個人規模での「究極の遊び」だと考えています。
遊びは豊かな心から生まれて、「楽しむ」という気持ちを具現化した存在なのだと思います。
なので利益から遠ざかるほど「純粋な芸術」となり、小規模で底が深い美の世界になります。
よって、これを人と共有したいと考える場合、自分と他人が楽しめる「遊びのルール」が必要となります。
個人としての色を残しながら、新たな色を受け入れる許容領域が必要となります。

スポーツも遊びからの派生であり、「楽しむ遊び」として苦しい生活の中で生まれてきています。
いつからか、その「遊び」に明確な差を示し、より高度なシステムを取り入れるようになりました。
その「遊び」に対して才能がある人達が、より高レベルで楽しみたいという想いがあったのでしょう。
ですが、それだけでなく差をつける事で自分に多くの「利益」を得る事を求めたのも事実だと思います。

もともと遊びと言う「楽しみ」を本質としていたモノが、仕事として「苦しみ」を生み出す存在となっていき、更に競い合い利益を奪い合う存在へと変貌するのが、この分野の「商売での末路」だと考えます。

生まれ持った身体能力で差が明確に出るスポーツに比べて、芸術はそこまで明確に差がでません。
元が「個人規模の遊び」なので、絶対的な否定が不可能であり優劣は付けられません。(好き嫌いは別)
その人の表現なので、その存在自体を否定する事は自身以外を除き、誰も出来ないのです。
(自分自身で作り、コンセプトをもって誕生した作品に限りますが…)
こういった事もあり、作品とは他者が利用する際には、作者が死んだ後の方が扱い易くなっています。

他者との共有を求めた場合、「共感する人達との遊び」となり、共感しない人達とは遊びになりません。
共感する人達が多いほど、多数決の世の中なので影響力を持つようになります。(優劣とは別)
しかし、共感しない人達にまで共有を求めると、遊びのルールは大きく壊れ利益を求めるようになります。
どの分野でもそうですが、「純粋な遊び」のままでは大金は得られないと言うことですね…。

昔から生きていく業は、農耕か狩猟となっていて、遊びでは無いのは事実です。
でも今の世の中は資本主義という「換金システム」で動いており、お金を得る事が生き方となっています。
そうであれば、その換金システムを使いこなせば良いのだけの事になります。
お金は人が作りだしたモノであり、システムも人が作った存在です。
なのでお金を人が使う事があっても、使われる事があってはならないと考えます。
芸術家が表現を使いこなすように、このシステムも使いこなせば良いのです。
苦しい生活を過ごす為、精神のバランスを保つ為に遊びが生まれたのなら、生きる事には欠かせないはず。
そして、その存在に代価を払わない道理はないはずです、特に今のような世の中では…。

そのセンスによって左右されるかと思いますが、私的には最小限の利用で十分です。
芸術のルールを壊してまで、大金を得たいとは思いませんし…。
苦しみからは逃げられませんが、楽しみを本質とする存在と共に生きれば幸せは得られると思います。
世の中にはルールの壊れたモノが散らばっていて、その存在に怒りを感じますが、常に心を豊かに保ち「楽しみの本質」を忘れないように取り組んで生きたいと思います。

どれだけ芸術が時代により変わっても、「誕生と存在の理由」だけは変わらないと信じています。
2011年05月27日
私が思い描くibitsの未来の姿は、作家自身がお客様と正面から向かい合うシステムです。
これにより、作っては売り手に任せる「商品換金システム」と、それを売って利益を得る「ピンハネシステム」を完全に排除する事ができます。(作家同士の協力はします)
作品に対してお客様の質問に100%の受け答えが出来るのは、その作品を作った作者だけです。
今まで作る人は、お客様と向かい合う事から逃げすぎていたのではないでしょうか…。
何をそんなに恐れるのでしょうか?そんなに自分の作品に自信が無いのでしょうか?
芸術家とは人としての魅力を認めて貰わなければ、生きていくことは不可能です。
そして認めて貰うには、お客様と正面から向かい合うしか方法はありません。

画家や陶芸家などは、材料に特別な価値がないものを使って「特別な作品」を作ります。
その素材を扱うには、作品力と人間力が無ければ使いこなす事は無理でしょう。
けれど翡翠はある程度の価値が最初から認知されているので、まだ使い易い分類のはずです。
一般の人でも、ある程度その作品に対して評価を付けることができるはず。
ただ、そのせいもあり作品と商品の違いが曖昧になっている事実もありますが…。
どうしても一旦はお金の価値に変換しなければ、それを理解できない人達が多いのでしょう。

そもそも生命が鉱物を扱う原始の理由は「道具」として生きる為に使う事です。
その道具に、より使い易い「機能美」を求めて加工を施し、それによりある程度の生活の安定を得ると、そこに「造形美」を求めて表現を発展させたのだと考えます。
その姿のモチーフとなったのが、身近にあり共に生きている自然そのものだったのでしょう。
常に自然と一つで在りたいと言う願いを込めたのだと私は考えます。
換金のみを目的にして、人の文化に誕生したのではありません。

この部門での商売の基本は「安く仕入れて高く売る」と言いますが、現在では「安く仕入れたモノは高くはう売れない」という事がお客さんにバレています。
生きる術として換金目的のみで扱うのならば、原石でも販売していれば良いです。
拾ってきた石を売っていれば良いのです、あえてそれを造形する必要もないです。
造形し表現するのなら、換金とは別の理由が絶対必要になります。
この世界は、表現の為に存在する領域だと言っても過言ではないと考えます。
今は資本主義の世の中なので、お金を得ることは生活には欠かせませんが、それだけではあまりにも「心が貧しすぎる」と思います。
生活が豊かになったからと言って、必ずしも心が豊かになるわけでもありません。

現在、天然石として中国(他国)から入ってくる品は「切磋琢磨」の「磨」が抜けてます。
コスト削減で磨きをせずにガラスでコーティングをし、色がなければ着色をしています。
中国の言葉なのに残念でならない、それとも日本人がやらせているのかもしれません。
きっと「見栄えの良い品を安く」を求めたら、ここに行き着いたのでしょうね…。
また、国産翡翠を使って加工していても、換金目的だけでは心が貧しすぎる。

いい加減、自分達で作りましょうよ、作ってお客様と正面から向かい合いましょうよ!
そんな想いを込めて、ibitsは作家主導の組織にして行きたいと考えています。
現在は私が管理していますが、将来は作家達で支え合うお店にしたいです。
現実には、モラルがあって、国産鉱石を加工して、表現力のある同年代を探すのは難しいですが…。
それでも支えて下さる人達がいますので、未来に向けて進めると思います。
2011年05月17日
童話や諺などで、この二つが悪い例えとして教えられています。
蟻のように「コツコツと貯えていけば冬が来ても生きていける」と言う「備え」の大事さを説いているのでしょうが、キリギリスとして生まれた存在には、冬を越すことなど必要ではないです。
冬がくれば死ぬ、それまでの間を精一杯生きる事が、キリギリスにとって重要なのではないでしょうか…。
蟻から見れば遊んでいる様に見えるでしょうが、キリギリスはキリギリスとしての使命を全うしようと努力しています。
蟻がキリギリスに嫉妬しても、キリギリスが蟻に嫉妬しても、どうにかなる話ではないですね…。

蛙もそうですが、大海に出ても魚に食べられるだけ…、大海に出るには蛙のままではなく他の存在になる必要があります。
海水を泳いで生きていける「別の存在」に成らなければ、大海に出ても魚の餌食になるだけ…。
でも「蛙」として生まれた存在は、「蛙」を辞めることなどはできません。
だったら蛙として井戸を深く掘り下げて行けば良いのではないでしょうか…。
深く掘っていけば、大海には出られなくても別の大陸には出られるかもしれません。
囲われていた世界から出る事には違いありませんが、海よりは生存確立が高いかと思います。

結局は数多の知識や才能を備えても、使いこなせなければ意味がありません。
皆が平等に知識を得ても、才能を得ても、同じ人間(クローン)でない限りは個人差がでます。
人間は平等には出来ていません、それを羨んでも悔やんでも仕方がないです。
自分に出来ることを精一杯やって行けば良いのであって、争っても何も生まれてきません。
せいぜい「競う」くらいまでにしておいて、認めるべきものは認めなければキリがないと思います。

人は有限でありますが、人の欲望は無限であって宇宙のように膨張し続けて限界がありません。
満足することの無い存在は不幸せなだけです。(寿命により解放される仕組みには成っていますが)
自分が何をすべきなのか、蟻なのかキリギリスなのか、井の中の蛙なのか、を見定めて
身の丈にあった生き方をした方が幸せになれるのだと思います。

自分に無い力を必要とするならば、その力を持った人と協力し合えば良いです。
自分を知るためには、諦めがつくまで挑戦する必要がありますが、執着せずに結果を受け入れる勇気も必要でしょう。
それでも自分の「根幹」は他人に依存しない、自立した存在でなければならない…。
人と言うのは、非常に難しいバランスで成り立っているのだと感じています。


作る側として、糸魚川や甲府の現状に向き合うと闇に囚われそうになります…。
このまま鉱石における、日本の作る人の未来は「信念の腐敗」によって終わるかもしれませんね。
2011年05月07日
翡翠の緑には多くの種類がありますが、大きく分けると「明るい翠」と「深い緑」の2種類になります。
昔の翡翠の印象は透明感のある「深い緑」で、多くの日本人に愛されたようです。
中国では「明るい翠」に人気があり、太陽光で翠色が膨張するような淡い感じが好まれていました。
現在では翡翠と言ったら「明るい翠」が代表的になっているように思われます。
見栄えが良くて誰にでも魅力が伝わりやすいので、販売しやすいのも理由かと思います。
また、「明るい翠」には幅があり絶対数が多いので、供給面でも扱いやすい種類となっています。

それに比べて「深い緑」は幅が狭く、色が濃すぎると黒っぽくなったり、角閃石と混じり合ったりと石質的にも不安定で扱いにくい種類となります。
この系統はどうしても年輩向けの印象が強く、若い人達からは人気がありませんが、
逆に言えば幼稚ではない品格のある翡翠で「身につける人を選ぶ」という特徴があります。
そう言った事もあり、この系統は玄人好みの分類になっていて商売としてあまり表には出てきません。
画像にある品は、その中でも透明度も抜群で深い緑をもった最高クラスで作ってあります。
なかなか無い高品質の翡翠ですが、その良さは「知っている人」にしか理解されません。
こうした埋もれている翡翠は結構あるので、その良さを伝えて行きたいと考えています。
それを知った上で、判断して翡翠を購入されれば楽しさも増していくかと思います。

それとは別に気を付けたいのは「商品」と「作品」の違いです。
商品とは良く言えば「お客様の目線に立った品」であり、悪く言えば「人の顔色をうかがった品」です。
基準を決めて品の善し悪しを誰にでも解るようにしなければなりません。(ダイヤモンドが代表的)
この場合は、「翡翠の品質」と「職人の技巧」の二つが基準になっていくと考えています。
カラーダイヤのように「稀少」なものには、更にレベルの高い基準が設けられていて普通の人では手が出せません。
翡翠にも同じ事が言えますが、どんな世界でも「稀少なもの」は別格の扱いになりますので常識かもしれません。

作品とは良く言えば「独創的な世界を持った品」であり、悪く言えば「自分勝手で一方通行の品」です。
善し悪しの基準が難しく(無い?)、誰にでも解るような世界にはなっていません。
この場合は、「作品の好き嫌い」と「作者の好き嫌い」の二つが基準になっていくと考えています。
ここに職人クラスの技巧は、あまり必要でなくて純粋に「好き嫌い」での判断になるのでシンプルではあります。
作品にも解りやすい部門があり、絵画で言えば写実派の作品が解りやすく、印象派の作品になると朧気になっていきます。
その絵の上手いか下手を、実物と似ているかで判断して見てしまう人が多いので写実的な方が良く思えますが、
どんな作品であれ、見た瞬間に魂を揺さぶるような作品があれば、それが自分にあった品なのだと考えれば良いでしょう。
こちらも稀少という意味での「一点もの」として、別格の扱いになりますので高額になる作品が多く存在します。

それぞれの世界によって基準が違うので難しいですが、そこが魅力的な領域なのかもしれません。
それを楽しむ為にも、その対象への知識が必要条件となるでしょう。
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