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2013年06月17日
先週、不動滝へ行って来ました!
この頃は天気も良く、最高の日和で訪れる事ができて良かったです。
ウルルが出没する前に行けて幸いでした!

訪れるのは久しぶりなので、今年の不動滝の景色を紹介していきます。(去年の訪れから一年も経っていませんけど…)


まずは入口、高龍神と書いてある鳥居をくぐります。
横には不動滝と書いた石碑が、その横はトイレと休憩所があります。(後方には広い駐車場があります)
普段は鳥居の中央に赤いポールがあって、車が入れないようにしてありますが、撮影するので一旦退かしました(笑)。


鳥居をくぐると急な坂道となります。
結構な坂道なので、ゆっくり降りていく事をお勧めします。(途中から手すりがあります)


坂道が終わると広場にでます。
ここにもトイレがありますので、上まで我慢しなくても大丈夫です。
この場所ではキャンプも出来るようで、ある程度の設備も整っています。


広場の橋を渡る手前にはストーンヘンジ…、ではなくキャンプファイア?を楽しむ場所もあります。
広い空間なので大勢で楽しめる事でしょう。
不動滝を創作活動の聖地とできれば楽しいだろうな〜、と感じました。(期間限定での話)


広場を進んで行くと、団体で訪れていたお客さん達に出会いました。
皆さん景色を楽しまれたようですが、昼食を持参している私を見て「羨ましい」と言っていました。(これで何度目だろうか?)
やっぱりここで昼食をとりたい人は多いんだなぁ〜、と感じました。
今度は個々人で訪れて、この空間で昼食を楽しんで頂きたいです。


ちなみに、ここがベストポジションかと思います。
ちょうど木が陰となりテーブルを覆います。(この時期の11時〜12時の間)
屋根のある場所もありますが、どうせなら天上がない方が良いと思うのは私だけではないかと…。
雪解け水で静まる池を眺めながら、遠くで聞こえる滝の音を楽しむ、それが可能な場所です。




目的の不動滝へ進んで行くと、石碑と鳥居、そしてデカイ巨樹が迎えてくれます。(デカイ岩も)
いつ見ても圧倒される巨樹、生命力に溢れた姿は神々しく、私の目には揺るぎない存在に映ります。
鳥居を抜けると殆どが巨樹なので、ちょっと小人になったような錯覚を楽しめます(笑)。



不動滝へ到着!、ちょっと水量が少ないですが、凄い早さで流れ落ちていました。
時期を逃したか、降水量が少なかったのか…、それでも迫力は十分でした。
祠の水神様には、この場所が原産とされている鉱物(梅花石?)が供えられていました。
何か意味が在っての事なのだろうか?、それとも特に意味はないのだろうか…?


帰りに横の小川を見ると、雪解け水で荒れた形跡がありました。
もう少し前に来れば、かなりの水量だったのかもしれません。
一気に水が流れ込んだようで、派手に土砂に埋まっている部分もありました。


そんな小川とは逆に静かな水面をたたえる池…、しかし食物連鎖で激しい攻防が行われている事を忘れてはいけません。(ヤマカガシが獲物を狙っていましたね…)
でも、それすらも美しく感じてしまう自分がいるのに気づかされます。


そして、そんな池の岩陰に咲く小さな花…、小さいのにとても力強く感じます。
共生していると言うよりは、完全に「成り立っている」と感じました。

繋がってはいるけど、個々で完全に成り立つ、そんな強さを自然から感じられた日でした。
2013年06月10日
新緑から深緑へと向かう季節になってきました!(暑〜い夏を向かえる準備をしなくては…)


今年も夏をテーマに神緑ストラップを作成しました。(垂飾にも対応可)


ほぼ期間限定で制作しているストラップです。
この翡翠は非常に良質で、昔の翡翠らしくなかなか手に入りません…。

一見くすんだ緑色ですが、光を透すと鮮やかな翠色に染まります。

その姿は、まるで夏の日差しを受ける木葉のようです。
濃い緑色が真夏の葉を感じさせ、光を受ける事で「輝き流れる生命の美」を映し出しています。

艶も抜群に出るので、強い日差しを受けてより輝いてくれる事でしょう。
身に付けていると、なぜか光合成をしている感じを受けます(笑)。

自然の一部を身に付けて、自然と一体になる、そんな表現をして行けたらと思います。
2013年06月07日
人にとっての「財産と言う存在」を私なりに考えてみました。
まず、遥か古代では財を成す事が非常に困難だったようです。(なので格差が付きにくかったらしい)
なぜならば「貯蓄する事が困難だったから」と言う理由らしいです。(狩猟だったので、格差は無くても優劣はあったように思えます)

この事から考えると、ほぼ永久的に貯めておく事のできる存在…、それが財産となるわけですね。
私は古代人にとってそれは、「鉱物」のみだったのではと考えます。
石器時代から既に人は鉱物という財産を認識し、更に石器(道具)とする事で結果的に、その存在が昇華したのだと考えます。
なので道具=財産と言っても過言では無いかと思います。

よく考えてみれば、金(au)も鉱物であり、金本位制の原点が石器(道具)と言えるのかも。
石器時代では石器が財産であり、そこから時が流れ縄文時代では石器(道具)が共有された為、その上位とした翡翠が主な財産となった、そして金属の時代に入り銅→鉄→銀→金と言う具合に進んでいった気がします。(大雑把な例ですが…)

どれもが不滅の存在で、先に進むに連れて加工が容易になっているのも特徴のように思えます。
やはり個体能力である「加工力(生産力)」が、一部の財を求める者にとって面白くない事だったのだと感じます。(硬い鉱物も技能者も使いづらいし)
この頃から財産は「不滅ではあるけど量産が容易な存在」へと変遷していったのだと考えます。

そして現代では交換券である紙幣が主流となっています。(データに成りつつあるけど)
燃えて無くなる紙が財産…、「ここまで来たか人間!」って感じですね。
要するに「不滅を劣化させ量産を特化させた」って事ですね…、量産が無限となれば「不滅と一緒」と言った考えの基に成された進化(変化?)なのかもしれません。
しかし、ここでも印刷技術という能力が必用となっているので、完全に個体能力を無視する事は不可能のようです。(設備を整えてしまえば人は用済みに成りかねませんが…)

私はこれを財産と言えるのかは、ちょっと疑問であり「ほぼ財産」って感じかと思っています。
逆に鉱物は宝石として「不滅を特化させて量産を劣化させた」のだと思います。(不滅の特化は付加価値で高め、更により耐久力のある鉱物を求めた)

しかし、それは一部の宝石であり大部分の鉱物は、その存在自体を劣化させるようになっています。(人にとっての財産と成らず、道具にすら成っていない鉱物が増えた)

知的財産も基本的に道具であり、無形であるので餓鬼が使っても無くなる事はありません。(劣化はしますが)

私は基本的に物々交換が成り立たないのは「お互いに交換し得る存在を持ち合わせていないから」だと考えています。(「不便であるから」という事も大きな理由だと思っていますが)
この現代で、どれだけの人が物々交換が可能でしょうか…?、正直な話「やって出来ない事はない」というレベルなんだと思います。
それだけ個体としての生産力が劣化したし、交換する基準が複雑に成りすぎたのだと思います。

国で考えれば国民は財産と言います。
と言うことは国民は道具と言う事になるのでしょうか?
不滅では無いけれど、生まれてくるし権利は平等、個体差はそれで解消し税金を徴収する。
そう言ったシステムでは、道具として見ても不思議はないですね…。

まぁ、これは古から繋がる道理でもあるし、道具としなければ財産と成らないのであれば仕方のない現実なんだと思います。
人は財産を持ちたがり、持った者を嫌いながらも依存する、共有を求めて徒党を組む、この原始的な性はどうすれば乗り越えられるのでしょうか?(と言うか乗り越える必用があるのだろうか?)

結局、原始的な基準である色の判別も信号機などに応用されていますが、それでも事故は起こります。(デザインだけにしたら逆に慎重になるのかもしれませんね、渋滞するけど…)
誰にでも判る基準ですら完璧ではない、これにどれ程の期待ができるのでしょうか…?

ここら辺は難しいので良く分かりませんが、唯一だけ判ったのは道具から交換券へと向かっていった存在と、道具から創作へと向かっていった存在があるのだと言う事です。
どちらも財産の領域で在る事には間違いないのですが、役割が違っていて、この二つが上手いバランスにあると人の社会も正常に機能するように思えます。
そしてこの二つは対であり、離れる事のない現実だと言う事も判りました。

創作とは可能性を示す存在であり、方向を示す存在でもあります。
向かうべき場所が判ったのならば、全力で進んで行くことも出来るのだと思います。


※一応書いておきますが「財産」と「宝」は違いますので。
2013年05月27日
奴奈川の玉匠さんの作品を掲載していましたが、当方が玉作さんに対し持ち主の方々への確認要求が不完全であった為もあり、掲載を中止いたしました。
玉作さんの品は受注生産であり、持ち主の方々の思い入れもかなり違うようです。

更に「私のサイトで販売している」と錯覚してしまう見せ方にも問題がありましたね…。
以前にも書いていますが、私が他の人の作品を委託販売する事は有りません。(ピンハネシステムは使わない)
なので私の手元には、その人達の作品は無く納品も無理です。
もっと新規の人達にも分かるようにしておくべきでした…。

私と玉作さんとの間では共有されていても、所有者さんとは共有されておらず残念な結果となりました。
自主制作の品の掲載についても、受注生産と自主制作の違いは明確にはならず、また職人である責任を果たす為に中止を決断されました。
ここで作家と職人の大きな違いに遭遇し、人の品を扱う難しさを知りました…。

今後は新作紹介のみを掲載する予定です。(あくまでも予定)

正直、最初からこのやり方で始めていれば良かったんですよね。
この方式を続けていき、所有者さんに理解してもらいながら掲載すれば良かったと後悔しています。
私の作品の所有者さんとは違うのだから、もっと気を付けるべきでした。

これも勉強、次は同じ過ちを犯さないよう心がけて活動して行こうと思います。
2013年05月27日
現場も変わり、ほぼ初めからの発掘作業を体験しています。

前回は終盤からの参加だったので、現在の作業は少し退屈だったりします(笑)。
でも初めからの調査行程を体験できるので、これも勉強。
出土する土器も少なく土木作業っぽい段階ではありますが、真剣に取り組んでいきます。

それにしても、一緒に作業している年輩者の方々のタフさには驚きます。
特に女性、糸魚川は働き者の女性が多いと言いますが、まさにその通りだと感じました。
これでは男はヒモに成りかねない…、とさえ思わせます(笑)。

しかし年輩の男性にも凄い人がいて、私が同じ年になっても「同じ事ができるのだろうか?」と考えてしまう。
翡翠の領域にいるので失望しがちな年輩者でしたが、ここではそれを払拭させてくれます。
精神が浄化され、始めの心持ちに帰れる気がします。

使っている道具にも少しは慣れてきましたが、まだ余計な力が入っているようです。
道具を使いこなしてこその人間、この発掘が終わる頃には完璧に扱えるようになりたいと思います。



少し話は変わって、糸魚川に翡翠の勾玉の完成形が出土しない理由を考えてみました。

どうしても「翡翠の完成勾玉が一つも出ない」と言う疑問が解消されないのですが、私が根本的な部分を間違えているかもしれません。

翡翠の勾玉は、糸魚川の地で一般の民は持っていなかったのではないでしょうか?(縄文時代でも例外無く)
持っていなかったのなら問題が解決しますね…。

刀狩りもそうでしたが、一旦多勢に持たれると回収する事は不可能となります。
大珠は少し出回ったのかもしれませんが、翡翠の勾玉は誕生した時点で強力な権力者の管理を受けていたと考えると納得できます。(大珠も豪族しか持っていなかったらしいし)

例外は絶対にあり、どこかに埋めて隠す人もいるし、付けたまま孤独に死んだ者もいると思います。(保存条件に問題があるのかもしれませんが…)

でもそれが一切無い、とするならば翡翠の勾玉は権力の管理下にあったのだと思います。
もっと言えば、権力者に献上する為に定型化されたのでは?とさえ思えてきました。
作れる者全てを管理できる存在、そんな存在がいなければ、作っていたのに「一切出てこない」という糸魚川の現状は理解できないです。(奴奈川姫の段階で、そのシステムは確立されていた?)
まぁ、時代が時代なので「制限されていた」程度かもしれませんが…。

今の糸魚川で考えると、この地から全ての勾玉を持っていくのは不可能です。
数が多すぎするし、持ち主も多すぎてどうにもなりません。
でも、こうなる前に管理されていたのなら話は別ですよね…。(しかも現代と違って作れる人は限られていたのだから)

ただ糸魚川で大規模に作られていたのなら、やはり一つくらいは翡翠の勾玉が出ても不思議ではないです…。
もしかしたら、糸魚川で翡翠の定型勾玉が作られていた期間は、とても短かったのではないでしょうか?(奴奈川の地でなく、現在の糸魚川の地での話)

全ての職人は移った後に本領発揮、そんな気がします。
或いは宝飾職人のように厳しい管理・監視の元、この地で勾玉を作っていたとか…?。
何か不備があったら命を奪われる、そんな厳しい掟があったのかもしれません。(それが権力者によってか、作る集団のルールによってかは分かりませんが)


何であれ、この状況では作家は必用では無かった気がします。
作家は束縛を嫌いますし、勾玉は既に定型で、それ以降は職人の仕事になるかと思います。
でも一緒に移動した作家は間違いなくいると思います。(職人の領域を求められていただけで…)

良く出てくる未完成品も、実は職人の未完成ではなく、職人のいなくなった地で残った人が見様見真似で作った品なのではないかとさえ思います。(磨製石器を制作・流通させていた人達とかが)
そうなると、翡翠の定型勾玉が出ていないと言えますね…。

私は、職人なら未完成品を残したりはしないように思えるのです。
また、残った者達は翡翠原石を移った職人優先に供給していたのでは?と考えます。(転石や石割した翡翠を)

この時代より翡翠の勾玉は権力者の証となりますので、後に糸魚川の民が翡翠の勾玉を持てたはずもないですね。
翡翠の勾玉は当時の権力者のみが所有し、長い間一般化しなかった。
更に、権力者以外が持っていた場合、厳しい非難があったのかもしれません。

とにかく「翡翠の定型勾玉は完全に管理されていた」とすれば、理解できます。
或いは単純に、現代と同じように「原産地に良い品が残らない」の理由である可能性もあり、良い品は中央に集まっていったってだけかもしれません…。(この場合、糸魚川の民は翡翠の勾玉に興味がなかった事になるのでは…)


これは私の個人的な感想で、現在も分からない事だらけです。
そして間違いなく言えることは、完全に解明できる事はありません。(全人類と共有できるレベルでの解明は不可能)

それでも考えてみる事は必用で、これは人に赦された「最高の想像」なんだと感じています。


何度も書きますが、これは個人的な意見ですので。
2013年05月26日
今回も、前回と同じ海で出会った赤石を加工しました。


中央部分に近くなったので質が安定するかと思ったのですが、逆により不純物が多くなりました。
その効果?で、魅力的な模様が背部に広がってくれました!
その反面、艶はより不安定となり、自然が作りだした存在を扱う難しさを改めて感じました。




異玉の「千変の幼生」シリーズです。
前回と同様に加工の際は、工具などが真っ赤に染まりました。
作品の形が形だけに「私は産婆さんか」と自分にツッコミながら作成しました(笑)。

不思議な事に黒色の不純物の方が硬く、質もしっかりしています。(おそらくは瑪瑙)
所々に黄色の弱いインクルージョンが入り、艶だしの行程でも削れてしまいます。
均等な面、艶出しには成っていませんが、風合いのある姿には仕上がったと考えています。

赤い部分は粘りが弱く加工の最中にポロっと取れたりして、何度か泣きそうになりましたね…。
当初は足の部分がもっと長かったのですが、欠けていく度に短くなっていきました。
でも加工を終えてみると、丁度良いバランスになったかと思います。


この幼生より千変しながら万化の蛹へと向かう、一つの自然の流れを表現できたかと思います。

これから暑くなり、自然界は謳歌する生命達で溢れていきます。
祝福された季節は短いので、一日を大切に懸命に生きようと思います。
2013年05月21日
◇健御名方富命彦神別(譲渡済みです)
この石はわたくしの玉作人生20年の中で初めて出逢った赤い石。



通常の赤玉と言われる鉄石英系の赤玉とは全く異なり、青玉のような極めて希少な赤い蛇紋岩で長く我が家の神棚におまつりしておりました。
ある朝、手を合わせていると「目が合った」気がして、やっと玉にすることを認めていただいた気がしました。本当に龍の心臓のごとき「威」を感じる大いなる奴奈川の底なる玉です。


奴奈川赤石より砥ぎ出したる赤龍の玉。
全面に真紅の流水紋を持ち、まるで龍の心臓の如く猛々しい恐るべき「威」を持つ勾玉です。
身から迸る赤の威力、血脈の様に走るインクルージョンは命の胎動を感じます。
光源により姿を変え、見る者を強引に納得させる「威」には畏怖を覚えます。



◇沼川の翠鳥
長い間、海中で揉まれた小さな海岸漂着石から磨ぎ出しました。



手が大きい玉作 工人はこの玉を砥ぐに当たり、指だけではなく木で押え道具を拵え、この形状を生み出しました。
一つしか作れませんでしたが、なかなか良い光も生み出せたと思います。


奴奈川の渚に着いた硬玉より砥ぎ出した緑鳩の玉。
全身が翠色に煌き、夕日に映える小さな姿は翠鳥そのものです。
小さいながらも十分に奴奈川の「威」を備え、しとやかに慎ましく持たれる方をお守りする奴奈川勾玉になりました。

玉作 工人   拝
2013年05月17日
今日で今までの区画は、終わりを向かえました。(お疲れ様でした!)

少し前から、新潟県のお偉方が視察に来て急かされていました…。
スケジュール通り進んでいないので「今月中に終わるのか?」と言われていたようでしたが、この遺跡を見て「それだけしか言えないのだろうか?」と疑問に思ってしました。
まぁ、それがその人達の仕事なのだから仕方ないのでしょうけどね…。

そんな事は良いとして、今日は最後に作業を終えた遺跡の簡単な説明を聞き、その遺跡から出土した品々を少しですが説明を受けながら見せてもらいました。
4500年前の村…、完全な姿ではありませんが、自分の目で見ることができて幸せです。
そこで使われていた道具の数々、素晴らしいの一言です。
耳飾りなどもあり創作へと発展した「心の安定」を感じる事もできました。

発掘作業で疲れていた人達も、これを見てとても盛り上がりました。(皆、スケジュールの調整と、寒暖の激しさでまいっています…)

そして何より私が気になっていた、赤石(鉄石英)での石器がありました!
自分の目で見るまで確実と言えませんので、ちょっと心配していましたが、これで古代でも赤石は使われていた事が私自身で確認できました。
今回の赤石は磨製石器ではありませんでしたが、道具として使われ発展して行ったのは間違いないので、いずれ赤石の磨製石器にも出会える事でしょう。(打製石器だけでしたが、赤石の矢尻もありました)

ヒスイも幾つか出土したのですが、加工された品は無く、割られているものが少しあったくらいです。
これは憶測ですが「そのまま流通させていたか」それとも「石割の段階まで行い他へ移したか」だと思います。(両方である可能性も)
遺跡はここだけではありませんので、奴奈川の別の地域に持って行ったとしても不思議ではないかと。
ヒスイの加工には特殊な技術と道具が必用なので、その者(者達)が居る集落へ石割した後に持ち込んだ可能性もあるかと思います。(ここには勾玉の加工に必用な形の砂岩が見あたらない)
この遺跡では幾つも打製石器を作っているのだから、ヒスイの石割くらいは出来た可能性があります。
割っておけば移動は容易なので、奴奈川以外の地域にも持って行ったのではと考えます。

ちょっとした分業があったのだろうか…、それともやっぱり、ここで加工していたのだろうか…?
これだけヒスイや磨斧が出て、ヒスイの加工品が出ないのは異常としか思えない。(大珠なら作れたはず)
私は古代の工人が加工した品を、奴奈川の民が全て手放したとはどうしても考えられないんですよね…。
持ち主が移動していったのなら納得がいきますが、全ての持ち主が移動する現象は普通ではないです。

なので私は、糸魚川にはヒスイの勾玉は絶対に存在すると考えます。
何かの理由で出てこない、それが古代人による理由なのか、現代人の都合なのかは判りませんが…。

と、現時点での私なりに考えたのですが、全く分かりません(笑)。

なんであれ次に調査する現場もありますので、まだまだ色んな遺物に出会えると思います。
夏に近づくにつれ作業的に大変になるのでしょうが、数千年前の存在と対面できる経験は、創作を受け継ぐ私にとっては、代え難い体験となるように思います。

運良く今回のような、遺跡調査に立ち会えた事を嬉しく思います。
この事で色んな事が分かっていくような気がします。
2013年05月15日
海で出会った赤石を加工してみました。


流石は鉄石英、切断するのに時間がかかりました。
そして何より凄いのは、赤に染まる手、水、機械…。
今更ですが、赤石の加工は血塗れのようになります(笑)。
普段は白い粉が殆どなので、赤い粉が大量に出るとビビってしまいます。(水に溶けると血に見えます)
まるで指を切断しかたのような鮮血色、初めてならビックリする事でしょう。



異玉の「万化の蛹」です。(先にサナギを作ってしまいました…)
あえて不純物の多い部分で加工してみました。
この色に、この模様、とても面白いです。
しかも頭の部分には無色の瑪瑙があり、なかなか良い味を出してくれました。
形は体験で感じ取った、縄文風のデザインにしてみました。
サナギは二度目の卵化とも言って良い段階なので、「万化の蛹」は大珠の意味合いを込めた作品となります。(私個人の認識による表現です)

不純物が多いため艶が統一されていない部分もありますが、かえってそれが古代を感じさせてくれる要素だと感じています。

順番が逆ですが、千変の幼生も作りたいと思います。
2013年05月13日
黒曜石は天然ガラスのため、その加工には非常に気を使います。
硬さは天下一品なのですが、堅牢さがまるでありません。



そのため、打撃成形で形を整えることは容易なのですが、磨き成形を開始すると、途端に細かく表面が飛び始めます。
この解決方法は、柔らかい砥石、つまり木の板に研磨砂を付けて磨くことで解決しました。 ちょうどスリガラスを磨いて透明にする感じです。
非常に勉強になった攻玉でした。


旧石器時代から使われ続けた黒曜石。
長野県和田峠産の原石を縄文の玉に砥ぎ出しました。
その姿は山の獣の牙の様に鋭く、色合いは琥珀の様に透き通り天然のインクルージョンが織りなす色合いは圧倒的迫力です。
内部にはこの石が生まれた時に出来た時の気泡が封じ込められ悠久の大地の浪漫を感じます。
2013年05月11日
元々は押上の浜で冬の寒い時にぽつんと砂浜に打ち上げられた標石です。
海でだいぶ揉まれ手にした時から透けるような美しさでした。



転石と言う事もあり打撃破砕は行いませんでしたが、気の遠くなるほどの時を奴奈川の海の中で過ごし、悠久の時を越えて縁により生まれた「玉しずく」。
遠く奴奈川に暮らした縄文人の気持ちになって生み出した逸品です。


ヌナカハの河川より出でたる硬玉より砥ぎ出した奴奈川の清流。
身はあくまで小さく、姿はあくまで可愛く。
新発見技術による限界領域での管錐穿孔による魂入れ。
結晶粒に逆らわない砥石入れによる磨き込み。
この手仕事により生み出された玉しずくは、光源で驚くほど姿を変えます。
時には気高く凛とした姫、時には小さく可愛い女の子。
水色、白色、薄緑色に変化する姿は本当に水量で姿を変える姫川の様です。
神奴奈川姫も子供の頃、持っていたであろう玉しずくです。
2013年05月07日
連休も明けて、再び遺跡掘りの再開です。
現在の区画は今月中には終わらせる予定のようですが、未だに土器や石器が大量に出てきます。
人員も増員されたので、総力戦となりそうです。
そう言えば若い女性2人が新たに入りましたが、遺跡に興味があるのかは現段階では不明です(笑)。

現在、私が掘っているベルトでは研磨された斧1個と翡翠原石1個がでました。(土器は普通に出ます)
そこからは沢山の石や砂岩が出たので、掘っている最中に翡翠が出そうな予感はしていました。
翡翠はそこまでグレードの高いものでは無く、表面は打撃をした痕や打撃された痕も無く、研磨された痕も見られません。

もっとも、石器を研磨する事に使っていたのならば研磨痕は残るはず無いですね…。(翡翠の方が硬いので削れない)
逆に磨製石器は研磨痕が少し残っていて、古代人が「丁寧に仕上げた」って事が同じ加工をする者には良く分かります。(とても丁寧に作られています)

例え蛇紋岩であっても加工は容易ではありません。
古代で「道具と言う存在」がいかに大切だったのかが感じられました。
その道具が創作の原点であり、人に豊かさをもたらし、人に表現する喜びをもたらしたのだと感じます。

現代は道具が範疇からはずれ、機械として人を追いつめる存在となっています。
人が道具として使いこなせるレベル、このバランスが大切なのだと思います。
人が進化するか、機械を退化させるか、いずれにしろ人が機械を超えている事が条件となります。
結局、機械を超える存在というのは、人の創作性なんですよね…。

この体験によって、原点の在り様を学べそうな気がします。



悠久の時にふれた事で、無性に海へ出かけたくなりました。
何か良い出会いがあるのではないか…、そんな期待が不思議に湧いてきます。

その日は風が強く波も強めに打ち寄せていて、割と大きな石が上がっていました。
幾つか翡翠も拾えましたが紹介する程の質ではありません…、でも良い発色の赤石と出会う事ができました!



よく糸魚川に有る赤石は、赤色がくすんでいたり紫がかっていたりしています。
しかし今回の赤石は、赤色が一段階違っていて鮮やかさを放っていました。
それに、このサイズは海では珍しく、加工するには十分な大きさです。

遺跡では赤石は見ていないので、ここの古代人は集めていなかったのかもしれませんが、漆により赤に染まった土器は大量に出てきます。
それに赤色は太陽を示す色、古代人にとって感心が無かった筈はありませんね…。
私では詳しく分からないので、専門の人達に聞いてみようと思います(笑)。

何であれ魅力的な石、これで異玉を作ってみようと思います。
生玉の「火の精霊」を作るにも相応しいですね…、何だか創作意欲が湧いてきます!


「悠久の時に結ばれし絆を、今再び取り戻す」何だか楽しくなってきます。
2013年05月06日
この硬玉は当初酷い皮を被っており、外見からは玉になるとは思えませんでした。
ある時雨が降り、その原石が濡れた時に「ピキッ」て感じるものがありそこから研磨を始めました。



磨いて行くうちにだんだんと美しい肌が見え始め、この何とも言えない感覚の世界による引き合わせと言うものを感じました。
攻めるにつれ、その形が女性っぽくなり、スタイルの良い玉になりました。
ぜひ、その身を表に出す佩用をしていただければ嬉しいです。


角閃石を伴った硬玉より砥ぎ出したる奴奈川の深山。
身はあくまで細く、「威」は限りなく高く。
打込錐による片側打撃穿孔、頭には三条の丁子、手仕事の限界まで攻め込み生まれた深山の精霊。
麗しい妖艶な姿とはうらはらに、若草のように透ける透過光は恐るべき力を生み出し、持たれる方を守護します。
これぞ「奴奈川の底なる玉」だと玉作 工人は思います。

玉作 工人   拝
2013年05月02日
布留玉「八雲」「神魂」「佐太」をご紹介致します。

「八雲」「神魂」「佐太」三作の玉の原石は、全て同じ石から生まれました。玉造りの仕事は、加工に適した原石を探し出すことから始まります。青舟は京都府北部の丹後から、はるばる、翡翠の産地新潟県糸魚川まで足繁く通い、玉造り適した石を探しています。現地の石屋さんを巡る事もあれば、時には海岸におり自ら翡翠の原石を採集することもあります。いきつけの店もあり、現地の店主さんに頼めば、e-mailで画像を送ってもらったり、電話一つで原石自体を送ってもらうことも出来ますが、自ら足を運び、己の目で見て品定めをしなければ納得出来ません。それは、青舟の生来の性分なのです。

この三作品の原石は現地のとある石屋さんで巡り会う事になりました。通い慣れたお店でありまして、勾玉の話、翡翠の話やら、あれやこれや盛り上がっていると、店主さんがおもむろに立ち上がり、店の奥から一抱え程もある石を持って来られました。


「これは参考までに…」と前置きがあり、見せてもらったのですが、手に取ってじっくりと観察すると、ズッシリとした重みがあり、石目、クラックはありますが、まず目を引いたのは、その深いアオの色合いです。深緑色の発色は申し分なく、表面から垣間見えるトロリとした飴のような質感…。まさに、長年追い求めていた原石そのものです。採集場所は、はっきり教えてはもらえませんでしたが、石の表情から姫川上流の石であろうと推察しました。であるならば、一昔前に採集された石「昔の石」と呼ばれるもので、現在では採集出来ない貴重な石と言う事になります。


店主さんは、前置きの通り、販売する気はないらしく、その日は、すごすごと退散する事になりましたが、あのような石を見せられて、じっとしてはいられません。まさに、矢も楯もいられぬといった状態で、再度、お店を訪ねる事となりました。参考品と言っても流石に、店頭に並べるような石ではないようで、「あの石は…」と店主さんにお尋ねすると「ああ…あの石ね…。」とあまり気は進まないようでしたが、前回と同様、手にとって見せて頂く事が出来ました。再度、石の状態を確認しましたが、以前の見立てに間違いはなく、どうしても譲ってほしいと店主さんに交渉を開始しました。しかし、答えはノー。げっそりと落ち込みながら帰路につきました。ですが、このまま諦めるわけには参りません。日を改め再度、訪問。粘り強く交渉を続けました。「そこまで、おっしゃるなら…」と最後には店主さんが折れ、渋々ながらも譲って頂く事が出来ました。

このようにして仕入れた貴重な原石ですが、その大きさ故、勾玉に加工する為には、そのまま加工を開始するわけには行きませんでした。まずは原石の中でも工作に使用する部分と使用しない部分を分け、加工出来る大きさに切断します。大きな翡翠になると表面の色は分かっても石の内部の色の入り具合は、ある程度の予測は出来ますが、実際カットしてみないと分かりません。カットしてみると発色の良い加工に適した部分は4分の1から5分の1程度でした。

この原石から、青舟は“古代出雲の王の御霊を乗せる舟”をイメージし、生み出さされた三作品を布留玉の社では“出雲三作”と位置付けました。三作は古来の玉では最も完成されて形体とされる“丁字頭勾玉”です。


出雲三作 其の壱 布留玉 八雲




命名の由来は、古代出雲の枕詞でもある“八雲立つ“から頂いております。三作の筆頭にふさわしい、縦の大きさは5cmを越える大玉に仕上がりました。この大きさは伝世の玉でも稀に見る大きさであります。しかも、縦・横の大きさだけでなく厚みも1.6cmとしっかりと、とってありますので、丁子の彫りの品位も相まって手にした時の圧倒的な存在感・迫力は、青舟が今まで造ってきた玉とは一線を画するものがあります。

元来、糸魚川の石には石目やクラックが多いので、それらを避けて形成すると、どうしても小さな玉となってしまいます。八雲の場合には、あえてそれらを避ける事はせず、玉の個性として、玉の魅力が、いかんなく発揮されるように取り込む事に心血を注ぎました。石目やクラックが入る事を嫌われる方がおられるのかも知れませんが、青舟としては翡翠及び勾玉を他の宝飾品と同列に捉えている訳ではありません。勾玉作品であり“いにしえの美”として完結させる事が何より重要な事なのであります。

石質はとろりと深みのある肌合いで、頭は爽やかな印象を受けます。色は全体に入っていますが、特に“逆くの字側”の色合いは豊かです。中でも背部外側から尾部にかけては濃緑色の発色が良く、際立っています。厚みをしっかりとるとなると、色調は深くなりますが透明感は沈みがちとなる事が多いです。しかし、この作品に関しては、透明感が高く、これだけの厚みがあっても光を通して透過光で見ても大変、魅力的な作品となっていまます。


この玉の画像をよく見て頂くと、玉の背中の真ん中から尾部にかけて亀裂が入っているのが確認して頂けると思います。ここは元々石目が入っており、加工中に真っ二つに破断しました。普通であれば割れたしまった以上、加工を中断するか、小さいサイズの玉に作り直すところですが、青舟には完成した玉の姿が見えていたのでしょう。幾日も破断した玉の断面を眺めている青舟の背中が印象的でした。そして突如、思い立ったように、破断した部分を樹脂接合し、再度加工を開始しました。苦難を乗り越え、ようやく完成したこの玉は、“威風”を放つ、青舟渾身の作となりました。
2013年04月30日
異玉の新作、千変の幼生の紹介をします。




白地に淡い翠が入ったヒスイで制作しました。
遅い春の訪れと共に、誕生し成長する幼生を表現してみました。
口をつけることで、可愛らしい姿に仕上がったかと思います。(葉をガツガツ食べる感じを出しました)
ヒスイ自体も透明度が高く、光にかざすと彩雲のような景色をその身に映します。




こちらも白地に淡い翠が入ったヒスイで制作しました。
横幅をもたせたので、ゆっくりと動くのんびり屋の幼生となりました。
こちらには切れ込みによる口はつけませんでしたが、モシャモシャと葉を食べる感じは表現できたかと思います。(ちょっと動物っぽいかな)
光にかざすせば、魅力的な模様と彩が映し出されます。


俗に言うと「子持ち勾玉」の部類になるのでしょうが、私的には定型勾玉はサナギに近い状態だと考えている為、その状態で子を持つ事には疑問があります。(これは個人的な考えです)
なので私は異玉として、始まりにして千変する幼生を表現しています。

今のままでも独特な魅力がありますが、やがて万化の蛹となり、精霊の加護を受け羽化へと向かいます。
どんな存在にも順序があり、その過程での姿も表現して行きたいと考えています。

現在で私の最終形態である神玉へと成長させておけば、未来ではその先へ進む「成長を表現する者」が現れると考えています。
そうなれば、この遊びは終わる事はありません。

これが現実になれば、私が生まれてきた意味も在ったのだと思えます。(その時は生きてませんが)



仲間との出会いや遺跡発掘の体験で、自分の原点に戻れそうな気がしています。
色んな鉱物での創作、私の原点はここにあります。
結局、異玉も生玉も色んな種類の鉱物で加工する為に作ったカテゴリーで、自由な創作を担っています。(特に異玉が担っています)

ヒスイの縛りがあるのは神玉だけ、なのにいつしか一つの基準にとらわれていたようです。
これでは自由な発想やデザインは生まれてきませんね…。
それぞれの役目を見直して、再構築していかねばと思っています。

今回の異玉はヒスイで作りましたが、次回からは赤石や軟玉などでも加工したいと思います。

ちなみに事代主のデザイン案が出来ました。
後は試作を重ねてデザインの調整をして行く段階となりました。
完成のお披露目は、恒例としている一月一日に出したいと考えています。(この加工が仕事納めとなり、この展示が仕事始めとなる感じです)
2013年04月27日
只今、縄文遺跡の発掘を体験しています!
いずれは経験しなければと思っていましたが、ちょうど注目される遺跡が出たので思い切って体験する事にしました。
私の創作テーマでもある「悠久に結ばれた絆の再生」に、近づくにはどうしても必要な経験となります。



初日に翡翠を発掘!、宝探しのようで興奮しました。
高いグレードではありませんが、現在の基準として見ても良い翡翠だと思います。
これで加工すれば、必ず良い作品が仕上がると感じました。

他にも黒曜石の矢尻を一つ発掘したのですが、写真を撮るのを忘れました…。(翡翠で頭がいっぱいでした)
それに掘り当てた度に写真を撮っていては、作業が進まないんですよね。
休憩時間などを利用して撮影していますが、土器などは掲載して良いものか分からないので確認してからアップします。

何であれ数千年前の古代遺産…、かなり感動してます。
古代に作られた(使われた)品を現代で、しかも私が手にしているのですから!
この経験で僅かですが、悠久の時と繋がったような不思議な感じがしました。
念のために書きますが、発掘した品は自分の物にはなりません。

私が入ったグループの区画では翡翠は三個発掘されて、どれもが良い翡翠でした。
翡翠を集める、古代人と同じ事を現在に行っている自分と「共通する何か」を見つけられたら、今後の活動も進化して行くように思えました。
残念ながら翡翠は原石の状態のみで、加工品はありませんでしたが…。

この作業は労働的に考えれば決して良い条件では無いでしょうが、勉強として考えれば魅力的な作業だと思います。
作業員は年輩者が殆どですが皆良い人達ばかりで、地道に発掘作業しています。
若者で考古学などが好きな人達はいますが、現場にはおらず三十代は私だけです(笑)
調査員の人達や建設会社の人達の中には、同年代〜年下の人はいます。

糸魚川は何処を掘っても遺跡が出るようですが、今回の遺跡は特別重要なんだそうです。
すごい数の土器や石器が出ていますし、当初は土偶なども出たようです。(墓が在ったようです)
やはり糸魚川には重要な存在が眠っていますね…。
信じて活動していて良かったです。
そうすると奴奈川姫の墓も存在しそうですが、古墳時代の人ではないので墓の場所を特定する事自体が困難なのだそうです。

今までちゃんと調べなかったのでしょうか…?、糸魚川はまちを発展させて「都会モドキ」に向かうより、遺跡のまちとした方が良いように思えます。
どうせ人が来ないのなら、いっそのこと特化してまち全体が文化財になった方が面白いです。
駅を降りたら古代のまち、そんな魅せ方を用いたまちづくりも必要となってくる時代ですから。

ちなみに遺跡付近には奴奈川神社があります。


古くから此処に在ったのではなく、遷された神社なのだそうですが意味があっての事だと思います。
この時から、遺跡の存在を知っていた人がいたのかもしれませんね…。

この地には謎がまだまだ残っています!
定期的に遺跡掘りはありますので、なるべく参加して勉強したいと思います。

この事で、自身の創作活動の幅が広がれば嬉しく思います。

私の創作スタイルは物語の具現化ですが、現実の歴史を知っておく必要があると考えます。
その知識が礎となり、新たな創作に進めるのだと信じて向かいたいと思います。
2013年04月24日
大勾玉であった事で砥石の作成に難儀しましたが、蛇紋岩ゆえの石質により攻玉は比較的順調でした。
穿孔は片側棒錐打撃穿孔、硬玉片による丁子加工、木砥による研磨と古墳時代の工程で再現しました。


奴奈川蛇紋岩より砥ぎ出したる緑の龍。
その身から湧き上がる「威」は森林の力そのものです。
形は古墳時代最末期、仏教が伝来し古神道とせめぎ合っていた頃の、勾玉文化の最終形状を生み出しました。



御統になった時、この大勾玉は最高の力を出すと玉作工人は思います。
温度、湿度、光によって色を変化させながら身から出る蛇紋岩の「威」は古代において、「物の怪」除けとして使われたのだと思います。
奴奈川蛇紋岩だけが持つ不思議な力です。

玉作 工人   拝
2013年04月22日
攻玉も非常に難しく難儀しましたが、青玉として原石の中に本来あった形をうまく出せたと思います。




この石は15年前に見つけたのですが、この縁(えにし)をずっと待っていてくれたのだと感じました。


海沿いにお住まいの方、海外に良く行かれる方の護りとして使っていただければ、最高の奴奈川の護りとなる事を匠として感じております。


奴奈川青玉より砥ぎ出したる蒼海の玉。
片側に穏やかな凪の海、片側に恐ろしき荒れた海を持つ恐るべき「威」を持つ大勾玉です。
光源により姿を変えるその身はから発する「威」には畏怖を覚えます。


玉作 工人   拝
2013年04月17日
私が制作した勾玉、伊邪那岐「桜空」-壱-の紹介をします。


この紫ヒスイは、かなり昔のヒスイらしく、紫ヒスイとしては珍しく練られた質です。
初めは頭の部分に濃い紫色がありましたが、研磨しているうちに薄れていってしまいました。
どうしても曲線が必要な部分は、色が残り難いです。


こちら側は、より紫色が薄くほぼ白色に近いです。
でも桜色に染まる空に浮かぶ「淡紫の雲」として見る事ができます。
ここまで質が良いヒスイだと、より上品さが際立ちます。


練られた紫ヒスイなので、厚みがあっても光を透します。
光を受けて膨張しながら透る姿は、暁の空や黄昏の空をも感じさせてくれます。
色も残り、透明度の高い、そんな紫ヒスイは現在では希な存在になりました。


当初からあったヒビ(石目)だったのですが、あえて避けずに大きめの玉を制作しました。
小さな玉では存在感が薄れてしまうし、無駄も多くなります。
そもそも数を多く作る、そんな事に興味はありませんし。

私はヒビを「非なる美」とするも「秘めたる美」とするも、作り手と持ち手次第だと考えています。
この姿は「舞い散る桜の花びらを玉が映し出した」として、私は見ています。

しかし、それを強要してはならず、同じ景色を見る事ができる人に所有されるのが一番幸せなのだと思います。

私の作品は殆どが自己完結しており、共有するのが困難だと思います。
しかしそれは作品の定めでもあり、そういう作家として生きるのだから覚悟しなければなりません。

今後も一方通行な品を創っていきますが、そんな中でも共有してもらえる人達に出会えたら嬉しく思います。
2013年04月14日
大所川にて十数年前に採取した小さな転石から砥ぎだしました。
工程は平面出し、背砥ぎ、穿孔までは同じですが、この玉はえぐり形状が独特の為、荒研磨砥石を最初に成型し、その抉り形状を移す形で砥ぎ込んで行きます。



極めて緻密、堅牢なため攻玉には難儀しましたが、原石の中に潜んだ優美な形は表に出す事が出来たと思います。


砥石の一当たりひと当たりに心を込めて、内磨砥石を振り込み、持たれる方の護りとなるように祈りながら攻めました。
奴奈川の川面を渡る春風を感じていただければ幸甚です。


形状は古式奴奈川弥生末期の形で、頭に刻み込まれた三条の丁子、まさに大王の「威」を持った勾玉です。
透ける流水紋、そこに流れる一条の翠。
清流に春の訪れを告げる玉に仕上がりました。
完全な手研磨が生み出す光は上代玉作工人の真骨頂です。

玉作 工人   拝
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