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2012年03月17日
やがて来る春をイメージしてストラップを作ってみました。


開花のカケラ。
紫ヒスイとウッドビーズを使ってストラップを作成しました。
開花に向けて、枝に蕾を付けた様子を表現してあります。



芽吹のカケラ。
白翠ヒスイとウッドビーズを使ってストラップを作成しました。
厳しい冬を耐え、芽吹に向かう様子を表現してあります。
若干ウッドビーズの種類を変えてあります。

あまり手を加え過ぎず、素朴な感じで仕上げてみました。
この品を春の間に観光物産センターなどへ出して行こうと思います。


やはり、糸魚川に来て購入して頂きたいですね。
こちらの自然は素晴らしく、何とも言えない神秘的な気配を感じられる場所が多いです。
人間性はどんな土地でも「善し悪し」がありますので、過剰な期待はしない方が良いですが、自然の中で自身が感じられる感覚は間違いなく「正しい」と言えると思います。

私もこの基準に従い、こちらに移り住みました。
自然が美しさを増す、暖かな春が来るのが待ち遠しいです。(杉花粉が難敵ですが…)

この糸魚川の魅力を堪能した後に、思い出として糸魚川ヒスイを購入して頂きたい!
海岸でヒスイ漂石を探してみると、その貴重さも分かるかと思います。
(変わった模様の石も沢山ありますので、ヒスイを拾えなくても面白いと思います)

注意点は、胡散臭い人や店には近づかず、自然と向き合う事を主とした方が無難です。
ここまで来て嫌な思い出を残されては悲惨すぎますので…。
2012年03月07日
昨日、気晴らしを兼ねて、近くの海へ漂石拾いに行ってきました。
風はあまり無く、波もこの時期にしては激しくなかったです。
探しやすい環境だった為か、ヒスイを幾つか拾うことができました。


普通は白色〜灰色の透明感の低いヒスイが拾えるのですが、今回は私が今まで浜辺で拾った中でも、かなり良いヒスイに出会えました!
現代で漂石として拾えるヒスイの中ではAランクと言っても良いかと思います。
これなら「標石」としての展示が可能かと思います。


裏側の質は不純物が多い感じですが、ちゃんと翠が入っていて透明度の高い部分もあります。
ヒスイ全体が、ちょっと暗い薄緑に染まっているので派手さはありません。
太陽光で見ると細かなヒスイ輝石がびっしりと詰まっていてキラキラと輝いています。


全体的に透明度があり、自然光でも薄翠に光が透けながら膨張します。
サイズも、このレベルにしては大きい方なので貴重と言えるかと思います。
昔ならこのレベルも多く拾えたのかな、と考えると羨ましい限りですね…。


今までも浜辺で幾つかヒスイを拾っていますが、海に潜ってまで拾う事はありません。
自分で採取したヒスイサンプルは、私のヒスイ知識に対しての基準となります。

PCで言えば「OS」であり、プリンターで言えば「色認識機能」ですね。
基準が狂っていれば正常に機能しないし、見当違いの色をプリントし続けてしまいます。
なので自分が経験して納得していない事柄に対しては、全て否定から入るようにしています。
未経験でも確実に認めざるを得ない事実が在る場合以外は、信じる事はありあせん。
(あくまで人間社会での私自身のスタンスですので)

これと同じく人としての基準もあって、それが狂っていると正確な判断ができません。
幼少期に何で基準を構築したかで、成人してからの価値観が決まると考えています。

自然・親・友人・教育などの繋がりは大事で、そこから何を学んだかが重要になります。
それと物事を考える時は、その対象の原点へ目を向ければ大体の事が理解できます。
始めから持っている性質を、途中で完全に「無かった事」にする事は不可能です。

必ず因果があるので、それを理解した上で生きていく事が必要だと思います。
2012年02月27日
アイビッツの語源でもある、ヒスイのカケラ達です。


これからストラップにしたり、垂飾にしたりして完成品にしていきます。
シルバーパーツの仕上がりが遅れている為、それを使用する品の作成が遅れていますが、3月中にはアップできるかと思います。(もうしばらくお待ち下さい)

さすがに今年はスサノオの年なので、まだまだ寒い日が続きますが春は必ず来ます。
その春の訪れを想わせる芽吹きのヒスイ(白地に緑)や、開花のヒスイ(紫〜薄紫)でカケラを作成してあります。(3月〜6月くらいの季節に合わせた色合いで作成してみました)

以前から季節の移ろいと同時に、ヒスイ自体も変えて表現して行きたいと思っていました。
これは、ある意味での「制限」なので商売としては得策ではないでしょうが、作り手としては明確なテーマを持って品を作成できるメリットもあります。

問題は、毎年そのテーマに合うヒスイを安定に供給できるのかが課題になるでしょう。
特に紫ヒスイと青ヒスイは難しくなりそうです…。(絶対数が少ない)

それでもカケラとしての規模でもありますし、大量に販売する訳でもありませんので、私の生きていく間はどうにでもなるでしょう。(そう売れるものでもないですし)

ですが、作り手として「未来に伸び代を残す」事ができないのでは情けない…。
羽化せず食い荒らす事しか出来ない、大きなイモムシやケムシには成りたくないです。

自分なりにでも、作る側として生まれてきた責任に向かい合って生きなければなりません。
2012年02月17日
引き続き石英の話を続けていきます。


こちらは前回のサンプルとは違った場所で採取しました。
所々に緑色の部分があり、その緑色の中で層状に分かれているのが特徴です。(瑪瑙っぽい)
また、全体に入っている茶色の部分は鉄分の酸化(錆び)によるものだと思います。
片面を磨く事で特徴が分かりやすくなりました。


反対側の割れた面には、中央付近に空洞があったらしく、そこには微細な水晶が見られます。
同時に細かな黄鉄鉱も見られ、茶色の発色はこれが原因だと考えられます。
以前のクリソプレーズとは、かなり異なる形状をしています。


表面からも緑色が見られるので、磨けば色が出てくる事が想像できした。
母体が石英で、緑色の部分が瑪瑙、結晶の部分が水晶と言うような感じに思えます。
なかなか面白いサンプルを拾いました。

この川には石英系が多く、瑪瑙を苗床にして水晶が育っている典型的な標本もありました。
しかし緑色が入っているのは、このサンプルだけで他には拾えませんでした。
10年以上も前の事なので機会があれば、また探したいと思います。


鉱物愛好家は石英から始まると言うとおり、石英はとても魅力のある鉱物だと思います。
小学生の頃から水晶を探して、一人で川に行っていた事を思い出します。
あの頃に今のような知識があれば、もっと楽しく探せたのだろうなと思うことがあります。

こういった遊びを安全に子供に教えられるのは、大人だけだと思います。
一番楽しい時期に良い思い出や経験を残す事が、人の成長に重要な事のように思えます。
(同時に自然の厳しさも学ぶ事ができますし…)

つづく。
2012年02月07日
今回は千聖さんが作成しました品を紹介します。
これらの品は時期を見てショップに出していきたいと思います。


シルバー925でハンドメイドした黒ヒスイのトップです。
型で作られた枠とは違い、暖かみの感じる仕上がりとなりました。
黒ヒスイをスクウェア状に加工した事で、シャープさも出せたかと思います。


シルバー925でハンドメイドした黒ヒスイの指輪です。
しっかりとシルバーを使ったので、シンプルなデザインにしました。
こちらも黒ヒスイをスクウェア状にする事でシャープさを強調してみました。


ヒスイの小さな欠片をビーズと組み合わせて、ストラップを作りました。
小さいので穴あけが大変ですが、手をかけてあげれば可愛らしい品になると思います。
女性用・子供用のお土産品として作りました。


薄翠のヒスイの珠にビーズを合わせて首飾りを作りました。
ヒスイの柔らかなフォルムと、ビーズのカチッとした感じを融合してみました。
どうしてもビーズの方が目立ちがちになりますが、今回は上手くいったかと思います。


芽吹き色のヒスイで小さな勾玉の首飾りを作りました。
勾玉を挟み込む金具にシルバー925を使用して民族装飾っぽい感じを持たせました。
勾玉ではありますが、アクセサリー的な感覚で身につけられるかと思います。


白に翠が映えるヒスイの玉と水晶ビーズを使ってブレスレットを作りました。
水晶によって澄んだ水がヒスイへと流れ込むイメージを形にしてみました。
高額になりますが、国産の天然水晶を使用して作る事も可能です。


これからも少しずつですが、作品を増やすように努力して行きます。
2012年01月27日
今回のは更に茶色と黒色のインクリュージョンが多く、不完全なサンプルとなります。


色は最初のサンプルに似て濃い緑色をしています。
モヤモヤとした緑色の濃淡があり、それが面白い模様となっています。
石英部分が濃い緑色になるにつれて、石質も安定している感じを受けます。


外側と思われる部分は茶色の皮が張り付いている感じで、所々で結晶化した石英が見えます。
やはり内側よりはヒビがあり、質感も劣るようです。

どれも手の平で包み込めるサイズで、大きいのは見つかりませんでした。
このタイプの大きな塊はあるのだろうか…、どこかにひっそりと存在している事を期待します。

糸魚川にクリソプレーズが出る事が分かったので、もうサンプルは十分です。
そろそろ「ヒスイを探さなければ」と考えるのですが、綺麗な鉱物があると気を取られてしまいます。
もうしばらく石英(違うタイプの)に心を奪われる時期が続きます。


今だから分かるのですが、最初はどうしても「外見の美」に向かっていきます。
実際にヒスイを拾った時は、その姿の平凡さに感動する事もありませんでした…。
これなら「良質の蛇紋石や石英の方が価値がある」とさえ考えました。

しかし、これから後に私の中で、その考えが大きく覆る事になります。
(色の良いヒスイが拾えたからでは無いです)

その話はヒスイ編になってから詳しく書いていきます。

つづく。
2012年01月17日
サンプルを探していると同じタイプの鉱物数点を見つける事ができました。


ほとんど全体が緑色の石英の塊となっていますが、所々に茶色と黒色のインクリュージョンが見られます。
緑色も前回のと比べると明るい色で、結晶としては少し不完全な感じがします。


裏側はヒビが多く表面が粗い感じがしますが、中心部分も粗いかは分かりません。
混ざり合っている為、部分的にしっかりした所もあるので面白い鉱物です。

このタイプは通常では艶を出す事が難しく、ヒビが多いので磨き出しても余計に粗が目立ってしまいます。
ですが、ここまで石英部分が多く、ヒビの無い面があれば綺麗に仕上げる事は可能になります。

本当はそのままの姿が良いのですが、空洞にできる水晶と違って表面を川で擦られている為、そのままでは白くパサついています。
なのである程度の研磨が必要になるかと思います。(水に浸けて保存する方法もありますが…)
クリアラッカーを使うと時間の経過に連れて黄ばんでいくので、あまりお勧めできないです。

しかし、これも国産のクリソプレーズと言えるのだろうか…?
これが何であれ綺麗な鉱物である事は間違いないので満足なのですが、やはり素性を知りたくなります。
鑑別に出して分かるものなのだろうか?石英って出てきたら「知ってるよ」って言いそうです…。

つづく。
2012年01月07日
今度は緑色の石英(クリソプレーズ)の話をしていきます。


こちらの石英もヒスイを探していて出会いました。
糸魚川ではヒスイに間違われる代表的な鉱物ですが、ここまで緑色の石英がはっきり出ているのは珍しいようです。(当時のフォッサマグナミュージアムの学芸員さんも言ってました)
緑色の雲母による発色では無いので、アベンチュウリンではないようです。


コブのように出ている緑色の部分だけは、大きく滑らかに結晶化しているのだと思います。
このコブのように盛り上がっている部分は色も濃く、ルース等の加工も可能な質になっています。
中にも同じような塊があるのでは…、と期待させてくれる姿をしています。(加工しませんが…)


このタイプの石は、水に濡れていると緑色が映えて綺麗なので初心者にはヒスイと間違われますが、乾くと白っぽくなりカサカサ感が目立つようになります。(キツネ石と呼ばれている代表格でもあります)
茶色と緑色が縞模様に混ざり合っているのが特徴だと言えます。
今回のサンプルもコブのように出ている部分以外は、乾燥すると同じようになります。

しかし、ここまでになるとやっぱり美しいですね…、一般的に知られている緑石英(クリソプレーズ)は、もっと明るい翠でアップルグリーンの色をしています。
今回のは深い緑色をしていますので、あまり価値がないのだろうかと調べてみると、クリソプレーズよりも稀少とされる「プレーズ」なるものがある事がわかりました。

でも見本が外国産で、しかもカメオになっているのでよく分かりません。
印刷によっても色も違ってくるので難しいですね。

とりあえず鑑定は後回しにして、もっとサンプルを探す事にしました。
当初の目的であるヒスイ拾いから少し離れていってますが、楽しかったので今では良い思い出です。

つづく。


こういった経験を活かして将来的に、この地域だけの「鉱物の本」を作ってみたいと思っています。
まぁ、自分の規模の範疇での本になるかと思いますが…。
2012年01月01日
明けましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします。

昨年はいろいろな方々に支えられて、ある程度の生活の安定を保てました。
おかげさまで私の夢である、未来に繋げるオリジン(元型)をまた一つ生み出せました。
人間にとって「幸福=衣・食・住の安定」なので、それが叶った時に夢を追う事ができます。

今回は国津神の少名毘古那が神玉として完成しました!


デザインのモチーフは「小人・蝶(蛾)」です。
一寸法師のモデルにもなっている少名毘古那は蛾の衣を纏っていたと言われています。
その鱗粉を調合して薬を作っていたのだろうか…、などを考えながら作りました。
少名毘古那は別天津神とも分類される記述がありますので、原姿の蚕をモデルにしてみました。


少名毘古那に込めたコンセプトは、「逸脱・転身・変化」です。
基本的に蛾は葉を消費していく幼虫から、それらを誕生させていく成虫へと変身します。(蜜を消費して)
実際は植物が昆虫の習性に適応して進化したと言われていますが、昆虫が変身する習性を持たなかったら植物は消費されていくだけの存在になっていたでしょう。
現在にいたっては蚕は退化している為、人の完全な管理の元でしか種を繋ぐ事は不可能になっています。
(幼虫時に得た栄養だけで成虫になっても生きていきます。退化したからとは言え一切消費する事のない存在に変身するのは奇跡だと思います。)
日本の国作りに貢献した紡績にも関係しているので、そういった良い特徴をもった生物としての理想型を少名毘古那に宿しています。


その他には勾玉からの羽化も表現してあり、もっと自由な発想へと飛び立てるよう願いも込めています。
そして国津神の特徴として顔には丁字を彫って現実を生きる逞しさも表現しています。

しかし…、八千矛もそうですが加工の手間が凄すぎますね…。
もう少し加工コストを下げなければ誰も計画を継いで行けないような気がします。
そこら辺も考えなくては…、神玉プロジェクトを未来に繋げるのが現在の夢なのですから。

ちなみに幼い頃は昆虫が大好きで、昆虫博士になるのが夢でした。
最近では自然の中で遊んでいる事で色彩の基準が養われるのではないかと思うようになりました。
例を上げると、オニヤンマの目こそが最高級(宝石)としての翡翠であると認識しています。
あれこそが生命の輝きであり、あの真夏に燃えるような翠の複眼(まさに福眼です)を見ると、オニヤンマの満ちあふれる生命力を感じる事ができます。
ヤンマの種類で目の色が若干違いますが、どれも一流の翡翠色である事は間違いないでしょう。




私の中での人とっての天津神と国津神とは「上を向いて二足歩行で歩くのが天津神」「足場を確かめながら二足歩行で歩くのが国津神」だとしています。(両方が引っ張り合って地に両足を着けている)
この二つがあって人は初めて「前を向いて両足で歩ける」のだと考えています。
なので、この二つのバランスが崩れると「現を抜かして仮想空間で生きる人」や「這い蹲って暴力・謀略で生きる人」になっていくのだと思います。

農耕と狩猟にも同じ事が言えて、農耕の悪い所は「溜め込んで腐らせる」事であり、狩猟の悪い所は「力によって略奪する」事であります。
どうしたって現在の人間には不変で過ごす事は精神的に無理ですので、いろいろな経験を重ねて慣れていくしかないのでしょう。
一生の間に慣れていけば良いのですが、意識して生きていかない場合は全く気付かずに、人としての業に飲み込まれて行く事になります。

人がどのように進化していくのかも興味がありますが、まずは自分の計画を確立していなくては…。

今年は辰年でスサノオの年ですし、来年は巳年でオオナムチの年となります。(私も巳年)
この二年は希望の持てる年になりそうです。
2011年12月27日
これで最後になるであろう蛇紋石の話をしていきます。

サンプルを探している中で、面白い蛇紋石が見つかりました。


見つけたのは斑点模様のある透明の蛇紋石です。(酸化して黄ばみが出てきました)
硬度も以前に見つけた蛇紋石と同様で柔らかいです。


正に調べたサーペンティンの見本通りって感じの蛇紋石でした。
その蛇紋石をよく見ると、紫色をした部分がある事に気づきました。


この紫色した部分は何なんだろうか…?
そういった不純物が入る事は図鑑では記されていなかったので、その正体を知りたくなりました。
地域特有の「インクルージョン」か「紫色した蛇紋岩」か…、不思議です。

硬度を調べてみると、紫色の部分は少し硬い感じがするので「紫色した蛇紋岩」ではなさそう。
しかし素人なのでハッキリとした事が分かりません。

丁度その頃に、フォッサマグナミュージアムで鉱物の展示会がある事を知り、そこで鑑定もしてくれるとの事だったので、この蛇紋石を見てもらう事にしました。

集めたサンプルを持っていって学芸員に尋ねたところ、一瞬驚いた表情を見せましたが、よく見てから「蛇紋石ですね」と言いました、きっと一瞬は良質のヒスイに見えたのでしょう。

蛇紋石である事は分かっていたので、これが「ボーウェナイト」か「ウィリアムサイト」に相当するのかを聞いてみたのですが、どちらの名前も「聞いた事がない」と言われました…。
いや…、図鑑にも載ってるし…、とも思ったのですが、改めて紫色した部分を聞いてみても「分からないです」と言われました…、何だか来た意味が無い。

後から知ったのですが、一般的に学芸員と言うのは鉱物学者ではありませんので、鉱物の詳しい知識が無くて当たり前なんだそうです。
あの場所での学芸員なので、ある程度の鉱物の知識は必要となりますが、日本で知られている一般的な名前や特徴を覚えるのが基本みたいです。
そもそも日本は外国(主にドイツやアメリカ)に比べると鉱物の研究が凄く遅れているそうです。

紫色の部分も機械にかけて分析しないとハッキリした事が言えなかったのだと思います。
なら「分析しますか」って聞いてほしかった…。

イベント中だったので対応できなかったのだろうか…。
しかし疑問思うことは、あの施設には鉱物に詳しい学芸員が一人いると聞いています。
当時は二人いた学芸員に聞いたのですが未解決…、どちらとも別の人だったんだろうか?
もうかなり昔の事なので顔も覚えていません。

現在まで忘れていて未解決のままにしていましたが、そろそろ解決したいですね。
ジオパークになってヒスイ以外の鉱石も調査していると思いますので、再び聞いてこようかと思います。


ちなみに「宝石となる」とありますが、これは商業的な価値ではなく、貴石〜半貴石に相当する事を言っているのだと思います。(美しいか否かの問題)
ボーウェナイトやウィリアムサイトを宝飾に加工して販売しても高値は付かないでしょう。

主に彫刻(美術品に)するらしく、ニュージェイドって名前でビーズにもなっているようです。
結局はヒスイにちなんでの名前をつけて、商業的に価値を付けるのが一般的なのでしょう。

しかし美しい事には間違いないし、蛇紋石の中でトップクラスなのも間違いありません。
加工して身につけていても、それが蛇紋石なのか他者には判断できませんし、身につける人が満足し、人としてのモラルを持った人格者ならば、その存在は「宝石となる=価値が在る」と考えも良いと思います。
私は巳年なので、どうも蛇紋石に愛着を持ってしまいますね…。

でもピンのものは原石の姿で美しいから加工する必要は無いでしょう。(破片とかを加工するとか)
加工すべきは「キリとされている存在」で、それらの評価を高める事が「作る側」の役目だと思います。
とは言え、質がある程度しっかりしていなくては加工しようもありませんが…。
2011年12月17日
また前回に続いて蛇紋石の話をしていきます。

もうヒスイでは無いことは分かりましたが、気になるのは蛇紋石の価値です。


蛇紋石は大きく分けてアンチゴライト・クリソタイル・リザード石の三つになるそうです。
で…、この石はどれになるのか?、良く分かりませんね…。(クリソタイルでは無いですが)
しかも拾った時は濃紺だった蛇紋石が、酸化したのか少し深緑に変色しています。
多分、切断すれば中身は濃紺のままだと思いますが、確かな事は分かりません。


こちらも当初は水色でしたが、酸化したのか枯れ草のような色に変わっていきました。
かろうじて水色だった部分が残っています。(中身は変色していない事を祈ります)

当時は図鑑やネットで蛇紋石を調べても同じ様な見本がありませんでした。(探し方が悪かった?)
外国の鉱物見本が殆どなので、どうにも見分けがつきにくいです。
糸魚川専用の鉱物図鑑があれば面白いのに…、とさえ考えてしまいました。(当時は出版社にいたので)

そんな中でサーペンティンで調べてみると、同類とみられる見本を見つける事ができました。
それによると宝石となるのは、ボーウェナイトとウィリアムサイトであると書いてあります。

蛇紋石の中ではグレードの高い分類に入る事が分かり、感動した事が報われた気になりました。
どんな鉱石にもピン〜キリがあり、ピンであれば価値がある事を理解しました。
(当時はキリであっても使い方次第で価値を出せる事には、まだ気づいてはいませんでした…。)

更にボーウェナイトで調べると、同じ見本がありましたので間違いないでしょう。
しかし、ウィリアムサイトの特徴に見られる斑状模様のインクルージョンが見られる蛇紋石もあります。
ウィリアムサイトはオイリーグリーンも特徴とありましたが、それに近い色を持つ蛇紋石もあります。

部分的に分かれているのか…、その基準が素人なので分かりません。
もっとサンプルを増やして、調べてみようと思い同じ場所で蛇紋石を拾う事にしました。

そうしていく内に、面白いサンプルを幾つか拾うことができました。

つづく。
2011年12月07日
前回に続いて蛇紋石の話をしていきます。

こちらもヒスイと間違って拾いました蛇紋石です。


この蛇紋石を拾った時は脳に衝撃が走りました。
川の水に濡れていた事もあり、素晴らしいヒスイに見えたのです。
明らかに転がっている石達とは違い、日の光に照らされて輝いていました。
これは間違いないと思い拾った事を覚えています。

ヒスイであれば、かなり良質だと素人ながらにも感じたので、ヒスイ自体を深く調べる事にしました。
きっと「最高クラスのヒスイであるだろう」と確信して調べてみると、図鑑やネットに載っているヒスイと少し違うような感じを受けましたが、良質になると似た特徴の方が多く見られました。

きっと拾ったのは良質のヒスイに違いないと思っていたので数日は気づきませんでしたが、徐々に翠の発色の違いが気にかかる様になりました。
拾ってきた石の緑色が深緑系で黒っぽく、いわゆるヒスイの翠とは違う事が疑問となり、更に透明感が高すぎる事も私の疑心に拍車をかけました。(そもそも色の入り方が違いすぎる…)

部分的に明るい緑色があるのですが、それでも確信が持てなくなっていきました。


調べていく行程でヒスイには似た石が多く存在していて、糸魚川でも「きつね石」と呼ばれる類似石が沢山ある事を知った為、もう一度よく調べる必要があると思いました。

まずはヒスイ輝石の結晶を確認する為にルーペを使って調べると、白い母石に結晶らしきキラキラの部分を確認できました。(緑色の部分では確認できませんでしたが、良質のヒスイでも確認はできない)
ここで少し自信を取り戻したのですが、次に調べた硬度で疑惑は確信に変わりました…。

以前に白い部分を軽く削った際には傷が付きませんでしたが、透明度の高い緑色の部分をナイフで削ったところ、簡単に白い傷が付きました。
やはり「ヒスイじゃない」という事が判明した瞬間でした…、念のため白い部分も強く削ってみたら傷が付きましたので間違いありません。

この時は、かなりガックリきた事を覚えています。(あの興奮は何だったんだ?って感じです)
この経験はヒスイを探す人は必ず通る道だと言われているらしいです。(間違える鉱物は様々ですが)

こういった事もあり、ヒスイ輝石の知識をきちんと学ぶ必要があると痛感しました。
それと同時に私が拾った蛇紋石が、どの程度の価値があるのかが気になるようになり、蛇紋石も詳しく調べるようになって行くのでした。(普通に美しく魅力的な鉱物だったので)

つづく。
2011年11月27日
これはもう14年くらい前の話になります。
私がヒスイ拾いを始めて、最初に勘違いをして拾ったのが蛇紋石でした。


当初はヒスイがどのような鉱石か良く調べておらず、とにかく緑色の石を探していた時に出会いました。
水に濡れていた事もあり、すごく綺麗な姿をしていて、これが「東洋の宝石」と言われるヒスイに間違いないと思い喜んで拾いました…。


部分的に透明度が高く、特に濃緑と青緑の部分はとても魅力的でした。
硬度が「ナイフ(鉄)よりある」と言うことは聞いていたので、白色の部分に軽くナイフを当ると削る事ができませんでした。(後に気づくのですが、この部分は蛇紋石ではない、しかも強く当てると削れます)
これで間違いないと勘違いをして意気揚々と帰宅した事を覚えています。

川から上げてしばらくすると表面が乾いて白く(パサパサに)なっていきましたが、海や川のヒスイは乾いてもあまり変化がない事を知らなかったので気にもなりませんでした…。

しかし拾った時より綺麗ではないので、ハンドグラインダーを使って磨く事にしました。
当時はグラインダーの種類にも知識がなかったので、通常の刃物を削るグラインダーで削りました。
ヒスイであれば困難な研磨も、蛇紋石であったのでガンガン削れていき体中が白い粉だらけになったのを良く覚えています。(それでも蛇紋石とは気がついていない…、かなり良質のヒスイだと思っていた)

最後の仕上げに1500〜2000番の耐水ペーパーを使って、水をつけながら手で磨き込みました。
仕上がりは満足するものとなり、水に濡れている時と変わらない美しさを出せました。
その代わり肩〜腕にかけて、もの凄い筋肉痛になり仕事に影響が出て苦労したのは懐かしい思い出です。


これより先も蛇紋石を拾い続ける事になるのですが、この事があって深く蛇紋石を調べるようになります。
その話は続編である蛇紋石編(弐)に続けて書いていきます。
2011年11月17日
一部の地元の人が、糸魚川のヒスイを大切にする理由の中には「故郷の誇り」があるからだと思います。
その誇りを肯定し続ける存在が絶対に必要であり、比較されたとしても揺るがない心を育てる必要があると考えています。

どうしても同じヒスイとしてミャンマー産の翡翠との比較がされますが、これは孔雀の雄雌と同じ様なもので、見栄えが良く「自己顕示」を満たすのが雄であるミャンマー翡翠で、地味ではありますが暖かみがあり奥深い品格によって「自己満足」をもたらすのが雌である糸魚川ヒスイです。

見た目だけの評価により、糸魚川ヒスイの愛好家は悔しい思いをする事が多くあります。
現在、日本に入ってくる翡翠商品は着色などの処理品なので比較の対象にはなりませんが、それを知らない人の言い分や、無着色の天然翡翠に対して明確な対応が出来ていないのが現実です。(糸魚川ヒスイを販売する人の知識が少ない事が原因の一つです)

なので比較された際には「盛りのついた雄の孔雀では無い」の一言で終わるように、糸魚川ヒスイのカリスマとなる品を、それぞれが構築して行かなくてはならないと考えています。

それにジェードとは「あばずれ」と言う意味が含まれていますので、そんなモノと同じにされたくもない。
東洋を差別しての隠語なのでしょう…、今では利益になる事が分り手のひらを返したようにジェダイトと改名して扱っていますが、その事実は消すことは出来ません。(消費し尽くしたら再び差別するでしょう…)
未だに翡翠と翡翠に類似している石全般をジェードと総称する西洋人(宝飾関係者)も沢山います。

こういった差別をされているのは派手なミャンマー翡翠であって、地味な糸魚川ヒスイではありません。
その違いを明確にしていかなくては「その他大勢」みたいな扱いをされ続けてしまいます。
(糸魚川ヒスイは赤色が無いので「翡翠」ではなく、「ヒスイ・ひすい」で良いと思います。)

この現状を打開するには、根幹である糸魚川市民が糸魚川ヒスイに対して誇りを持つ必要があり、それを実現にする計画が絶対に必要になると思います。(一応、案は在りますが将来に託します)
ここまで市自体がヒスイを表に出して宣伝しているのだから、今更後には引けないでしょう。
糸魚川での生活文化の一部として定着する必要があり、楽して儲けようとする姿勢を正す必要があります。
なによりも表面上の色に惑わされないで、モノクロであっても魅力を見出せる目を養わなければ…。

モノクロでも魅力的な品と認識でき、模様と色が入る事により品格を増す事を理解し、それを共有できる人達が大勢になれば何を言われても怖くはありません。
そして、それらを肯定し続ける存在(作品や人材)があって、初めて糸魚川ヒスイの真価を発揮できるのだと私は考えています。(作品と商品のハイブリットの品も必要になる)

それはやがて故郷に対する誇りを育て、郷土愛へと繋がり人の心を豊かにしていくのだと思います。

まずは発祥の地である糸魚川に定着させて、やがて日本全国にその基準を広め、その完成をもって世界に宣伝しなければ説得力が足らず真剣に聞いてはくれません。(まずはヒスイ愛好家の支持を得る必要がある)


実際、この糸魚川でも9割は表面しか見る事の出来ない人達で、その多くは商売にしている為に目先の利益を求め自己顕示している翡翠に向かってしまいます。(そして処理品に引っかかる)
ここでハッキリさせなくてはならいのは「翡翠」が好きなのか「ヒスイ」が好きなのかです。

この答えによって糸魚川が進むべき方向が変わってくると思います。

現実的に商売を考え、その利益にあやかろうとする人には「翡翠」の方が必要なのだと思います。
仕入れて売れるのですから簡単に翡翠商売に参加できます。(売れるかは自分次第ですが…)
その場合はミャンマー翡翠を主力として販売していく事になるので、糸魚川は糸魚川ヒスイという存在を事実上、放棄したと言う事になります。(甲府の水晶と同じ結果が待っているでしょう…)

今後、どのような未来を掴めるのかは分かりませんが、自身の道を進んで行くしか方法はありません。

この小さな地域でさえ私の一生では変えられないでしょう。(糸魚川生まれでもないですし)
それでも自分の信じる活動をして生きて行く事が、自分にとっての幸せの近道だと思っています。



※そろそろ現実のつまらない話ではなく、鉱物や加工の話を書いていこうと思います。
 糸魚川には面白い鉱物が沢山ありますので、自分の体験談と共に紹介していきます。
2011年11月07日
楽しみにしていたシルバー925のアイビッツロゴが仕上がりました。
○と△のデザインの組合せなので、とてもシンプルな形となっています。

色々と使えるので髪飾りや耳飾りに合わせた作品を作っても面白いかもしれません。

将来的には出品する全てに「ibitsと分かるアイテム」を付けて販売したいと考えています。
資金も必要だし、定着するのにも時間がかかるでしょうが、まずは行動しないと…。

とにかく身につけていて「誇らしい存在」を目指して活動して行かなくてはなりませんね。


今回はヒスイの加工では無いので、信用のある彫金の仲間にお願いして形にしました。
同時にシルバーパーツも幾つか制作し、シルバー925のパーツを使っての作品づくりが可能となりました。
外国からの品は銀の比率が低いらしく、作りも雑なのでどうにかならないものかと考えていたので、信用できる彫金の人と知り合えて良かったです。(基本的に日本製は全てシルバー925です)

制作者がハッキリしているおかげで開発の詳しい相談ができる事や、自分でデザインしたパーツも形にできるので表現の世界が広がりました。(自由にヒスイとのコラボが可能になりました)
どうしても初期費用は必要となりますが、作る人と繋がっているのでメリットの方が大きいです。

後は、どこかに国産のウッドビーズがあれば…、全てを国産の品で制作できたら良いのになぁ。
銀自体も日本で採取されたものを使えれば理想的なんですが…。(現在計画中です)

需要が無いから淘汰された分野ですが、反骨精神で活動している人もいるのではないかと考えています。
2011年10月27日
商売は「水と魚の関係」を例えると分かりやすいと思います。(無礼な例えではありますが非常に分かりやすいです…)

養分のある濁った水が「市場」とすると、そこに餌を垂らす釣り人が「売人」となり、その水の中を泳いでいる魚が「消費者」となります。
この状況は商売での初めのステージであり、魚である消費者には濁った水の中で売人が垂らす餌の姿がよく見えない(正確な判断ができない)状態になっています。
このステージでは偽り(疑似餌)が大半を占めていて「他の魚が食らい付いたから大丈夫」という錯覚にも似た感覚を与えて釣り上げる事が主流となります。
これは魚だけではなく、釣り人の側も「あっちがやっているから大丈夫」とう錯覚をおこし、同じ様な釣り方をしていきます。

しかし、この領域も永く続く事はありません。
同じ利益を喰らい合うのだから低迷するのは当然で、釣り人はより利益を得るために差別化していきます。
餌を良くする事がその方法となるのですが、水が濁っていては肝心の餌がよく見えません。
そこで水自体を濾過する事で餌を鮮明にさせて、準備した「差別化した餌」を投入します。
透明度を高めた水により疑似餌は正体を暴かれ、良くした餌はその中でより輝きを増していきます。
よって、このステージでは餌を改良した釣り人が勝ちとなります。(キリがあってのピンですから)

しかし、更にこれを真似る釣り人がいる為、この領域もスタンダードになります。
なのでもっと良い餌にして、もっと綺麗な水にして他者との差別化をしていくのですが、餌を良くし水を綺麗にして行くにつれ「住める魚」と「住めない魚」が出てきます。(釣り人も減るけど魚も減る)
ここまで来るとピンの餌でなければ食いつかなくなってきますので、それに対応する釣り人の負担が大きくなっていきます。(今までが楽をしすぎていたのでしょうけど…)

しかも水が綺麗になった事で、魚は水中からでも釣り人を見ることが可能となり、餌だけでなく背景も見るようになります。(どこで誰が造っているのか等)

高みへ登れば登るほど透明度が求められ、やがて「釣り人」と「魚」の立場が逆転していきます。
この領域を維持できるのは換金を目的としない芸術品だけであり、商売だと最高級の品でしか通用せず、そういった品は数が少ないので成り立つ事はありません。(小規模ならば引き延ばせますが…)

結局はピンの品もスタンダードとなり、価格を下げるしかないのが商品の定めで、需要があっても供給できなければその商売はすぐに破綻します。(高みに留まる事は不可能)
伸び代を失った部門は衰退して行き、放置される事で市場である「水」が(年月が流れて)再び濁っていくので、同じ様な事を繰り返して行きます。(学んだ人は疑似餌には引っかからなくなります)
消費者は優しく騙されていた事で、記憶には嫌な思い出としては残らずに、新たな消費者と共に「その流れ」にのって行くのか商売のシステムとなっています。

商売とは濁った水でしか利益を上げることは出来ず、その商売が芸術を支える一つの方法でもあります。
これは家庭をもった人と同じですが、絶対に守るべき存在は自分の家族であり、仕事はお金を得る為だけの手段でしかありません。(家庭を持つ事は「家族の夢」が自分の夢となる事ですから)

芸術家にとっては自身の作品が子であり、守るべき存在となります。(芸術家は家庭を望むべきでない)
その領域を守るために、「同じ制作部門で濁った領域」を持つか、「別の仕事をして濁った領域」に身を投じて支えるかの選択が迫られる現実があります。(他者に支えられる運の良い芸術家もいますが…)

濁り=養分=お金となりますので、お金を得るには濁った領域でしか稼ぐ事はできません。
この領域では制限(モラル)を持った人ほど利益は出ず、金儲けに徹した人には勝つ事は出来ません。

消費者がこの事実を知りながら購入する際は「本物を見抜ける眼力」を備えるか、「所詮は濁った領域の産物」として全てに過剰な期待を持たずに「お祭り感覚」で購入するしかありません。

日用品や電化製品などは使う事で違いが分かるのですが、最近はその違いも差がほとんどありません。
日本ではこの部門の市場(水)が綺麗になっている為、企業は利益を出す事が困難になり、低賃金労働者を使う事で現在の生活レベルを維持しています。(企業が国外に出ていく理由の一つ)
この部門では消費者でなく、偽りの領域を「制作者」に対応させるようになっています。

私達の生活レベルは発展途上国の低賃金労働者によって支えられているものであり、このまま知らぬ顔をして続けて行くのなら、近い内にその報いを受ける事になるでしょう。

商売とは「汚く稼いで綺麗に使う」と言われますが、現在では「汚く稼いで汚くに使う」になっているように思えます。(どちらが正しいのかは分かりませんが…)

この時期に、それぞれが商売との付き合い方を真剣に考える時期に来ていると私は考えています。
まずは「知る」事から始めて、適切な使い方を学んで行く必要があると感じています。

偽りの無い世界などは存在しないのでしょうが、その中でも最低限の節操を持って生きたいですね。
2011年10月17日
今回は主に絵画の手法である写実と印象について書きたいと思います。
同じ絵画でも手法が違うと表現を伝える方法がかなり違ってきます。

印象とはそのままの意味であり、人の「記憶」に伝える技法であります。(起源は画名)
人の記憶と言うものは、古ければ古いほど美化されていき、現実を凌駕していきます。
その記憶を引き出す技法として、全体のイメージだけを描いて朧げに表現するのが特徴です。
なので、見る側に同じ様な記憶が無ければ伝わりようも無く、現代では特に自然風景などの記憶が乏しいので記憶を引き出す印象画法は伝わりづらくなっています。
心境を描く際にも使われますが、同じ心境を体験した人にしか伝わらず、同じ時代に同じ境遇で生きた人々にこそ相応しい作品なのかもしれません。(記憶の鏡的な存在です)

写実は視覚に伝えるものであり、記憶を持たなくて良さが伝わる技法であります。
描き込むことでリアル感を出して、「その作品」を記憶とするだけの表現を込めていきます。
写真と違うのは現実よりも美化されていて、作者の記憶と感動を鮮明に写しだしている部分があります。
作品を通して記憶を共有する意味があり、その記憶の無い人に丁寧に表現しているのが写実画です。
印象と違うのは人の記憶を引き出すのでは無く、作者の記憶を共有するのが目的なのだと思います。
写実画と同じ対象を印象画で描いて見せたら、きっと写実画の記憶が甦る事でしょう。

絵画というものは結局は「記憶」が重要であり、幼少の頃の楽しい思い出や故郷の美しい景色は、人の誰もが美化されて記憶に残しています。
その記憶に勝るビジョンはなく、写真ですら当時の記憶を情緒豊かに残す事はできません。
人の記憶を引き出すには描き込みすぎず、記憶を共有するには感動自体もを描き込む必要があります。

この中間のような絵画は沢山ありますし、違う技法も多々存在していますが、対極のイメージがある印象と写実はその中でも重要で「面白い技法」だと感じています。
現在は幾つもの技法を混ぜて使うことが多いので、その意味合いもハッキリとしませんが「記憶に伝える」と言う本質は何も変わっていませんので、見る側も様々な記憶を養う事で絵画を楽しめるかと思います。

記憶を対象にして表現するのは全ての芸術に共通していて、遙か古代の記憶を持たない現代人にも「古の懐かしさ」を伝えられる唯一の表現方法だと思っています。

現代人の古代に対する一般的なイメージは、遺跡の復元物や博物館での展示・イラストだったりします。
しかし、与えられる記憶だけでなく「繋がれた絆の記憶」を引き出す事のできる作品を創り出す事が、私の夢であり国産翡翠作品としての最終目標となります。(その記憶が思い込みであっても全く構わない)

天然の骨董とも言える翡翠石を分解して新たに生まれ変わらせるのだから、同じように時を重ねてアンティークとして価値が付く作品「不滅の宝」を残すよう活動して行きたいと考えています。



※以前に糸魚川は「翡翠原石の供給地では?」と書きましたが、現在の姿を見て判断する事は「必ずしも正しい」とは言いきれないと考えるようになりました。
例えばエジプトも今の国を見るだけでは、発展した古代文明があったとは考えられないでしょう。
糸魚川も長者ヶ原遺跡付近は田中角栄の時代に工事したので、きちんと調査していない可能性があります。
そうであれば、まだまだ貴重な文化財があの一体には埋まっている事も考えられると思います。
なので、もう少しだけ糸魚川を信用して活動しようと思います。(現状の不埒は無視して行く)
2011年10月07日
日本神話にある黄泉比良坂での一件には、私的には疑問が多く存在します。
イザナミが「千の命」を断つと言い、その際にイザナギが「千五百の命」を生むと言ったとされていますが、どうもその順番や役割があべこべに思えてしまいます。

本質で考えると「生み出す」のは女性であり、「排除する」のは男性であります。
もし順番が違うとして、最初にイザナギが「千五百の命」を生むと言ってから、イザナミが「千の命」を断つと言ったのなら理解できるかと思います。
どんな存在も同じですが増えすぎると支障が出てきます。(増やせば良いというモノではない)
現在は少子化とされていて、国を維持するには税金を自動天引きする人員を多くすれば良いと言う現実がありますが、人数を増やしただけではもう何も解決されません。

今度は役割が逆だとすると、イザナギが「千の命」を断つと言ってから、イザナミが「千五百の命」を生むと言った事になり、これでも私は納得できます。
そもそも難産でイザナミが死んでしまった事により、その子供(ヒノカグツチ)の首をはねたのはイザナギ自身であり、どう考えても「生み出す」って感じでは無いですね…。
そのヒノカグツチの死によって数多の神が生まれたとされてはいますが…。(生と死は表裏一体って事を伝えたいのだろうか?)

これはアマテラスとスサノオの関係にも言えて、スサノオはアマテラスの創り出す存在を破壊する事が唯一可能な存在となっています。
しかし、それも三分の二までの事であり、全てを破壊することはないです。(滅亡しますので)
アマテラスにはツクヨミが常に側いて、協力しながら創り出していきます。(日進月歩ってやつです)
明けも宵も進んでいく事で膨大な数を生み出しますが、その三分の二を根の国(黄泉)の守護者であるスサノオが排除するバランスとなっています。
こう考えると古代での出雲が根の国と呼ばれ、蛇を信仰する文化がある意味が少し分かるように思えます。

これを男性と女性に当てはめて考えますと、現在は女性用の商品ばかりが多く生産されています。
そして造っているのは大体が男性であり、消費するのが女性というバランスになっていますね…。
これを逆にできなのだろうか…、女性が男性用の商品を造り、男性が消費するバランス。
男性がその三分の二を消費していく存在となれば、神々のバランスに近づけるような気がします。
男性をメインとするので規模は今よりは小さくなり、先へ進むスピードが緩やかになるかと…。
まぁ、そう簡単にはいかないでしょうが、将来的には選択肢に入りそうな事ではあります。

ここで重要な事は、足し算である「生み出す」って事より、引き算である「排除する」って事がとても重要な事で、もし人が足し算しか出来ない存在であれば、この先を進んでは行けないでしょう。
(人以外の生物ならば、足し算のみでも他の生物が引き算を担っている食物連鎖がある)

プラス思考・マイナス思考も同じで、マイナス思考は「慎重さ」をもたらす大事な思考です。
しかし、バランスとしてプラス思考はマイナス思考の一歩先を進まなければなりません。
人がプラス思考だけで生きていくとしたら、それは唯の馬鹿と言う存在になります。(実在しませんが)
誰もがマイナスを持っていて、それを乗り越えて一歩進むのが最良のバランスとなります。

とにかく生み出されるのは三分の一の割合が良く、「三歩進んで二歩下がる」のバランスが一番良いです。
三つ巴のバランスも、これを基礎にして進んでいきます。

日本の神話は言い回しが沢山あって、普通に読んでいても意味不明な事が多いです。
ですが本質からの広がりなので、探求していけば自分なりの解釈を掴めるかと思います。(答え合わせはできませんが…)
しかしあの文面で意味が通じていた時代って、かなり読解力にすぐれた人達の文化だったのだろうか…。
それかシンプルすぎて、逆に難しく考えてしまい、現在人には伝わりづらいのかもしれません。



現実と言うのは常に人類にとってマイナスなものでしか無く、本気でエコを考えたなら悲惨な結論になる。
マイナスだらけの世界を、一歩乗り越えるプラスを持って生きる事が人の定めなのかもしれません。
「知らぬが仏」と言う言葉があるのなら「知ってキリスト」と言う言葉があっても良いと思ってしまう。
現実の姿を知っても尚、真実を背負って前に進む事が「人が人である証明」なのでしょう。
それすら逃げて生きたいのならば、人を辞めるしか方法はないかと思います。
2011年09月27日
人類の文化の発展は、見方を変えると「現実逃避の発展」と言えるかと思います。
多くの人々が神とするイメージは見た目通りに「地に足が着いてない」です。
地球の理に囚われない絶対的な存在として人に恩恵や罰を与え、翼があって自由に空を飛び、太陽の様に光を放ち宇宙と繋がっている…。
地球を超えた存在であり、人が決して逃れられない地球との関わりからも解放された存在となっています。
あまりにも都合が良すぎるように思えます。(現実逃避の究極体が生み出した完全体って感じ)
地球の上位として宇宙を持ってきても規模がデカすぎて理解できない、計り知れない存在にしたいのは分かるのですが、現段階では付き合い方が分からないと思うのは私だけでしょうか…。

しかし日本に伝承されている古き神々を見ると、かなり「地に足が着いている」事が分かります。
日本人には「現実と向かい合う事の意味」が本能的に分かっていたのかも知れません。(家紋も植物だし)
全ての神の根源は自然(地球)から生まれた存在であり、現実での苦しみを堪え忍ぶ為には、自然との関わりで生まれる「喜び・楽しみ」が必要だと直感的に判断して誕生したのだと思います。(五〜六感によって)

現実をそのまま受け入れるように人類は進化しておらず、ひたすら逃げることに徹した結果、頭脳が発達して現代のような「人が住みやすい社会」にまで到達したのでしょうが、現実を受け入れ遺伝子自体を強化していった他の生物と比べるとあまりにも貧弱な存在となっています。
しかも「人にとって住みやすい社会」から生まれた人間は、より住みやすい社会を目指して行くので心が満たされる事がありません。

人が英知と呼ぶ科学で誕生した原発も、扱うのならば放射能を「分解できる遺伝子を持つ」、あるいはその科学を駆使して「分解する術を持つ」必要があるに決まっています。
原発を神のように宙に浮かせて、地球との関わりからも解放する事が可能なら別ですが…。

しかし、既に造られてしまった存在なので破棄する事は容易ではないでしょう。
遺伝子を強化してリスクを断つか、精神を強化して制限して行くか、そのいずれかの方法しかないかと…。
そして、そこから新たに向かい合う魂(未来を担う命)が生まれてくるのだと私は考えます。

人が現実逃避をするのは人で在る限り変えようが無く、無理に地に足を着けると途端に争いが始まります。
自然を神とする日本の神々も争いからは逃れられないようで、戦ってばかりいますね…。
結局、生きていく中で規模は違えど「現実逃避」と「争い」は存在していて、その中間に「自然(地球)と向き合う」って事が在るのだと考えています。

理解しておくべきは、現実逃避に傾きすぎると後始末が出来ず、現実直視に傾きすぎると戦争になる。
人は逃げることで現在の能力を得ましたが、時には向かい合う強さを持たないと足が地上から離れていき地球との関わりを忘れてしまいます。(這い蹲っても駄目…)

人の文化を大切にしながらも、地球との関わりも大切にしなければなりません。
2011年09月17日
今の社会の勢力図は勾玉と大珠の勢力図と関係があると私は考えています。
私の考えでは、勾玉はイザナギであり男性を象徴していて、大珠はイザナミであり女性を象徴しています。
(この場合の勾玉とは一般的に知られている定型であり、動物形などの異形とは別です)

土地として本来なら伊勢がイザナミであり、出雲がイザナギを担っているはずだったと考えています。
出雲の語源にはイザナミが関わってる説があり、日没の地(根の国)と言う事もあり女性(イザナミ)を象徴しているように思えますが、出雲大社の主神である大国主が男である事、卑弥呼が女性(男性だった可能性もありますが、女性で通す理由があったはず)である事、勾玉を制作している事からイザナギ(男)の地であると考えています。(武器も制作していましたし…)
今は名前が変わっていますが、天照(女)が伊勢となり、大国主(男)が出雲となっているので、私が考えている位置に治まってはいます。

現在は、三種の神器として剣(男)勾玉(男)鏡(女)のバランスとなり、あまり素材を限定せずに象徴(姿形)だけが国の宝として伝わっているので、男女共に勾玉デザインを求めるようになったかと思います。
私はこれが昔から現在へと続く、男女の勢力図に影響しているように思えてなりません。

大珠は勾玉を兼ねてもいて、女性がスカートとズボンを着用できる許容量の高さに似ています。
また、勾玉は単体でも見栄えしますが、大珠は装飾として着飾ってあげないと魅力を出す事が困難です。
男性が女性の魅力を見抜けず、女性自身も女性本来の魅力を認識していないから大珠は衰退して行き、上っ面の魅力に騙されて現在のような社会となったようにも思えます。

事実、今の「仕事」とされている行動の殆どには、男女の身体能力の差が関係していません。
男が必死に守ってきた領域も、取って代わる事が可能であり、消耗している男性より消耗されていない女性の方が伸び代があり、消費の面でも女性の客さんが圧倒的に多いので発展がスムーズになります。

ただ、障害となるのは男性なら立場(権力)に執着する年輩者ですが、女性の場合は更に男性全般が障害となる可能性があり、開拓にはかなりの精神力が必要となるかと思います。
どのような状況であっても女性は男性よりも障害が多く存在しますので、男性と同じやり方では乗り越え続ける事は、まず不可能となります。(女性としての向き合い方をすれば良いかと思います)

大珠も一緒で勾玉は国の神器となった事で、これ以上の高みは望めません。(上がる事も下がる事も無い)
だとしたら、大珠は国の宝では無く、「人の宝」として高めれば良いのではと考えています。
小規模で身近な所から開拓していき、時間をかけて人の宝となれば、即ち国の宝と同等になるでしょう。
(勾玉が通ってきた道ではありますが、更に進化させた表現を用いて行う必要がある)

神話でも時々、男女の立場が入れ替わったりして、「伊勢(日昇)はイザナギ(男)」、「出雲(日没)はイザナミ(女)」という時期から、「伊勢(日昇)はアマテラス(女)」で、「出雲(日没)はスサノオ(男)」というように男女が入れ替わって治められる時期がります。
本来、男が求めるべき品はイザナギ(勾玉)ではなく、愛する女性であったイザナミ(大珠)であり、今までのマイナスを補充するためにも、女性も少なからず大珠と向き合うべきだと感じています。
男性は黄泉の国まで追いかけて行くほど愛した女性(大珠)を、もう一度、思い出してほしいですね…。

大珠の姿は海から昇る太陽にも見えて、海に沈む太陽にも見えますので、どちらにも解釈できる事が大昔の物語りを面白くしているのかもしれません。

求愛の順序が違ってヒルコが生まれたり、他界の順序が違って黄泉比良坂での一件があったように、優先順位を間違えると不幸な事が起こりますが、長い目で見ると発展に繋がっています。(良くも悪くも)

重要な事は女性社会が理想と言うことではなく、男性社会と女性社会と中間社会の三社会がグルグルと回り続けて進んで行ければ、消耗される力を制限できると考えています。
(中間のニューハーフの方々の社会は感性が豊かなので面白いかもしれません)

現在の日本は西洋ナイズされていて、誰かが造った道を一方行しか進めていない気がします。
過剰な安定は人を腐らせますので、それぞれが制限できる精神力を持つ必要があるのかもしれません。


話はそれるのですが、スサノオの生まれた部分が疑問でしょうがありません。
アマテラスとツクヨミは瞳から誕生したのに、スサノオは鼻…、ちょっと格好悪いような気がします。
鼻は象徴なので意味があるのだと思いますが、やはり同じ瞳から生まれてほしいです。
そこで第三の目である「心眼」から生まれたって言う設定を思いつきました。(今更ではありますが)
この姉弟は三位一体なので「肉体のアマテラス」「精神のツクヨミ」「魂のスサノオ」となります。
心眼ならツクヨミではないかとも考えましたが、心臓は「魂の宿る臓器」にちなんで心の眼から誕生したのはスサノオとして考えて行きたいと思っています。(鼻が象徴する傲慢さが失われてしまいますが…)

以上、私の勝手な解釈でした…。
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