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2015年02月02日
前編で紹介したヒスイ(オンファス輝石)での勾玉の紹介です。
遅くなりましたが、なんとか仕上がりました。(待ってなかった?(笑))




前編では、この勾玉をヤマトタケルと命名していたのですが、磨きの行程で、その姿形(デザイン)や紋様が際立ってきたことにより、改名する事にしました(笑)
その名を伊邪那岐「大蛇」(おろち)と改名し、伊邪那岐シリーズに加えて制作していきます。
伊邪那岐「神蛇」(かんなぎ)と同じデザインを用いた事や、濃緑で蛇紋石のような景色が見られる事から命名しました。
八つを組み合わせて「八岐大蛇」の首飾りを、作っても面白いかと思っています(笑)
大蛇は、このヒスイ(オンファス輝石)専用のテーマとして制作して行きます。





ヒスイでありながら蛇紋石を想わせる紋様が美しく、艶に限っては通常のヒスイより、一段と際立ちます。(ガラスコーティングしたような艶になります、今後これをオンファス光沢とでも呼ぼうかな(笑))
青銅色の肌も美しく、古来から畏怖をもって崇められる大蛇のようです。
透明度は皆無と言えるほどに低いですが、自然光を受ける事で濃緑が膨張するように見えます。
これは私だけかもしれませんが、ヒスイ拾いをしている際の最終的な見極めになる特徴です。(視野の片隅でボヤっと発光している感じです)


このヒスイを加工した理由としては、個人的に蛇紋石の紋様が好きだった事にあります。
しかし蛇紋石の「硬度」と「重量」が、どうしても私の何かに引っかかっていて、それがどうしても気になる不満要素でもありました。(更に酸化によって変色するのも気になっていました…、しかしこの特徴は蛇紋石の魅力なのかもしれませんので、私個人が気になっているだけです)
私にとって「硬度」と「重量」は非常に重要で、あり過ぎても言いわけではありません。
いろいろと試した結果、ヒスイが理想的なバランスであり、そのバランスに魂すら感じます。(個人的な認識です)
何故かピッタリと納まるような感覚…、お守りとしての存在をより感じさせる「何か」が宿っている気がしています。(普通に相性が良いだけなのでしょうね(笑))

そんな時に、このヒスイ(オンファス輝石)に出会いました。
出会って長らくは、ただ眺めて楽しんでいたのですが、どうしても加工したくなり勾玉の制作を試してみました。
すぐに加工する気にならなかった理由である「粘りの有無」に、案の定、悩まされましたが、このオンファス輝石にもピン〜キリがあり、その見極めも基本的にヒスイと同じ事が解りました。(ヒスイだから当然か(笑))

そして粘りが低い分、艶出しは容易である特徴も解りました。
特に磨きに注意する事は無く、普通に磨くだけでプロ級の艶が出ます(笑)
キメが非常に細かいので、削りの行程もすんなりと進みます。(それでもヒスイなので硬いですが…)
造形し易く磨き易い、何て素晴らしいヒスイなのだろうか!
しかも酸化による変色も無く、逆に皮脂などでより濃緑になっていく事でしょう。

気を付ける事は「何処を切り出して加工するか」の判断でしょう。
これは透明度の低い山系のヒスイと同じ特徴なので、致命的なヒビや石目を避ければ問題ないでしょう。

何度も言ますが、このヒスイ(オンファス輝石)の最大の魅力は「青銅色の肌と蛇紋石のような紋様」です。(宝飾としての価値は、まず無いかと…)
なので、一般的なヒスイを好む人達には全く需要がないでしょう(笑)

それでもこの魅力を共有できる人は確実にいますので、テーマを持たせて作り続けて行きたいと考えています。

ちなみに、勾玉の「ヤマトタケル」は、改めて専用のデザインで表現したいと思っています(笑)
2015年01月29日
今月も、姫川をモニターしてきました。
昨日から急激に気温が下がり、先日までの陽気が嘘のようです。
これから更に気温が下がるので、耐える日々が続きそうです。(気力的にも、体力的にも…)

今回は、根知周辺の報告です。
こちらは町中とは違い、真っ白な雪に包まれています。
こんな状態でも、河川の工事は行われていました。(殆ど雪かき作業のようになっていましたが(笑))
工事の人達しかおらず、この時期に、この場所での河川利用は無いようです。




相変わらず山々は雪化粧をして、春の訪れを待っているようです。
この日は海側が少し曇っていましたが、こちらへ向かうにつれて青空が見えてきました。(久しぶりに晴れました)
きっと小谷や白馬も晴天なのでしょうが、その分、厳しい寒さとなっている事でしょう…。





この場所は工事用に通れるようになっていますが、普段は鎖で塞がれています。
もしこの場所を利用したい場合は、どこかに許可がいるのだろうか?(元ゲートボール場なので、地元住民の許可が必用なのかな?)


ここは道を下りて行くと広い場所に出て、そこから川へ下りる事ができます。
河川利用者が車を置く場所としては、十分な面積があります。
ここでの河川利用は、あまり望まれていないのでしょうか?(多分、利用する人の9割は石拾い(翡翠拾い)が目的だと思われますが…)

車の置き場は重要ですが、良い面も悪い面も大きく影響しますので難しいですね。
きっと、利用可能にしたらゴミの不法投棄も多くなるでしょうから、簡単には活用できないのだと感じました。


やっと1月が終わり、試練の2月がやってきます(笑)
ここでの頑張りが春に実を結ぶのだと信じて、頑張ってみようと思います。
2015年01月27日
今回は、カケラのストラップを紹介します。





まずは翠雪のストラップです。
このカケラたちの特徴は、白地がうっすらと翠に染まり、キメが細かいので艶が出しやすいです。
濡れた綿雪のような質感で、練られた良質のヒスイです。
殆ど白い部分のカケラもありますが、私が翠雪ヒスイと呼んでいるヒスイから制作したので、翠雪のストラップとして紹介しています。





透明度も抜群で、アメのような肌に仕上がります。
白っぽい部分から翠へと、グラデーションのような景色があったりもします。




次は芽吹のストラップです。
このカケラたちは、翠雪シリーズと良く似ていて、原石を見るか加工しない限り区別が難しいかと思います。
特徴として、翠雪シリーズより白が強く明るい翠がピンポイントで入ります。
霜降りのような模様も大きく入り、キメが少しだけ粗かったりもします。(って言うか翠雪のキメが、群を抜いて細かいだけなのですが…)



透明度は高い方で、白がハッキリと映し出されます。
雪と氷が混じったような景色で、春の訪れを強く感じさせてくれます。





次は開花のストラップです。
こちらは、紫ヒスイのカケラを加工した作品です。
斑に入る紫色が美しく、これから咲き誇る花々の蕾をイメージして制作しています。
灰色の地に入る事も多く、暗い紫色に見えたりもしますが、春の日差しがそれらを美しく輝かせてくれます。




紫ヒスイは透明度が低いものが多いですが、その分、発色は華やかです。
オオバギボシの蕾のような、淡い紫色もあって気品も感じさせます。


こんな感じで、加工で残るカケラたちをストラップにしています。
小さいので持ち難く、爪を一緒に削る事も多いですが、無駄にしないように心がけて活用しています。
これらのカケラたちは、勾玉や神玉などのカケラでもあり、それらの作品とも繋がっています。
よって普段使いはストラップにして、高額な作品は自身の聖域に飾っていても加護が得られる訳です。
更に言えば、それぞれの所有者さんと、僅かですが繋がっているとも言えます。
それぞれに共有し合い高め合う感性、この規模の共有が良いのだと考えています。(私は)



ちなみに、こういったストラップも作っています。
大きめのカケラを、スエード紐で組んでいます。(長さの調節はできませんが、短めにしてあるので問題ないかと…)

去年から作ってあるのですが、ネットには出していませんでした…。
糸魚川で購入して頂こうと思っているのですが、こんな冬の時期に糸魚川へ来る人はいませんね(笑)
年末早々、大雪で電車や高速が止まったりして、行こうと思っても不可能な状態でしたから…。

本格的な春になって新幹線が通る時期まで、気長に待ちたいと思います。
2015年01月23日
提出した河川モニターの返答を貰いましたので、お知らせします。

河口付近の返答です。





「姫川河口周辺は、比較的人々が河川でレジャーや憩いの場として利用している区域です。今年は、鮭の遡上を確認することができました。天然の稚魚もみられました。
 ご報告にありました、橋梁にロープと縄梯子が取り付けられている事について、「姫川橋」は糸魚川地域振興局(新潟県)管理の橋梁ですが、何の目的で誰が設置したものか不明です。現在は、すでに撤去されています。(12月9日確認)
 須沢の右岸の新幹線姫川橋梁の下流付近に設置されている大きな看板は、平成7年7月11日の大水害が発生した翌年の平成8年度の河川改修工事に於いて、当時の施工業者が河川事業のイメージアップとこの地域のピーアールを目的に設置したものです。ご指摘のとおり描かれている内容の意味が伝わり難いですね。新幹線から良く見える位置であれば、看板の内容を一新して糸魚川市のピーアールに利用してはいかがですかと、糸魚川市へ相談しているところです。
 寺島地区の河川敷は、散歩やサイクリング・ラジコンなどレクリェーションの場所として多くの方に利用されています。この地区は、平成24年度に「姫川かわまちづくり」懇談会に於いて整備計画が策定されて、堤内地に隣接する奴奈川公園や堤防の「姫川桜つつみ」などと一体的に整備し、市民の安らぎと学習の場として水辺整備を進めています。芝生は、その計画に合わせて整備しているところです。渇水期に入って、寺島地区では河川改修工事が最盛期を迎えつつあります。地域の安心安全を守るため、継続的に河川整備を進めています。河川整備にご理解を頂ければ幸いです。」


との事でした。

確認したところ、11月分の返答を送り忘れていたそうです。
きっと年末は忙しかったのでしょう。(憶測ですが)

姫川に鮭が遡上して、稚魚も見られるなんて、姫川が豊かな証拠ですね。
このまま綺麗な姫川の環境を、守って貰いたいです。

あのロープと縄梯子…、誰か中州に取り残されたのだろうか?(前の報告にもあったし)
それとも盗人の遺留品か(笑)
良く解らないなぁ〜、でも解ったところで糸魚川が対応するのかも不明だ…。

その橋の近くにある看板ですが、あの「野暮ったさ」は個人的には好きだったりします(笑)
問題は、まちの中身が伴っていない事であり、イメージアップの為に幼稚な表現(アニメキャラみたいな)にするのも、やめてほしいと個人的には思っています。
なんであれ、河川事業のイメージアップにするのか、糸魚川市のイメージアップにするのか、で表現は変わってくるでしょう。
できれば今の雰囲気を残した「古代から繋がる伝統文化のイメージ」を、表現してほしいです。
多分、古代の奴奈川には河川工事は無かったかと思うので、無理に繋げなくても良い気がします。
もしその形跡があるのならば、前面に出して「古代から繋がる事業だ」と宣伝しても良いかと思います。

寺島地区の河川改修工事が、最終的にどのようなカタチと成るのか楽しみです。(税金の無駄遣いになるのか…、それとも訪れる人達を楽しませるのか…)
間違いなく言える事は「住民自体の意志が結果を左右する」って事です。
住民が意識を持って楽しく活用できたのなら、訪れる人達にもその楽しい雰囲気が伝わる事でしょう。
そこでの楽しみ方を提案・共有できたのなら、始めて来る人達もいっしょになって糸魚川を楽しんでくれると思います。
自分が知らない地を訪れた際に、してほしい事を相手にしてあげる必用があるのでしょうね。(最低限の求める事を)

もし私が対応する場合なら、一緒に石拾いを楽しむ事でしょうね(笑)
2015年01月22日
提出した河川モニターの返答を貰いましたので、お知らせします。

大野付近の返答です。





「12月に入り例年に無く雪の多い気候でした。日差しの当たる日も少ない中で、大晦日は新雪の積もる晴れの良い日でした。写真から清々しさが伝わって来ます。根小屋地先の堤防天端では、12月12日には積雪が30cm以上有りました。
 翡翠橋は、糸魚川市が管理する橋梁ですが、何時になく12月の大雪で歩道除雪までは厳しいものがあるかと思います。
 春から秋にかけて姫川の川原に石拾いの人が多く居ましたが、雪が降っては、見られなくなりました。
 キツネや狸の足跡が雪に残っていたりします。12月15日以降、鮭が居なく成りました。川の水温が冷たくなったのでしょうか?
 堤防をクロスカントリーする人が居たとは、驚きです。貴重な情報を頂きありがとうございます。天候が良いと雪の上も歩きたくなるのでしょう。冬の安全管理について考える必用が有ると思いました。
 冬期間は天候も変わりやすいので、今後の活躍には、安全第一・怪我や事故などに遭わないようにして頂きたいと願っています。」


との事でした。

まず思ったのは、11月分の返答が飛んでいる事です(笑)
何処にいったんだ?11月分…。

それは後で確認するとして、現在のまちなかは殆ど雪はなく非常に助かっています。
気温が低いのは仕方ないですが、風は春の匂いになっているのを感じます。

でも、根知や小滝は未だ雪に覆われている事でしょう。
住んでいる人達は大変だと思いますが、その恩恵で豊かな自然が守られているのだと感じます。
キツネや狸の足跡が見られるのも、この時期ならではの楽しみ方だと思います。

道を兼ねた堤防ですが、活用する人をたまに見かけます。
確かに落ちたら大怪我ですが、自己責任でもある気がします。
今のところ、子どもやお婆さん(女性)が活用しているのは見た事ありません。
主に自転車で走っているオッサンや、何故か車で強引に入ってくるオッサンなどを見ます。
どちらも男なので、その程度の安全管理はできるかと思います。(多分)

ちなみに少し前ですが、不審なオッサンがこの道をスクーターで見回りしていました。
毎日、朝〜夕方頃、姫川に入る県外者に石拾いの注意をしていました。
これは別に「姫川の環境保護や利用者の安全保護の為」では無く、「自分の乞食商売の縄張りを荒らされたくないから」ってだけの考えで行っていたようです。
要は「盗人が盗人を見張っている」って事なのでしょうが、当然ながら姫川に遊びに来る人が全て盗人という訳ではありません。(中には居るのでしょうけど)
ルールを守っていれば、石拾いだって楽しんで良いのですから。

ここらでは「ある意味有名なオッサン」らしく、糸魚川翡翠を牛耳りたいのだそうです(笑)
何というか…、毒を持って毒を制すって事にも成るのだろうか…。
動物レベルの縄張り争いですね(笑)

もし、そんなオッサンに何か言われても、無視して普通に楽しんで下さい。(ルールを守って)
特別な権限がある訳でもなく、発言力がある訳でもなく、将来性がある訳でもないですから。(話では糸魚川市民ですら無いし)
2015年01月21日
今回は、建速素戔鳴尊「雲蒸竜変」の、三作目が仕上がったので紹介します。


幾つもの石目が、海風で流れる雲のような表情を出しています。
白と半透明の部分が混ざり合い、その地に色づく翠が彩雲を想わせるヒスイです。
粘りのあるヒスイなので石目やヒビで割れる事はなく、スムーズに加工ができました。(素戔鳴は細かい加工があるので、より慎重に配置を考えて加工しています)




モワモワっとした紋様が、湧きたつ泉のような、空へ上がる蒸気のような景色を魅せてくれます。
テーマに合うよう翠の配置を定め、「天へ登り、地へ降り立つ」そんな存在を表現してみました。
殆どが自然の力によるものですが、雲蒸竜変のテーマにピッタリな作品になったかと思っています。
溶け合うように流れる翠は、まさに龍脈を表しているかのようです。




透明度も非常に高く、弱い光でも魅力的に輝きます。
透かす事により彩雲模様が強調されて、幻想的な景色を楽しめます。
更に、石目がくっきりと姿を現す事で、より自然が創った紋様を楽しむ事ができます。
これが「秘めたる美」を楽しむ、もう一つの方法だと思っています。

ちなみに、一般的には粗を探す為の方法のようですが、それは「安く仕入れたいから」であり、美的センスの無い者の言い分だと私は考えています。
現実として、これだけの加工をしても割れませんでいたし(笑)
まぁ、それも人それぞれではあるのですが…。



このレベルのヒスイには、なかなかお目にかかれないので、この一枚しか無いプレートから三貴子を制作したいと考えていました。(大サイズの三貴子を)
今回、年末年始の期間で、それが実現できた事をとても嬉しく思っています。

ちょっと不思議な体験だったのは、この素戔鳴と須世理毘売を平行して加工(造形)していた時期に爆弾低気圧が猛威を振るってた事です。(しかも二つの爆弾低気圧が…)
ただの偶然なのですが「面白い偶然もあるんだな〜」と、思いながら加工しました。
二つが一つになった頃には、両方とも磨きの行程に入っていて「やっぱり親子なんだなぁ〜」と、勝手に納得していました(笑)
嵐の神とその娘の制作…、何か面白かったです。(しっかし寒かった〜、何度か挫けそうになりました…)

糸魚川のヒスイを加工していると、そういった自然との繋がりを感じる事が多いです。
ただの偶然であり、ただの必然でもある、そんな感覚(幻想)を楽しめるのも、この仕事の魅力なんだと思っています。
2015年01月17日
この例は全く下らない例えですが、解りやすいので説明します。(以前に書いた、綺麗な水と濁った水の例えと良く似ている)
もし違いを認識できれば、様々な基準に成るかと思います。

まずこの例えは、商売のスタイルを例えたものです。
簡単に説明すると、マシンガン方式は「近くの標的を方向だけ合わせて撃ちまくる方法」であり、ライフル方式は「遠くの標的を狙い撃つ方法」だと言えます。(これは武器(銃器)としての用途とも同じです)
一応書きますが、この場合の撃つは「心を打つ事」を例えていますので、そのつもりで読んで下さい。(じゃないと、まともな人は不愉快になります)

詳細は、こんな感じです。

●マシンガン方式の場合
・射撃(制作能力や伝達能力)の腕は必要なく、方向を合わせて撃ちまくれます。
・近くの標的を撃ちまくるので、主に人口の多い都市が拠点となります。
・相応の玉数が必用となり、各地方や他国から玉の補給を受けます。
・自身で作る事は無く、低賃金労働者換金システムを採用しています。
・近すぎる為に貫通し、狙ってもいないので無用に対象の感性を劣化させます。
・標的が近い(購買力が低い者)為、薄利多売となり激しく消費していきます。
・回転が速いので整備や管理が追い付かず、不良品も多数存在します。
・標的は、一般の人だけでなく、同業者にまとめて処分(補給)する事もあります。
・多くバラ撒く為、それなりに未来へ残りやすいですが、評価は低いです。


●ライフル方式の場合
・射撃(制作能力や伝達能力)の腕が必要で、遠くを見据える眼も必用になります。
・狙い撃つので人口の少ない地方でも良く、地の利を活かす事も可能です。
・必用最低限の玉数で良く、自身で制作する為、調整しながら活動できます。
・独自の表現を開拓し、自身の世界観の展開が可能です。
・心のみを狙い、心に留まるように撃つので、制作にも販売にも時間を必用とします。
・遠くの標的の為、適正価格の維持が可能で、材料の消費も抑えられます。
・緩やかなペースを保てるので、こだわった作品が誕生します。
・標的が限られるので生活が安定しない事が多く、別の稼ぎ方を必用とする場合があります。
・少数(小規模)の為、未来には残りづらいですが、残れば高い評価を受けます。


私が考える特徴は、こんな感じです。
見ても解るように、ライフル方式の方が良く(優遇しているように)見えるかと思います。
それは、私が選んだ方式であるからでしょう(笑)
マシンガン方式にも、それなりの魅力があるのかもしれませんが、今のところ全く感じた事がありません。(選んでいないのだから当然か…)
どうしたって「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる」より、「一発必中」の方が感じが良いし。(ハートに矢を撃つ恋のキューピットと、似た表現だと思えば嫌みが無いかと(笑))

しかも、マシンガン方式は「隠れながら撃ちまくる領域」が多すぎます。(大抵のアンテナショップは、ただの傭兵の集まりかと…)
逆にライフル方式は、現実のスタイルと違い自分が前に出て、一対一で対応します。(標的に自分を見せる、よって標的として狙っていない訳です)

結局はマシンガン方式では、標的は「敵や獲物」として捉えていて、一網打尽にする事を目的としている気がします。
ライフル方式の場合は、大勢の需要があったとしても焦って対応せず、待って頂きながら対応します。(それに怒るような客層ではありませんし)

解りやすいようにライフルとマシンガンに例えましたが、そもそもに、この例えでは全てを説明できません。(商売(戦争)のスタイルとしては説明できますが)
戦争好き、闘争好き、競争好き、そんな者達に解るように例えたのですから…。

よって、自分の目指す対象の仕事には、どちらが相応しいスタイルなのかを見極めて進む必用があります。

なぜならば、全ての人がライフル方式を選んだ場合、その全ての人が「作って売る側」に成る必用があります。(それは今の世の中では不可能でしょう)
要は適正とバランスで、過剰な憧れや劣等感を原動力に、無理矢理その領域に入るのは無粋と言う訳です。
作れなくても、作れる人と協力している人達も現実として存在してます。(マシンガン方式では無く)
そこには、お互いの尊敬があり、信頼があって成り立っているのでしょう。

私から言わせれば、作っていない者が作っている者と同じ名誉を求めるから、成り立たなくなるのだと思います。
「名」と「実」を考えた場合、その両方のバランスをとれるのは「作る側の人」です。
これは、普通の作れない者を否定にしているのでは無く、「過剰に名と実を追う作れない者と作れる者」を否定しているのです。
そして、この思いは「普通に作れない者と、普通に作れる者」の総意なのではないでしょうか?

この例えでも理解できない場合、もう諦めて下さい。(これ以上、解りやすい例えは無いかと…)
一生、何かに追われながら、新しい未来を恐れて生きていけば良いでしょう(笑)

私の考えを共有できる人は、一緒に未来へ「糸魚川ヒスイの文化」を繋いで行きましょう!
2015年01月13日
王道を行く、この言葉の意味を考えると、一般的には「王の進む道」や「王に成る者が進む道」だと思う人が多いでしょう。(もっと軽い意味の「定石」と思う人もいますが)

しかし、私が考える意味は「王が進んだ道」です。
何が違うかと言うと、まず「過去である」って事が重要になります。
要は「初代の王が進んだ道」であり、「既に切り開かれた道」だと言う事です。(王道を進んでも、必ず王に成る訳ではありません)

なので王道を行く場合、最初に歩んだ者よりも、険しい道ではありません。
その者の教えを学べば、どう進むべきかの道標となるので、無駄な失敗は少なくなります。(完全に失敗が無くなる事はありませんが)
よって「王道を辿る」と言う表現の方が、正しい言い方なのかもしれませんね。

しかし道は示されていても、それなりに険しいのは事実で、誰もが辿れる道ではありません。
示されている道なので、外れるのは自身の意志であり「知らなかった」等の言い訳も通用しません。

特に私は経営と創作の両方を行っているので感じますが、このバランスは非常に難しいです。
俗に言う「手を汚す事」を考えた場合、創作は現実として手が汚れますが(加工するので)、経営では現実の手(肉体)では無く、精神や魂自体が汚れます。

現実の汚れは洗えば落ちますが、精神や魂の汚れは容易には落とせません。
しかも目に見え難いので、洗い流せないレベルの汚れに魔魅れる者が続出しています。(雇用は基本的に分業なので、そういった事が見え難くなっていますが、営業部門はその影響を強く受けます)

こういった者達は、同じくドブに塗れた者達と徒党を組み、傷を舐め合います。
その悪臭で既に嗅覚は壊れ、バランス感覚は皆無となり、手を汚す事に何の躊躇も無くなります。(正確には分別が付かなくなる)

こうなると、ただの動物であり、そこに人としての知性と尊厳は存在していません。
この事により、王道を辿る事は不可能となり、卑怯なだけの人生を送る事となります。

これは既に示されている失敗例であり、避けようと思えば誰もが回避可能な事です。
それでも外れて行く者は出る…、これは頭で解っていても、制限できない欲望によるものなのでしょう。(そもそもに、王の概念が異なっている可能性もあるし)

せっかくデカくて消費が激しい恐竜に成り代わり、捕食され続けた人類の祖が知恵まで与えられて生き延びたのに、その成れの果てが集団となってデカく成り、同じように消費しまくっています。

これが恐竜と同じなのだとしたら、どうしたって全滅するのは必然だと思われますが…。
どうして学ばないのだろうか…、まさに「死なば諸共」が総意となっている証拠なのに。

先人達(初代)が進んだ道を今一度、見つめ直して「どう進むべきか」を認識すべきだと思います。
格好をつけて、自分主動を気取った王道ではなく、既に示されている成功例を元に自身の経験を積んで、肉体を使って進む事をお勧めします。(過剰な安定や共有は、人を腐らせる事を忘れないで下さい)

確実に言えるのは、今の時代、稼ぎ方がセコイと言う事は、その者の人生もセコイと言う事です。
要は、劣等感を原動力にした商売には、自己主張だけで将来性が無いって事ですね…。


ちなみに最近多発している食品の異物混入ですが、そもそもにジャンクフードなので当然の結果のように思えるのですが…。(ジャンク屋を思い浮かべれば、普通の事に思えます)
まぁ、「素顔を曝した」ってだけなのでしょうね…、ジャンクフードを食べる際には、相応の覚悟が必用と言う事なのでしょう(笑)

その物の本質を見る事が出来れば、過剰に期待する事も、過剰に落胆する事もないでしょう。
今よりは退屈な社会になるでしょうが、別の喜びを見出せば良いのではないでしょうか?(そうやって進化してきたのだし)
2015年01月07日
今回は、ストラップの長さを調節する方法を書きたいと思います。

丁度、お客さんから要望があったので、ここで説明します。
まず、調節可能な部分は黒い紐の部品となります。
この部品は基本的に長めに作られていて、付ける物や付け方によっては長すぎる場合があります。
きっと長い分には短くできますが、短い場合は取り替える必用が出てくるからでしょう。



今回の依頼の作品も普通に装着すると、こんな感じになります。
若干ではありますが、長いかと思います。
そこで黒い紐の部品を調節してみます。(例が古いスマホですみません(笑))



ストラップ本体から黒い紐の部品(本来この部品をストラップと言うのかな?)を外し、黒紐を下に押し込んでみます。
この時、二重カンが付いていると紐が出てきませんので注意です。(出にくい場合は、ピンセットで引き出すと良いです)
下に押し込むと結び目が出てきますので、その結び目より上で結べば短くなる訳です。




上で結んだ後に、下の紐を少し残して切り落とし、その先端をライターで炙ればより安心です。(とても簡単です)

留意点として下に押し込み過ぎると、金具から黒紐が抜けてしまいます。
結んでいる最中にも抜けたりするので、カニカン等を上部の紐の輪に付けておくと良いでしょう。
でも調節前なら結び目を切り、上から紐の先端を通せば問題無いし、調節後でも細いワイヤーで下から引き上げれば元に戻るので、心配はありません。

それと短くし過ぎると、本体部分が通らなくなるので、その場合は先に黒い紐部分のみを通し、その後に二重カンで本体部分に繋げると良いです。
その方が革紐やウッドビーズが傷つきませんので、お勧めします。




さっきよりもバランスが良くなりました!
これなら置いた姿や持っている姿もサマになるでしょう。(多分(笑))

これが出来れば、付ける物に合わせて飾る事が可能なので、用途が広がるかと思います。
様々な表現がありますので、色々と試してみると面白いかと思います。



ちなみに、もっと短くしたい場合は黒紐の部品を外して、本体を直接付ける事も出来ます。
ちょっと短すぎるようにも思えますが、間を足して飾ってみても良いかと思います。

自分に合った姿にして、作品が人々と共に在り続けてくれたら嬉しく思います。
2015年01月01日
明けましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします。

昨年は、様々な出会いがあった年でした。
おかげさまで、なんとか無事に年を越すことが出来ました!
今後とも創作活動に尽力していきますので、協力をお願いします!

今回は、須世理毘売が神玉として完成しました!


11月頃から少しずつ、他の作品と併用して加工を進めて行きました。
どんどんと加工が複雑になって行くので、制作は暖かい季節を選んだ方が良い気がしています(笑)
使用したヒスイは、全体に紫色が入った紫ヒスイを加工しました。
姫のイメージを考えて紫ヒスイを選び、細かい加工に耐えられる質のヒスイで制作しています。
加工の際「堅牢で磨きやすい」、そう言った特徴と「華やかさ」を考えての選択です。



デザインのモチーフは「龍の姫」です。
そこに「珊瑚と真珠の冠」を合わせたデザインを加えて表現しました。
このデザインには女性の「強さ」と「美しさ」を持たせる事が重要なので、国津の戦化粧である丁字は入れませんでしたが、逆立つ髪と冠で国津の姫の気性を表現してみました。
ただ、モヒカンに見えるのも趣味では無いので、あくまでも冠(髪飾り)であり「鋭利(シャープ)ではあるけど艶やかな姿」を心がけました。




須世理毘売に込めたコンセプトは、「内助の功」と「信念を持つ女性」です。
素戔鳴の娘なので、行動力と荒々しい性格も遺伝しています。
しかし、それが女性に宿ると全く別の力として発揮されていきます。
自分の意見を強引に押し付けるのでは無く、その優れた機転(知性)により、守るべき者への試練を共に乗り越えてくれる「支え」と成ってくれます。(主に叱咤激励で支える)
しかし肝に銘じておく必用がある事は「龍の娘である」と言う事で、その頼もしいまでの積極性や行動力は信頼により得られているのであり、一度裏切ろうものなら「支えるはずだった者」へ、激しい怒りとして向けられる事でしょう。
純粋である想いを裏切った末路は、壮絶な悲劇を招く事になります…。



事代主と同様に人魚(人魚姫)のイメージも込めていて、水泡や渦などのデザインを入れています。
腹部には丸みをとらず、顔には丸みをとって…、など、優しい曲線を出しつつも厳しい直線を出して、バランスを見ながら仕上げました。
紫色の配置も考えながら制作し「花の鱗(衣)を身に付けた龍姫」に、見えるよう加工しています。
気性を表現している鋭利な部分を多くして、見た人が素戔鳴の娘である事が分かるように、一部の特徴を継がせる表現もしています。(祖父である伊邪那岐の特徴も大きく継いでいます)
ヒスイ(神)の身であっても父娘、その繋がりは大切に残して行きたいと思っています。

ちなみに、天照は両親(伊邪那美と伊邪那岐)の特徴を均等に受け継ぎ、月読は父親(伊邪那岐)似で、素戔鳴は母親(伊邪那美)似としています。(正確に言えば、素戔鳴は八雷神を宿した母(伊邪那美)の特徴を大きく受け継いでいます)


女性が社会に出て活躍する事を求められている世の中であるにも関わらず、それが未だ様々な要因で進んで行かない現代社会…。
その現状を打開する為、女性としての闘い方を学び、信念を持って前に進んで行いってほしいです。(今の時代、女性が女性を支えても変じゃありませんし)
未来を創る意思を持つ、そんな方々を心から応援して行きたいと思います。



これで残すは、建御名方神と奴奈川姫の母子神です。(今の所の計画では)
今までのペースだと、来年と再来年で完成してしまいますね…。
それではあまりにも面白くない…、なので制作は、もっと先にしようかと考えています。
この二神は、私にも糸魚川にも重要な存在で、もっと色々な経験をしてからでも遅くはありません。
特に今後の糸魚川の変遷で、私の意欲も変わってきますので様子を見ようかと思います。
まぁ、デザインが浮かばなかったら勝手に計画が延びるのですが(笑)

いつも言うように、私に流れる「古代の血」や「繋がる遺伝子」が呼び起こされたら、残りの神々も具現化できるのだと思います。(作品として)
然るべき時に成される、そこには人の意志も大きく関わってくるのだと思います。
2014年12月30日
今月も、姫川をモニターしてきました。
12月は晴れた日が少なく、吹雪いたり、雨が降ったりと荒れた天気が続きました。
まち中にも雪が積もり何度か雪かきをしましたが、現在は殆ど溶けています。

今回は、大野周辺の報告です。
こちらに来ると一層雪が多くなり、姫川は雪に覆われています。
付近の橋にも多くの雪が残り、歩道は長靴がないと歩けない状態です。(強引に歩けはしますけど、ハマります(笑))
根知や小滝は、この何倍もの雪で閉ざされている事でしょう。





例年より早くに雪が降り、山々も少し早めの雪化粧となったようです。
この状態の姫川で遊ぶ人もおらず、動物も休息の季節に突入します。
海からの風も冷たく、天気が良くても長居はできません(笑)






堤防の強化によって舗装された道も、雪で見えなくなっていましたが、その道でクロスカントリーを楽しんだ人がいたようです。
真っ白な雪に、ず〜っと続く跡を見ていると、何故か清々しい気分になります。





この雪で交通機関が滞り、糸魚川を訪れるお客さんも少なかったです…。(毎年少ないのですが、今年は特に少なかったかと)
地球が「少しは休め」と、人間に警告しているのかもしれませんね。
冬眠できればどれだけ良いか…、そんな事を思ったりもします(笑)

それでは皆さん、良いお年を!
2014年12月27日
以前に底なる玉で勾玉を作った青年から、再び制作依頼を受けました。

青年が出会った奴奈川の底なる玉、色は強くありませんが良いヒスイです。
所々にヒスイ輝石が輝き、うっすらと全体が翠がかっています。
このタイプのヒスイはヒビや石目が多いのですが、粘りがあるので簡単には割れません。



致命的なヒビを避けてプレートを切り出し、奴奈川の勾玉を制作しました。
良く見ると淡い翠と白地が混ざり合っていて、初春に色づく雲や雪のようです。
しっかりした質なので加工しやすく、磨きやすかったので助かりました。(この時期の加工は、とても辛いので(笑))





ある程度の透明度もあり、ぼんやりと薄緑に透けます。
この柔らかな「ぼんやり感」が、厳しい時期には癒しになってくれます。
何かが宿っているような…、生きてさえいるような…、そんな景色を魅せてくれます。





年末の帰郷の際に、赤ちゃんが誕生した友人に贈るそうです。
若いのに良いセンスしてるなぁ〜、お守りを贈る意味を理解しているのでしょう。(そして私に依頼してくれて、ありがとう!)
その子の誕生を祝福し、健やかな成長の祈りを込めます。(どうか魂の腐った大人に、成りませんように)

委託加工は、普段の創作活動とは若干違った心持ちで制作していて、「他者のため前提の作品」として受けています。
なので、こういった人達の依頼を受ける事で、気分を新たにして「ものづくり」の喜びを共有する事ができます。

一番嫌なのは「業者の在庫のストック制作」であり、誰の為に作っているのか解らなくなるし、何の為に作っているのかも解らなくなります。(お金を得る為なのでしょうが…)

出来る限り、そういった制作は避けて、運転資金に困ったのなら、一定の期間に普通の労働をして「純粋な創作活動の領域」を守りたいと思っています。

こういった仕事を続けるには、どうやって生きたら良いのかを考えながら実践して、今後(後続)の参考になるような結果を示して行けたらと思います。(現在のヒスイ関係のジジイ達も、反面教師としては役立っていますが(笑))



気になっている人達にお知らせしますが、只今、オンファス輝石での奴奈川の勾玉(ヤマトタケル)と、彩雲ヒスイでの素戔鳴(雲蒸竜変)、国津神の新作(須世理毘売)の仕上げに入っています。

然るべき時にアップしますので、楽しみにしていて下さいね(笑)
2014年12月24日
光沢についての表現には、ガラス光沢・金属光沢・樹脂光沢・真珠光沢など、幾つもの表現法があるようです。

これらの例は、光沢として優秀であるのと同時に、他者に伝える際にも伝わりやすい基準なのでしょう。
しかし、それをヒスイにも当てはめるのは、どうにも不自然な気がします。

要はガラス光沢は「ガラスそのもの」の光沢であり、ヒスイの光沢ではありません。(鏡もガラスと銀で出来ていますし)
樹脂光沢も樹脂の光沢だし、金属光沢も金属の光沢です。
水晶(石英類)、琥珀、金・銀・銅・鉄などの金属ならば、これらは相応しい表現だと思います。(でも、ヒスイの表面をガラスでコーティングしたり、樹脂でコーティングするなら、この表現でも良いのでしょうけど…)

これらの表現を使っていると、それらの光沢が「ヒスイより上位の存在」と成ってしまうように思えます。
これはインドヒスイとか、オーストラリアヒスイとか、そういった言い方と良く似ていて、便乗している感が出ています。(正確に言えば、便乗の意味合いが違いますけど)

それがどうにも気に入らない(笑)
なので「ヒスイ光沢」と言った表現を、確立しようかと考えています。
既に蝋光沢などの表現があるのですが、それは原石での表現であり、磨き上げた作品には相応しくないと考えています。
磨かれたヒスイには独特の光沢があり、ガラスでも、鏡でも、樹脂でも、金属でもありません。
光沢を追求して行くと、それらに近くなっていきますが、それでも違った輝きを示します。(磨かれていないヒスイ輝石の輝きは「光沢ではなく煌めき」であり、それを雪や氷に例えるのは良いと考えます)

しかし、その微妙な違いを、どう説明して行くのかが課題になりそうです。(なかなかの難題ですが、本当にヒスイを好きな人になら伝わるかと思っています)
実際、素人の人達に解りやすく言うと「ガラス光沢+樹脂光沢」と言った表現にするのが、一番伝わりやすいのは事実です。(堅さと柔らかさを合わせ持つ光沢)

しかし、ヒスイは様々な色があり、質もそれぞれに違うので、全てが同じ光沢にはなりません。(光源によっても違いが出ます)
その幅を明確にした後に「ヒスイ光沢」とする事で、より伝わりやすい表現になるかと思います。(艶消しも含む)

ただ、普段使っている物(生活必需品)に例えた方が、他者に伝わりやすいって言うのが現実なんですよね…。
普段の生活で目にしている物で例えた方が、皆に伝えやすいのは当然ではあります。
だからと言って、ヒスイを生活必需品(道具)にするのも意味が在りません。
もっと別の、憧れの対象(ダイヤモンドみたいな)に成れば、独自の基準が出来るのでしょうけど…。
そう言った面では、ヒスイの色は様々な場面に例えとして出てきます。

こういった事からも「ヒスイが大好きな人に向けての表現法」とした方が、良いのでしょうね(笑)

更に、光沢よりも色彩の方が人間の印象に深く残る事も解りますので、「光沢+色彩」を基準としてヒスイ光沢を探求すれば、より確立しやすくなるかと考えています。(まぁ、私が生きている間に確立するとは思っていませんが(笑))

切磋琢磨の領域を追求すると、その奥深さに魅了されていく自分がいます。
きっと先人達が切り開いた道を辿っているのだろうな〜、と想いながら創作活動をしています(笑)
2014年12月17日
鉱物という存在を考える時、一番最初に頭に浮かんでくる疑問があります。

それは「何故、美しい形と魅力的な色を示しているのか?」という疑問です。
これが生命体ならば話は簡単で、子孫繁栄の為のアピールだったり、身を守る為の威嚇や擬態であったりします。
しかし鉱物の場合は、子孫繁栄のアピールも、身を守る為の威嚇や擬態も必用ではありません。

多分これは、人間にしか解らない(必用としない)魅力だと、言っても良いように思えます。

これはどういった事なのだろうか…?
多くの美しい鉱物は、人間に「何か」をアピールしているのだろうか?
人間(生物)は地球に適応する事で、様々な基礎ができた生命体ですが、その人間に対して地球のカケラである鉱物から、何かをアピールするなんて事が有り得るのだろうか?

それとも別の存在にアピールしている事を、人間が気が付いて適応したのだろうか?
この事が、どうにも解りません…。

更に言えば「原石のままで美しい鉱物」を魅力的だと感じる感覚は理解できますが、「加工する事で魅力を増す鉱物」は、一体何なのだろうか?
まるで人に加工される事を前提で、この世に誕生したかのような錯覚を与えます。(この事が原因で、マイナス方面へ進んでいる領域がある)

人間の勝手な錯覚ではありますが、バランスを間違えずに信念を持って取り組めば、鉱物が応えてくれているような感覚はあります。
どうにも不思議…、地球そのものが神の創った作品だったとして、それの真似事をする習性が、人間にはあるのだろうか?

現在、自分が仕事にしている領域の根幹は理解できても、原点を解明する事はできていません。
「鉱物を道具として使った行為からの派生」なのは理解しています、ですが何故、鉱物自体が初めから魅力的な姿であるのかも、その鉱物を加工して、より美しい存在に仕上げようとするのかも解りませんね…。

これは、鉱物の領域が解明できておらず、芸術の領域も解明されていないからなのでしょう。

この二つの疑問には、必ず接点があるように思えます。
もしかしたら、道具として使っていた際に、鉱物の意志(記憶)が人間に宿ったのかも?
鉱物は地球のカケラであり、誕生の記憶(想像力)を宿していても不思議ではありません。

それが永い年月で人間に宿り、やがて人のカケラ(芸術)となって人生を彩る、そんな事が在るようにも思えます。

人間は生物なので、元々アピールする存在ですが、それでは説明のつかない成長をしている者達がいます。(全ての芸術家が、そうではありませんが)
そういった人達を説明するのには、こういった感じの考え方が必用なのかもしれませんね…。

しかし、鉱物自体の美しい形と色彩の説明にはなっていません。
結局は、ハッキリした事は全く解らないんですよね(笑)

新しい作品を作りながら、そんな疑問が湧いてきました。
それは人間の原動力に感情が大きく関わっている証であり、その原点を求める過程に「行動という現象」があるようにも思えました。
感動し、行動し、理解しようと考える、その事で人間は成長して行くのかもしれませんね。(この事は、影響を受け、模倣し、やがて自身の作品を誕生させる流れと同じなのでしょう)

もし、その豊かな感情を、最初に鉱物が広げたのだとしたら、人間には欠かせない存在(人を構成する一部)だと言えるのでしょう。
2014年12月11日
ヒスイを加工する際に出る、ヒスイの粉末について書きます。

今回は、通常のヒスイとオンファス輝石の粉末を紹介したいと思います。
ヒスイの粉末は、現在ではヒスイネイルなどでも使われているようです。
ちなみに研磨剤としての使い道もあるので、無駄にはならない優秀な粉末です(笑)




白い粉末がヒスイの粉です。
白ヒスイに限らず、翠・緑でも、紫・青でも、灰・黒でも、粉末は基本的に白色です。
黒ヒスイは石墨が少し残る為、うっすらとグレーになりますが、黒ヒスイのみを大量に加工しない限り、白色になります。(殆どの石墨は水に流されます)
この粉末にも黒ヒスイの粉が入っていますが、肉眼では白色にしか見えません。




今度はオンファス輝石の粉末です。
この鉱物もヒスイではありますが、粉末は白色ではありません。
うっすらと緑色に染まっていて、どちらかと言うとこっちの粉末の方が「ヒスイの粉末」の印象を強く与えます(笑)
ひすいネイルなどには、こちらを使った方が雰囲気が出るような気がしますね…。
見せるだけでのストックやブレンドしても良いかも、でもちゃんと説明は必用でしょう。(ヒスイの中の「オンファス輝石の粉末です」って事を)
でも色を付けるので関係ないかなぁ…、「ヒスイの粉を使っている」って事が売りなんだろうし。




ヒスイの粉を集める際に注意する事は、「どんな工具で加工したヒスイの粉末なのか」と言う事です。
これは「純度」に大きく関わってきて、DCグラインダーなどで削るとグラインダーの粉まで入ってしまいます。(オンファス輝石の粉末に似た緑色の粉末になりますが、粒の荒さが目立ちます)
金剛砂で削っても金剛砂の粉が入り、ダークグレーの粉末になります。
バレルなどに使うチプトン(カーボランダム)も、ヒスイと同時にチプトン自体も削れるので粉末はグレーになります。
全て、削る素材の色が付く事を憶えていて下さい。(ヒスイの粉末は基本、白色なので)

理想的なのは「ダイヤモンドヤスリで削ったヒスイの粉末」です。(ペーパーのヤスリでは駄目)
それも新しいダイヤモンドヤスリでは無く、ある程度使用したものが良いです。
新しいのは、どうしても表面の不純物が剥がれて混ざってしまいますので、十分に使い込んでいる工具が理想的です。(350〜400番が良いかと)

それと同時に「ヒスイのみを加工している機械工具から集める事」も重要です。
粉末自体の蓄積は多くなく、一回の加工で集められる粉末は僅かなものです。
一定の期間、ヒスイを加工し続けた機械でなければ大量には集まりません。
更に掃除をしていない方が良いのでしょうが、機械の劣化によって錆なども出ますので、研磨水や粉が鉄製ではない容器に集まる方が良いでしょう。

それを考えると粉末を集める為に、そこまでする者はいないでしょうね(笑)
しかし、それは機械工具を知らないだけで、それを兼ねている機械は存在します。(粉末を集める事を考えての、仕様ではありませんが(笑))

これは工具の劣化による錆などを防ぐ理由からの仕様であり、その機械工具でヒスイのみを加工し続ければ、ヒスイのみの高純度の粉末が勝手に集まります。

今回のオンファス輝石は、その機械は使用せずに、別の機械を洗浄してから加工した作品の粉末です。
なので、もしオンファス輝石の粉末が必用となれば、専用の機械を揃えた方が効率が良いでしょう。

何度も書きますが、粉末は簡単には溜まりませんので、同じ条件で加工している者から集める必用があります。(いないけどね(笑))
ただし、「粉末を集める為だけにヒスイを削って消費する」、という方法にも繋がる恐れがあるので注意が必用です。
その手法は、あまり褒められた方法ではないので避けるべきでしょう。(そこまで需要が有ればの話ですけどね)

一応、書きますが、純度が高いと言っても100%には成らないかと思います。
それは埃とか、水に含まれる石灰成分なども、ほんの僅かに残ると考えるからです。

まぁ、それでもかなりの高純度である事は、間違いないでしょう(笑)
医療に使うわけでも無く、デリケートな肌に使うわけでもないので、そこまで気にしなくても良いのかもしれません。

それでも身体の一部である爪を彩るので、なるべくなら不純物は少ない方が安全でしょう。(多分)
研磨剤としての使用でも、やはり不純物が無い方が使い易く、同じ条件(同じ行程)で毎回使用できます。

こういった粉末も正しく利用できたなら、活用としては良い方法だと思います。(正しい利用が大原則)
2014年12月07日
提出した河川モニターの返答を貰いましたので、お知らせします。

根知付近の返答です。






「根知川の合流部から上流で作業をしているのは、寺島地先で低水護岸工事をしている石張護岸工の材料となる玉石の採取を行っています。姫川は、急流河川ですからコンクリートなどの摩耗が激しいため、硬度の有る姫川産の玉石を高水敷を掘って集めています。たま、根小屋地先の高水敷でゲートボール場を作りましたが、歳月が経って今では、ススキ野原になってしまいました。
 自然に帰った現状の環境では、獣たちのアウェーでしょうか?河川利用者に危害を及ぼす様であれば、「いのしし 出没注意!」の看板を設置致します。
 先月の中頃に、須沢地先で川の中州に取り残された男性が渡河出来ずに救助を求めた事案があった事から、「注意しましょう 姫川は、急な増水や川の流れが変わります」の注意喚起の看板を設置いたしました。河川の使用形態の基本は、自由使用ですので使用に当たっては個々に注意して下さいと広報しました。堤防の天端は、雨水の浸透により堤体の弱体化を防止するため舗装している箇所が有ります。
 道路交通法の及ぶ道路では有りません。河川管理施設の保全上の見地から、および、安全を考慮して一般車両交通の規制をしています。」


との事でした。

採取している玉石にはヒスイも含まれているのかなぁ…、良く聞く話では工事中に出てくるヒスイは工事関係者が持ち帰って売り払うようです。
地元の建設会社は、そのやり方でかなり儲けたと聞いています。
コンクリートと一緒に固められるのと、勝手に換金されるのと、どちらが良いのか解りませんね…。
まぁ、ヒスイはそうであっても、それ以外の玉と称させる鉱物(軟玉など)も堅牢なので、護岸には良いのかもしれません。
鉱物の種類が豊富な、姫川ならではの工事のようにも思えます。(良くも悪くも)

あの広い河川敷はゲートボール場の成れの果てだったんですね。(キャンプ場の跡かと思ってた)
あそこに限らず、青海の住宅地でも夜にイノシシが出るようなので、特に看板は必用ないかもしれません。
これはイノシシやクマなどが、人間の共同幻想(社会)に目覚めて近づいているのでは無く、原始的な本能である「略奪」の元で、効率を感じ取り人間の作物を漁っている訳です。(先に奪ったのは人間なのでしょうけどね…)
この距離はだんだんと近くなっていますので、本能から一定の距離を置いた人間(知性のある存在)は、今後は特に気を付けて行かなければなりません。

中州に取り残された男性、姫川は初心者だったのかな…。
鉱物探索だったのか、川釣りだったのかは分かりませんが、「ミイラとりがミイラになる」という言葉が浮かんできます(笑)
自然を楽しむなら、もっと相応の慎重さが必用ですね。(弱いのだから)

あの舗装された道は、強化された堤防だったんですね。
河口付近から大野付近まである川沿いの道も、道を兼ねた堤防だったのか…。(道であっても道路では無い)
自転車で走るのには最高ですが、ガードレールが無いので自己管理の元での活用が必用ですね。
あの堤防の道が根知〜河口まで繋がると面白いのに、と思うのは私だけでしょうか(笑)


気温は一気に寒くなり、モニターも大変になってきそうです。
雪が降れば足場が悪くなるので、事故などに気を付けながら冬もモニターして行こうと思います。(既に大雪ですが(笑))
2014年12月05日
以前から気になっていたヒスイ(オンファス輝石)で、勾玉制作を試してみました。

海岸で出会ったヒスイ(オンファス輝石)で、この魅力的な紋様を活かそうと加工しました。
その前に少し気になったのは、俗に言う「粘り」の有無で、これがないと加工中に割れてしまう恐れがあります。(鉱物を加工するのに絶対必要な条件です)
表面には幾つもの小さな割れ目が見えたので、気になってはいました…。




その心配は現実となり、なるべく避けた筈の致命的なヒビにより、破断してしまいました。
紋様を重視して「確認していた避けるべきレベルのヒビ」を避けず、押し通した結果がこれです…。
この事でも分かるように、致命的なヒビと言うのは加工中に割れます。
久々の徒労感、半端じゃない喪失感…、でもそれは私にとって「再び前へ進む情熱」へと変わります。(こういった事で、私は情熱に火がつくんですよね(笑))





すぐに新たなヒスイ(オンファス輝石)の加工に入りました。
先程の失敗に学び、表面の割れ目が無く練られた素材を選びました。
そのまま加工に入ったので転石の画像を撮っておらず、切断した欠片を掲載します(笑)
先程のより色が濃く光沢も良いですが、面白い紋様は少な目になってしまいました…。




しかし、加工する事で解るのですが、段違いの堅牢感と重量、純度の高さがハッキリと出ます。
この青銅色の肌はキメが非常に細かく、ヒスイ輝石らしき光も所々でキラキラと輝きます。
古代を想わせる色彩が美しく、個人的に魅力を感じていたので予想通りの姿になり満足です。
削り込んでいくと魅力的な紋様も出てきて、自分の中で創作意欲が高まっていくのを感じました。





不思議な事に、この勾玉を造形している最中に「ヤマトタケル」の名が、頭に浮かんできました。
私の中の古代のイメージが、あの「英雄と呼ばれている存在」を想わせたのでしょう。
古代らしさを強調する為のカタチと丸みを重視して「縦方向から見る勾玉の特徴」に気を付けて加工しました。
ちなみに異玉・生玉・神玉は、横方向を重視したデザインにしています。(大珠・勾玉の縦横兼用の柔軟性を、取り入れて未来に繋いだスタイルです)





悩むのは艶出しの必要性で、触り心地や風合いを考えると艶消しの方が古代っぽく感じます。
しかし、手抜きにも思える(思われる)し、現代で磨を抜かしてしまうと文字通り「間抜け」になりますね…。(正確に言えば「磨き」と「艶出し」は違うので、艶消しが手抜きと言う訳ではないのですが、解り難い基準なのは確かです)
磨きには曲線を整える行程も含むので、より完成度を高めるには磨きが必用でしょう。(私の研磨の場合は)
この触り心地は個人的な趣味として楽しんで、この奴奈川の勾玉「ヤマトタケル」は艶出しする(磨く)事にしました。

その話は、後編でお知らせします。
楽しみにしていて下さい。(気になる人がいればだけどね(笑))
2014年12月01日
前回に制作した月読と同じヒスイで、天照大御神「陽炎」を制作しました。

今回のテーマである陽炎は、この彩雲のようなヒスイで制作するのにピッタリでした。
白地も、透けている模様と白に染まっている模様とが混ざり合い、神秘的な景色となっています。
そこに溶け合っている翠は美しく、見る度に表情が変わっていくかのようです。




所々に見られる石目やヒビは、けして魅力を損なう存在では無く、大地の軌跡を宿しています。
削りの行程を耐えた存在だけあり、その堅牢さとバランスは素晴らしいの一言です。
翠と白が揺らめき、光さえも微睡んでしまいそうな模様を大切に、天照大御神を仕上げました。




こちら側には仮面を想わせるヒビがあり、濃い緑も燃え上がるように入っています。
シャープさを残しつつも柔らかな曲線をとり、神玉のデザインを重視して加工しました。
こちらのヒビは、特に「秘めたる美」にするべく、丁寧に研磨しています。




前回同様、透明度が抜群なので厚さ13mmでも簡単に光を透します。
それと同時に石目が龍脈の様に浮き上がり、まさに生命が燃え上がる陽炎そのものです。
コンセプト通り「揺らめきながら煌めく太陽」に、仕上げられたと思います。




この作品は闇陽炎と対になっている存在で、精神的な強さを重視したのが闇陽炎であり、肉体的な活力を重視したのが今回の陽炎です。
沸き上がる生命力を表現して、周りの景色をも歪ませる程の熱気を放つ活力を込めています。

そもそもに自然が力を宿した糸魚川のヒスイ、それと私が出会い、テーマとコンセプトを込めて加工しているので、自然とのコラボと言っても過言では無いのでしょう(笑)
そう考えると、とても嬉しくなります。(生きてる意味を感じます)
今後も、このスタイルで生きて行けたのなら、道を踏み外す事なく未来に繋げて行けるように感じています。(難しいバランスで成り立つ領域だと心底思う…)

共に同じ景色を見る事のできる仲間の協力が、どうしても必用となりますね…。
その人達と出会えるのか、その縁が一番重要な事に成ってくるのだと認識しています。(頑張ろっと!)


さて、これで残すは素戔鳴のみ、来年にはカタチにしたいと思います。
このヒスイで大サイズの三貴子が揃えば、かなり見応えがあるものになるかと思います。
でも揃ったら一式仕様になるかも…、そしたらかなり高額になりますね…。

とりあえずは寒く厳しい冬が始まるので、体調に気を付けながら創作活動を進めて行こうかと思います。
2014年11月27日
今月も、姫川をモニターしてきました。
連休初日は天気が良く、11月とは思えないくらい強い日光が降りそそいでいました。
貴重な一日なので、大切に過ごしたいと思います。

今回は、河口周辺の報告です。
若干、雨が多かった月でしたが、水量は多くはなく澄んだ水が流れていました。
この季節になると海釣りを楽しむ人達で、糸魚川の浜辺は賑わいます。(遠くて確認しづらいですが、黒い点に見えるのが釣り人です)
頻繁に移動していないので、ヒスイ探しの人達ではない事が分かります。
ちなみに両者が出会うと、お互いが邪魔になるので距離を置いて、それぞれに楽しむのが暗黙のルールとなっています(笑)



川には鮭の亡骸が多数あり、「強者どもが夢の跡」的なものを感じました…。


付近の橋の一カ所に、ロープと縄梯子がありました。
これは何の為にあるのだろうか?
私には盗人連中の残骸にしか見えないのですが…。





この看板も古いので、新しくした方が良いかと感じました。
また、「歴史とロマンの古里を守る」のなら、もっと独自の教育が必用だと思います。(糸魚川全体に歴史とロマンの教育が必用かと)




少し上がった公園付近は、サイクリングやラジコンなどを楽しむ人達がいました。
以前から気になっているのですが、この「芝生を生やしている区画」は、何に使うのでしょうか?
ここは広い河川敷なので、様々な事に活用できるのだと感じます。




公園には遊びに来ている家族がいて、チビッコと一緒に小春日和を楽しんでいました。
私も父と公園でおにぎりを食べて、モニターついでの河原遊びを終えました(笑)



これから厳しい冬に入ります。(暦ではもう冬ですが…)
海岸付近では風が強くなり、こういった景色も見られなくなるでしょう。

モニターするにも報告する事が無くなる季節かと思いますが、冬の糸魚川の状態を知ってもらうには丁度良い機会なのかもしれません。(一般の人に)
その事で糸魚川の景色を好きになってくれたなら、移り住んだ私も嬉しく思います。(冬の日本海は演歌が似合います(笑))




話は変わりますがこの日の夜、糸魚川で震度5弱の地震がありました。
国生みが成されているので地震が多発するのは当然なのですが、久しぶりに「純粋な力」を体感して手が震えましたね…。
幸いに私の周りでは被害はありませんでしたが、改めて「地球あっての生物である事」と「地球による神生の訪れが近い事」を再認識しました。

人間(現代の生物)が恐竜に成り代わって誕生したように、天孫降臨(隕石落下や噴火)により、国譲り(破壊と再生)が行われるのも、そう遠い未来では無いのかも…。

特に我々世代には、共同幻想(人間社会)だけを見ていないで、現実にも目を向けて「地球と共に生きる事」を心がけなる責任が、必用となっているように思えます。

未来の地球に人類を繋げる「明確な意志」を確立しなければ、きっと存在理由は失われ、原始の力によって消滅して行くのでしょう。
もう生存本能だけでは人類を繋げる理由には成らず、新たな意志を地球に示さなくては共に生きる意味を失い続けて、人であった事すら忘れて生きる生物に成り下がって行くでしょう。

でも、その前に他界していく者の多くは「死なば諸共」って思っているのだと感じます。(特にジジイは)
これが「現時点での人間社会の総意」なのでしょうが、そうでない者の意志は社会には反映されないのだろうか?(少数だから難しいのかな…?)

そういった事も近い将来に、ハッキリとした形で表面化してくるようにも思えます。
2014年11月17日
私達が普段に行っている仕事には、常に正当性が求められています。
要はそれが免罪符であり、稼ぐ事を許されている理由でもあるわけです。

例えば企業で言えば、「雇用」がそれに当たります。
人間社会に必用とされていて、皆が共有できる存在理由(利益)になっています。(納税とかも)

もう一つは消費者の「需要」で、例えば「その領域の本物」を大量生産や多角経営で潰したとしても、現在の人間社会では許されています。

では、もしその免罪符が成り立たなくなったら、どうなるのでしょうか…?

そうなった場合、まず許されていた今までの稼ぎ方が罪へと変貌します。
要は正当性を無くした稼ぎ方は「誰も赦す事の無い罪と同じ」って事です。

で…、今の世の中に正当性が、どれほど在るのでしょうか?
命の奪い合い(略奪)と言う生物の本能から逃げ、その領域を可能な限り薄める事で人類は社会を作ったのに、その誕生理由を現代人は全く認識できていません。

昔から、罪には罰が付きものです。(因果応報ってやつですね)
間違いなく、その行為の罰は受ける事になるでしょう。

それが人間による裁きなのか、別の「何か」によるものなのかで、結末は大きく変わってくるでしょうね…。
願うのならば、自分のケツは自分で拭いてほしいものです。

間違いなく言える事は、今の状態は「本物を潰してきた結果」だと言う事です。
それをどう償うのか、それが現代社会の課題なのだと考えます。

まぁ、免罪符の名の下で、さんざん本物を潰しておいて、今になって「継続できません」なんて意味不明なんですよね(笑)
もはや利益で成り立っているのか、銀行の金で成り立っているのか、訳が分からない。
いつまでも、その罪が赦されていく世の中だとは思わないで頂きたいものです。

最終的には「稼いだお金をどう使うのか」、これに正当性が無ければ魂は腐敗し続けていきますので、ゆめゆめ忘れないで下さい。

大昔のように、恐竜などの生物に喰われまくって恐怖を再び刷り込まれないと、人間社会の根幹は再認識されないのかもしれませんけどね…。

現実問題として、「成長に失敗した者に若者を育てられる道理は無く」、それと同時に「信念がなく真面目でもない若者を育てる道理も無い」わけです…。

この現状は、一体何なのだろうか?


ただ人類は、その領域からどうにか逸脱しようと、成長してきたようにも思えます。(気付いてない人が大勢いるだけで)
生物の本質からの脱却、それは人間が生物で無くなる事に繋がるのだろうか?
でも生存競争なるものを完全に排除する事が、人類の理想であるとも考えられない…。

不安定な魂の中に「可能性」と「野蛮性」を合わせ持つ、人間とは面白い存在だと改めて感じます。(私も、その生命の一つなんですけどね(笑))

古い者から新しい者へと、その意志が強く成長して行けば、やがては新しいバランスが誕生するのだと考えます。
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