作者の思考
少名毘古那が完成!
2012年01月01日
明けましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いします。
昨年はいろいろな方々に支えられて、ある程度の生活の安定を保てました。
おかげさまで私の夢である、未来に繋げるオリジン(元型)をまた一つ生み出せました。
人間にとって「幸福=衣・食・住の安定」なので、それが叶った時に夢を追う事ができます。
今回は国津神の少名毘古那が神玉として完成しました!
デザインのモチーフは「小人・蝶(蛾)」です。
一寸法師のモデルにもなっている少名毘古那は蛾の衣を纏っていたと言われています。
その鱗粉を調合して薬を作っていたのだろうか…、などを考えながら作りました。
少名毘古那は別天津神とも分類される記述がありますので、原姿の蚕をモデルにしてみました。
少名毘古那に込めたコンセプトは、「逸脱・転身・変化」です。
基本的に蛾は葉を消費していく幼虫から、それらを誕生させていく成虫へと変身します。(蜜を消費して)
実際は植物が昆虫の習性に適応して進化したと言われていますが、昆虫が変身する習性を持たなかったら植物は消費されていくだけの存在になっていたでしょう。
現在にいたっては蚕は退化している為、人の完全な管理の元でしか種を繋ぐ事は不可能になっています。
(幼虫時に得た栄養だけで成虫になっても生きていきます。退化したからとは言え一切消費する事のない存在に変身するのは奇跡だと思います。)
日本の国作りに貢献した紡績にも関係しているので、そういった良い特徴をもった生物としての理想型を少名毘古那に宿しています。
その他には勾玉からの羽化も表現してあり、もっと自由な発想へと飛び立てるよう願いも込めています。
そして国津神の特徴として顔には丁字を彫って現実を生きる逞しさも表現しています。
しかし…、八千矛もそうですが加工の手間が凄すぎますね…。
もう少し加工コストを下げなければ誰も計画を継いで行けないような気がします。
そこら辺も考えなくては…、神玉プロジェクトを未来に繋げるのが現在の夢なのですから。
ちなみに幼い頃は昆虫が大好きで、昆虫博士になるのが夢でした。
最近では自然の中で遊んでいる事で色彩の基準が養われるのではないかと思うようになりました。
例を上げると、オニヤンマの目こそが最高級(宝石)としての翡翠であると認識しています。
あれこそが生命の輝きであり、あの真夏に燃えるような翠の複眼(まさに福眼です)を見ると、オニヤンマの満ちあふれる生命力を感じる事ができます。
ヤンマの種類で目の色が若干違いますが、どれも一流の翡翠色である事は間違いないでしょう。
私の中での人とっての天津神と国津神とは「上を向いて二足歩行で歩くのが天津神」「足場を確かめながら二足歩行で歩くのが国津神」だとしています。(両方が引っ張り合って地に両足を着けている)
この二つがあって人は初めて「前を向いて両足で歩ける」のだと考えています。
なので、この二つのバランスが崩れると「現を抜かして仮想空間で生きる人」や「這い蹲って暴力・謀略で生きる人」になっていくのだと思います。
農耕と狩猟にも同じ事が言えて、農耕の悪い所は「溜め込んで腐らせる」事であり、狩猟の悪い所は「力によって略奪する」事であります。
どうしたって現在の人間には不変で過ごす事は精神的に無理ですので、いろいろな経験を重ねて慣れていくしかないのでしょう。
一生の間に慣れていけば良いのですが、意識して生きていかない場合は全く気付かずに、人としての業に飲み込まれて行く事になります。
人がどのように進化していくのかも興味がありますが、まずは自分の計画を確立していなくては…。
今年は辰年でスサノオの年ですし、来年は巳年でオオナムチの年となります。(私も巳年)
この二年は希望の持てる年になりそうです。
今年もよろしくお願いします。
昨年はいろいろな方々に支えられて、ある程度の生活の安定を保てました。
おかげさまで私の夢である、未来に繋げるオリジン(元型)をまた一つ生み出せました。
人間にとって「幸福=衣・食・住の安定」なので、それが叶った時に夢を追う事ができます。
今回は国津神の少名毘古那が神玉として完成しました!
デザインのモチーフは「小人・蝶(蛾)」です。
一寸法師のモデルにもなっている少名毘古那は蛾の衣を纏っていたと言われています。
その鱗粉を調合して薬を作っていたのだろうか…、などを考えながら作りました。
少名毘古那は別天津神とも分類される記述がありますので、原姿の蚕をモデルにしてみました。
少名毘古那に込めたコンセプトは、「逸脱・転身・変化」です。
基本的に蛾は葉を消費していく幼虫から、それらを誕生させていく成虫へと変身します。(蜜を消費して)
実際は植物が昆虫の習性に適応して進化したと言われていますが、昆虫が変身する習性を持たなかったら植物は消費されていくだけの存在になっていたでしょう。
現在にいたっては蚕は退化している為、人の完全な管理の元でしか種を繋ぐ事は不可能になっています。
(幼虫時に得た栄養だけで成虫になっても生きていきます。退化したからとは言え一切消費する事のない存在に変身するのは奇跡だと思います。)
日本の国作りに貢献した紡績にも関係しているので、そういった良い特徴をもった生物としての理想型を少名毘古那に宿しています。
その他には勾玉からの羽化も表現してあり、もっと自由な発想へと飛び立てるよう願いも込めています。
そして国津神の特徴として顔には丁字を彫って現実を生きる逞しさも表現しています。
しかし…、八千矛もそうですが加工の手間が凄すぎますね…。
もう少し加工コストを下げなければ誰も計画を継いで行けないような気がします。
そこら辺も考えなくては…、神玉プロジェクトを未来に繋げるのが現在の夢なのですから。
ちなみに幼い頃は昆虫が大好きで、昆虫博士になるのが夢でした。
最近では自然の中で遊んでいる事で色彩の基準が養われるのではないかと思うようになりました。
例を上げると、オニヤンマの目こそが最高級(宝石)としての翡翠であると認識しています。
あれこそが生命の輝きであり、あの真夏に燃えるような翠の複眼(まさに福眼です)を見ると、オニヤンマの満ちあふれる生命力を感じる事ができます。
ヤンマの種類で目の色が若干違いますが、どれも一流の翡翠色である事は間違いないでしょう。
私の中での人とっての天津神と国津神とは「上を向いて二足歩行で歩くのが天津神」「足場を確かめながら二足歩行で歩くのが国津神」だとしています。(両方が引っ張り合って地に両足を着けている)
この二つがあって人は初めて「前を向いて両足で歩ける」のだと考えています。
なので、この二つのバランスが崩れると「現を抜かして仮想空間で生きる人」や「這い蹲って暴力・謀略で生きる人」になっていくのだと思います。
農耕と狩猟にも同じ事が言えて、農耕の悪い所は「溜め込んで腐らせる」事であり、狩猟の悪い所は「力によって略奪する」事であります。
どうしたって現在の人間には不変で過ごす事は精神的に無理ですので、いろいろな経験を重ねて慣れていくしかないのでしょう。
一生の間に慣れていけば良いのですが、意識して生きていかない場合は全く気付かずに、人としての業に飲み込まれて行く事になります。
人がどのように進化していくのかも興味がありますが、まずは自分の計画を確立していなくては…。
今年は辰年でスサノオの年ですし、来年は巳年でオオナムチの年となります。(私も巳年)
この二年は希望の持てる年になりそうです。