作者の思考
作品紹介
2015年06月27日
今回は、月読命「翠月」の伍作目を紹介します。
前回の天照と同じヒスイを加工して、翠に色づく月読を制作しました。
美しい白地に浮かぶ翠は優しい色合いで、健やかなる成長を見守っているかのようで
す。
白昼の月の姿も映していて、生命の成長を昼夜を問わず見守っています。
雪のように美しい白地は月白を想わせ、それを染める翠は月夜の雲を想わせます。
この作品も表面に多少の凹凸があり、それが月の表面を感じさせてくれます。
首の辺りに石目がありますが、強い衝撃や圧力が加わらない限り割れる事はありませ
ん。
ます。
こちら側は、より白地が美しく淡い翠が優しく流れています。
白昼の月を強く感じさせ、自らが輝く事はなくても、照らされる事で美しく輝く姿を
映しています。
表面に多少の凹凸がありますが、それらが豊かな表情を演出しています。
ます。
透明度も高く、光を受けて優しく輝きます。
白地も透過の姿は淡い翠に染まり、柔らかな彩光が精神の安定をもたらします。
天照とは違った魅力で、持ち主を支えてくれる事でしょう。
透過の姿は、夏の到来を喜ぶように現れた「初夏の蛍」を想わせます。
ます。
天照に続き月読も完成しました!
次は同じ母石で、素戔鳴も作りたいと考えています。
そうなるとヒスイ(母)を同じくした三貴子が揃い、飾るのにも存在感が増します。
私の神玉は装身具にも適応していますが、本来は飾って楽しむ存在としています。
(装身具も兼ねているって事です)
要は絵画を身に付ける事も無いし、陶磁器を身に付ける事も無いのと同じで、自身の
聖域に飾って楽しむ事を目的としています。(装飾用の陶器は別)
これにより自の身を飾り立てるだけの「自己顕示欲を満たす存在」では無く、自身の
心が満たされる「自己満足の究極体」を目指して行けます。(それが芸術であり、私
が目指すお守りでも在るのだから)
絵画とは違いサイズが小さい事もあり、身に付ける事も可能となっていますが、身に
付けるにしても表には出さず、肌身に触れて忍ばせているのが良いかと思います。
(落とす事も、ぶつける事も無いので)
また、一般的な陶磁器とは違い道具ではないので、その楽しみ方は「道具を超えた陶
磁器」と、同じ楽しみ方となります。
要は「使い勝手が良い」と言う基準では無く、その表情や作り手の世界観を共有して
楽しむ事が基準となっていきます。(これは絵画の領域と同じです)
道具からの派生である大珠や勾玉は頑丈さを受け継いでいますが、道具を超えた時点
での大珠や勾玉の派生である神玉は、道具としての頑丈さを受け継がずに造形美を追
求していく存在となります。
金属とは違い表現を増す毎に衝撃に弱くなり、普段使いの対象とは異なっていきます。
なので常に持ち歩くのなら巾着(お守り袋)などに入れて、丁寧に扱う必用があるわ
けです。
まぁ、簡単に言えば「芸術品だ」って事です。
他者にはそう見えない事もあるかと思いますが、作者が言っているのだから間違い無
いです(笑)
そもそも芸術とは「それが芸術がどうかを他者が判断する領域」では無く、それを誕
生させた者が決めて行く領域となります。(この「誕生させる」って事が決め手です)
だだ、一流かは他者が決める事であり、正確に言えば後の「未来の他者」が決める事
でしょう。
私が言いたい事を簡単に言えば「作品を大切に扱ってね」って事です。(初めからそ
う言えば良いのにね(笑))
ここで私が気を付けなくてならない事は、芸術を先行させすぎると「他者の肉体は作
品を引き立てるだけの額縁」として「引き立て役のような扱いをする事になりかねな
い」って事です。
普通の装飾品ならばそれでも良いのでしょうが、お守りで在る以上、それは絶対に赦
されません。
ヒスイ本来の力を私の欲で蝕んでいては本末転倒、糸魚川のヒスイを扱う資格も失い
ます。
作品としての基本的な持ち方や楽しみ方(生き方)を提唱しつつ、所有者が満たされ
る事も大切にする、そんなバランスが一番重要となります。
私が扱っているのが糸魚川のヒスイである事を忘れず、先人が成してきた事を学びな
がら、私が進む道との違いを認識して、かつて成させていたであろう「ヒスイ文化の
発祥地」を求めたいと思います。
今回のように改めて考えると、私にとって糸魚川ヒスイは「完全なお守り」となって
いますね…。
何か物理的な御利益が在るかは立証できませんが、不思議な縁が結ばれ、生きる理由
は満たされ、大いなる何かの加護も感じる、ただの心の持ちようなのでしょうが、そ
う思える心持ちは持ちたくても持てないのが人間です。(人間は面白い生物ですね)
自分ができる最良の選択をして、この面白い感覚を未来に繋げられたらと思います。
(度が過ぎた錯覚にはならないように気を付けます(笑))
前回の天照と同じヒスイを加工して、翠に色づく月読を制作しました。
美しい白地に浮かぶ翠は優しい色合いで、健やかなる成長を見守っているかのようで
す。
白昼の月の姿も映していて、生命の成長を昼夜を問わず見守っています。
雪のように美しい白地は月白を想わせ、それを染める翠は月夜の雲を想わせます。
この作品も表面に多少の凹凸があり、それが月の表面を感じさせてくれます。
首の辺りに石目がありますが、強い衝撃や圧力が加わらない限り割れる事はありませ
ん。
ます。
こちら側は、より白地が美しく淡い翠が優しく流れています。
白昼の月を強く感じさせ、自らが輝く事はなくても、照らされる事で美しく輝く姿を
映しています。
表面に多少の凹凸がありますが、それらが豊かな表情を演出しています。
ます。
透明度も高く、光を受けて優しく輝きます。
白地も透過の姿は淡い翠に染まり、柔らかな彩光が精神の安定をもたらします。
天照とは違った魅力で、持ち主を支えてくれる事でしょう。
透過の姿は、夏の到来を喜ぶように現れた「初夏の蛍」を想わせます。
ます。
天照に続き月読も完成しました!
次は同じ母石で、素戔鳴も作りたいと考えています。
そうなるとヒスイ(母)を同じくした三貴子が揃い、飾るのにも存在感が増します。
私の神玉は装身具にも適応していますが、本来は飾って楽しむ存在としています。
(装身具も兼ねているって事です)
要は絵画を身に付ける事も無いし、陶磁器を身に付ける事も無いのと同じで、自身の
聖域に飾って楽しむ事を目的としています。(装飾用の陶器は別)
これにより自の身を飾り立てるだけの「自己顕示欲を満たす存在」では無く、自身の
心が満たされる「自己満足の究極体」を目指して行けます。(それが芸術であり、私
が目指すお守りでも在るのだから)
絵画とは違いサイズが小さい事もあり、身に付ける事も可能となっていますが、身に
付けるにしても表には出さず、肌身に触れて忍ばせているのが良いかと思います。
(落とす事も、ぶつける事も無いので)
また、一般的な陶磁器とは違い道具ではないので、その楽しみ方は「道具を超えた陶
磁器」と、同じ楽しみ方となります。
要は「使い勝手が良い」と言う基準では無く、その表情や作り手の世界観を共有して
楽しむ事が基準となっていきます。(これは絵画の領域と同じです)
道具からの派生である大珠や勾玉は頑丈さを受け継いでいますが、道具を超えた時点
での大珠や勾玉の派生である神玉は、道具としての頑丈さを受け継がずに造形美を追
求していく存在となります。
金属とは違い表現を増す毎に衝撃に弱くなり、普段使いの対象とは異なっていきます。
なので常に持ち歩くのなら巾着(お守り袋)などに入れて、丁寧に扱う必用があるわ
けです。
まぁ、簡単に言えば「芸術品だ」って事です。
他者にはそう見えない事もあるかと思いますが、作者が言っているのだから間違い無
いです(笑)
そもそも芸術とは「それが芸術がどうかを他者が判断する領域」では無く、それを誕
生させた者が決めて行く領域となります。(この「誕生させる」って事が決め手です)
だだ、一流かは他者が決める事であり、正確に言えば後の「未来の他者」が決める事
でしょう。
私が言いたい事を簡単に言えば「作品を大切に扱ってね」って事です。(初めからそ
う言えば良いのにね(笑))
ここで私が気を付けなくてならない事は、芸術を先行させすぎると「他者の肉体は作
品を引き立てるだけの額縁」として「引き立て役のような扱いをする事になりかねな
い」って事です。
普通の装飾品ならばそれでも良いのでしょうが、お守りで在る以上、それは絶対に赦
されません。
ヒスイ本来の力を私の欲で蝕んでいては本末転倒、糸魚川のヒスイを扱う資格も失い
ます。
作品としての基本的な持ち方や楽しみ方(生き方)を提唱しつつ、所有者が満たされ
る事も大切にする、そんなバランスが一番重要となります。
私が扱っているのが糸魚川のヒスイである事を忘れず、先人が成してきた事を学びな
がら、私が進む道との違いを認識して、かつて成させていたであろう「ヒスイ文化の
発祥地」を求めたいと思います。
今回のように改めて考えると、私にとって糸魚川ヒスイは「完全なお守り」となって
いますね…。
何か物理的な御利益が在るかは立証できませんが、不思議な縁が結ばれ、生きる理由
は満たされ、大いなる何かの加護も感じる、ただの心の持ちようなのでしょうが、そ
う思える心持ちは持ちたくても持てないのが人間です。(人間は面白い生物ですね)
自分ができる最良の選択をして、この面白い感覚を未来に繋げられたらと思います。
(度が過ぎた錯覚にはならないように気を付けます(笑))