作者の思考
素朴な疑問
2014年09月27日
最近に知り合いましたお客さんから、素朴な疑問について意見交換しました。
それは「永い年月の中で、勾玉の形に大きな変化が見られない事」についてです。
ここで分かるのは、獣形勾玉といった「異形の存在」を抜きにした疑問なのだと感じました。
どこからどこまでが勾玉なのか…?、それ自体が明確でないので「定形勾玉と称している存在」での、私なりの考えを伝えました。
改めて考えたので、ここに書こうかと思います。
まず定形勾玉に変化が無いのは、名前が示す通り「誰かが定形化したから」でしょう。
その形に意味を持たせ、品格を持たせ、厳しい制限の元で制作・管理されたのだと考えています。
当初は各地方で制作したと言うよりは、中心部で制作した完成形を各地に送ったのだと思います。
時代が進むに連れ制限が緩和され(と言うよりも自然に緩んだかと)、各地で作るようになっても、その形を大きく変える事は、しなかったのでしょう。
何故ならば「それ以上の存在を作り出せないから」です。
それだけ永い時を費やし存在価値を根付かせてから、制限を緩和した(自然と緩んだ)のだと思います。(継続は力なりってやつですね)
各地で作るようになっても、その誕生理由や存在理由は健在であり、その威光は憧れであったのだと思います。(だから変化するよりも継続を選択したのでしょう)
でも現代では、その誕生理由や存在理由が忘れ去られています。
全てが推測であり「一度この定形勾玉の文化は終わりを迎えた」って現実が残っているわけですね。(完成されていたが故に、終わりを迎えたかと)
勾玉と呼んでいる存在が何なのかは、タイムマシンでも無い限り明確には出来ないでしょうが、原点を考えれば、同じ人類なので感覚的に感じる事は可能です。(作る側なら尚更)
刀と良く似てはいて、完成された存在であり、魂の依代として所有し、道具から逸脱した存在です。
両方とも形が大きく変わる事もありませんが、勾玉の方が「永い時を人と共に在り続けた」と言えるかと思います。(多分、縄文時代後期から始まっているかと)
ヒスイの構造とか誕生時期とかは、知識として学んでおく必用はありますが、最も大切なのは人と関わってからの文化(知恵)の方です。
ここに浪漫があり、未来へ繋がる意志が宿っているわけです。(自然と共に生きる意志が)
定形勾玉が悠久の時の中、姿を殆ど変えずに存在し続けた現実は、とても重要な事なのだと考えます。
文化とは、大衆文化と成るにつれて低俗になるリスクが高まりますが、一度完成された存在は末端が低俗であっても、その本体は揺るぎがありません。(低俗だから集団で楽しめる現実もあったりするし)
きっと現代で、定形勾玉の誕生理由や存在理由が誰にでも理解できる規模で残されていたのなら、その先へ進む事は無く、支配にも似た感覚で人を縛ったのかもしれません。(良くも悪くも)
「そんな時代じゃなくて良かったなぁ〜」と思う気持ちと、「完成された絶対的存在と出会いたかったなぁ〜」と言う想いが私の中には一緒に存在し、改めて人が矛盾している生物だと感じます(笑)
例え多くの人間が便乗したとしても変わらない姿、そんな絶対的存在に男として憧れます。
と同時に、そのものだけに支配されたくないという反骨の意志、男の性なのかなぁ〜(笑)
その存在にどれだけ近づけるのか、更には自身の芸術がどれだけ通用するのかを、追い求めて私は生きていくのだと思います。(自分から面倒な道を進んでいる気が…)
結局、私が作っている神玉も本質は同じで、定形化する事により存在としての完成度を高めています。
ですが、日本には八百万の神々がいますので、定形化しながらも「それぞれのカタチ」があるわけです。
まだまだ無限のカタチが存在していて、それは人の数だけ在ると言っても良いのかもしれませんね。
重要な事は、それを「他者にまで向ける」のだとしたら、相応の共感力を放つ作品に高めなくては成りません。(これが非常に難しいのですよね…)
物体としての存在力だけでは不十分で、浪漫を呼び起こす能力「イマジンやノスタルジア」を備える必用があるのでしょう。
最近は頭で考える事よりも、魂的な感覚で進んでいるように思えてきます(笑)
魂とは、五感を限りなく制限する事で感じられると考えています。
もしヒスイの品を良く見せたいと考えたのなら、ネットの場合では視覚と聴覚に向けてアピールすれば最も伝わりやすいでしょう。(誰にでも分かる基準ですから)
その内に仮想空間は、嗅覚へのアピールにでも進むのではないでしょうか…。
でもそれは、本来とは違う錯覚をもたらす危険性があります。(正確に言えば、それだけに頼ると錯覚し本質を見失います)
五感を一切使わずに選択する事は不可能ですが、制限する事でノイズを消す事は可能です。
ヒスイ製品で言いますと、視覚では色よりも形を、そして触覚を大切にする事が必用でしょう。
本能にうったえる色彩と光沢を制限するのは、かなり難しいのでそれを含めた紋様を見るなど、違った魅力も感じ取れるようになれば良いかと思います。
私は「存在不確とされる魂」へ向けて創作しているので、それを感じられる人が増えると嬉しく思います。
ちょっと関係ない話なのですが、以前に私が「魅力ある存在になる必用がある」って事を書きました。
それを受けてか、その以前からなのかは定かではありませんが、過剰なアピールをする人が多くなっている気がします。(ここ最近、特に糸魚川翡翠を扱う者達が)
私達は芸能人(アイドルやタレント)ではありません、なのでやり過ぎると失敗します(笑)
現代の殆どの領域では「始まりの客層」を奪い合っています。
それは知識を得た者が知恵のある者を模倣する事から始まるのですが、本質を追求した年期が違い過ぎるので、本当に必用なお客さんに行き着く事ができません。
各領域で始まりの客層ばかりを奪い合っているので、そこから奥に進む能力を養えず、領域を変えて同じ事を繰り返していきます。
これが現代での商売の常識となっていて、これだと底が浅すぎて発展して行く事が困難になります。
このまま道化と成っていくのかは、自身の行動次第という事を忘れてはいけませんね。(重要なので何度も書いています)
それは「永い年月の中で、勾玉の形に大きな変化が見られない事」についてです。
ここで分かるのは、獣形勾玉といった「異形の存在」を抜きにした疑問なのだと感じました。
どこからどこまでが勾玉なのか…?、それ自体が明確でないので「定形勾玉と称している存在」での、私なりの考えを伝えました。
改めて考えたので、ここに書こうかと思います。
まず定形勾玉に変化が無いのは、名前が示す通り「誰かが定形化したから」でしょう。
その形に意味を持たせ、品格を持たせ、厳しい制限の元で制作・管理されたのだと考えています。
当初は各地方で制作したと言うよりは、中心部で制作した完成形を各地に送ったのだと思います。
時代が進むに連れ制限が緩和され(と言うよりも自然に緩んだかと)、各地で作るようになっても、その形を大きく変える事は、しなかったのでしょう。
何故ならば「それ以上の存在を作り出せないから」です。
それだけ永い時を費やし存在価値を根付かせてから、制限を緩和した(自然と緩んだ)のだと思います。(継続は力なりってやつですね)
各地で作るようになっても、その誕生理由や存在理由は健在であり、その威光は憧れであったのだと思います。(だから変化するよりも継続を選択したのでしょう)
でも現代では、その誕生理由や存在理由が忘れ去られています。
全てが推測であり「一度この定形勾玉の文化は終わりを迎えた」って現実が残っているわけですね。(完成されていたが故に、終わりを迎えたかと)
勾玉と呼んでいる存在が何なのかは、タイムマシンでも無い限り明確には出来ないでしょうが、原点を考えれば、同じ人類なので感覚的に感じる事は可能です。(作る側なら尚更)
刀と良く似てはいて、完成された存在であり、魂の依代として所有し、道具から逸脱した存在です。
両方とも形が大きく変わる事もありませんが、勾玉の方が「永い時を人と共に在り続けた」と言えるかと思います。(多分、縄文時代後期から始まっているかと)
ヒスイの構造とか誕生時期とかは、知識として学んでおく必用はありますが、最も大切なのは人と関わってからの文化(知恵)の方です。
ここに浪漫があり、未来へ繋がる意志が宿っているわけです。(自然と共に生きる意志が)
定形勾玉が悠久の時の中、姿を殆ど変えずに存在し続けた現実は、とても重要な事なのだと考えます。
文化とは、大衆文化と成るにつれて低俗になるリスクが高まりますが、一度完成された存在は末端が低俗であっても、その本体は揺るぎがありません。(低俗だから集団で楽しめる現実もあったりするし)
きっと現代で、定形勾玉の誕生理由や存在理由が誰にでも理解できる規模で残されていたのなら、その先へ進む事は無く、支配にも似た感覚で人を縛ったのかもしれません。(良くも悪くも)
「そんな時代じゃなくて良かったなぁ〜」と思う気持ちと、「完成された絶対的存在と出会いたかったなぁ〜」と言う想いが私の中には一緒に存在し、改めて人が矛盾している生物だと感じます(笑)
例え多くの人間が便乗したとしても変わらない姿、そんな絶対的存在に男として憧れます。
と同時に、そのものだけに支配されたくないという反骨の意志、男の性なのかなぁ〜(笑)
その存在にどれだけ近づけるのか、更には自身の芸術がどれだけ通用するのかを、追い求めて私は生きていくのだと思います。(自分から面倒な道を進んでいる気が…)
結局、私が作っている神玉も本質は同じで、定形化する事により存在としての完成度を高めています。
ですが、日本には八百万の神々がいますので、定形化しながらも「それぞれのカタチ」があるわけです。
まだまだ無限のカタチが存在していて、それは人の数だけ在ると言っても良いのかもしれませんね。
重要な事は、それを「他者にまで向ける」のだとしたら、相応の共感力を放つ作品に高めなくては成りません。(これが非常に難しいのですよね…)
物体としての存在力だけでは不十分で、浪漫を呼び起こす能力「イマジンやノスタルジア」を備える必用があるのでしょう。
最近は頭で考える事よりも、魂的な感覚で進んでいるように思えてきます(笑)
魂とは、五感を限りなく制限する事で感じられると考えています。
もしヒスイの品を良く見せたいと考えたのなら、ネットの場合では視覚と聴覚に向けてアピールすれば最も伝わりやすいでしょう。(誰にでも分かる基準ですから)
その内に仮想空間は、嗅覚へのアピールにでも進むのではないでしょうか…。
でもそれは、本来とは違う錯覚をもたらす危険性があります。(正確に言えば、それだけに頼ると錯覚し本質を見失います)
五感を一切使わずに選択する事は不可能ですが、制限する事でノイズを消す事は可能です。
ヒスイ製品で言いますと、視覚では色よりも形を、そして触覚を大切にする事が必用でしょう。
本能にうったえる色彩と光沢を制限するのは、かなり難しいのでそれを含めた紋様を見るなど、違った魅力も感じ取れるようになれば良いかと思います。
私は「存在不確とされる魂」へ向けて創作しているので、それを感じられる人が増えると嬉しく思います。
ちょっと関係ない話なのですが、以前に私が「魅力ある存在になる必用がある」って事を書きました。
それを受けてか、その以前からなのかは定かではありませんが、過剰なアピールをする人が多くなっている気がします。(ここ最近、特に糸魚川翡翠を扱う者達が)
私達は芸能人(アイドルやタレント)ではありません、なのでやり過ぎると失敗します(笑)
現代の殆どの領域では「始まりの客層」を奪い合っています。
それは知識を得た者が知恵のある者を模倣する事から始まるのですが、本質を追求した年期が違い過ぎるので、本当に必用なお客さんに行き着く事ができません。
各領域で始まりの客層ばかりを奪い合っているので、そこから奥に進む能力を養えず、領域を変えて同じ事を繰り返していきます。
これが現代での商売の常識となっていて、これだと底が浅すぎて発展して行く事が困難になります。
このまま道化と成っていくのかは、自身の行動次第という事を忘れてはいけませんね。(重要なので何度も書いています)