作者の思考

競争と闘争

2014年07月15日

競争とは何なのか、闘争とは何なのかを考えてみました。

まずは古代からの成り立ちで考えてみます。
縄文時代より石器と言う道具を集団で作りまくる事が可能だったのは、その石器が道具であり、道具が人類の生活に必用であり、消耗品として交易が成り立っていたからだと考えます。
言い方を変えると「石器を作ると言う成長を、他者(他地域)から奪っていたので成り立っていた」と言えるのだと思います。

でも現在は逆で、他者(他国)に作らせて、自身(自国)の成長を売り払っている状態が続いています。
現代は「成長を奪われている」と言う認識は無く、その成長を「放棄した事」の認識も無い…。
一切、奪われる事のない人間(万能な人)は皆無であると確信し、割り切って「皆でシェアする」という考えに変えていったようにも思えます。(それと同時に人間を道具とする事に行き着いた)

どうしても「奪われている」と認識してしまうと、焦り、落ち着かず、他者よりも自分が先に…、と考えてしまい、争いが絶えない社会になるのでしょう。

でも全ての領域を成長させていく事などは、人間の寿命を今の10倍位にならないと不可能であり、より自分が得意とする分野を成長させ「奪われている成長で得られる利益よりも多く稼ぐ事」を、優先しているのだと感じます。
だから分担という考えになり、その分野の成長は捨てて、別の分野の成長を特化させる選択をしているのではないでしょうか。

これが裏と表の見方で、表だけを見て生きていると、奪われ続ける事になるのかも…。(気付かずに)
何であれ本質的に、生きる事とは闘争であり、商売というのは競争であるので、人から奪わない限り自身が潤う事はないのでしょうね…。
それが人類のシステムであり、生命体の生存戦略なのだと思います。

「奪う事」と「奪われる事」のバランスが良ければ、ある程度の安定が保たれるのですが、生命は本能的に奪う事を優先させる為、そこに格差が必ず生じます。
この格差を無くすには「奪われている者が奪い返す」か「奪う者が自主制限をするか」の、どちらかなのだと感じます。

ず〜っと、この繰り返しなのかな…。
きっと表の領域である「いかに共有し合えるか」が、カギになるのでしょう。
人と共有し合う事、これは綺麗事では無く、人類の滅亡回避の考え方のような気もします。(過剰な共有は毒となるけど)
何故ならば裏の領域が強く出れば、略奪を目的とする戦争にしかなりえませんから…。

闘争という規模で抑え、競争という規模で抑えておかなくては、この因果に飲み込まれてしまうのだと思います。

私たち人類は知らず知らずの内に、こんな複雑な生き方をしているんですね。
お互いが敵対しながらも協力し合う、この矛盾、どう理解すれば良いのだろうか?

それとこの領域が、これからどんな変化(進化)をしていくのか、とても興味深いです。(他人事ではないのですけどね(笑))


ちなみに、糸魚川の地で縄文時代から石器を作っていた人達の流れを受け継ぐのは、三条市などで活躍されている「一流の金物職人の方々」にるかと思います。
大元は同じ領域でも、翡翠の加工は別の分野を目指した為、違った進化をしました。
翡翠は、道具ではない領域が多い事から発展が遅く、よって際立った変化も見られないのが現状だと感じています。

しかし「じっくりと大切に繋げられた」とも考える事ができ、発展の可能性は未知数かと考えます。(熟成されて来た感じです)
これをどう繋いで行くかが肝心であり、この領域での伝統とは「祈りを具現化する事」なのだと感じます。(文化の継承では、職人のような厳密な技術の継承も、一定のレベルで必用かと)

似て非なるもの、その本質を理解しながら進める必用があるのだと感じています。(どうにも理解できないのは、親の財産を当てにして生きているのに、古代人の遺産は活用できていない事…、何故なのだろうか?)
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