作者の思考

活用と保護

2013年12月07日

一つのルールである「保護と活用」ですが、作る側の場合には優先順位が違ってきます。

私が考える分別では「保護と活用」は主に作れない側の領域であり、保護を優先して行きます。
もっと言えば作れない側で、更にそれで収入を得ていない者達が保護を優先し、作れない側で、それで収入を得ている者達は保護の領域を持っていません。

逆に「活用と保護」は主に作る側の領域であり、活用を優先して行きます。
活用を優先しますが、保護も担っています。

別にどちらが正義と言うわけでは無く、どちらも一つ基準なのだと思います。

人は(っていうか生命は)地球の資源を消費して生きています。
特に人間の消費が激しいのは事実で、この現状は異常だとは思います。

要は規模の問題なんですよね…、活用を優先しても保護も担わなくてはなりません。
私の領域での保護とは「無駄に使わない」って事です。
なので、その存在を高めて行けば、自動的に保護を担う事になるわけです。(低価格での量産が必用なくなるので)

翡翠自体の価値は既に高まっているので上げようがありませんが、その基準が見えていない人が多すぎます。

その価値を高められない、又は維持できない場合、扱うのを辞めた方が良いとも思います。
作る側として活用を優先するのは、遥か古代より続いた文化ですが限度もあります。
特に糸魚川翡翠には、その限度を明確にする必用がある気がします。
要は誰にでも理解できる基準が必用となるわけですね…。

これは金(au)でも同じ事なのですが、金は世界基準として成り立っています。
しかし糸魚川翡翠を世界基準とする事は不可能です。(絶対不可能)
不可能ですが、糸魚川基準とする事は可能なわけです。

結局、世界で共有する基準でなくても、「糸魚川で共有する基準」であれば良いわけです。(糸魚川が翡翠の原産地なんだから)
他の場所から国産翡翠がたくさん出る訳でもなく、他で構築しうる基準でもありません。

保護と活用側の基準を構築し、活用と保護側の基準を構築していけば、最終的に同じレベルの結論が出るかと思います。

しかし、これは理想であり、現実はバラバラ…。
チャンスがあるとするならば、翡翠に群がり蝕む者達が死滅した後にあるのだと思います。
その時までに、基準を明確にして行くしか方法は無いように思えます。

でも縄文期から続いた翡翠文化が終わりを告げ、現代で発見された時代があったのにも関わらず、滅んだであろう理由も理解しないで同じ事を繰り返す…。
勝手に盛り上がり勝手に死滅する、そんな流れをいつまで繰り返して行くのだろうか?

人の成長にこれだけ差があるのは何故なのだろうか…、単純に強者と弱者の話では無い気がするのは私だけだろうか?
この二者以外にも間違いなく存在する者達、これを明確にする必用は無いのだろうか?

なんであれ明らかに古代とは、それらの比率が違う気がする。


これはもう、もっと美術を教え込む必用がありますね…。
この世には、幾つもの基準(見方)が在る事を学んだ方が良いと思いますので。(安物買いの銭失いにならない為にも)
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