作者の思考
大珠と垂飾
2013年02月27日
古代の遺産である大珠や勾玉は範囲が広く、どこまでを大珠とし、どこまでが勾玉とするのかはハッキリと区別されていません。
なので私の作品では大珠と称されている品を、大珠と垂飾に分けて表現していこうかと考えています。
垂飾となる作品
主な違いとしては、「大きさ」や「形」によって分けられるかと思います。
大珠と言うのだからまずは大きさが一番大事だと思うし、玉や球では無いので楕円型のスタンダードな形が理想的だと感じています。
例外として、大きく台形に近い形も大珠として制作していこうと考えています。
大きさと同等に需要となるのが「お守り」と成る存在として作る事だと感じています。
サイズは3cm以上を基本とし、穴の位置も中心よりやや上くらいを基本とします。
垂飾となるのは「小さく丸みも少ないアクセサリー」となる、手軽で意味合いの少ない首飾りとして行こうと考えます。
一番の違いはサイズになりますが、大きくても角を持つデザインは垂飾として、あくまでも装飾品としていくのが特徴となります。
結局、大珠も首飾りとすると垂飾とほぼ同じ姿になってしまいますが、トップの部分を大珠と呼ぶのかで違いを出せると考えます。
でも「何故分けるのか」と疑問に思う人もいるかと思いますので説明しますと、私にとってイザナミとなる存在を普通の装飾品と区別する為です。
なので私の中での区別であり、古代遺産を区別しているのではない事を理解して下さい。
垂飾はトップでも販売しますので、自分好みの首飾りを作ってみても楽しいかと思います。(大珠は大きく意味合いが強いので、アクセサリーとしては使いづらいかも…)
今回紹介した品や、前回のイザナギ(勾玉)などは物産センターに出品しますので、そこで直に見てもらえると嬉しく思います。
毎月ブース代を払っていますので、神玉工房と明記してあります。(分からなかったら店員に聞いて下さい)
ネットに出していない品もありますので、糸魚川を訪れた際にはお立ち寄り下さい。
正直な話、品が行ったり来たり、お金が行ったり来たりする事だけを望む場合、糸魚川でヒスイ加工の仕事をする意味なんて殆どありません。
都会へ行って制作販売していた方が、よっぽどお客さんが来ることでしょう。(生活費は高くなりますが…)
糸魚川でこの仕事をする意味合いは、糸魚川に訪れる「ヒスイ好きのお客さん」を増やし、ひっそりとした伝統文化を共有し、海での浪漫を感じてもらい、糸魚川という地域の「神秘性」やヒスイにとっての「聖地」としての重要性を認識してもらいたいという思いがあるからです。(遠すぎて訪れが困難な人には、作品で伝えられるよう努力しています)
仮想空間ではありますが、ギャラリーとして「見るだけで満足する人」にも対応していきたいと考えています。(ネットは販売も兼ねています)
ギャラリーとしての収入はありませんが、大切な事は「活動を見てもらう事」であり、この領域が必要だと捉えてくれる人々の発掘を目的としています。
また現実的な問題として、保護を担う者よりも「活用を求める者が多すぎる」という事実があり、今後は保護を担う加工施設の「再生と維持」が絶対に必要となります。
全くバランスが保たれていないので、まずは各々に保護となる規制を構築する必要があると考えてます。(糸魚川ヒスイは他の資源と違いすぎる部分があり、それに伴う責任も大きい)
それを個人のレベルで高めていき、それと同時に周りの底上げに貢献する事が必要な事だと考えます。
人というのは、世界の半分が幻想(共同幻想)で成り立っていて「思いの強さ」によって自身の細胞を使いこなす事も可能です。
今流行のナチュラルキラー細胞なるものも同じで、幻想世界の「思い」が現実世界に反映され、結果として自身の生存に大きく関わってくるわけです。
これは人の幻想自体が根源ではなく、自身の能力を引き出す術を原始の時点で、人が自然から学んだ事が大きな要因となっています。
それが遺伝子として子々孫々まで繋がれている「人と自然の絆」なのです。(すでに自律神経みたいなもので、魂の琴線にふれると自動的に発動する力)
もし人が自分自身を使いこなせているのなら、自律神経で動く心臓を自身の意志で止めたり、動かしたり自由に出来るでしょうし、病気なんて存在は一切無くなるでしょう。
今現在、自身と言える存在は自我であり「魂」と呼ばれる存在となります。
その魂で発した思いを精神や肉体に、いかに影響させるのかが「自分という人間」を使いこなす唯一の方法なのだと考えます。
心に余裕がない時代には目先の魅力しか容認できず、そういった品(等価交換が可能であろう品)を求めて行きます。
それは間違いでは無いのですが、あまりにも「面白くない」です。
結局は「面白いと思えるほど心に余裕がない事」が原因であり、この大きな要因は不景気によるものです。
しかし、そんな中でも「心を豊かに保てる人達」も存在しますので、その少数の人達に向けた創作活動も必要となると考えています。
伝統を守りながら、伝統にとらわれない、それが継承するって事だと私は思います。
毎回、似たような事を書きますが、それだけヒスイにとっての「現状が進んでいない」って事でもあります。
状況が進むまで同じ事を書き続ける事が、大切な継続力に繋がるのだと考えています。
ちょっと話は違いますが、日本のお札は完成度が高すぎる気がします。
あれでは交換券としてのレベルを超えている…、ユーロ札レベル(ちょっと綺麗なチラシ)くらいに止めないと「目で価値を判断する事に慣れた日本人」には逆効果に思えます。
どうしても「使ってこそのお金だ」という領域を超えている気がするんですよね…。
だからってわざわざ印刷のレベルを下げるのもどうかと思いますが、もう日本は最高クラスの印刷技術がある事は他の国々も理解しているでしょうから、もう少し考えた方が良い気がします。(普段使い用のお札を作るとか…、そう言えば二千円札、あれは一体なんだったんだろうか?)
良く見えすぎて「使う事を躊躇う事」にも繋がっているように感じます。
その代わり硬貨は、ユーロの硬貨のように高レベルの水準にした方が良いかと思います。
これも以前に書いた気が…。
なので私の作品では大珠と称されている品を、大珠と垂飾に分けて表現していこうかと考えています。
垂飾となる作品
主な違いとしては、「大きさ」や「形」によって分けられるかと思います。
大珠と言うのだからまずは大きさが一番大事だと思うし、玉や球では無いので楕円型のスタンダードな形が理想的だと感じています。
例外として、大きく台形に近い形も大珠として制作していこうと考えています。
大きさと同等に需要となるのが「お守り」と成る存在として作る事だと感じています。
サイズは3cm以上を基本とし、穴の位置も中心よりやや上くらいを基本とします。
垂飾となるのは「小さく丸みも少ないアクセサリー」となる、手軽で意味合いの少ない首飾りとして行こうと考えます。
一番の違いはサイズになりますが、大きくても角を持つデザインは垂飾として、あくまでも装飾品としていくのが特徴となります。
結局、大珠も首飾りとすると垂飾とほぼ同じ姿になってしまいますが、トップの部分を大珠と呼ぶのかで違いを出せると考えます。
でも「何故分けるのか」と疑問に思う人もいるかと思いますので説明しますと、私にとってイザナミとなる存在を普通の装飾品と区別する為です。
なので私の中での区別であり、古代遺産を区別しているのではない事を理解して下さい。
垂飾はトップでも販売しますので、自分好みの首飾りを作ってみても楽しいかと思います。(大珠は大きく意味合いが強いので、アクセサリーとしては使いづらいかも…)
今回紹介した品や、前回のイザナギ(勾玉)などは物産センターに出品しますので、そこで直に見てもらえると嬉しく思います。
毎月ブース代を払っていますので、神玉工房と明記してあります。(分からなかったら店員に聞いて下さい)
ネットに出していない品もありますので、糸魚川を訪れた際にはお立ち寄り下さい。
正直な話、品が行ったり来たり、お金が行ったり来たりする事だけを望む場合、糸魚川でヒスイ加工の仕事をする意味なんて殆どありません。
都会へ行って制作販売していた方が、よっぽどお客さんが来ることでしょう。(生活費は高くなりますが…)
糸魚川でこの仕事をする意味合いは、糸魚川に訪れる「ヒスイ好きのお客さん」を増やし、ひっそりとした伝統文化を共有し、海での浪漫を感じてもらい、糸魚川という地域の「神秘性」やヒスイにとっての「聖地」としての重要性を認識してもらいたいという思いがあるからです。(遠すぎて訪れが困難な人には、作品で伝えられるよう努力しています)
仮想空間ではありますが、ギャラリーとして「見るだけで満足する人」にも対応していきたいと考えています。(ネットは販売も兼ねています)
ギャラリーとしての収入はありませんが、大切な事は「活動を見てもらう事」であり、この領域が必要だと捉えてくれる人々の発掘を目的としています。
また現実的な問題として、保護を担う者よりも「活用を求める者が多すぎる」という事実があり、今後は保護を担う加工施設の「再生と維持」が絶対に必要となります。
全くバランスが保たれていないので、まずは各々に保護となる規制を構築する必要があると考えてます。(糸魚川ヒスイは他の資源と違いすぎる部分があり、それに伴う責任も大きい)
それを個人のレベルで高めていき、それと同時に周りの底上げに貢献する事が必要な事だと考えます。
人というのは、世界の半分が幻想(共同幻想)で成り立っていて「思いの強さ」によって自身の細胞を使いこなす事も可能です。
今流行のナチュラルキラー細胞なるものも同じで、幻想世界の「思い」が現実世界に反映され、結果として自身の生存に大きく関わってくるわけです。
これは人の幻想自体が根源ではなく、自身の能力を引き出す術を原始の時点で、人が自然から学んだ事が大きな要因となっています。
それが遺伝子として子々孫々まで繋がれている「人と自然の絆」なのです。(すでに自律神経みたいなもので、魂の琴線にふれると自動的に発動する力)
もし人が自分自身を使いこなせているのなら、自律神経で動く心臓を自身の意志で止めたり、動かしたり自由に出来るでしょうし、病気なんて存在は一切無くなるでしょう。
今現在、自身と言える存在は自我であり「魂」と呼ばれる存在となります。
その魂で発した思いを精神や肉体に、いかに影響させるのかが「自分という人間」を使いこなす唯一の方法なのだと考えます。
心に余裕がない時代には目先の魅力しか容認できず、そういった品(等価交換が可能であろう品)を求めて行きます。
それは間違いでは無いのですが、あまりにも「面白くない」です。
結局は「面白いと思えるほど心に余裕がない事」が原因であり、この大きな要因は不景気によるものです。
しかし、そんな中でも「心を豊かに保てる人達」も存在しますので、その少数の人達に向けた創作活動も必要となると考えています。
伝統を守りながら、伝統にとらわれない、それが継承するって事だと私は思います。
毎回、似たような事を書きますが、それだけヒスイにとっての「現状が進んでいない」って事でもあります。
状況が進むまで同じ事を書き続ける事が、大切な継続力に繋がるのだと考えています。
ちょっと話は違いますが、日本のお札は完成度が高すぎる気がします。
あれでは交換券としてのレベルを超えている…、ユーロ札レベル(ちょっと綺麗なチラシ)くらいに止めないと「目で価値を判断する事に慣れた日本人」には逆効果に思えます。
どうしても「使ってこそのお金だ」という領域を超えている気がするんですよね…。
だからってわざわざ印刷のレベルを下げるのもどうかと思いますが、もう日本は最高クラスの印刷技術がある事は他の国々も理解しているでしょうから、もう少し考えた方が良い気がします。(普段使い用のお札を作るとか…、そう言えば二千円札、あれは一体なんだったんだろうか?)
良く見えすぎて「使う事を躊躇う事」にも繋がっているように感じます。
その代わり硬貨は、ユーロの硬貨のように高レベルの水準にした方が良いかと思います。
これも以前に書いた気が…。