作者の思考

作品紹介

2013年02月17日

前回は珠玉の企画を書いたので、今回は完成したイザナギ(勾玉)の紹介をしていきます。

伊邪那岐「萌芽」(ほうが)


白〜灰色の地に明るい翠が全体に広がるヒスイで伊邪那岐「萌芽」を砥ぎ出しました。渓谷の雪解けに芽吹く命を映し、始まりの喜びと成長の期待を表現しています。

形はスタンダードにして、芽そのものをデザインした作品となっています。
頭の部分に濃い萌黄色が入るように加工し、そこから広がっていく淡翠が渓谷の春を感じさせてくれる作品に仕上がりました。
所々に入る石目も岩肌に走る断層として見ると、自然の創った造形美として受け取る事ができるかと考えています。
それに幾つもの工程を耐え抜いた石目なのでかなり堅牢、作り手としてもヒスイに対し感謝しています。


伊邪那岐「玄斗」(げんと)


黒〜灰色の地に緑色が流れるヒスイで伊邪那岐「玄斗」を砥ぎ出しました。龍のように全身を流れる緑色が、武人に受け継がれる猛々しい血脈を表現しています。

お尻の部分を持ち上げた形にして、勇ましい士魂をデザインした作品となっています。
流れる緑が多く入るように加工し、黒い炎を宿す鎧を纏い、その身に龍脈が猛々しく流れる武士を感じさせる作品に仕上がりました。
所々に入る白く流れる石目を熱気・闘気として見ると、まるで自分に合わせて呼応している命として受け取る事ができるかと考えています。
幾つもの工程を耐え抜いた堅牢な鎧として、人に降りかかる災難からも守ってくれると感じています。


伊邪那岐「青海」(おうみ)


全身を青〜水色に染めるヒスイで伊邪那岐「青海」を砥ぎ出しました。波を想わせる斑模様と色彩は、美しくも激しい糸魚川の海を表現しています。

頭とお尻の部分を尖らせる形にして、満ち引きする波をデザインした作品となっています。
波を感じさせる模様が入るように加工し、時には穏やかな波として、時には激しく打ち寄せる糸魚川の海を感じさせる作品に仕上がりました。
所々にうっすらと入る石目は、より波を強調している景色であり、満ち引きを繰り返し生命を育む母なる海として受け取る事ができるかと考えています。
幾つもの工程を耐え抜いた堅牢な肌は、光に照らされて輝く大海原を感じさせてくれます。
(ヒスイの青は空と見るよりも、海と見る事の方が相応しく思えます)


伊邪那岐「神蛇」(かんなぎ)



灰色の地に黒色が流れるヒスイで伊邪那岐「神蛇」を砥ぎ出しました。蛇の鎌首を連想させるその姿は、遥か古代、奴奈川姫と出会った大国主が所有した勾玉を表現しています。

頭を丸く作りお尻を持ち上げた形にして、蛇の鎌首をデザインした作品となっています。
極力、顎の部分を削り込んで加工し、敵意に対して一歩も引かず、敵対する者を威嚇し恐怖させる大蛇の意志を込めた作品に仕上がりました。
大国主が所有したとする勾玉をイメージし、奴奈川姫が所有する巫(かんなぎ)との運命的な出会いを強く表現していきます。
なので本当の意味で完成するのは、奴奈川姫の大珠である巫(かんなぎ)が仕上がった時なのかもしれません。
(もし八岐大蛇が八千矛神の一部とするならば、この勾玉を八つ備えていたとして考えても面白いです)

勾玉の加工としては難しい部類に入るデザインですが、神玉を作るよりは行程が少なくて助かります。
でもシンプルなだけにバランスは難しく、普段よりも全体を見ながらの研磨が必要となってきます。

後、糸魚川のマスコットである「ぬーな」のデザインは勾玉を持っていますが、あれは大国主に出会った後の奴奈川姫として私は見ています。
糸魚川で出土しているのはヒスイの大珠なので、元々それが奴奈川姫の所有した品の原型として計画していこうと考えます。(その方が糸魚川としてもメリットがある気が…)
あまりに「ヒスイ=勾玉」が先行しすぎて、地域文化と矛盾している気がするのは私だけなのでしょうか…。



異玉・生玉・神玉と同様に、珠玉にも専用の箱を用意しました。
蓋の裏には共通で神玉工房と入れてあります。
人によっては箱は必要ないのでしょう、しかし作り手として完成度を高める為には、どうしても必要となる付加価値として用意しています。(私が制作した珠玉だけの箱で、他の作り手の珠玉には、それぞれの納め方があります)



全く話は変わるのですが、イザナギのナギを「蛇」とするなら、イザナミのナミは何を意味するのでしょうか…?
イザは共に「誘う」を意味しているとして、イザナギは「蛇を誘う」と考えられます。
もしイザナミのナミが「波」とするならば、この二人の始神は出雲に深く関係している神として見ることができますね。(今更ですかね…)
蛇を誘い、波を誘う、他に当てはまる地域があるのだろうか…。
蛇と波だけを考えれば沖縄とかもあるのですが、出雲ほど神秘的な伝承(蛇が海を渡ってくる伝承)も残っていないし、無理がありそうです。(波だけを考えれば海岸沿いの地域すべてが当てはまる…)

まぁ、イザナまでを「誘う」とするならば、ギとミしか残らずしかも多くの意味を持ちすぎてキリがなさそうです。
さらにイザナギまで、イザナミまでを「誘う」とすれば、これ以外の意味は「込めていない」って事になりますね…。

ともあれ、まだまだ日本神話には謎が多いので、この浪漫は終わることは無いでしょう!
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