作者の思考
奴奈川のヒスイ文化
2012年09月27日
今でこそ勾玉が糸魚川に定着していますが、古代を見ると糸魚川での勾玉文化が、いかに新しいものであるかがわかると思います。
主だった理由としては遺跡から「完成されたヒスイの勾玉が出てこない事」です。
軟玉の勾玉1個と未完成のヒスイ勾玉は幾つか出土していますが、何故か完成されたヒスイの勾玉が出土していません。(軟玉勾玉は他国からもたらされた見本の可能性があるかと)
ここで考えるに、もともと糸魚川では勾玉という存在は認知されておらず、大国主の訪れと同時に出雲から入ってきた文化なのではないでしょうか?
そもそも北陸の文化圏は大珠なので、糸魚川も大珠の文化だったように思えます。
また勾玉は、そのデザイン自体(姿形)に大きな意味を持たせていて、当初は材質は問われなかったのではと考えています。(意味を持つまでは道具であったかと)
勾玉デザインの出所に関しては諸説ありますが、国内であれ国外であれ「日本で勾玉として確立した時点での存在」は日本の勾玉として語っても良いと思います。
それぞれの国に「確立した時点での存在」が在るのでしょうから、同じ存在として共有する必要は無いと思います。(この問題は中国や韓国とは絶対に共有しえないでしょう)
他国に押しつけず、共有もせず、自国だけで考えていれば良い問題と思っています。
何故か材質に「緑色の素材」と言うルールがあり、その事もあり堅牢なヒスイで作られるようになったとも考えられるし、ヒスイと言う石の価値を知っていて材質のグレードアップの為にヒスイを用いたとも考えられます。(材質を金・プラチナにしてアクセサリーの価値を高めるのと同じ原理)
あるいはヒスイ自体の不思議な力を感じ取っての事かもしれません。(上の全てを含んだ理由である可能性もあるかと)
出雲の碧瑪瑙は蛇を連想させる暗緑色が価値が高く、勾玉にその碧瑪瑙を使う事で蛇(龍)の力である「畏怖と生命力」を込めたように思えます。(ちょっと玉(ぎょく)に近い概念を持っているような気がする)
一方のヒスイでの勾玉には畏怖は感じられず、植物を連想させる新緑と深緑の「包容力と生命力」を込めたように思えます。(暗緑色のヒスイもあるので畏怖も兼ねる事が可能)
この事でヒスイで作られた勾玉とヒスイ以外で作られた勾玉では、微妙に「用途の違うもの」が在るのだと考えられます。
きっと奴奈川に勾玉文化が入った時に、ヒスイの大珠が持つ意味合いと混ざり合ったのではないかと考えています。
そして、より洗練された姿となり、全国にその存在が知られるようになったのだと思います。
ともあれ、大国主が訪れるまでは糸魚川では勾玉は認知されていなかったと考えます。
では、それ以前にヒスイで何を作っていたのでしょうか?
もし大珠を作っていたとしても、やっぱり数が少なすぎる気もしますが…。
◇
余談ですが、もし大珠を作っていたとしたら勾玉制作を依頼された時に「何て面倒な作業で、何てヒスイを無駄にする形なんだろう」って思ったに違いありません。(大珠は宝飾に近い概念を持っているような気がする)
加工をすれば分かりますが、大珠に比べて勾玉はヒスイを無駄にします。
簡単な話、大珠の「横っ腹をえぐる」のですから。
これはどう見てもデザイン重視の存在であって、素材のヒスイを大切に使おうとはしていませんね。(大切にしようとする加工人は、後に誕生していきますけど)
現在、勾玉デザインを使う理由は「売りやすいから」と言うのが定石で、大珠より存在が確立していて、古代として、ヒスイとしての潜入観念から使われています。(個人規模では、明確な思想をもって加工している人も幾人かいるようですが…)
大珠は身に付け方すら良く分かっていませんので、乗っかりづらいようですね。
◇
本題に戻り「ヒスイで何を作っていたのか」なのですが、良く分かりませんね。
ヒスイは在ったけど、それで何も作っていなかったのかもしれません。
あるいは外から来た加工人が、加工しては売りに行った可能性もあります。(その場合は在庫がたくさん出土するはずなのですが)
ただの原石供給地であったのかもしれません…。
創作とは「ある程度の余裕」が無くては生まれてきませんので、当時の糸魚川はそこまで潤ってはいなかったのでは無いでしょうか?
貧しくても「心に余裕」があれば可能ですが、あの堅牢なヒスイを加工する為には「情熱という名の根気」か、心の貧しさから成る「物欲」のどちらかが現在でも必要不可欠となります。
そこまでの情熱が古代の糸魚川にあったのかは疑問ですし、物欲であるならば品数と交易ルートを持っていなくては説明が付きません。
糸魚川の立地を考えるに物流は、かなり乏しかったと考えられます。(日本海は荒れるし)
しかし噂ではありますが、発掘作業中に出土品を盗んで持っていく人達がいたと聞いていますので、大切な証拠品が無くなっている可能性もあるのかもしれません。
他国が奴奈川にヒスイが在ると知り得た理由の証拠があれば…、それともやはり大珠がその証拠となる唯一の存在なのだろうか…?
(ヒスイが上がる浜辺から辿って探したのだろうか?)
こうなると、もう何だか分からなくなりましたが、勾玉文化の定着は糸魚川では新しい時代での話だった事は間違いないかと思われます。(文化が入ってきた時期は古いですが、定着には至らなかったようですし、現在でも文化と言えるほど成熟していない)
もし元々の土着文化が存在していたら、現在に失われている事はとても残念な事です。
もっと何か形跡があれば気づけるのに…。(無くても創っていけば良いんですけどね)
過去と言うのは、未来以上に分かりにくいものですね…。
以前にも書いたように、糸魚川には未だ「未知の領域」が眠っていると信じて活動して行こうと思います。
主だった理由としては遺跡から「完成されたヒスイの勾玉が出てこない事」です。
軟玉の勾玉1個と未完成のヒスイ勾玉は幾つか出土していますが、何故か完成されたヒスイの勾玉が出土していません。(軟玉勾玉は他国からもたらされた見本の可能性があるかと)
ここで考えるに、もともと糸魚川では勾玉という存在は認知されておらず、大国主の訪れと同時に出雲から入ってきた文化なのではないでしょうか?
そもそも北陸の文化圏は大珠なので、糸魚川も大珠の文化だったように思えます。
また勾玉は、そのデザイン自体(姿形)に大きな意味を持たせていて、当初は材質は問われなかったのではと考えています。(意味を持つまでは道具であったかと)
勾玉デザインの出所に関しては諸説ありますが、国内であれ国外であれ「日本で勾玉として確立した時点での存在」は日本の勾玉として語っても良いと思います。
それぞれの国に「確立した時点での存在」が在るのでしょうから、同じ存在として共有する必要は無いと思います。(この問題は中国や韓国とは絶対に共有しえないでしょう)
他国に押しつけず、共有もせず、自国だけで考えていれば良い問題と思っています。
何故か材質に「緑色の素材」と言うルールがあり、その事もあり堅牢なヒスイで作られるようになったとも考えられるし、ヒスイと言う石の価値を知っていて材質のグレードアップの為にヒスイを用いたとも考えられます。(材質を金・プラチナにしてアクセサリーの価値を高めるのと同じ原理)
あるいはヒスイ自体の不思議な力を感じ取っての事かもしれません。(上の全てを含んだ理由である可能性もあるかと)
出雲の碧瑪瑙は蛇を連想させる暗緑色が価値が高く、勾玉にその碧瑪瑙を使う事で蛇(龍)の力である「畏怖と生命力」を込めたように思えます。(ちょっと玉(ぎょく)に近い概念を持っているような気がする)
一方のヒスイでの勾玉には畏怖は感じられず、植物を連想させる新緑と深緑の「包容力と生命力」を込めたように思えます。(暗緑色のヒスイもあるので畏怖も兼ねる事が可能)
この事でヒスイで作られた勾玉とヒスイ以外で作られた勾玉では、微妙に「用途の違うもの」が在るのだと考えられます。
きっと奴奈川に勾玉文化が入った時に、ヒスイの大珠が持つ意味合いと混ざり合ったのではないかと考えています。
そして、より洗練された姿となり、全国にその存在が知られるようになったのだと思います。
ともあれ、大国主が訪れるまでは糸魚川では勾玉は認知されていなかったと考えます。
では、それ以前にヒスイで何を作っていたのでしょうか?
もし大珠を作っていたとしても、やっぱり数が少なすぎる気もしますが…。
◇
余談ですが、もし大珠を作っていたとしたら勾玉制作を依頼された時に「何て面倒な作業で、何てヒスイを無駄にする形なんだろう」って思ったに違いありません。(大珠は宝飾に近い概念を持っているような気がする)
加工をすれば分かりますが、大珠に比べて勾玉はヒスイを無駄にします。
簡単な話、大珠の「横っ腹をえぐる」のですから。
これはどう見てもデザイン重視の存在であって、素材のヒスイを大切に使おうとはしていませんね。(大切にしようとする加工人は、後に誕生していきますけど)
現在、勾玉デザインを使う理由は「売りやすいから」と言うのが定石で、大珠より存在が確立していて、古代として、ヒスイとしての潜入観念から使われています。(個人規模では、明確な思想をもって加工している人も幾人かいるようですが…)
大珠は身に付け方すら良く分かっていませんので、乗っかりづらいようですね。
◇
本題に戻り「ヒスイで何を作っていたのか」なのですが、良く分かりませんね。
ヒスイは在ったけど、それで何も作っていなかったのかもしれません。
あるいは外から来た加工人が、加工しては売りに行った可能性もあります。(その場合は在庫がたくさん出土するはずなのですが)
ただの原石供給地であったのかもしれません…。
創作とは「ある程度の余裕」が無くては生まれてきませんので、当時の糸魚川はそこまで潤ってはいなかったのでは無いでしょうか?
貧しくても「心に余裕」があれば可能ですが、あの堅牢なヒスイを加工する為には「情熱という名の根気」か、心の貧しさから成る「物欲」のどちらかが現在でも必要不可欠となります。
そこまでの情熱が古代の糸魚川にあったのかは疑問ですし、物欲であるならば品数と交易ルートを持っていなくては説明が付きません。
糸魚川の立地を考えるに物流は、かなり乏しかったと考えられます。(日本海は荒れるし)
しかし噂ではありますが、発掘作業中に出土品を盗んで持っていく人達がいたと聞いていますので、大切な証拠品が無くなっている可能性もあるのかもしれません。
他国が奴奈川にヒスイが在ると知り得た理由の証拠があれば…、それともやはり大珠がその証拠となる唯一の存在なのだろうか…?
(ヒスイが上がる浜辺から辿って探したのだろうか?)
こうなると、もう何だか分からなくなりましたが、勾玉文化の定着は糸魚川では新しい時代での話だった事は間違いないかと思われます。(文化が入ってきた時期は古いですが、定着には至らなかったようですし、現在でも文化と言えるほど成熟していない)
もし元々の土着文化が存在していたら、現在に失われている事はとても残念な事です。
もっと何か形跡があれば気づけるのに…。(無くても創っていけば良いんですけどね)
過去と言うのは、未来以上に分かりにくいものですね…。
以前にも書いたように、糸魚川には未だ「未知の領域」が眠っていると信じて活動して行こうと思います。