作者の思考
建御名方と武御雷を考える
2015年03月17日
建御名方のデザインを考えている際に、色々な事が見えてきました。
見えてきたといっても、私の個人的な考えなので完全に正しい訳ではありませんが、面白い一致が見られます。
それは建御名方と武御雷は、「牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶の物語のモデルであるかも」って事です。
ちなみに、武御雷は建御雷とされますが、武神なので「武(たけ)」を使っています。(私は)
特に建国している神でもないので、こっちの方が良いかと思っています。(建国に大きく貢献はしていますが)
フツヌシとも同一のようで、刀剣の神なのだそうです。(書いた者の都合で名が変わっているのだそうです…、人のやる事だから当然か(笑))
まずは神話での私的解釈は、この二人の勝負は三本勝負だったと思われます。
将としての戦、体術での闘い、剣術での闘い、この三つで勝負したのだと思います。
そして建御名方は、将としての戦が苦手であったので敗北し、体術では勝ち、剣術では僅かの剣技と製鉄の差(剣が折れた)で負けたのだと思います。(この二人の勝負は相撲の原点だとされていますが、どちらかと言えば実戦的(モンゴル相撲みたいに)で、現在の相撲(押し相撲)の原点は天手力男なのだと思います)
三本勝負の後に、その驚異的な拳力が恐れられ両腕を切断された、もしくは両腕の筋を切られたのだと思います。
だた、それをしたのは武御雷ではないと思います。
あれだけ優秀な戦士、立場が違えば良き戦友となったでしょう。
そんな戦士の腕を無力化したのは、源頼朝のような立場の存在だったと考えます。
しかし建御名方の底力は、その強靱な足腰にあり、腕を無力化したくらいでは足技や柔術を封じる事は出来なかったのでしょう。
その理想的な体幹は柱に例えられ、大黒とも同一視される大国主の血を濃く継いでいるのだと思います。(大黒柱の血筋を)
それに「諏訪に逃げて命乞いをした」なんて事もあり得ないかと…、何故ならば諏訪の諏訪大社や御柱祭を見れば一目瞭然です。(あんなに信仰されているのだから)
きっと「諏訪に留めた」と言うのが、可能性として高いでしょう。
ちょっと呂不にも似ている気が…、武将として関羽に劣りますし。
でも武芸では並ぶ者がいなかった呂不と比べると、建御名方の武力は圧倒的ではないですね…。(やはり牛若丸と武蔵坊弁慶だな)
ここから牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶の物語に戻りますが、まず武御雷(フツヌシ)は「剣の先端に座り驚かせた」とありますが、牛若丸も弁慶の振り下ろした長刀の上に立って驚かせています。(驚かせた相手は大国主ですが)
更に源義経は剣技に優れた武将として知られていますが、純粋な力だけ(素手)なら武蔵坊弁慶には敵いません。
また、武蔵坊弁慶の最後は仁王立ちです。
あれはまさに主君を守る為の「最後の柱(楯)」としての象徴にしか見えません。
あの物語は、武御雷と建御名方が「共に戦っていたら」と考えた者の物語なのかもしれませんね(笑)
それに実際に両者(武御雷と建御名方)の間に友情が芽生えたのかも?、お互いが認め合うだけの力を持っていたのだから、戦士として当然の感情だと思います。
建御名方を貶める話を書いたのは、当時の権力者の「都合だけ」だったと思います。
両者の特徴を見ても、片方が剣(切り開く)であり、片方が楯(支える)となっています。
武御雷は武神でありますが、それ以前に刀剣の神です。(特にフツヌシは)
そう考えると武士の証である「刀剣と甲冑」こそが、この二つの神を揃えた姿のように思えて仕方ありません。
この事により、神玉での建御名方のモチーフも決まってきます。(私の中での話)
武御雷は象徴としての剣をモデルにしていますが、建御名方は(って言うか国津神は)もっと具体的なモデルをカタチにしたいと思っています。
感の良い人なら、ここまでの話でモチーフが見えてくるのではないでしょうか?
まぁ、それが相応しいかは人それぞれですので、私なりのカタチを糸魚川ヒスイに宿したいと思っています。
全ては繋がっていて、全てが継がれていく、そんな本質が在る気がします。
見えてきたといっても、私の個人的な考えなので完全に正しい訳ではありませんが、面白い一致が見られます。
それは建御名方と武御雷は、「牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶の物語のモデルであるかも」って事です。
ちなみに、武御雷は建御雷とされますが、武神なので「武(たけ)」を使っています。(私は)
特に建国している神でもないので、こっちの方が良いかと思っています。(建国に大きく貢献はしていますが)
フツヌシとも同一のようで、刀剣の神なのだそうです。(書いた者の都合で名が変わっているのだそうです…、人のやる事だから当然か(笑))
まずは神話での私的解釈は、この二人の勝負は三本勝負だったと思われます。
将としての戦、体術での闘い、剣術での闘い、この三つで勝負したのだと思います。
そして建御名方は、将としての戦が苦手であったので敗北し、体術では勝ち、剣術では僅かの剣技と製鉄の差(剣が折れた)で負けたのだと思います。(この二人の勝負は相撲の原点だとされていますが、どちらかと言えば実戦的(モンゴル相撲みたいに)で、現在の相撲(押し相撲)の原点は天手力男なのだと思います)
三本勝負の後に、その驚異的な拳力が恐れられ両腕を切断された、もしくは両腕の筋を切られたのだと思います。
だた、それをしたのは武御雷ではないと思います。
あれだけ優秀な戦士、立場が違えば良き戦友となったでしょう。
そんな戦士の腕を無力化したのは、源頼朝のような立場の存在だったと考えます。
しかし建御名方の底力は、その強靱な足腰にあり、腕を無力化したくらいでは足技や柔術を封じる事は出来なかったのでしょう。
その理想的な体幹は柱に例えられ、大黒とも同一視される大国主の血を濃く継いでいるのだと思います。(大黒柱の血筋を)
それに「諏訪に逃げて命乞いをした」なんて事もあり得ないかと…、何故ならば諏訪の諏訪大社や御柱祭を見れば一目瞭然です。(あんなに信仰されているのだから)
きっと「諏訪に留めた」と言うのが、可能性として高いでしょう。
ちょっと呂不にも似ている気が…、武将として関羽に劣りますし。
でも武芸では並ぶ者がいなかった呂不と比べると、建御名方の武力は圧倒的ではないですね…。(やはり牛若丸と武蔵坊弁慶だな)
ここから牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶の物語に戻りますが、まず武御雷(フツヌシ)は「剣の先端に座り驚かせた」とありますが、牛若丸も弁慶の振り下ろした長刀の上に立って驚かせています。(驚かせた相手は大国主ですが)
更に源義経は剣技に優れた武将として知られていますが、純粋な力だけ(素手)なら武蔵坊弁慶には敵いません。
また、武蔵坊弁慶の最後は仁王立ちです。
あれはまさに主君を守る為の「最後の柱(楯)」としての象徴にしか見えません。
あの物語は、武御雷と建御名方が「共に戦っていたら」と考えた者の物語なのかもしれませんね(笑)
それに実際に両者(武御雷と建御名方)の間に友情が芽生えたのかも?、お互いが認め合うだけの力を持っていたのだから、戦士として当然の感情だと思います。
建御名方を貶める話を書いたのは、当時の権力者の「都合だけ」だったと思います。
両者の特徴を見ても、片方が剣(切り開く)であり、片方が楯(支える)となっています。
武御雷は武神でありますが、それ以前に刀剣の神です。(特にフツヌシは)
そう考えると武士の証である「刀剣と甲冑」こそが、この二つの神を揃えた姿のように思えて仕方ありません。
この事により、神玉での建御名方のモチーフも決まってきます。(私の中での話)
武御雷は象徴としての剣をモデルにしていますが、建御名方は(って言うか国津神は)もっと具体的なモデルをカタチにしたいと思っています。
感の良い人なら、ここまでの話でモチーフが見えてくるのではないでしょうか?
まぁ、それが相応しいかは人それぞれですので、私なりのカタチを糸魚川ヒスイに宿したいと思っています。
全ては繋がっていて、全てが継がれていく、そんな本質が在る気がします。