作者の思考

標石と作品の見方

2014年06月04日

海で出会う標石(良質の海岸転石)と、人が制作する作品とでは見方の基準が異なります。
簡単な違いは、標石は「自然のみの仕上げ」であり、作品は「人が仕上げた存在」と言う事です。
ここに「私の基準での話」を書きたいと思います。

■標石の基準
標石とは、渓谷で自然により砕かれたヒルコ神(ヒスイ)が川へ流され海へ出て、日本海の波により未完成から完成体となった存在だと言えます。
なので人が手を入れる事は一切必用なく、誰が見ても美しい姿をしている標石は大切にされます。(そのままの美、そのものの美)
この領域では加工技術の有無は関係なく、出会いによる「運のみ」が必用となります。
出会えるかは、その者の天運にあって、一見スタートラインは同じに思えますが「偶然のようで必然」といった「ヒスイとの縁」を持った者にしか出会えません。
ただ、ヒスイとの縁を持っている者であってもモラルの無い者は存在していて、せっかくの天運を曇らせている「残念な人達」がいます…。

■作品の基準
作品とは自然により川へ流れ出たヒルコ神(ヒスイ)と人が出会い、人の手で完成体とした存在です。
そこに己の信仰心を映し、自然への感謝を込め、表現したい祈りを宿した存在を言います。
この領域では加工技術と表現力(感性)が必用とされ、一般的には理解されない作品も多々存在します。
生まれ持った才能による領域である為、個々人の能力差は顕著に出ますが、己自身のみの作品は誰にでも創る事は可能です。
ここでは作品領域と商品領域が在り、商品領域へ行けば魅力は分かりやすくなりますが、傾き過ぎると信仰は腐敗し、せっかくのヒスイとの縁も「唯の腐れ縁」となってしまいます。
その傾向は主に作る事をせず、売るだけの人達に多く見られるようで、生き永らえる為の「滑り止め」と言ったものに成り下がります…。


後は標石とは言えない転石や、加工する必用のない(或いは最小限の)川石も存在します。(最初の基準とは逆になります)

自然のみで仕上げられてはいても、誰もが美しいと認められない転石は加工する場合があります。
自然によって完成体と成らなかった転石を、人の手で完成体とすると思えば良いのかもしれません。(自然によって完成体と成らないのは人間だけなんですけどね(笑))

川石でも飾り石として美しいものは存在していて、ちょっと切断したら座りが良くなり自然風景(山岳などの)に見える川石も希にあります。
加工を躊躇させる程の存在感、そういったヒスイに出会える事も楽しみの一つだと思います。

結局は人の目で見る基準を大元としているので、より人にとって美しい姿を求めるわけです。
でも、この領域にも確かに存在する感性、魅力を見出すだけの審美眼は必用とされます。

確実に言える違いは、自然のみで完成体と成った存在は「人が制作した作品よりも出会う確率が低く、運のみが頼り」って事で、人の手で完成体と成った存在は「外見の美しさだけでなく、作者・誕生理由・存在理由が不可欠」って事です。
なので金額の基準も違い、この両方を比較する事は不可能だと言えます。

例えば標石で作品を作ったとしても、標石の価値+作品の価値にはなりません。
この場合は、標石の価値はゼロになり、ヒスイ素材としての価値+作品の価値となるわけです。
もちろん「標石で制作した事」の付加価値は残りますので、より作品力は増す事にはなるでしょう。
しかし「自然が完成体にした標石を崩した」と言う現実も残り、作者の信仰を曇らせる原因にもなります。

恐らく標石で加工をする心境とは「初心からの好奇心で手を出してしまう」って事と、「金銭的(拾えば仕入が無料を含む)な理由から加工する」の二つなのだと私は考えています。
過剰に手を加えるのは「地球より人が優れている」って考えが根底にあるからではないだろうか…?
現時点の標石よりも美しく仕上げる自信がある、そんな考えが元になっている気がします。(純粋な初心により、更に美を引き出したいと挑戦する姿勢も理解はできる)
他者に伝えるには分かりやすい基準が必用不可欠ですが、それが過剰になると原点を忘れてしまいます。(なかなか難しいですね…)

地球が完成体にした存在を、そのまま受け入れる事ができなければ、人が過剰に手を加えて増長し、長じて自然を破壊する側となってしまうように思えます。(私も気を付けなくては…)
とにかく過剰な自己顕示欲、これを制限できなければ自然とは共生できないのかもしれませんね…。(自己表現と紙一重なんだろうし…)

ちなみに私が体験した縄文遺跡の発掘でも、標石は一切加工されることなく、そのまま出土していました。(現在の基準では無いので、私が標石としている中のレア度4〜5以上は未加工のまま出てきました)
縄文人は分けていたのではないだろうか?、「自然によるお守り」と「人によるお守り」を…。
その後の時代で権威を示す為に、標石を利用して勾玉などが作られたようにも思えます。(まぁ実際には、そうであった人と、そうでなかった人がいたのでしょうけどね)

結局、どの段階を「地球による完成体」とするかで、話は変わってきますので難しいのは当然なんですよね(笑)
私にとっての標石が、他者にとっては転石にしか見えなかったら、そのヒスイは手を加えられる事でしょう。
未完成として分けている時点で、自然を下に見ている事に繋がるのだろうか?、でもそれでは何も表現できなくなりますね…。(ヒスイに意志を刻む事ができなくなる=地球とのコラボができなくなる…)
人間は矛盾した生き物なので、そのバランスをとるのは非常に困難です。
恐らくこれから先も、この基準が明確になり全国共通と成る事はないでしょう。

それでも私自身の基準は、可能な限り構築して行きたいと思っています。

とにかく「生まれ(誕生)は地球によるもの」なので悪くは無く、「育ち(品となる制作過程)の善し悪しが、とても重要になる」って事を、忘れなければ道から外れる事もないと思っています。
そして育ちは「教育(再生)により矯正が可能」という事も、憶えておく必用があります。
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