作者の思考
遺跡掘り体験 ③
2013年05月17日
今日で今までの区画は、終わりを向かえました。(お疲れ様でした!)
少し前から、新潟県のお偉方が視察に来て急かされていました…。
スケジュール通り進んでいないので「今月中に終わるのか?」と言われていたようでしたが、この遺跡を見て「それだけしか言えないのだろうか?」と疑問に思ってしました。
まぁ、それがその人達の仕事なのだから仕方ないのでしょうけどね…。
そんな事は良いとして、今日は最後に作業を終えた遺跡の簡単な説明を聞き、その遺跡から出土した品々を少しですが説明を受けながら見せてもらいました。
4500年前の村…、完全な姿ではありませんが、自分の目で見ることができて幸せです。
そこで使われていた道具の数々、素晴らしいの一言です。
耳飾りなどもあり創作へと発展した「心の安定」を感じる事もできました。
発掘作業で疲れていた人達も、これを見てとても盛り上がりました。(皆、スケジュールの調整と、寒暖の激しさでまいっています…)
そして何より私が気になっていた、赤石(鉄石英)での石器がありました!
自分の目で見るまで確実と言えませんので、ちょっと心配していましたが、これで古代でも赤石は使われていた事が私自身で確認できました。
今回の赤石は磨製石器ではありませんでしたが、道具として使われ発展して行ったのは間違いないので、いずれ赤石の磨製石器にも出会える事でしょう。(打製石器だけでしたが、赤石の矢尻もありました)
ヒスイも幾つか出土したのですが、加工された品は無く、割られているものが少しあったくらいです。
これは憶測ですが「そのまま流通させていたか」それとも「石割の段階まで行い他へ移したか」だと思います。(両方である可能性も)
遺跡はここだけではありませんので、奴奈川の別の地域に持って行ったとしても不思議ではないかと。
ヒスイの加工には特殊な技術と道具が必用なので、その者(者達)が居る集落へ石割した後に持ち込んだ可能性もあるかと思います。(ここには勾玉の加工に必用な形の砂岩が見あたらない)
この遺跡では幾つも打製石器を作っているのだから、ヒスイの石割くらいは出来た可能性があります。
割っておけば移動は容易なので、奴奈川以外の地域にも持って行ったのではと考えます。
ちょっとした分業があったのだろうか…、それともやっぱり、ここで加工していたのだろうか…?
これだけヒスイや磨斧が出て、ヒスイの加工品が出ないのは異常としか思えない。(大珠なら作れたはず)
私は古代の工人が加工した品を、奴奈川の民が全て手放したとはどうしても考えられないんですよね…。
持ち主が移動していったのなら納得がいきますが、全ての持ち主が移動する現象は普通ではないです。
なので私は、糸魚川にはヒスイの勾玉は絶対に存在すると考えます。
何かの理由で出てこない、それが古代人による理由なのか、現代人の都合なのかは判りませんが…。
と、現時点での私なりに考えたのですが、全く分かりません(笑)。
なんであれ次に調査する現場もありますので、まだまだ色んな遺物に出会えると思います。
夏に近づくにつれ作業的に大変になるのでしょうが、数千年前の存在と対面できる経験は、創作を受け継ぐ私にとっては、代え難い体験となるように思います。
運良く今回のような、遺跡調査に立ち会えた事を嬉しく思います。
この事で色んな事が分かっていくような気がします。
少し前から、新潟県のお偉方が視察に来て急かされていました…。
スケジュール通り進んでいないので「今月中に終わるのか?」と言われていたようでしたが、この遺跡を見て「それだけしか言えないのだろうか?」と疑問に思ってしました。
まぁ、それがその人達の仕事なのだから仕方ないのでしょうけどね…。
そんな事は良いとして、今日は最後に作業を終えた遺跡の簡単な説明を聞き、その遺跡から出土した品々を少しですが説明を受けながら見せてもらいました。
4500年前の村…、完全な姿ではありませんが、自分の目で見ることができて幸せです。
そこで使われていた道具の数々、素晴らしいの一言です。
耳飾りなどもあり創作へと発展した「心の安定」を感じる事もできました。
発掘作業で疲れていた人達も、これを見てとても盛り上がりました。(皆、スケジュールの調整と、寒暖の激しさでまいっています…)
そして何より私が気になっていた、赤石(鉄石英)での石器がありました!
自分の目で見るまで確実と言えませんので、ちょっと心配していましたが、これで古代でも赤石は使われていた事が私自身で確認できました。
今回の赤石は磨製石器ではありませんでしたが、道具として使われ発展して行ったのは間違いないので、いずれ赤石の磨製石器にも出会える事でしょう。(打製石器だけでしたが、赤石の矢尻もありました)
ヒスイも幾つか出土したのですが、加工された品は無く、割られているものが少しあったくらいです。
これは憶測ですが「そのまま流通させていたか」それとも「石割の段階まで行い他へ移したか」だと思います。(両方である可能性も)
遺跡はここだけではありませんので、奴奈川の別の地域に持って行ったとしても不思議ではないかと。
ヒスイの加工には特殊な技術と道具が必用なので、その者(者達)が居る集落へ石割した後に持ち込んだ可能性もあるかと思います。(ここには勾玉の加工に必用な形の砂岩が見あたらない)
この遺跡では幾つも打製石器を作っているのだから、ヒスイの石割くらいは出来た可能性があります。
割っておけば移動は容易なので、奴奈川以外の地域にも持って行ったのではと考えます。
ちょっとした分業があったのだろうか…、それともやっぱり、ここで加工していたのだろうか…?
これだけヒスイや磨斧が出て、ヒスイの加工品が出ないのは異常としか思えない。(大珠なら作れたはず)
私は古代の工人が加工した品を、奴奈川の民が全て手放したとはどうしても考えられないんですよね…。
持ち主が移動していったのなら納得がいきますが、全ての持ち主が移動する現象は普通ではないです。
なので私は、糸魚川にはヒスイの勾玉は絶対に存在すると考えます。
何かの理由で出てこない、それが古代人による理由なのか、現代人の都合なのかは判りませんが…。
と、現時点での私なりに考えたのですが、全く分かりません(笑)。
なんであれ次に調査する現場もありますので、まだまだ色んな遺物に出会えると思います。
夏に近づくにつれ作業的に大変になるのでしょうが、数千年前の存在と対面できる経験は、創作を受け継ぐ私にとっては、代え難い体験となるように思います。
運良く今回のような、遺跡調査に立ち会えた事を嬉しく思います。
この事で色んな事が分かっていくような気がします。