2012年09月17日
そろそろ糸魚川ヒスイを使う為の、最低条件を真剣に考える必要がありそうです。
資源というのは大きく見れば「地球の共有財産」でありますが、これだけ規模が大きいと国として上手く使えません。
よって地球規模から国家規模として資源の所有権を主張するわけですが、もっと小さく考えれば都道府県となり、更に市町村となり、個々人となります。
もし糸魚川ヒスイを「共有財産」として考えた場合、日本国よりも先に糸魚川市の、糸魚川市民の共有財産となるわけです。
なので、この「共有財産」を使うのならば「糸魚川でのヒスイ領域の発展に貢献しなければならない」ってのが最低条件となります。
これは国家レベルの商売でも同じ条件が付きます。(他国の資源を使うのだから当然の話になりますね)
本来はどの商売もそうでしたが、現在では商売に国境が無くなっています。
正確には、無くなっていると言うより「無くしてる連中がいる」ってのが現実です。
その方が使い易いのでしょうが、国家は人も資源と考えていますので、いつまでも他国の都合の良いように使われているはずもなく、然るべき時には排除されます。
これが矛盾する二つの領域である「保護と活用」の難しいところでしょう。
(言い換えれば理想と現実となり、おもいっきり反比例する世界です)
国家を「守護する事」と「発展させる事」には常に矛盾が付きまとうのですね。
■ここからは糸魚川の共有財産とした前提での話です。
共有すべきは得た利益では無く、高められた「誇り」である事が肝心です。
もし利益を共有したいのなら、相応の働きをする必要があるのは当然の事になります。
(利益を配当しても一人1円にもならないし、何もせずにお金が入る訳が無い)
特に重要な事は、その利用によって「私腹を肥やす」事は許されません。
一つの商売として括る事は出来ず、必ず「糸魚川に貢献する条件」が付きます。
基本的にこの仕事で家族は養えず、例外として共に発展に貢献する場合のみ許されます。(双方が加工し、子供が後を継ぐ条件でのみ可能となる)
それと同時に地域(国)の補助を受ける権利も生まれます。
もしヒスイで儲けたいのならば、処理したヒスイを大量に売れば良いです。
天然であると例え外国であっても、その国の発展に貢献する条件が付きますが、処理品は資源と見なされず、純粋な換金の品と言っても良い存在になります。
糸魚川ヒスイを活用すると決めたい以上、保護する領域を明確に決める必要があります。(例えば原石のままの販売は禁止し面積を定めたプレートで販売するとか、原石を購入する際は定められた機関で個人情報及びヒスイ画像等を記録するとか)
まずは商売とする上での、ルール作りが最優先となるわけですね。
これが決まらなければ、無法地帯となり「何でもあり」の状態となります。
どんな遊びもルールが無ければ面白くありませんし、楽しみを共有できません。
(使いこなせずに在庫処分するくらいなら、糸魚川に返還してほしい…)
保護とは規制を設ける「収縮」であり、活用とは規制を緩和する「拡大」であるので、そのバランスが大事です。(宇宙じゃないんだから拡大し続ける事などは不可能で、増えれば増えるほど一つの価値が劣化していく)
何度も言いますが、これで糸魚川が得るのは「名誉である」って事が重要です。
以上の事で分かるように糸魚川ヒスイを自由に使いたいのならば、最低の条件である「糸魚川でのヒスイ領域の発展」に貢献しましょう。
それが地域(他国)の「財産」を使用する最低限の礼儀(ルール)なのだから。
(そもそも礼儀とは闘争から生まれた戦闘回避術でもあるのです)
これにより、例え他が糸魚川と同等の糸魚川ヒスイを保有しても、その使い方を糸魚川が発展させていれば問題なく「糸魚川ヒスイの主導権」は維持できるでしょう。
とにかく糸魚川ヒスイの使い方での新技術や、新デザインなどを糸魚川発とする事が肝心です。(だからといってデザインを売り渡すわけでは無い)
そして、この領域でのデザインは具現化しないと意味がないので必ず形にする必要があります。(賞金では無くデザインの具現化にお金を使った方が良い)
サンプルを二点作成し、本人用と糸魚川での展示用とに分けるのが望ましいです。(そして然るべき場所に展示する必要があります)
ここではデザインの主導権の問題では無く「何処発なのか」が大切で、その扱い方(魅せ方)がともて重要になります。
これが正常に機能した際には、デザインした人は可能な限りの協力をして頂きます。
糸魚川の「共有財産」なのだから、筋を通してもらうのが当然のルールでしょう。
それに伴い、住民の意識も高めていかなければ誰も協力せず、発展もありません。
特に糸魚川ヒスイを扱う者の劣化は、ブームと同時に拡大しているようです。
(一部の日本人は中国人や韓国人を蔑みますが、日本人の中にも「蔑んでる一部の中国人・韓国人と同類の者」が存在している事実をちゃんと認めて恥る必要がある)
もう現在は国の品格以前に、個々人の品格の問題になっているのです。
と、前提での理想を書きましたが、世の中そんなに単純ではないですね…。
せめて甲府の前例を教訓にして、同じ結果にだけはなってほしくないですよ。
しかし保護が「立前」で、活用が「本音」だとしたら、こんなに難しく考える必要は無いですけどね。(それと時が解決する問題でもあるんですよね…。)