2012年08月07日
人類が必ず渇望すると言われる「不老不死」について考えてみました。
まず、原点として日本神話で考えてみました。
始まりの神である「生と担うイザナギ」と「死を担うイザナミ」、以前はイザナミが死を担うのは理解できないと思っていましたが、イザナミが担っているのは「現」である事が分かりました。(そしてイザナギが「夢」であると)
死は生物である以上、必ず訪れる「避けようのない現実」です。
イザナミは神でありながら、現実を受け入れて死に向かいましたが、イザナギは現実に向かい合えずに逃げました。
その際に黄泉比良坂に大きな岩を置いて、現実が追いつくのを防いだわけです。
これは別にイザナギが情けないと言いたい訳では無く、イザナギこそが「究極逃避」を確立した神だと言えます。
誕生したばかりの生命に直ぐ死が訪れるのでは、あまりにも悲しすぎます。
生まれてから死に向かう「時」を創り出してくれたと言えるでしょう。
もっと言えば、海を担う素戔嗚(息子)が、深海である伊邪那美(母)を守護し、太陽を担う天照(娘)が、全ての光である伊邪那岐を守護し、時を担う月読(息子)が、そのバランスを管理しています。
また姉弟では、天照(姉)が日中の素戔嗚(弟)を見守り、月読(兄)が夜の素戔嗚(弟)を見守り、その月読(弟)を天照(姉)が照らし見守っています。
(理想である1姫2太郎のバランスです)
これは人間社会の男女・家庭・姉弟(兄弟)の関係にも繋がっています。
現実を担うイザナミ(母)が優遇されるバランスとなっており、女性としての、母としての重要性を感じる事ができます。(息子は母を守る存在)
話は戻りますが、黄泉比良坂に置いた大きな岩は「意志」であると考えています。
この意志が衰退するにつれて、岩が小さくなり現実が漏れ出すのでしょう。
人は生への執着は強くなりますが、生への意志が弱くなる生き物です。
死へと向かう際、後世に何かしら三分の一は残せる生き方をしなければ…。
それが黄泉比良坂で男女の始神が交わした約束事ですから。
日本の神話では、不老不死は始まりの神ですら叶わなかった事が分かります。
(私達は究極逃避が確立した後を生きていますので十分かと…)
最近では男女の役割が逆転して行く傾向がみられます。
女性が人間社会での現である家庭から、夢である仕事(遊び)に移行しています。
これはバランスの崩壊を招きますので、男は大国主のように「現」を担う存在へと変わる必要があるでしょう。
今度は不老と不死を別にして考えてみます。
不老はそのままの通り「老いない」って事でしょうが、肉体が老いないって事であり精神が老いないって事では無さそうです。(気は狂うでしょう)
精神が老いない(劣化しない)となると、いつでも新鮮な感動を得る事が出来るのでしょうが、それはつまり「記憶しない」って事になるので、意味が無です。
(不死で無い場合は、簡単に事故死・餓死するでしょうね)
次は不死ですが、老い以外から解放された存在と言えるでしょう。
これが輪廻転生の記憶保存版だとしても、2回くらいなら楽しめるでしょうが、それ以降は飽きるかと思います。
こうなるとクリアしたゲームを、引継ながら無限に繰り返すようなものですね…。
(地獄のような試練であって、決して幸せではない)
傷を負っても再生するのでしょうが、痛みからは解放されいないかと思います。
やっぱり精神がもたない事が重大な欠陥となりますね…。
結局、理想を追求すると「鈍感な死なない存在」って奴になりなす。
全感覚を鈍くする事でしか、不老不死の精神を健全に保つ事は不可能でしょう。
ただ「無限に生きるだけ」を求めているのなら問題は無いのでしょうが…。
色々と考えてみましたが、こんな間抜けな存在を誰が求めるのでしょうか?
命は限りがあるから一生懸命に生きるのだと、これで再認識できました。
今を精一杯生きて、自分という存在を確立して行こうと思います。