2011年10月27日
商売は「水と魚の関係」を例えると分かりやすいと思います。(無礼な例えではありますが非常に分かりやすいです…)
養分のある濁った水が「市場」とすると、そこに餌を垂らす釣り人が「売人」となり、その水の中を泳いでいる魚が「消費者」となります。
この状況は商売での初めのステージであり、魚である消費者には濁った水の中で売人が垂らす餌の姿がよく見えない(正確な判断ができない)状態になっています。
このステージでは偽り(疑似餌)が大半を占めていて「他の魚が食らい付いたから大丈夫」という錯覚にも似た感覚を与えて釣り上げる事が主流となります。
これは魚だけではなく、釣り人の側も「あっちがやっているから大丈夫」とう錯覚をおこし、同じ様な釣り方をしていきます。
しかし、この領域も永く続く事はありません。
同じ利益を喰らい合うのだから低迷するのは当然で、釣り人はより利益を得るために差別化していきます。
餌を良くする事がその方法となるのですが、水が濁っていては肝心の餌がよく見えません。
そこで水自体を濾過する事で餌を鮮明にさせて、準備した「差別化した餌」を投入します。
透明度を高めた水により疑似餌は正体を暴かれ、良くした餌はその中でより輝きを増していきます。
よって、このステージでは餌を改良した釣り人が勝ちとなります。(キリがあってのピンですから)
しかし、更にこれを真似る釣り人がいる為、この領域もスタンダードになります。
なのでもっと良い餌にして、もっと綺麗な水にして他者との差別化をしていくのですが、餌を良くし水を綺麗にして行くにつれ「住める魚」と「住めない魚」が出てきます。(釣り人も減るけど魚も減る)
ここまで来るとピンの餌でなければ食いつかなくなってきますので、それに対応する釣り人の負担が大きくなっていきます。(今までが楽をしすぎていたのでしょうけど…)
しかも水が綺麗になった事で、魚は水中からでも釣り人を見ることが可能となり、餌だけでなく背景も見るようになります。(どこで誰が造っているのか等)
高みへ登れば登るほど透明度が求められ、やがて「釣り人」と「魚」の立場が逆転していきます。
この領域を維持できるのは換金を目的としない芸術品だけであり、商売だと最高級の品でしか通用せず、そういった品は数が少ないので成り立つ事はありません。(小規模ならば引き延ばせますが…)
結局はピンの品もスタンダードとなり、価格を下げるしかないのが商品の定めで、需要があっても供給できなければその商売はすぐに破綻します。(高みに留まる事は不可能)
伸び代を失った部門は衰退して行き、放置される事で市場である「水」が(年月が流れて)再び濁っていくので、同じ様な事を繰り返して行きます。(学んだ人は疑似餌には引っかからなくなります)
消費者は優しく騙されていた事で、記憶には嫌な思い出としては残らずに、新たな消費者と共に「その流れ」にのって行くのか商売のシステムとなっています。
商売とは濁った水でしか利益を上げることは出来ず、その商売が芸術を支える一つの方法でもあります。
これは家庭をもった人と同じですが、絶対に守るべき存在は自分の家族であり、仕事はお金を得る為だけの手段でしかありません。(家庭を持つ事は「家族の夢」が自分の夢となる事ですから)
芸術家にとっては自身の作品が子であり、守るべき存在となります。(芸術家は家庭を望むべきでない)
その領域を守るために、「同じ制作部門で濁った領域」を持つか、「別の仕事をして濁った領域」に身を投じて支えるかの選択が迫られる現実があります。(他者に支えられる運の良い芸術家もいますが…)
濁り=養分=お金となりますので、お金を得るには濁った領域でしか稼ぐ事はできません。
この領域では制限(モラル)を持った人ほど利益は出ず、金儲けに徹した人には勝つ事は出来ません。
消費者がこの事実を知りながら購入する際は「本物を見抜ける眼力」を備えるか、「所詮は濁った領域の産物」として全てに過剰な期待を持たずに「お祭り感覚」で購入するしかありません。
日用品や電化製品などは使う事で違いが分かるのですが、最近はその違いも差がほとんどありません。
日本ではこの部門の市場(水)が綺麗になっている為、企業は利益を出す事が困難になり、低賃金労働者を使う事で現在の生活レベルを維持しています。(企業が国外に出ていく理由の一つ)
この部門では消費者でなく、偽りの領域を「制作者」に対応させるようになっています。
私達の生活レベルは発展途上国の低賃金労働者によって支えられているものであり、このまま知らぬ顔をして続けて行くのなら、近い内にその報いを受ける事になるでしょう。
商売とは「汚く稼いで綺麗に使う」と言われますが、現在では「汚く稼いで汚くに使う」になっているように思えます。(どちらが正しいのかは分かりませんが…)
この時期に、それぞれが商売との付き合い方を真剣に考える時期に来ていると私は考えています。
まずは「知る」事から始めて、適切な使い方を学んで行く必要があると感じています。
偽りの無い世界などは存在しないのでしょうが、その中でも最低限の節操を持って生きたいですね。