2018年12月06日
12月に入り、いよいよ本格的な冬の到来となります。(日に日に寒くなる…)
大雨が降ったり、それが霙となったり、それが雹になったりと大忙しの天候となった日もありました…。
気温も一気に下がってきましたので、体調管理に気を付けたいと思います。
それでは12月初めの探石記録を書きます。
今回は姫川河口、この日は特に良い天気となりました。(12/2)
本来は土日には探石をしないのですが、晴れる日が当分「この1日だけ」との事だったので、お昼頃に河口へ行ってみました。(しかし、この後の12/4も6の今日(午前中のみ)も晴れました(笑))
久々の河口、海岸へ進むと警告の看板がありました。
「河口や河川での鮭釣りは密漁となる」のだそうです、稚魚を放流している側からすれば「盗賊以外の何者でもない」ので当然なのでしょうね(笑)
流石に晴天の日曜だったので、訪れている人が多くいました。(午前中は更に多かったそうです)
波は強く速めで、頻繁に大きなしぶきをあげて打ち寄せていました。
ちょっと危険な環境…、石が動くので確率は高まりますが「探石の練度」が試される状況でもあります。(場合によっては「危うきに近寄らず」って事も必用になります)
こちらは海と川との合流点、先端で見付けたとしても「どうにもならない」って状況でした(笑)
また、波が強い割には石が動いておらず、ロディン岩などの重い鉱物が見当たりませんでした。
こっちは姫川本流、前日の雨により濁っていました。
特に水量が多いわけではありませんが、連日の雨による影響は見られる感じでした。
一通り歩きましたが、どうも石の表情が悪い…、魅力的な石が一つもないのは珍しかったです。
多くの人が訪れたとしても、多少は確率が下がるだけで致命的な影響が出ないのが「石との出逢い」と言えます。(石との縁の強さが重要な感じです)
同タイプが大勢現れると一時的に確率は下がりますが、そういった状況になる事は稀です。
今回は縁が無かったのだろう、と思い折り返し、スタートラインだった場所に戻ってきたら、いきなり目の前にヒスイ転石が現れました。(90%は諦めていました…)
最初に見た時には無かったのに…、生き物のように「移動している」って感じで、しかも小砂利の上にポツンと落ちている姿は「現実味のない現実」ですね(笑)
翡翠輝石がキラキラと輝くタイプのヒスイで、石目が多いですが粘りのある石質です。(よって加工に向いているタイプ)
基本は白ですが、淡い翠が見られ透明度も高い方のヒスイと言えます。
河口らしく角張が強いですが、丸みが残る部分も見られるので「それなりの練度」も示しています。(錬磨は河口の標準レベル)
乾くとこんな感じ、あまり変わりませんが翡翠輝石が見やすくなります。(当然ですが)
気を付ける事は「良く似た大理石(石灰石)がある」って事です。
質の良い大理石は白ヒスイに似ていて、乾くとキラキラも見られ紛らわしいです。
表面の「若干のパサつき」が識別のコツとなり、重さも若干ですが違います。
硬度も違うのでナイフなどで強めに削ると、大理石には白い傷が付きます。
質の良い大理石は硬いので強めに削る必用があり、弱めだと鉄と同等の硬さに感じ間違えます。
まぁ、大理石には淡い翠は入らないし(淡い黄緑(ロディン岩?)は稀に入るけど…)、表面に緑があっても蛇紋石(滑石含む)なので簡単に傷が付き判別できるので、白ヒスイとの区別だけに注意すると良いでしょう。
ともあれ最後の最後に出逢えて良かった、粘っていた常連さんたちも拾えなかったらしく、河川敷でお披露目会が開始されました。(勝手にそういう流れになりました(笑))
初心者の人たちにはピッタリの指針、現実として見付けて、どんな姿なのか見る事ができ、違いを記憶に擦り込む、この繰り返しが識別能力を高めます。(ちなみに、初心者さんの石の判別をする羽目になりました(笑))
そこには「それぞれにセンスの違い」がありますが、意欲と努力で養えます。
しかし「出逢えるか」は運(縁)であり、可能性を高める手段はありますが、努力が実を結ぶ事は少ないのが現実です。
毎日のように海岸を歩き(回数)、一日中探し続ける…(時間)、そう言う人もいますが、私としてはそれは楽しくないのでお勧めできません(笑)
ヒスイを拾える人には何かしらの特徴があり、そこには確実にセンスが関わっているのでしょう。
しかしそれを誇り胸を張られた所で「買って所有できる」って現実は無視できません。(海岸で出逢った感動は買えませんが、お店で出逢う感動は得られる)
ヒスイとの縁は「拾える」ってだけに止まらず、様々な領域で発揮して初めて「愛されている・認められている」と言う、一種の幻想(錯覚?)が赦されるのでしょう。
でなけれは人間に対しての説得力に欠け、承認を得る事は不可能です。(他者と一切関わる事のない自己満足であれば必要ないが…)
まぁ、人が理想とするイメージ(像)、仏像などの理想型でもある「何体分の能力を有する」って事の証明は自然(主に樹)との一体にも通じ、その羨望は人の成長を促す事にもなるのでしょう。(現実として手や顔を増やせませんが、それだけ多才(万能)って事が重要かと)
しかし多才であっても「一つにまとめる事ができなければ器用貧乏」、枝ではなく幹が重要で、更には大地を掴む根こそが肝心なのだと解ります。
結局は根本(大元)、肉体(血)と精神(思想)と魂(情熱)が揃った上での「土俵」であるのだと思い知らされる感じです。
私の三位一体が何処まで行けるのか、それを示し続ける事が私の選んだ道なのだと再確認できたような気がします。(自身の(それぞれの)三位一体での世界が未来を創って行くのでしょう)
と…、長々と私の哲学を書きましたが最後まで読んでくれた人は有り難う、それではまた来週(笑)