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作者の思考
芸術の変遷
2011年06月07日
私が考える芸術の原姿は個人規模での「究極の遊び」だと考えています。
遊びは豊かな心から生まれて、「楽しむ」という気持ちを具現化した存在なのだと思います。
なので利益から遠ざかるほど「純粋な芸術」となり、小規模で底が深い美の世界になります。
よって、これを人と共有したいと考える場合、自分と他人が楽しめる「遊びのルール」が必要となります。
個人としての色を残しながら、新たな色を受け入れる許容領域が必要となります。

スポーツも遊びからの派生であり、「楽しむ遊び」として苦しい生活の中で生まれてきています。
いつからか、その「遊び」に明確な差を示し、より高度なシステムを取り入れるようになりました。
その「遊び」に対して才能がある人達が、より高レベルで楽しみたいという想いがあったのでしょう。
ですが、それだけでなく差をつける事で自分に多くの「利益」を得る事を求めたのも事実だと思います。

もともと遊びと言う「楽しみ」を本質としていたモノが、仕事として「苦しみ」を生み出す存在となっていき、更に競い合い利益を奪い合う存在へと変貌するのが、この分野の「商売での末路」だと考えます。

生まれ持った身体能力で差が明確に出るスポーツに比べて、芸術はそこまで明確に差がでません。
元が「個人規模の遊び」なので、絶対的な否定が不可能であり優劣は付けられません。(好き嫌いは別)
その人の表現なので、その存在自体を否定する事は自身以外を除き、誰も出来ないのです。
(自分自身で作り、コンセプトをもって誕生した作品に限りますが…)
こういった事もあり、作品とは他者が利用する際には、作者が死んだ後の方が扱い易くなっています。

他者との共有を求めた場合、「共感する人達との遊び」となり、共感しない人達とは遊びになりません。
共感する人達が多いほど、多数決の世の中なので影響力を持つようになります。(優劣とは別)
しかし、共感しない人達にまで共有を求めると、遊びのルールは大きく壊れ利益を求めるようになります。
どの分野でもそうですが、「純粋な遊び」のままでは大金は得られないと言うことですね…。

昔から生きていく業は、農耕か狩猟となっていて、遊びでは無いのは事実です。
でも今の世の中は資本主義という「換金システム」で動いており、お金を得る事が生き方となっています。
そうであれば、その換金システムを使いこなせば良いのだけの事になります。
お金は人が作りだしたモノであり、システムも人が作った存在です。
なのでお金を人が使う事があっても、使われる事があってはならないと考えます。
芸術家が表現を使いこなすように、このシステムも使いこなせば良いのです。
苦しい生活を過ごす為、精神のバランスを保つ為に遊びが生まれたのなら、生きる事には欠かせないはず。
そして、その存在に代価を払わない道理はないはずです、特に今のような世の中では…。

そのセンスによって左右されるかと思いますが、私的には最小限の利用で十分です。
芸術のルールを壊してまで、大金を得たいとは思いませんし…。
苦しみからは逃げられませんが、楽しみを本質とする存在と共に生きれば幸せは得られると思います。
世の中にはルールの壊れたモノが散らばっていて、その存在に怒りを感じますが、常に心を豊かに保ち「楽しみの本質」を忘れないように取り組んで生きたいと思います。

どれだけ芸術が時代により変わっても、「誕生と存在の理由」だけは変わらないと信じています。
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