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作者の思考
キリギリスと蛙
2011年05月17日
童話や諺などで、この二つが悪い例えとして教えられています。
蟻のように「コツコツと貯えていけば冬が来ても生きていける」と言う「備え」の大事さを説いているのでしょうが、キリギリスとして生まれた存在には、冬を越すことなど必要ではないです。
冬がくれば死ぬ、それまでの間を精一杯生きる事が、キリギリスにとって重要なのではないでしょうか…。
蟻から見れば遊んでいる様に見えるでしょうが、キリギリスはキリギリスとしての使命を全うしようと努力しています。
蟻がキリギリスに嫉妬しても、キリギリスが蟻に嫉妬しても、どうにかなる話ではないですね…。

蛙もそうですが、大海に出ても魚に食べられるだけ…、大海に出るには蛙のままではなく他の存在になる必要があります。
海水を泳いで生きていける「別の存在」に成らなければ、大海に出ても魚の餌食になるだけ…。
でも「蛙」として生まれた存在は、「蛙」を辞めることなどはできません。
だったら蛙として井戸を深く掘り下げて行けば良いのではないでしょうか…。
深く掘っていけば、大海には出られなくても別の大陸には出られるかもしれません。
囲われていた世界から出る事には違いありませんが、海よりは生存確立が高いかと思います。

結局は数多の知識や才能を備えても、使いこなせなければ意味がありません。
皆が平等に知識を得ても、才能を得ても、同じ人間(クローン)でない限りは個人差がでます。
人間は平等には出来ていません、それを羨んでも悔やんでも仕方がないです。
自分に出来ることを精一杯やって行けば良いのであって、争っても何も生まれてきません。
せいぜい「競う」くらいまでにしておいて、認めるべきものは認めなければキリがないと思います。

人は有限でありますが、人の欲望は無限であって宇宙のように膨張し続けて限界がありません。
満足することの無い存在は不幸せなだけです。(寿命により解放される仕組みには成っていますが)
自分が何をすべきなのか、蟻なのかキリギリスなのか、井の中の蛙なのか、を見定めて
身の丈にあった生き方をした方が幸せになれるのだと思います。

自分に無い力を必要とするならば、その力を持った人と協力し合えば良いです。
自分を知るためには、諦めがつくまで挑戦する必要がありますが、執着せずに結果を受け入れる勇気も必要でしょう。
それでも自分の「根幹」は他人に依存しない、自立した存在でなければならない…。
人と言うのは、非常に難しいバランスで成り立っているのだと感じています。


作る側として、糸魚川や甲府の現状に向き合うと闇に囚われそうになります…。
このまま鉱石における、日本の作る人の未来は「信念の腐敗」によって終わるかもしれませんね。
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