2014年12月17日
鉱物という存在を考える時、一番最初に頭に浮かんでくる疑問があります。
それは「何故、美しい形と魅力的な色を示しているのか?」という疑問です。
これが生命体ならば話は簡単で、子孫繁栄の為のアピールだったり、身を守る為の威嚇や擬態であったりします。
しかし鉱物の場合は、子孫繁栄のアピールも、身を守る為の威嚇や擬態も必用ではありません。
多分これは、人間にしか解らない(必用としない)魅力だと、言っても良いように思えます。
これはどういった事なのだろうか…?
多くの美しい鉱物は、人間に「何か」をアピールしているのだろうか?
人間(生物)は地球に適応する事で、様々な基礎ができた生命体ですが、その人間に対して地球のカケラである鉱物から、何かをアピールするなんて事が有り得るのだろうか?
それとも別の存在にアピールしている事を、人間が気が付いて適応したのだろうか?
この事が、どうにも解りません…。
更に言えば「原石のままで美しい鉱物」を魅力的だと感じる感覚は理解できますが、「加工する事で魅力を増す鉱物」は、一体何なのだろうか?
まるで人に加工される事を前提で、この世に誕生したかのような錯覚を与えます。(この事が原因で、マイナス方面へ進んでいる領域がある)
人間の勝手な錯覚ではありますが、バランスを間違えずに信念を持って取り組めば、鉱物が応えてくれているような感覚はあります。
どうにも不思議…、地球そのものが神の創った作品だったとして、それの真似事をする習性が、人間にはあるのだろうか?
現在、自分が仕事にしている領域の根幹は理解できても、原点を解明する事はできていません。
「鉱物を道具として使った行為からの派生」なのは理解しています、ですが何故、鉱物自体が初めから魅力的な姿であるのかも、その鉱物を加工して、より美しい存在に仕上げようとするのかも解りませんね…。
これは、鉱物の領域が解明できておらず、芸術の領域も解明されていないからなのでしょう。
この二つの疑問には、必ず接点があるように思えます。
もしかしたら、道具として使っていた際に、鉱物の意志(記憶)が人間に宿ったのかも?
鉱物は地球のカケラであり、誕生の記憶(想像力)を宿していても不思議ではありません。
それが永い年月で人間に宿り、やがて人のカケラ(芸術)となって人生を彩る、そんな事が在るようにも思えます。
人間は生物なので、元々アピールする存在ですが、それでは説明のつかない成長をしている者達がいます。(全ての芸術家が、そうではありませんが)
そういった人達を説明するのには、こういった感じの考え方が必用なのかもしれませんね…。
しかし、鉱物自体の美しい形と色彩の説明にはなっていません。
結局は、ハッキリした事は全く解らないんですよね(笑)
新しい作品を作りながら、そんな疑問が湧いてきました。
それは人間の原動力に感情が大きく関わっている証であり、その原点を求める過程に「行動という現象」があるようにも思えました。
感動し、行動し、理解しようと考える、その事で人間は成長して行くのかもしれませんね。(この事は、影響を受け、模倣し、やがて自身の作品を誕生させる流れと同じなのでしょう)
もし、その豊かな感情を、最初に鉱物が広げたのだとしたら、人間には欠かせない存在(人を構成する一部)だと言えるのでしょう。