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作者の思考
神という存在
2014年11月10日
「神」と呼んでいる存在は、人(国)それぞれに違います。
前に「言葉の数だけ神が存在している」と書きましたが、それと似た事を書きたいと思います。

まず、日本で言う神(八百万の神)の本質は「自然」です。
そして、仏教でいう仏の本質は「道徳」なのでしょう。
一神教の神の本質とは「真理」を言っているのだと考えます。

そう考えると、各々の言っている事は当然なんですよね(笑)
自然は八百万あるし、道徳は人としての尊厳だし、真理は一つしかありません。(ただ、人間の考える真理とは、人間の都合で変わっていくで必ず敵対します)
まぁ、真理とは「全てを否定すると同時に、全てを肯定する表裏一体の存在」なので当然なのですが…。

これらの事を、全て「神という存在」に兼ねさせるから問題が起きるのではないでしょうか?
なぜならば、「現実逃避の究極体である人間」の考える神を完成させた場合、「現実逃避の究極体の完成体」と成ってしまいます。

そうなると全く地に足を着けず、現実を見ずに幻想を追う事になります。
そして何よりも、「完成された存在は終わりを迎える」って現実が在ります。
完成させる事で、人間による神が終焉を迎えるわけですね…。(正確には神と言う言葉が消滅する)

そんな世界になったら、人間は人間として存在していけるのでしょうか?
現実だけを見続けて生きなければならない…、それは人間の成長と正反対の領域です。
他の動物とは違い、現実(本能)から距離を置く事で進化してきのが人間なのだから、幻想は人間に無くては成らない領域なわけです。

だからと言って、幻想のみを求めていっても破滅するんですよね…。
要は完成させない程度の幻想(完成させない程度の現実)が大切なわけで、これは完成という領域のない芸術と同じだと言えます。

ただ、人間という領域を終わらせたく無いのなら完成させない方が良いのですが、人として進化するのならば終わらせる必用があるのだろうか?
これは解りませんね…、でも終わらせなくても成長は可能だと、私は信じています。(って言うか確信しています)

人間という存在は、必ず誕生理由を宿して生まれてくると考えています。
後は存在理由と出会うのみ、それを探すのが試練であり、成長であり、魂の研鑽なのだと思います。
この事を理解していないと、「ただ老けていった者」となり、認識した頃には「時既に遅し」って状態になります。(もう成っている輩はいますが…)

そして、これらを体験する事により、「人が神と呼んでいる存在」を身近に感じる事ができます。
この事で解るのは、「個々で地球と宇宙を感じる事が可能」と言う事です。(宇宙に出なくても)

現実の神と幻想の神、この二つのバランスが、人類の神を成り立たせているのだと感じます。
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