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作者の思考
お守りの原点
2014年08月03日
お守りという存在の原点・成り立ちを考えてみました。(何度も書いているので重複するかと(笑))

まず、道具からの派生である事は以前から書いていますので、そこからの分岐について考えました。
人の祖が生きる上でもっとも必用としたものは「生に直結するもの」だったと考えます。
それは食料であり、身を守るための道具であったかと思われます。
二足歩行となったのも異性への贈り物からのだと言いますので、その場合の贈り物も直接命を繋ぐもの(食べ物)だったと考えます。(と言う事は男が先に二足歩行と成ったのだろうか?)

そこから何故「お守りという存在が誕生したのか?」ですが、これらの事に全く関係していないわけではなく、発端として「自身の為に」か「他者の為に」かの違いだけなのだと感じます。

いつの時代でも必用とされるのは、生活に直結する存在(道具)です。
現代では「お金」で、一番使い勝手が良く、生活に直結する優秀な道具なのだと認識しています。(だった、と将来的に過去形になる日が来るのかも?)
それでもお守りは、現代でも古代と同様に求められています。

その理由には、お守りの成り立ちが大きく関わっているのだと考えます。
私の考えでは、お守りは直接他者(主に異性)へ向けた存在ではなかったのだと思います。(原点は)
生活の為に狩猟をしていた者達の一部が、自然(神)への信仰を具現化したのだと考えます。(原初での獲物の牙などを身に付ける行為は、他者への自己顕示が大きな目的だったかと思います)
命を落とさないように、獲物を仕留められるように、自然の恩恵を受けられるように、そんな願いも込められていたのだと思います。(まずは個の願いが先だったかと)

そしてそれを身に付けて生活をしていると、それなりの効果があったのだと考えます。
もしかしたらそれは、元々その者の身体能力が高く、狩りが上手かっただけなのかもしれませんが、周りへの影響力は十分に発揮していたのだと思います。(自然に愛されているような印象を受けたかと)

実際に自然に愛されていたのかもしれませんね…。
その姿は人の心を惹きつけて、主に異性の関心を強く引いたのだと感じます。(要はモテたのでしょう)
それは同姓でも同じ事で、その者への尊敬や憧れ、頼もしさと言う感情をもたらしたのだと思います。
まぁ、身を守ってくれる屈強な男となれば、その時代の女性にとっては魅力的に映るのは当然でしょう。(しかも自然に愛されているし)
生物として女性を惹きつける事は必用な能力であり、原始ではもっとも求められていた事だと思います。(子孫繁栄は本能で、更に強い子孫を残す事を求められていたので)

それと同時に、劣等感や嫉妬などの負の感情も芽生えさせたのも事実かと…。
圧倒的な身体能力の差は認めざるを得ないですが、この領域は明確ではない為、いつまでも張り合う者がいます。(張り合うのは、子孫を残す本能の一旦だと考えます)
なんであれ、その者が具現化した信仰は他者の心にまで響き、同じように所有したいと願いう人達が現れたのは間違いないでしょう。
なので、その者は自身の信仰を他者と共有しながらも、狩猟もして共に生活していたのだと考えます。

言うなればお守りとは、他者の気を引く事で進化したのではなく「自然(神)の気を引く事」を目的とした存在なのだと言えるかもしれません。
結局、人類とは何かの気を引く事で進化する存在なんですよね。(でも他者と自然(神)とでは、本質的に大きな違いがありますが…)


ここからが商売の原点に分かれるのですが、その者の信仰に人気があると気付き、同じものを作れば「異性や同姓から認められる」と考えた者達が表れたのだと考えます。
異性への贈り物で二足歩行になったとするならば、当然思いつくであろう手法です。
ここからは「信仰の具現化」では無く、ただ誇示したい、ただ人気者になりたい、ただ認められたい、と言った自己顕示欲からの模倣になります。(現代では「ただ換金したい」ってのも加わります)
これは道具であるはずのお金に、逆に使われている現代の始まりだとも言えるかもしれません。

結局、私は誰かに道を示してもらう必用はなく、目的地へ向かう為に結果的に「お金と言う道具」が必用となっているわけですね…。(示す人では無く、支えてくれる人たちが必用)
文化は「大衆で支えられるもの」と言ますが、それが少し解った気がします。(大衆では無く、民衆という表現の方が良い気がしますが)

本来、自身の信仰を具現化するのですから、それぞれのカタチが必用となります。(古い時代だと、それなりに違ったカタチが存在しています)
でも最終的には、ほぼ1つの形に集約されていきます。
それが「定型勾玉」と言われているものなのだと私は考えます。(アクセサリーと言われるもの全般にも言えるかと思いますが…)

この領域では「それぞれの信仰の具現化」は無く、便乗で得た「錯覚の名誉」や「錯覚の信仰」で埋め尽くされています。
しかし大元がお守りからの派生で在る以上、僅かにその本質(古代からの記憶)を残しています。
それが救いでもあり、やっかいな要因でもあるのだと考えます。(それが免罪符的な事になっているかと)
要は人を道具として使う為に、雇用が免罪符的な役割を果たしているのと同じ原理かと…。

私はお守りが「ただ姿形だけで認められたのでは無い」と考えています。
それを創った者の生き方が重要であり、その者を評価した上での話だったと思います。
その者の優しさや勇ましさ、哲学や美意識を含めた全てが魅力的だったのではないでしょうか…。(ヒスイを使う場合、ヒスイの魅力がマイナスを補うほど強力なので解りづらくなっている事も大きな要因ではある)

現代ではそれを明確にする術はありませんが、その者の本質を繋ぐ以上、これらは理解しておく必用があると私は考えています。
この者在っての今の自分であり、ゼロから創りだしたとか意味不明な事は言わず、必用のない無駄な事で張り合わず、受け入れながら未来へ繋いで行きたいと思います。(まずは現存する者を模倣する行為は、未熟者の証明である事を認識すべきでしょう)

アドバイスをするならば、加工技術よりも先にデザイン能力を身に付けた方が良いです。
これが身に付かなかったら、一生誰かの模倣で終わりますから…。
自身の信仰を具現化できる者は、他者へ向けた品を作る事も兼ねていて、お守りという存在の本質から離れて行く事はありません。

ここで重要な事ですが、私の計画は「古代の総意を継いだもの」ではなく、「個の意志を繋いだものである」って事です。(私が存在したと信じる一人、あるいは数人の古代人の意志です)
何度も同じ様な事を書いていますが、重要なので何度も書いていきます。

僅かなズレが時を重ねる度に大きくなっていきますが、時代はズレても自分はズレたくないものです。
それでも原点から見れば、だいぶズレているんだろうなぁ…。

でも許容範囲のズレであれば、その古代人から失望される事はないでしょうね(笑)
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