2014年02月07日
私は和食と糸魚川ヒスイの本質は、よく似通っていると思います。(あくまでも私個人の見解です)
まず双方の魅力の根幹には、「質素」というものが大きく影響しているように思えます。
それは、和食では「旨味」に当り、糸魚川ヒスイでは「色合」に当たるのだと思います。
双方の保護を考えた場合、本質を守るのなら「限られた者」でしか不可能となります。
何故ならば、本物の旨味を知る人は少数ですし、本物の色合を知る人も少数だからです。
和食が何故「質素を本質とするのか?」は、古代からの食事にあるのだと思います。
旨味は悪く言えば「詫びしい」となるかと…。(貧しいとは違います)
まぁ、飽食では無かったって事なんですが。
糸魚川ヒスイも同じで、身の周りに南国のような鮮やかな生物もおらず、そう言った存在に触れる機会も長い間なかったからだと思います。
(そう言えば幼少の頃、絵の具で初めて水色を作り感動しましたが、風景画として使う場所が無かった事を思い出します、空も川もあんな色をしてないんですよね)
その中で見出した「独特の感覚」であり、色で言えば「白」に例える事ができると考えます。
それを特徴をとしているので、現在のようなパレットに数多の色が混在している状況の中では、守れる者も限られると言うわけです。
白色は、どんな色にも「混ざってはいけない」、それが絶対条件であり、限りなく脆い存在でもあるかと思います。
こんな脆弱な存在を果たして守れるのだろうか…?
そこで考えられるのは、白色以外を混ぜて黒色にする事ですね。
これがどういう事なのかを言及すると、色々と面倒なので各々で考えて下さい(笑)
(これは大昔から在る、人の世特有の現象のようなものです)
とにかく、こうする事でそれらの意識は高まり、結果的に本物を守る「一つの役割」を果たします。
これは現代ではどうしようもなく、幼少の頃から味覚を壊され(和食での基準で)、視覚まで乱されてしまいます。(糸魚川ヒスイの基準で)
本物だった頃の基準を保てない、そんな時代ですから…。
しかし強すぎる光(白)は人の目を潰し、強すぎる闇(黒)も人から視力を奪います。(それに多彩な色と白色が混ざったら、より美しくなる場合がある事も事実です)
ここでも規模が重要であり、これを間違えると何も守れなくなります。
この理は個人の中にも存在していて、このバランスを保てないと「生きてる」ってだけになります。
それが何より必用って状況も確かにありますが、人生振り返ったら「ただ生きてた」って事にならないように、かつて間違いなく成り立っていた「本物の基準」に想いを馳せて頂きたいです。
そうなれば、黒色を劇的に濁せる存在である白色を基準として、物事を見る事ができるのだと私は考えます。(糸魚川ヒスイは不滅なので、基準を残し易いかと思います)
まぁ、これは逆の考え方も成立してしまうのですが…。(要は本質からズレればズレるほど、商売としては成り立ちやすくなるって事なんですよね)
しっかし、この二つの色から成る灰色。
これが「人間社会の象徴色」に見えるのは、私はだけでは無いはずです…。