2013年10月27日
日本神話では火之迦具土は、伊邪那岐と伊邪那美の最後の子という扱いになっています。
生んだ事で伊邪那美は死に、火之迦具土は伊邪那岐によって分解されたと言います。
ここで火之迦具土と天照の繋がりを考えてみました。(現代での視線で)
天照は「陽」であり、詰まるところ巨大な火の玉な訳です。
なので「焔」とされる火之迦具土は、その一部だと考えても良いように思えます。(光も力の一部と考えられますね)
例え話なのですが、人間が神を名乗ろうとした場合、天に在る太陽はとてつもなく偉大であり同等の存在感を持つ事は不可能だと認識するでしょう。(太陽の姿を知らない古代では)
太陽を使いこなす事などは不可能でありますので、「神の使い」や「子」を名乗るのが精一杯かと思います。
その太陽(神)の「使い・子」と称する為には「力の分解」が必用となります。
要するに「太陽の力の一部を使いこなす」って事が必用となるわけです。
その一部を火之迦具土である「焔」として、見る事ができると考えます。
太陽の一部である「焔」を使いこなす事で「人間は神に近づける」と考えるのは、人類の進化の過程としては不思議な事ではない気がします。
しかし神話では火之迦具土が分解されているので、焔ですら扱うのは難儀だったと考えます。
人が使うには陽→焔→火として、自然の力を制限した(小規模にした)方法でなければ不可能である事が良く分かります。
神の使者を名乗ろうとした夫婦(姉弟)の妻(姉)は「焔」を操りきれず焼け死に、残った夫(弟)が「火」のレベルに落として使い誤魔化したって話は、偽りだらけの現代ならば思いつきそうな話ではあります。
縄文時代では火の扱いは重要で、火を神として祀っていたのでは?とも言われているそうです。(この時代は太陽より、火を崇めていたらしい)
その時代に火を巧に扱えば、神の使いを名乗っても違和感は無かったのかもしれません。
太陽の科学的な姿が分かっていなかった時代でも、太陽の一部を崇めていて、更に自分が扱える規模にして上手に使う、ここで「人」と言われる生物の基礎が身に付いたのかもしれません…。
結局、人の領域で高めていった存在でも、自然の力の一部を制限して「使えるレベル」にしているに過ぎないのかもしれませんね…。(自然から見れば)
でも考えてみれば当然で、自然(地球)を従わせる事など絶対に不可能です。
自然を超えるなんて事よりも、重要視するべきは人の基礎となった「自分が扱える規模にして上手に使う」って事だと思います。
ある意味、焔(火之迦具土)の上位である太陽(天照)を良く知る時代でもあるので、その力の使い方、っていうか「恩恵の受け方」を考える必用が現代にはあります。
その事で、一部の人のする事(仕事)が無くなっても仕方ないようにも思えます。
要は人が身に付けた「道具とは自分に扱える規模にして使う」って事を進めるわけですね。(将来的には雷の恩恵の受け方も考えるべきでしょうね)
直ぐに代替エネルギーとは成りませんが、これが未来のエネルギーとなっていなければ、人類はもう「消費していくだけの生物」って事になりますね…。
しかし道具であるのならそれで良いですが、道具から離れた存在、自然と調和した存在を扱うには人が別方向へ進化する必用があります。
ここでは「使いこなす」と言う事ではなく「共に在る方法」を見出さなくてはなりません。
古の文献にすら人の業は記されていて、それを残されていながらも同じ事を繰り返す存在の人間…、どうすれば別方向に進むのか良く分からない。
別方向へ進化していくって事の明確なビジョンが在るとするならば、人類としては厳しい決断が必用となるようにも思えます。
多くの生物は適応して進化しましたが、人は自らの意志で「進化する方向を選ぶ必用」がある気がする…。
それが「意志を持って生きる生命体」としての責任と使命だと私は考えます。
外的要因で「右往左往して生き長らえていたら進化していた」ってのは、人の意志を蔑ろにしているようにしか私には思えません。(ただ老けていっただけだし…)