作者の思考
黄泉比良坂と天岩戸
2012年09月07日
良く知られている神話の、この二つの物語は良く似ています。(これは私の勝手な解釈なので「こんな事を思っている人もいる」って事で読んで下さい。)
詳しいことは神話を読んでもらえばきっと分かるでしょうが、おおまかに言えば「ほぼ同じ筋書きの物語を登場人物を代えてやり直した」って感じかと私には思えます。
この二つの異なっている部分は、登場人物以外に「閉じこめる」が「閉じこもる」事に変わっている事や、恐れて逃げる側が「男女逆」って事が主に言えるかと思います。
(後は約束事がお祭りに変わっている事や、場所が黄泉でなく高天原である事など)
また、黄泉比良坂でのイザナミ・イザナギ・ククリヒメはスサノオ・アマテラス・ツキヨミとして見ることも出来るかと思います。
担っている事が、かなりカブっていて同一として見えても不思議じゃないかと…。
余談ですが、死者のイザナミと生者のイザナギの間をとりもったククリヒメですが、生者からの解釈は「死者を黄泉に括りつける」として安寧をもたらし、死者からの解釈は「生者に黄泉を荒らさせない」として安息をもたらしているのだと考えます。(この黄泉比良坂での話は死者のイザナミが不憫すぎる気がする)
葬儀に菊の花を手向ける習慣も、ククリヒメと何か関係があるのだと考えます。(菊理媛と書いてククリヒメと読むらしい)
話は戻って、天岩戸ではアマテラスは解放されスサノオは追放されますが、黄泉比良坂と違ってその後のスサノオは英雄となるよう描かれます。
こっちでは温情を感じますので、先の黄泉比良坂で得た教訓が活かされた形になっているようにも思えます。
黄泉比良坂では意味不明なほど男(イザナギ)を優遇していますが、天岩戸では女(アマテラス)が優遇され、更に男(スサノオ)に温情さえも与えています。
この事から、当時の男女間のバランスの変化を感じる事が出来るのかもしれません。
この二つの物語で私が感じる事は、避けようのない「繰り返しの連鎖」があるものの残され繋がれた知識を使えば、結果を大きく変えられ、先へ進む事ができるって事です。
私には天岩戸から出たアマテラスの姿は、イザナギが約束を守り黄泉の神に許されて現世に再び現れたイザナミにも見えます。
何故か天岩戸の物語はイザナギの深い後悔の念が反映し、一緒に居られなくても生きていて欲しいと言う願望を叶えているようにも思えます。
ある意味でイザナギがイザナミを殺してしまった事を、天岩戸では機織女の死に置き換える事で両者の死別を回避させたようにも思えます。(醜さは皮を剥がされた馬で対応した?)
結果的に両者は決別するのですが、先に繋がる別れ方をした事が特徴でしょう。
もしかしたら古事記は物語と言う存在の「流れ」を作った書物なのかもしれません。
でもそれを確認しようが無いんですけどね…。(作者が生存していないしね)
なんであれ、この二人が天地を担う事になるのだから一件落着と言えるかと思います。
離れていても表裏一体、この男女の住み分けが壊れる時には一時的な争いが起きるのでしょうが、その時は男が大国主のように「縁の下の力持ち」でいられたらバランスは保たれるのだと思います。
きっと人類とは入れ替わり立ち替わりにより、バランスを保つ存在なのでしょうから。
(男女の役割分担も大切ですが、世代交代の方が重要になるかと思われます)
詳しいことは神話を読んでもらえばきっと分かるでしょうが、おおまかに言えば「ほぼ同じ筋書きの物語を登場人物を代えてやり直した」って感じかと私には思えます。
この二つの異なっている部分は、登場人物以外に「閉じこめる」が「閉じこもる」事に変わっている事や、恐れて逃げる側が「男女逆」って事が主に言えるかと思います。
(後は約束事がお祭りに変わっている事や、場所が黄泉でなく高天原である事など)
また、黄泉比良坂でのイザナミ・イザナギ・ククリヒメはスサノオ・アマテラス・ツキヨミとして見ることも出来るかと思います。
担っている事が、かなりカブっていて同一として見えても不思議じゃないかと…。
余談ですが、死者のイザナミと生者のイザナギの間をとりもったククリヒメですが、生者からの解釈は「死者を黄泉に括りつける」として安寧をもたらし、死者からの解釈は「生者に黄泉を荒らさせない」として安息をもたらしているのだと考えます。(この黄泉比良坂での話は死者のイザナミが不憫すぎる気がする)
葬儀に菊の花を手向ける習慣も、ククリヒメと何か関係があるのだと考えます。(菊理媛と書いてククリヒメと読むらしい)
話は戻って、天岩戸ではアマテラスは解放されスサノオは追放されますが、黄泉比良坂と違ってその後のスサノオは英雄となるよう描かれます。
こっちでは温情を感じますので、先の黄泉比良坂で得た教訓が活かされた形になっているようにも思えます。
黄泉比良坂では意味不明なほど男(イザナギ)を優遇していますが、天岩戸では女(アマテラス)が優遇され、更に男(スサノオ)に温情さえも与えています。
この事から、当時の男女間のバランスの変化を感じる事が出来るのかもしれません。
この二つの物語で私が感じる事は、避けようのない「繰り返しの連鎖」があるものの残され繋がれた知識を使えば、結果を大きく変えられ、先へ進む事ができるって事です。
私には天岩戸から出たアマテラスの姿は、イザナギが約束を守り黄泉の神に許されて現世に再び現れたイザナミにも見えます。
何故か天岩戸の物語はイザナギの深い後悔の念が反映し、一緒に居られなくても生きていて欲しいと言う願望を叶えているようにも思えます。
ある意味でイザナギがイザナミを殺してしまった事を、天岩戸では機織女の死に置き換える事で両者の死別を回避させたようにも思えます。(醜さは皮を剥がされた馬で対応した?)
結果的に両者は決別するのですが、先に繋がる別れ方をした事が特徴でしょう。
もしかしたら古事記は物語と言う存在の「流れ」を作った書物なのかもしれません。
でもそれを確認しようが無いんですけどね…。(作者が生存していないしね)
なんであれ、この二人が天地を担う事になるのだから一件落着と言えるかと思います。
離れていても表裏一体、この男女の住み分けが壊れる時には一時的な争いが起きるのでしょうが、その時は男が大国主のように「縁の下の力持ち」でいられたらバランスは保たれるのだと思います。
きっと人類とは入れ替わり立ち替わりにより、バランスを保つ存在なのでしょうから。
(男女の役割分担も大切ですが、世代交代の方が重要になるかと思われます)