作者の思考
魂の器と死の棺
2014年10月17日
最近、この二つがゴチャゴチャになっている勾玉が増えています。
以前にも同じ様な事を書きましたが、今一度、書き記そうと思います。
この二つの大きな違いは「魂の器」は生者へ向けた存在で、「死の棺」は死者へ向けた存在である事です。
見極め方としては、何度も書いているように誕生理由と存在理由にあります。
簡単に言えば、海外での大量生産での勾玉は論外、国内であっても理解して制作していない勾玉は「ただの色違いの棺桶」です。
前者の理由は簡単で、こういった生産方法で海外の者が日本に「魂の器」を制作する訳がありません。(むしろ率先して棺桶を作る事でしょうね)
最近では、糸魚川翡翠を中国へ送り委託加工している業者が多くなりました。(良い部分は盗られるそうです(笑))
要は「糸魚川生まれの中国育ち」って事ですね…。
それで満足する者ならば問題ありませんが、知らずに購入している人も多いかと…。(遊びとして楽しむ分には、問題ないって事かな?)
後者の理由は単純で「誕生理由と存在理由が存在しないから」ですね(笑)
まぁ、最低でも「換金の為の道具」と「暇つぶし」という理由は、在るのかもしれませんが。
色違いの棺桶の特徴としては「量産品で曲線がとれておらず、無駄にピカピカしている」ってのが多く見られます。(あとは営利目的で形が媚びている)
要は墓石と同じで、角張ってピカピカになっているわけです。(とは言え姿形だけで判断できる人は、かなり少ないでしょう)
では「魂の器」とは何なのか?、ですが、一言で言えば「生者のお守りであり、魂の継承」です。
ここで誤解があるのですが、魂の器としてのお守りとは、災厄や困難から身を守る事が目的ではありません。(結果的に、そいった事を兼ねているだけです)
本来の目的は、「災厄や困難にあった際にも魂を腐敗させず、生者を未来へ進ませる最後の護りである」って事です。(最終防衛の神器ですね)
絶望さえしなければ、人は前に進めますから。(生きていく事自体が試練だし)
そして「死者の棺」とは死者のお守りであり、鎮魂を目的としたのだと思われます。
私が思うに、古代からこの二つの勾玉は使い分けられていたように思えます。
よく古墳などから出土する勾玉は、その多くは「魂の器」として作られた勾玉を埋葬したのでしょうが、もっと以前では、血族に継承されていたのだと思います。
何故ならば、生者の為の「魂の器」を死者の安らぎの場に埋めてしまうと、成仏できないからです…。
もし血族がいない王族や豪族であるならば、その「魂の器」を砕いて解放させる必用があります。
それに死者の鎮魂を願うのならば、生前に身に付けていた緑溢れるヒスイでなく、心安らぐ色調の勾玉である必用があるかと…。(もっと言えば勾玉である必用は在っても、ヒスイである必用は無かった気がする)
でも再生や復活などの願いを込めて一緒に埋葬すると、魂だけはそこに留まる事になります。
この事が必用だったのかもしれませんが、死者にとっては迷惑な気が…。(エゴだった気が…)
生への執着なのか、権力への執着だったのかは分かりませんが、引き際を間違えると最悪の結果になりますね…。
血族に繋がれた勾玉は子孫と共に魂を共有できますが、埋められた勾玉は孤独に土の中で永遠とも言える時を過ごすわけです。
もう拷問でしかない気がする…、ですが「死者の為の棺」として作られた勾玉を埋めてあげれば、その誕生理由・存在理由から死者に安らぎをもたらし、留まる事なく天へ還るのだと思います。
もしかしたら古墳から出土した勾玉には、未だ魂が留まった勾玉が存在するのかもしれませんね…。
いつの時代から使い方が変化したのか興味が湧きますが、確かめる方法は無いですね。(それに他者と共有できる証明方法も無いし)
また、血族では無くても「他者の魂と共存して、その時代に存在したい」、という思いがあっての選択なのかもしれません。(基本的に芸術品とは、そういったものだし)
だとすると遺跡調査とは、孤独な魂の発掘を知らずに行っているのかもしれませんね。
私が考える「死の棺」は、現在の「色違いの棺桶」とは違い、誕生理由と存在理由もあるので役目を果たしますが、現在は生者が「色違いの棺桶」を喜んで持っている為、おかしな事になっています。(終活の一種だろうか?)
死の棺と唯一つ共通している事は、その勾玉は「魂の守護を願って制作されていない」って事だけです。(と同時に魂の解放も願っていないので、全くの別物ですけど…)
要は「魂の器」でも「死の棺」でも無く、ただの色違いの棺桶(抜け殻)と言うわけです。
厄除けにも成らず、魂の守護にも成らず、魂の解放にも成らない、ただの「物体」でしかないのです。
でも所有者が人生をかけて、それに意味を持たせて成長させていく事は、可能なのかもしれません。(それには「他者が換金の為に作った商品に、自分の人生をかけられる者」である必用がありますね…)
日増しに狂って行く人間社会ですが、こういった事を見ても当然のようにも思えます。
もっと別の「誰もが解りやすい前兆」も在るかと思いますので、ちょっとした異常を見て、その後の災厄を予測できるようになれたのなら、人間はより成長できるのだと思います。
以前にも同じ様な事を書きましたが、今一度、書き記そうと思います。
この二つの大きな違いは「魂の器」は生者へ向けた存在で、「死の棺」は死者へ向けた存在である事です。
見極め方としては、何度も書いているように誕生理由と存在理由にあります。
簡単に言えば、海外での大量生産での勾玉は論外、国内であっても理解して制作していない勾玉は「ただの色違いの棺桶」です。
前者の理由は簡単で、こういった生産方法で海外の者が日本に「魂の器」を制作する訳がありません。(むしろ率先して棺桶を作る事でしょうね)
最近では、糸魚川翡翠を中国へ送り委託加工している業者が多くなりました。(良い部分は盗られるそうです(笑))
要は「糸魚川生まれの中国育ち」って事ですね…。
それで満足する者ならば問題ありませんが、知らずに購入している人も多いかと…。(遊びとして楽しむ分には、問題ないって事かな?)
後者の理由は単純で「誕生理由と存在理由が存在しないから」ですね(笑)
まぁ、最低でも「換金の為の道具」と「暇つぶし」という理由は、在るのかもしれませんが。
色違いの棺桶の特徴としては「量産品で曲線がとれておらず、無駄にピカピカしている」ってのが多く見られます。(あとは営利目的で形が媚びている)
要は墓石と同じで、角張ってピカピカになっているわけです。(とは言え姿形だけで判断できる人は、かなり少ないでしょう)
では「魂の器」とは何なのか?、ですが、一言で言えば「生者のお守りであり、魂の継承」です。
ここで誤解があるのですが、魂の器としてのお守りとは、災厄や困難から身を守る事が目的ではありません。(結果的に、そいった事を兼ねているだけです)
本来の目的は、「災厄や困難にあった際にも魂を腐敗させず、生者を未来へ進ませる最後の護りである」って事です。(最終防衛の神器ですね)
絶望さえしなければ、人は前に進めますから。(生きていく事自体が試練だし)
そして「死者の棺」とは死者のお守りであり、鎮魂を目的としたのだと思われます。
私が思うに、古代からこの二つの勾玉は使い分けられていたように思えます。
よく古墳などから出土する勾玉は、その多くは「魂の器」として作られた勾玉を埋葬したのでしょうが、もっと以前では、血族に継承されていたのだと思います。
何故ならば、生者の為の「魂の器」を死者の安らぎの場に埋めてしまうと、成仏できないからです…。
もし血族がいない王族や豪族であるならば、その「魂の器」を砕いて解放させる必用があります。
それに死者の鎮魂を願うのならば、生前に身に付けていた緑溢れるヒスイでなく、心安らぐ色調の勾玉である必用があるかと…。(もっと言えば勾玉である必用は在っても、ヒスイである必用は無かった気がする)
でも再生や復活などの願いを込めて一緒に埋葬すると、魂だけはそこに留まる事になります。
この事が必用だったのかもしれませんが、死者にとっては迷惑な気が…。(エゴだった気が…)
生への執着なのか、権力への執着だったのかは分かりませんが、引き際を間違えると最悪の結果になりますね…。
血族に繋がれた勾玉は子孫と共に魂を共有できますが、埋められた勾玉は孤独に土の中で永遠とも言える時を過ごすわけです。
もう拷問でしかない気がする…、ですが「死者の為の棺」として作られた勾玉を埋めてあげれば、その誕生理由・存在理由から死者に安らぎをもたらし、留まる事なく天へ還るのだと思います。
もしかしたら古墳から出土した勾玉には、未だ魂が留まった勾玉が存在するのかもしれませんね…。
いつの時代から使い方が変化したのか興味が湧きますが、確かめる方法は無いですね。(それに他者と共有できる証明方法も無いし)
また、血族では無くても「他者の魂と共存して、その時代に存在したい」、という思いがあっての選択なのかもしれません。(基本的に芸術品とは、そういったものだし)
だとすると遺跡調査とは、孤独な魂の発掘を知らずに行っているのかもしれませんね。
私が考える「死の棺」は、現在の「色違いの棺桶」とは違い、誕生理由と存在理由もあるので役目を果たしますが、現在は生者が「色違いの棺桶」を喜んで持っている為、おかしな事になっています。(終活の一種だろうか?)
死の棺と唯一つ共通している事は、その勾玉は「魂の守護を願って制作されていない」って事だけです。(と同時に魂の解放も願っていないので、全くの別物ですけど…)
要は「魂の器」でも「死の棺」でも無く、ただの色違いの棺桶(抜け殻)と言うわけです。
厄除けにも成らず、魂の守護にも成らず、魂の解放にも成らない、ただの「物体」でしかないのです。
でも所有者が人生をかけて、それに意味を持たせて成長させていく事は、可能なのかもしれません。(それには「他者が換金の為に作った商品に、自分の人生をかけられる者」である必用がありますね…)
日増しに狂って行く人間社会ですが、こういった事を見ても当然のようにも思えます。
もっと別の「誰もが解りやすい前兆」も在るかと思いますので、ちょっとした異常を見て、その後の災厄を予測できるようになれたのなら、人間はより成長できるのだと思います。