作者の思考
財産と言う存在
2013年06月07日
人にとっての「財産と言う存在」を私なりに考えてみました。
まず、遥か古代では財を成す事が非常に困難だったようです。(なので格差が付きにくかったらしい)
なぜならば「貯蓄する事が困難だったから」と言う理由らしいです。(狩猟だったので、格差は無くても優劣はあったように思えます)
この事から考えると、ほぼ永久的に貯めておく事のできる存在…、それが財産となるわけですね。
私は古代人にとってそれは、「鉱物」のみだったのではと考えます。
石器時代から既に人は鉱物という財産を認識し、更に石器(道具)とする事で結果的に、その存在が昇華したのだと考えます。
なので道具=財産と言っても過言では無いかと思います。
よく考えてみれば、金(au)も鉱物であり、金本位制の原点が石器(道具)と言えるのかも。
石器時代では石器が財産であり、そこから時が流れ縄文時代では石器(道具)が共有された為、その上位とした翡翠が主な財産となった、そして金属の時代に入り銅→鉄→銀→金と言う具合に進んでいった気がします。(大雑把な例ですが…)
どれもが不滅の存在で、先に進むに連れて加工が容易になっているのも特徴のように思えます。
やはり個体能力である「加工力(生産力)」が、一部の財を求める者にとって面白くない事だったのだと感じます。(硬い鉱物も技能者も使いづらいし)
この頃から財産は「不滅ではあるけど量産が容易な存在」へと変遷していったのだと考えます。
そして現代では交換券である紙幣が主流となっています。(データに成りつつあるけど)
燃えて無くなる紙が財産…、「ここまで来たか人間!」って感じですね。
要するに「不滅を劣化させ量産を特化させた」って事ですね…、量産が無限となれば「不滅と一緒」と言った考えの基に成された進化(変化?)なのかもしれません。
しかし、ここでも印刷技術という能力が必用となっているので、完全に個体能力を無視する事は不可能のようです。(設備を整えてしまえば人は用済みに成りかねませんが…)
私はこれを財産と言えるのかは、ちょっと疑問であり「ほぼ財産」って感じかと思っています。
逆に鉱物は宝石として「不滅を特化させて量産を劣化させた」のだと思います。(不滅の特化は付加価値で高め、更により耐久力のある鉱物を求めた)
しかし、それは一部の宝石であり大部分の鉱物は、その存在自体を劣化させるようになっています。(人にとっての財産と成らず、道具にすら成っていない鉱物が増えた)
知的財産も基本的に道具であり、無形であるので餓鬼が使っても無くなる事はありません。(劣化はしますが)
私は基本的に物々交換が成り立たないのは「お互いに交換し得る存在を持ち合わせていないから」だと考えています。(「不便であるから」という事も大きな理由だと思っていますが)
この現代で、どれだけの人が物々交換が可能でしょうか…?、正直な話「やって出来ない事はない」というレベルなんだと思います。
それだけ個体としての生産力が劣化したし、交換する基準が複雑に成りすぎたのだと思います。
国で考えれば国民は財産と言います。
と言うことは国民は道具と言う事になるのでしょうか?
不滅では無いけれど、生まれてくるし権利は平等、個体差はそれで解消し税金を徴収する。
そう言ったシステムでは、道具として見ても不思議はないですね…。
まぁ、これは古から繋がる道理でもあるし、道具としなければ財産と成らないのであれば仕方のない現実なんだと思います。
人は財産を持ちたがり、持った者を嫌いながらも依存する、共有を求めて徒党を組む、この原始的な性はどうすれば乗り越えられるのでしょうか?(と言うか乗り越える必用があるのだろうか?)
結局、原始的な基準である色の判別も信号機などに応用されていますが、それでも事故は起こります。(デザインだけにしたら逆に慎重になるのかもしれませんね、渋滞するけど…)
誰にでも判る基準ですら完璧ではない、これにどれ程の期待ができるのでしょうか…?
ここら辺は難しいので良く分かりませんが、唯一だけ判ったのは道具から交換券へと向かっていった存在と、道具から創作へと向かっていった存在があるのだと言う事です。
どちらも財産の領域で在る事には間違いないのですが、役割が違っていて、この二つが上手いバランスにあると人の社会も正常に機能するように思えます。
そしてこの二つは対であり、離れる事のない現実だと言う事も判りました。
創作とは可能性を示す存在であり、方向を示す存在でもあります。
向かうべき場所が判ったのならば、全力で進んで行くことも出来るのだと思います。
※一応書いておきますが「財産」と「宝」は違いますので。
まず、遥か古代では財を成す事が非常に困難だったようです。(なので格差が付きにくかったらしい)
なぜならば「貯蓄する事が困難だったから」と言う理由らしいです。(狩猟だったので、格差は無くても優劣はあったように思えます)
この事から考えると、ほぼ永久的に貯めておく事のできる存在…、それが財産となるわけですね。
私は古代人にとってそれは、「鉱物」のみだったのではと考えます。
石器時代から既に人は鉱物という財産を認識し、更に石器(道具)とする事で結果的に、その存在が昇華したのだと考えます。
なので道具=財産と言っても過言では無いかと思います。
よく考えてみれば、金(au)も鉱物であり、金本位制の原点が石器(道具)と言えるのかも。
石器時代では石器が財産であり、そこから時が流れ縄文時代では石器(道具)が共有された為、その上位とした翡翠が主な財産となった、そして金属の時代に入り銅→鉄→銀→金と言う具合に進んでいった気がします。(大雑把な例ですが…)
どれもが不滅の存在で、先に進むに連れて加工が容易になっているのも特徴のように思えます。
やはり個体能力である「加工力(生産力)」が、一部の財を求める者にとって面白くない事だったのだと感じます。(硬い鉱物も技能者も使いづらいし)
この頃から財産は「不滅ではあるけど量産が容易な存在」へと変遷していったのだと考えます。
そして現代では交換券である紙幣が主流となっています。(データに成りつつあるけど)
燃えて無くなる紙が財産…、「ここまで来たか人間!」って感じですね。
要するに「不滅を劣化させ量産を特化させた」って事ですね…、量産が無限となれば「不滅と一緒」と言った考えの基に成された進化(変化?)なのかもしれません。
しかし、ここでも印刷技術という能力が必用となっているので、完全に個体能力を無視する事は不可能のようです。(設備を整えてしまえば人は用済みに成りかねませんが…)
私はこれを財産と言えるのかは、ちょっと疑問であり「ほぼ財産」って感じかと思っています。
逆に鉱物は宝石として「不滅を特化させて量産を劣化させた」のだと思います。(不滅の特化は付加価値で高め、更により耐久力のある鉱物を求めた)
しかし、それは一部の宝石であり大部分の鉱物は、その存在自体を劣化させるようになっています。(人にとっての財産と成らず、道具にすら成っていない鉱物が増えた)
知的財産も基本的に道具であり、無形であるので餓鬼が使っても無くなる事はありません。(劣化はしますが)
私は基本的に物々交換が成り立たないのは「お互いに交換し得る存在を持ち合わせていないから」だと考えています。(「不便であるから」という事も大きな理由だと思っていますが)
この現代で、どれだけの人が物々交換が可能でしょうか…?、正直な話「やって出来ない事はない」というレベルなんだと思います。
それだけ個体としての生産力が劣化したし、交換する基準が複雑に成りすぎたのだと思います。
国で考えれば国民は財産と言います。
と言うことは国民は道具と言う事になるのでしょうか?
不滅では無いけれど、生まれてくるし権利は平等、個体差はそれで解消し税金を徴収する。
そう言ったシステムでは、道具として見ても不思議はないですね…。
まぁ、これは古から繋がる道理でもあるし、道具としなければ財産と成らないのであれば仕方のない現実なんだと思います。
人は財産を持ちたがり、持った者を嫌いながらも依存する、共有を求めて徒党を組む、この原始的な性はどうすれば乗り越えられるのでしょうか?(と言うか乗り越える必用があるのだろうか?)
結局、原始的な基準である色の判別も信号機などに応用されていますが、それでも事故は起こります。(デザインだけにしたら逆に慎重になるのかもしれませんね、渋滞するけど…)
誰にでも判る基準ですら完璧ではない、これにどれ程の期待ができるのでしょうか…?
ここら辺は難しいので良く分かりませんが、唯一だけ判ったのは道具から交換券へと向かっていった存在と、道具から創作へと向かっていった存在があるのだと言う事です。
どちらも財産の領域で在る事には間違いないのですが、役割が違っていて、この二つが上手いバランスにあると人の社会も正常に機能するように思えます。
そしてこの二つは対であり、離れる事のない現実だと言う事も判りました。
創作とは可能性を示す存在であり、方向を示す存在でもあります。
向かうべき場所が判ったのならば、全力で進んで行くことも出来るのだと思います。
※一応書いておきますが「財産」と「宝」は違いますので。