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2014年12月30日
今月も、姫川をモニターしてきました。
12月は晴れた日が少なく、吹雪いたり、雨が降ったりと荒れた天気が続きました。
まち中にも雪が積もり何度か雪かきをしましたが、現在は殆ど溶けています。

今回は、大野周辺の報告です。
こちらに来ると一層雪が多くなり、姫川は雪に覆われています。
付近の橋にも多くの雪が残り、歩道は長靴がないと歩けない状態です。(強引に歩けはしますけど、ハマります(笑))
根知や小滝は、この何倍もの雪で閉ざされている事でしょう。





例年より早くに雪が降り、山々も少し早めの雪化粧となったようです。
この状態の姫川で遊ぶ人もおらず、動物も休息の季節に突入します。
海からの風も冷たく、天気が良くても長居はできません(笑)






堤防の強化によって舗装された道も、雪で見えなくなっていましたが、その道でクロスカントリーを楽しんだ人がいたようです。
真っ白な雪に、ず〜っと続く跡を見ていると、何故か清々しい気分になります。





この雪で交通機関が滞り、糸魚川を訪れるお客さんも少なかったです…。(毎年少ないのですが、今年は特に少なかったかと)
地球が「少しは休め」と、人間に警告しているのかもしれませんね。
冬眠できればどれだけ良いか…、そんな事を思ったりもします(笑)

それでは皆さん、良いお年を!
2014年12月27日
以前に底なる玉で勾玉を作った青年から、再び制作依頼を受けました。

青年が出会った奴奈川の底なる玉、色は強くありませんが良いヒスイです。
所々にヒスイ輝石が輝き、うっすらと全体が翠がかっています。
このタイプのヒスイはヒビや石目が多いのですが、粘りがあるので簡単には割れません。



致命的なヒビを避けてプレートを切り出し、奴奈川の勾玉を制作しました。
良く見ると淡い翠と白地が混ざり合っていて、初春に色づく雲や雪のようです。
しっかりした質なので加工しやすく、磨きやすかったので助かりました。(この時期の加工は、とても辛いので(笑))





ある程度の透明度もあり、ぼんやりと薄緑に透けます。
この柔らかな「ぼんやり感」が、厳しい時期には癒しになってくれます。
何かが宿っているような…、生きてさえいるような…、そんな景色を魅せてくれます。





年末の帰郷の際に、赤ちゃんが誕生した友人に贈るそうです。
若いのに良いセンスしてるなぁ〜、お守りを贈る意味を理解しているのでしょう。(そして私に依頼してくれて、ありがとう!)
その子の誕生を祝福し、健やかな成長の祈りを込めます。(どうか魂の腐った大人に、成りませんように)

委託加工は、普段の創作活動とは若干違った心持ちで制作していて、「他者のため前提の作品」として受けています。
なので、こういった人達の依頼を受ける事で、気分を新たにして「ものづくり」の喜びを共有する事ができます。

一番嫌なのは「業者の在庫のストック制作」であり、誰の為に作っているのか解らなくなるし、何の為に作っているのかも解らなくなります。(お金を得る為なのでしょうが…)

出来る限り、そういった制作は避けて、運転資金に困ったのなら、一定の期間に普通の労働をして「純粋な創作活動の領域」を守りたいと思っています。

こういった仕事を続けるには、どうやって生きたら良いのかを考えながら実践して、今後(後続)の参考になるような結果を示して行けたらと思います。(現在のヒスイ関係のジジイ達も、反面教師としては役立っていますが(笑))



気になっている人達にお知らせしますが、只今、オンファス輝石での奴奈川の勾玉(ヤマトタケル)と、彩雲ヒスイでの素戔鳴(雲蒸竜変)、国津神の新作(須世理毘売)の仕上げに入っています。

然るべき時にアップしますので、楽しみにしていて下さいね(笑)
2014年12月24日
光沢についての表現には、ガラス光沢・金属光沢・樹脂光沢・真珠光沢など、幾つもの表現法があるようです。

これらの例は、光沢として優秀であるのと同時に、他者に伝える際にも伝わりやすい基準なのでしょう。
しかし、それをヒスイにも当てはめるのは、どうにも不自然な気がします。

要はガラス光沢は「ガラスそのもの」の光沢であり、ヒスイの光沢ではありません。(鏡もガラスと銀で出来ていますし)
樹脂光沢も樹脂の光沢だし、金属光沢も金属の光沢です。
水晶(石英類)、琥珀、金・銀・銅・鉄などの金属ならば、これらは相応しい表現だと思います。(でも、ヒスイの表面をガラスでコーティングしたり、樹脂でコーティングするなら、この表現でも良いのでしょうけど…)

これらの表現を使っていると、それらの光沢が「ヒスイより上位の存在」と成ってしまうように思えます。
これはインドヒスイとか、オーストラリアヒスイとか、そういった言い方と良く似ていて、便乗している感が出ています。(正確に言えば、便乗の意味合いが違いますけど)

それがどうにも気に入らない(笑)
なので「ヒスイ光沢」と言った表現を、確立しようかと考えています。
既に蝋光沢などの表現があるのですが、それは原石での表現であり、磨き上げた作品には相応しくないと考えています。
磨かれたヒスイには独特の光沢があり、ガラスでも、鏡でも、樹脂でも、金属でもありません。
光沢を追求して行くと、それらに近くなっていきますが、それでも違った輝きを示します。(磨かれていないヒスイ輝石の輝きは「光沢ではなく煌めき」であり、それを雪や氷に例えるのは良いと考えます)

しかし、その微妙な違いを、どう説明して行くのかが課題になりそうです。(なかなかの難題ですが、本当にヒスイを好きな人になら伝わるかと思っています)
実際、素人の人達に解りやすく言うと「ガラス光沢+樹脂光沢」と言った表現にするのが、一番伝わりやすいのは事実です。(堅さと柔らかさを合わせ持つ光沢)

しかし、ヒスイは様々な色があり、質もそれぞれに違うので、全てが同じ光沢にはなりません。(光源によっても違いが出ます)
その幅を明確にした後に「ヒスイ光沢」とする事で、より伝わりやすい表現になるかと思います。(艶消しも含む)

ただ、普段使っている物(生活必需品)に例えた方が、他者に伝わりやすいって言うのが現実なんですよね…。
普段の生活で目にしている物で例えた方が、皆に伝えやすいのは当然ではあります。
だからと言って、ヒスイを生活必需品(道具)にするのも意味が在りません。
もっと別の、憧れの対象(ダイヤモンドみたいな)に成れば、独自の基準が出来るのでしょうけど…。
そう言った面では、ヒスイの色は様々な場面に例えとして出てきます。

こういった事からも「ヒスイが大好きな人に向けての表現法」とした方が、良いのでしょうね(笑)

更に、光沢よりも色彩の方が人間の印象に深く残る事も解りますので、「光沢+色彩」を基準としてヒスイ光沢を探求すれば、より確立しやすくなるかと考えています。(まぁ、私が生きている間に確立するとは思っていませんが(笑))

切磋琢磨の領域を追求すると、その奥深さに魅了されていく自分がいます。
きっと先人達が切り開いた道を辿っているのだろうな〜、と想いながら創作活動をしています(笑)
2014年12月17日
鉱物という存在を考える時、一番最初に頭に浮かんでくる疑問があります。

それは「何故、美しい形と魅力的な色を示しているのか?」という疑問です。
これが生命体ならば話は簡単で、子孫繁栄の為のアピールだったり、身を守る為の威嚇や擬態であったりします。
しかし鉱物の場合は、子孫繁栄のアピールも、身を守る為の威嚇や擬態も必用ではありません。

多分これは、人間にしか解らない(必用としない)魅力だと、言っても良いように思えます。

これはどういった事なのだろうか…?
多くの美しい鉱物は、人間に「何か」をアピールしているのだろうか?
人間(生物)は地球に適応する事で、様々な基礎ができた生命体ですが、その人間に対して地球のカケラである鉱物から、何かをアピールするなんて事が有り得るのだろうか?

それとも別の存在にアピールしている事を、人間が気が付いて適応したのだろうか?
この事が、どうにも解りません…。

更に言えば「原石のままで美しい鉱物」を魅力的だと感じる感覚は理解できますが、「加工する事で魅力を増す鉱物」は、一体何なのだろうか?
まるで人に加工される事を前提で、この世に誕生したかのような錯覚を与えます。(この事が原因で、マイナス方面へ進んでいる領域がある)

人間の勝手な錯覚ではありますが、バランスを間違えずに信念を持って取り組めば、鉱物が応えてくれているような感覚はあります。
どうにも不思議…、地球そのものが神の創った作品だったとして、それの真似事をする習性が、人間にはあるのだろうか?

現在、自分が仕事にしている領域の根幹は理解できても、原点を解明する事はできていません。
「鉱物を道具として使った行為からの派生」なのは理解しています、ですが何故、鉱物自体が初めから魅力的な姿であるのかも、その鉱物を加工して、より美しい存在に仕上げようとするのかも解りませんね…。

これは、鉱物の領域が解明できておらず、芸術の領域も解明されていないからなのでしょう。

この二つの疑問には、必ず接点があるように思えます。
もしかしたら、道具として使っていた際に、鉱物の意志(記憶)が人間に宿ったのかも?
鉱物は地球のカケラであり、誕生の記憶(想像力)を宿していても不思議ではありません。

それが永い年月で人間に宿り、やがて人のカケラ(芸術)となって人生を彩る、そんな事が在るようにも思えます。

人間は生物なので、元々アピールする存在ですが、それでは説明のつかない成長をしている者達がいます。(全ての芸術家が、そうではありませんが)
そういった人達を説明するのには、こういった感じの考え方が必用なのかもしれませんね…。

しかし、鉱物自体の美しい形と色彩の説明にはなっていません。
結局は、ハッキリした事は全く解らないんですよね(笑)

新しい作品を作りながら、そんな疑問が湧いてきました。
それは人間の原動力に感情が大きく関わっている証であり、その原点を求める過程に「行動という現象」があるようにも思えました。
感動し、行動し、理解しようと考える、その事で人間は成長して行くのかもしれませんね。(この事は、影響を受け、模倣し、やがて自身の作品を誕生させる流れと同じなのでしょう)

もし、その豊かな感情を、最初に鉱物が広げたのだとしたら、人間には欠かせない存在(人を構成する一部)だと言えるのでしょう。
2014年12月11日
ヒスイを加工する際に出る、ヒスイの粉末について書きます。

今回は、通常のヒスイとオンファス輝石の粉末を紹介したいと思います。
ヒスイの粉末は、現在ではヒスイネイルなどでも使われているようです。
ちなみに研磨剤としての使い道もあるので、無駄にはならない優秀な粉末です(笑)




白い粉末がヒスイの粉です。
白ヒスイに限らず、翠・緑でも、紫・青でも、灰・黒でも、粉末は基本的に白色です。
黒ヒスイは石墨が少し残る為、うっすらとグレーになりますが、黒ヒスイのみを大量に加工しない限り、白色になります。(殆どの石墨は水に流されます)
この粉末にも黒ヒスイの粉が入っていますが、肉眼では白色にしか見えません。




今度はオンファス輝石の粉末です。
この鉱物もヒスイではありますが、粉末は白色ではありません。
うっすらと緑色に染まっていて、どちらかと言うとこっちの粉末の方が「ヒスイの粉末」の印象を強く与えます(笑)
ひすいネイルなどには、こちらを使った方が雰囲気が出るような気がしますね…。
見せるだけでのストックやブレンドしても良いかも、でもちゃんと説明は必用でしょう。(ヒスイの中の「オンファス輝石の粉末です」って事を)
でも色を付けるので関係ないかなぁ…、「ヒスイの粉を使っている」って事が売りなんだろうし。




ヒスイの粉を集める際に注意する事は、「どんな工具で加工したヒスイの粉末なのか」と言う事です。
これは「純度」に大きく関わってきて、DCグラインダーなどで削るとグラインダーの粉まで入ってしまいます。(オンファス輝石の粉末に似た緑色の粉末になりますが、粒の荒さが目立ちます)
金剛砂で削っても金剛砂の粉が入り、ダークグレーの粉末になります。
バレルなどに使うチプトン(カーボランダム)も、ヒスイと同時にチプトン自体も削れるので粉末はグレーになります。
全て、削る素材の色が付く事を憶えていて下さい。(ヒスイの粉末は基本、白色なので)

理想的なのは「ダイヤモンドヤスリで削ったヒスイの粉末」です。(ペーパーのヤスリでは駄目)
それも新しいダイヤモンドヤスリでは無く、ある程度使用したものが良いです。
新しいのは、どうしても表面の不純物が剥がれて混ざってしまいますので、十分に使い込んでいる工具が理想的です。(350〜400番が良いかと)

それと同時に「ヒスイのみを加工している機械工具から集める事」も重要です。
粉末自体の蓄積は多くなく、一回の加工で集められる粉末は僅かなものです。
一定の期間、ヒスイを加工し続けた機械でなければ大量には集まりません。
更に掃除をしていない方が良いのでしょうが、機械の劣化によって錆なども出ますので、研磨水や粉が鉄製ではない容器に集まる方が良いでしょう。

それを考えると粉末を集める為に、そこまでする者はいないでしょうね(笑)
しかし、それは機械工具を知らないだけで、それを兼ねている機械は存在します。(粉末を集める事を考えての、仕様ではありませんが(笑))

これは工具の劣化による錆などを防ぐ理由からの仕様であり、その機械工具でヒスイのみを加工し続ければ、ヒスイのみの高純度の粉末が勝手に集まります。

今回のオンファス輝石は、その機械は使用せずに、別の機械を洗浄してから加工した作品の粉末です。
なので、もしオンファス輝石の粉末が必用となれば、専用の機械を揃えた方が効率が良いでしょう。

何度も書きますが、粉末は簡単には溜まりませんので、同じ条件で加工している者から集める必用があります。(いないけどね(笑))
ただし、「粉末を集める為だけにヒスイを削って消費する」、という方法にも繋がる恐れがあるので注意が必用です。
その手法は、あまり褒められた方法ではないので避けるべきでしょう。(そこまで需要が有ればの話ですけどね)

一応、書きますが、純度が高いと言っても100%には成らないかと思います。
それは埃とか、水に含まれる石灰成分なども、ほんの僅かに残ると考えるからです。

まぁ、それでもかなりの高純度である事は、間違いないでしょう(笑)
医療に使うわけでも無く、デリケートな肌に使うわけでもないので、そこまで気にしなくても良いのかもしれません。

それでも身体の一部である爪を彩るので、なるべくなら不純物は少ない方が安全でしょう。(多分)
研磨剤としての使用でも、やはり不純物が無い方が使い易く、同じ条件(同じ行程)で毎回使用できます。

こういった粉末も正しく利用できたなら、活用としては良い方法だと思います。(正しい利用が大原則)
2014年12月07日
提出した河川モニターの返答を貰いましたので、お知らせします。

根知付近の返答です。






「根知川の合流部から上流で作業をしているのは、寺島地先で低水護岸工事をしている石張護岸工の材料となる玉石の採取を行っています。姫川は、急流河川ですからコンクリートなどの摩耗が激しいため、硬度の有る姫川産の玉石を高水敷を掘って集めています。たま、根小屋地先の高水敷でゲートボール場を作りましたが、歳月が経って今では、ススキ野原になってしまいました。
 自然に帰った現状の環境では、獣たちのアウェーでしょうか?河川利用者に危害を及ぼす様であれば、「いのしし 出没注意!」の看板を設置致します。
 先月の中頃に、須沢地先で川の中州に取り残された男性が渡河出来ずに救助を求めた事案があった事から、「注意しましょう 姫川は、急な増水や川の流れが変わります」の注意喚起の看板を設置いたしました。河川の使用形態の基本は、自由使用ですので使用に当たっては個々に注意して下さいと広報しました。堤防の天端は、雨水の浸透により堤体の弱体化を防止するため舗装している箇所が有ります。
 道路交通法の及ぶ道路では有りません。河川管理施設の保全上の見地から、および、安全を考慮して一般車両交通の規制をしています。」


との事でした。

採取している玉石にはヒスイも含まれているのかなぁ…、良く聞く話では工事中に出てくるヒスイは工事関係者が持ち帰って売り払うようです。
地元の建設会社は、そのやり方でかなり儲けたと聞いています。
コンクリートと一緒に固められるのと、勝手に換金されるのと、どちらが良いのか解りませんね…。
まぁ、ヒスイはそうであっても、それ以外の玉と称させる鉱物(軟玉など)も堅牢なので、護岸には良いのかもしれません。
鉱物の種類が豊富な、姫川ならではの工事のようにも思えます。(良くも悪くも)

あの広い河川敷はゲートボール場の成れの果てだったんですね。(キャンプ場の跡かと思ってた)
あそこに限らず、青海の住宅地でも夜にイノシシが出るようなので、特に看板は必用ないかもしれません。
これはイノシシやクマなどが、人間の共同幻想(社会)に目覚めて近づいているのでは無く、原始的な本能である「略奪」の元で、効率を感じ取り人間の作物を漁っている訳です。(先に奪ったのは人間なのでしょうけどね…)
この距離はだんだんと近くなっていますので、本能から一定の距離を置いた人間(知性のある存在)は、今後は特に気を付けて行かなければなりません。

中州に取り残された男性、姫川は初心者だったのかな…。
鉱物探索だったのか、川釣りだったのかは分かりませんが、「ミイラとりがミイラになる」という言葉が浮かんできます(笑)
自然を楽しむなら、もっと相応の慎重さが必用ですね。(弱いのだから)

あの舗装された道は、強化された堤防だったんですね。
河口付近から大野付近まである川沿いの道も、道を兼ねた堤防だったのか…。(道であっても道路では無い)
自転車で走るのには最高ですが、ガードレールが無いので自己管理の元での活用が必用ですね。
あの堤防の道が根知〜河口まで繋がると面白いのに、と思うのは私だけでしょうか(笑)


気温は一気に寒くなり、モニターも大変になってきそうです。
雪が降れば足場が悪くなるので、事故などに気を付けながら冬もモニターして行こうと思います。(既に大雪ですが(笑))
2014年12月05日
以前から気になっていたヒスイ(オンファス輝石)で、勾玉制作を試してみました。

海岸で出会ったヒスイ(オンファス輝石)で、この魅力的な紋様を活かそうと加工しました。
その前に少し気になったのは、俗に言う「粘り」の有無で、これがないと加工中に割れてしまう恐れがあります。(鉱物を加工するのに絶対必要な条件です)
表面には幾つもの小さな割れ目が見えたので、気になってはいました…。




その心配は現実となり、なるべく避けた筈の致命的なヒビにより、破断してしまいました。
紋様を重視して「確認していた避けるべきレベルのヒビ」を避けず、押し通した結果がこれです…。
この事でも分かるように、致命的なヒビと言うのは加工中に割れます。
久々の徒労感、半端じゃない喪失感…、でもそれは私にとって「再び前へ進む情熱」へと変わります。(こういった事で、私は情熱に火がつくんですよね(笑))





すぐに新たなヒスイ(オンファス輝石)の加工に入りました。
先程の失敗に学び、表面の割れ目が無く練られた素材を選びました。
そのまま加工に入ったので転石の画像を撮っておらず、切断した欠片を掲載します(笑)
先程のより色が濃く光沢も良いですが、面白い紋様は少な目になってしまいました…。




しかし、加工する事で解るのですが、段違いの堅牢感と重量、純度の高さがハッキリと出ます。
この青銅色の肌はキメが非常に細かく、ヒスイ輝石らしき光も所々でキラキラと輝きます。
古代を想わせる色彩が美しく、個人的に魅力を感じていたので予想通りの姿になり満足です。
削り込んでいくと魅力的な紋様も出てきて、自分の中で創作意欲が高まっていくのを感じました。





不思議な事に、この勾玉を造形している最中に「ヤマトタケル」の名が、頭に浮かんできました。
私の中の古代のイメージが、あの「英雄と呼ばれている存在」を想わせたのでしょう。
古代らしさを強調する為のカタチと丸みを重視して「縦方向から見る勾玉の特徴」に気を付けて加工しました。
ちなみに異玉・生玉・神玉は、横方向を重視したデザインにしています。(大珠・勾玉の縦横兼用の柔軟性を、取り入れて未来に繋いだスタイルです)





悩むのは艶出しの必要性で、触り心地や風合いを考えると艶消しの方が古代っぽく感じます。
しかし、手抜きにも思える(思われる)し、現代で磨を抜かしてしまうと文字通り「間抜け」になりますね…。(正確に言えば「磨き」と「艶出し」は違うので、艶消しが手抜きと言う訳ではないのですが、解り難い基準なのは確かです)
磨きには曲線を整える行程も含むので、より完成度を高めるには磨きが必用でしょう。(私の研磨の場合は)
この触り心地は個人的な趣味として楽しんで、この奴奈川の勾玉「ヤマトタケル」は艶出しする(磨く)事にしました。

その話は、後編でお知らせします。
楽しみにしていて下さい。(気になる人がいればだけどね(笑))
2014年12月01日
前回に制作した月読と同じヒスイで、天照大御神「陽炎」を制作しました。

今回のテーマである陽炎は、この彩雲のようなヒスイで制作するのにピッタリでした。
白地も、透けている模様と白に染まっている模様とが混ざり合い、神秘的な景色となっています。
そこに溶け合っている翠は美しく、見る度に表情が変わっていくかのようです。




所々に見られる石目やヒビは、けして魅力を損なう存在では無く、大地の軌跡を宿しています。
削りの行程を耐えた存在だけあり、その堅牢さとバランスは素晴らしいの一言です。
翠と白が揺らめき、光さえも微睡んでしまいそうな模様を大切に、天照大御神を仕上げました。




こちら側には仮面を想わせるヒビがあり、濃い緑も燃え上がるように入っています。
シャープさを残しつつも柔らかな曲線をとり、神玉のデザインを重視して加工しました。
こちらのヒビは、特に「秘めたる美」にするべく、丁寧に研磨しています。




前回同様、透明度が抜群なので厚さ13mmでも簡単に光を透します。
それと同時に石目が龍脈の様に浮き上がり、まさに生命が燃え上がる陽炎そのものです。
コンセプト通り「揺らめきながら煌めく太陽」に、仕上げられたと思います。




この作品は闇陽炎と対になっている存在で、精神的な強さを重視したのが闇陽炎であり、肉体的な活力を重視したのが今回の陽炎です。
沸き上がる生命力を表現して、周りの景色をも歪ませる程の熱気を放つ活力を込めています。

そもそもに自然が力を宿した糸魚川のヒスイ、それと私が出会い、テーマとコンセプトを込めて加工しているので、自然とのコラボと言っても過言では無いのでしょう(笑)
そう考えると、とても嬉しくなります。(生きてる意味を感じます)
今後も、このスタイルで生きて行けたのなら、道を踏み外す事なく未来に繋げて行けるように感じています。(難しいバランスで成り立つ領域だと心底思う…)

共に同じ景色を見る事のできる仲間の協力が、どうしても必用となりますね…。
その人達と出会えるのか、その縁が一番重要な事に成ってくるのだと認識しています。(頑張ろっと!)


さて、これで残すは素戔鳴のみ、来年にはカタチにしたいと思います。
このヒスイで大サイズの三貴子が揃えば、かなり見応えがあるものになるかと思います。
でも揃ったら一式仕様になるかも…、そしたらかなり高額になりますね…。

とりあえずは寒く厳しい冬が始まるので、体調に気を付けながら創作活動を進めて行こうかと思います。
2014年11月27日
今月も、姫川をモニターしてきました。
連休初日は天気が良く、11月とは思えないくらい強い日光が降りそそいでいました。
貴重な一日なので、大切に過ごしたいと思います。

今回は、河口周辺の報告です。
若干、雨が多かった月でしたが、水量は多くはなく澄んだ水が流れていました。
この季節になると海釣りを楽しむ人達で、糸魚川の浜辺は賑わいます。(遠くて確認しづらいですが、黒い点に見えるのが釣り人です)
頻繁に移動していないので、ヒスイ探しの人達ではない事が分かります。
ちなみに両者が出会うと、お互いが邪魔になるので距離を置いて、それぞれに楽しむのが暗黙のルールとなっています(笑)



川には鮭の亡骸が多数あり、「強者どもが夢の跡」的なものを感じました…。


付近の橋の一カ所に、ロープと縄梯子がありました。
これは何の為にあるのだろうか?
私には盗人連中の残骸にしか見えないのですが…。





この看板も古いので、新しくした方が良いかと感じました。
また、「歴史とロマンの古里を守る」のなら、もっと独自の教育が必用だと思います。(糸魚川全体に歴史とロマンの教育が必用かと)




少し上がった公園付近は、サイクリングやラジコンなどを楽しむ人達がいました。
以前から気になっているのですが、この「芝生を生やしている区画」は、何に使うのでしょうか?
ここは広い河川敷なので、様々な事に活用できるのだと感じます。




公園には遊びに来ている家族がいて、チビッコと一緒に小春日和を楽しんでいました。
私も父と公園でおにぎりを食べて、モニターついでの河原遊びを終えました(笑)



これから厳しい冬に入ります。(暦ではもう冬ですが…)
海岸付近では風が強くなり、こういった景色も見られなくなるでしょう。

モニターするにも報告する事が無くなる季節かと思いますが、冬の糸魚川の状態を知ってもらうには丁度良い機会なのかもしれません。(一般の人に)
その事で糸魚川の景色を好きになってくれたなら、移り住んだ私も嬉しく思います。(冬の日本海は演歌が似合います(笑))




話は変わりますがこの日の夜、糸魚川で震度5弱の地震がありました。
国生みが成されているので地震が多発するのは当然なのですが、久しぶりに「純粋な力」を体感して手が震えましたね…。
幸いに私の周りでは被害はありませんでしたが、改めて「地球あっての生物である事」と「地球による神生の訪れが近い事」を再認識しました。

人間(現代の生物)が恐竜に成り代わって誕生したように、天孫降臨(隕石落下や噴火)により、国譲り(破壊と再生)が行われるのも、そう遠い未来では無いのかも…。

特に我々世代には、共同幻想(人間社会)だけを見ていないで、現実にも目を向けて「地球と共に生きる事」を心がけなる責任が、必用となっているように思えます。

未来の地球に人類を繋げる「明確な意志」を確立しなければ、きっと存在理由は失われ、原始の力によって消滅して行くのでしょう。
もう生存本能だけでは人類を繋げる理由には成らず、新たな意志を地球に示さなくては共に生きる意味を失い続けて、人であった事すら忘れて生きる生物に成り下がって行くでしょう。

でも、その前に他界していく者の多くは「死なば諸共」って思っているのだと感じます。(特にジジイは)
これが「現時点での人間社会の総意」なのでしょうが、そうでない者の意志は社会には反映されないのだろうか?(少数だから難しいのかな…?)

そういった事も近い将来に、ハッキリとした形で表面化してくるようにも思えます。
2014年11月17日
私達が普段に行っている仕事には、常に正当性が求められています。
要はそれが免罪符であり、稼ぐ事を許されている理由でもあるわけです。

例えば企業で言えば、「雇用」がそれに当たります。
人間社会に必用とされていて、皆が共有できる存在理由(利益)になっています。(納税とかも)

もう一つは消費者の「需要」で、例えば「その領域の本物」を大量生産や多角経営で潰したとしても、現在の人間社会では許されています。

では、もしその免罪符が成り立たなくなったら、どうなるのでしょうか…?

そうなった場合、まず許されていた今までの稼ぎ方が罪へと変貌します。
要は正当性を無くした稼ぎ方は「誰も赦す事の無い罪と同じ」って事です。

で…、今の世の中に正当性が、どれほど在るのでしょうか?
命の奪い合い(略奪)と言う生物の本能から逃げ、その領域を可能な限り薄める事で人類は社会を作ったのに、その誕生理由を現代人は全く認識できていません。

昔から、罪には罰が付きものです。(因果応報ってやつですね)
間違いなく、その行為の罰は受ける事になるでしょう。

それが人間による裁きなのか、別の「何か」によるものなのかで、結末は大きく変わってくるでしょうね…。
願うのならば、自分のケツは自分で拭いてほしいものです。

間違いなく言える事は、今の状態は「本物を潰してきた結果」だと言う事です。
それをどう償うのか、それが現代社会の課題なのだと考えます。

まぁ、免罪符の名の下で、さんざん本物を潰しておいて、今になって「継続できません」なんて意味不明なんですよね(笑)
もはや利益で成り立っているのか、銀行の金で成り立っているのか、訳が分からない。
いつまでも、その罪が赦されていく世の中だとは思わないで頂きたいものです。

最終的には「稼いだお金をどう使うのか」、これに正当性が無ければ魂は腐敗し続けていきますので、ゆめゆめ忘れないで下さい。

大昔のように、恐竜などの生物に喰われまくって恐怖を再び刷り込まれないと、人間社会の根幹は再認識されないのかもしれませんけどね…。

現実問題として、「成長に失敗した者に若者を育てられる道理は無く」、それと同時に「信念がなく真面目でもない若者を育てる道理も無い」わけです…。

この現状は、一体何なのだろうか?


ただ人類は、その領域からどうにか逸脱しようと、成長してきたようにも思えます。(気付いてない人が大勢いるだけで)
生物の本質からの脱却、それは人間が生物で無くなる事に繋がるのだろうか?
でも生存競争なるものを完全に排除する事が、人類の理想であるとも考えられない…。

不安定な魂の中に「可能性」と「野蛮性」を合わせ持つ、人間とは面白い存在だと改めて感じます。(私も、その生命の一つなんですけどね(笑))

古い者から新しい者へと、その意志が強く成長して行けば、やがては新しいバランスが誕生するのだと考えます。
2014年11月13日
今回は、月読命「翠月」の四作目を紹介します。

透明度が高く、白雲のような紋様のあるヒスイプレートから制作しました。
淡く明るい翠が溶け合うように流れ、常に濡れているかのような肌は自然光を透します。
若干の石目とヒビ(秘美)もあり、自然そのままの景色を楽しめます。
かなり昔のヒスイなので値段は高額でしたが、その分、美しく仕上げる事ができました。



片側に多くの翠が流れ、白銀の月が少しずつ翠に染まっていく姿を映しているようです。
練られたヒスイだった事もあり、非常に硬く造形に苦労しましたが艶は出しやすかったです。
厚さを13mmにして曲線をとり、ふっくらとした仕上がりを目指しました。
しかし、勾玉と違い曲線のみを重視しすぎるとデザイン(姿形)が崩れるので、そのバランスがとても重要になります。(デザインは曲線と直線の二つで成り立ちます)
彩雲のような肌により、月読の美しさが最大限に引き出された作品となりました。




非常に透明度が高いヒスイなので、13mmの厚さでも光を容易に透します。
柔らかい翠は芽吹きを想わせて、苦難に耐えて成長する者を優しく包み込んでくれます。
雪のように繊細に見えるのに、悠久の時から繋がる不滅の存在、このギャップが人の心を魅了する一つの要因なのでしょう。




このタイプの糸魚川ヒスイを加工するのは、とても久しぶりです。
発色もさることながら、白雲のような紋様が最大の魅力と言えるヒスイだと思います。
今後も、なかなか入手できないヒスイなので、欠片も大切に加工したいと思います。

予定では同じ大サイズの天照と素戔鳴を制作し、三貴子を揃えようかと考えいます(笑)
プレートは大きくないのでヒビも入ってきますが、「秘めたる美」として表現できるよう努力したいと思います。

きっと「ヒビをさけて小〜中サイズで作れば?」、と思う人もいるのでしょう。
でも、このヒスイは「魂の依代」の領域を強く表現すべきレベルなので、より作品力を強めた存在として現代に誕生させたいと考えます。

ここは私の芸術への想いを、最後まで通させて頂きたいと思います。(今更ながら、一方通行ですみません(笑))
2014年11月10日
「神」と呼んでいる存在は、人(国)それぞれに違います。
前に「言葉の数だけ神が存在している」と書きましたが、それと似た事を書きたいと思います。

まず、日本で言う神(八百万の神)の本質は「自然」です。
そして、仏教でいう仏の本質は「道徳」なのでしょう。
一神教の神の本質とは「真理」を言っているのだと考えます。

そう考えると、各々の言っている事は当然なんですよね(笑)
自然は八百万あるし、道徳は人としての尊厳だし、真理は一つしかありません。(ただ、人間の考える真理とは、人間の都合で変わっていくで必ず敵対します)
まぁ、真理とは「全てを否定すると同時に、全てを肯定する表裏一体の存在」なので当然なのですが…。

これらの事を、全て「神という存在」に兼ねさせるから問題が起きるのではないでしょうか?
なぜならば、「現実逃避の究極体である人間」の考える神を完成させた場合、「現実逃避の究極体の完成体」と成ってしまいます。

そうなると全く地に足を着けず、現実を見ずに幻想を追う事になります。
そして何よりも、「完成された存在は終わりを迎える」って現実が在ります。
完成させる事で、人間による神が終焉を迎えるわけですね…。(正確には神と言う言葉が消滅する)

そんな世界になったら、人間は人間として存在していけるのでしょうか?
現実だけを見続けて生きなければならない…、それは人間の成長と正反対の領域です。
他の動物とは違い、現実(本能)から距離を置く事で進化してきのが人間なのだから、幻想は人間に無くては成らない領域なわけです。

だからと言って、幻想のみを求めていっても破滅するんですよね…。
要は完成させない程度の幻想(完成させない程度の現実)が大切なわけで、これは完成という領域のない芸術と同じだと言えます。

ただ、人間という領域を終わらせたく無いのなら完成させない方が良いのですが、人として進化するのならば終わらせる必用があるのだろうか?
これは解りませんね…、でも終わらせなくても成長は可能だと、私は信じています。(って言うか確信しています)

人間という存在は、必ず誕生理由を宿して生まれてくると考えています。
後は存在理由と出会うのみ、それを探すのが試練であり、成長であり、魂の研鑽なのだと思います。
この事を理解していないと、「ただ老けていった者」となり、認識した頃には「時既に遅し」って状態になります。(もう成っている輩はいますが…)

そして、これらを体験する事により、「人が神と呼んでいる存在」を身近に感じる事ができます。
この事で解るのは、「個々で地球と宇宙を感じる事が可能」と言う事です。(宇宙に出なくても)

現実の神と幻想の神、この二つのバランスが、人類の神を成り立たせているのだと感じます。
2014年11月07日
以前に糸魚川で伊邪那岐「萌芽」-壱-を、購入された方と再会しました。
この縁から、年齢が近い事もあり友人としてメールなどをしています。

前回は時間が無く糸魚川を案内できませんでしたが、今回は私の好きな場所へ案内できました。
いつも同じ場所への案内ですが、友人にとっては初めての場所であり、季節によっても景色が変わるので私は全く飽きません。(いつ来ても良い所です)

まずは小滝ヒスイ峡へ案内します。(ここは糸魚川へ来たら、絶対に訪れるべき聖地だと私は思っています)
連休の天気は雨の予報でしたが、友人が糸魚川へ着くと雨がやみ、少しの晴れ間も見られました。
これはチャンスと思い、着いた早々に小滝ヒスイ峡へ案内しました。
運が良いと言うのか、必然だったと言うのか…、天に感謝です!
午前まで雨が降っていた事もあってか、勾玉の池の水量が多めで、そこから川へ繋がる水路はちょっとした滝になっています(笑)
水に触れると冷たく、非常に澄んだ水はヒスイの聖地を絶えず潤しています。





川の水量自体は多く無く、秋の明星山が紅葉していて、とても綺麗でした。
夏の頃とは違う景色、何度見ても飽きないのは日本に四季があるからなのでしょうね。
遊歩道を歩きながら保護区域にあるヒスイ岩石を説明して、秋の散歩を堪能しました(笑)
天気の影響なのか観光のお客さんは少なく、贅沢な環境で友人に案内できて良かったです。






次は高浪の池へ向かいます。
小滝ヒスイ峡へ向かう道の途中にあるので、セットとして案内できます。
この時期の高浪の池も素晴らしく、風で水面が揺れる景色は巨大魚の影を想わせます(笑)
周りを歩き林のある付近を見ると、木々により風が防がれ水面は周りの紅葉を映します。
ちょっとした展望台へ続く道があったので、友人と上がってみました。
思いの外、体力を使う道でしたが景色は最高、天気が良ければ昼食でも食べたい場所です。
ここにはコンクリート製の台や椅子があるのですが、地盤がゆるいのか苔による影響なのか、幾つか傾いていたのが印象的でした(笑)





この日は、ここまでとして明日は不動滝を案内する事にしました。
夜は友人と一緒に夕食をとり、色々な話をして楽しみました。(会うのが二度目とは思えない程の既視感、とても不思議です)


次の日も雨は降らず、少し青空も見えました。(良かった〜)
去年に作っていた道と駐車場が、ようやく完成したようです。
以前は、駐車場になっている場所に、ストーンヘンジっぽいのがあったのですが…。
でもこれで、お客さん来やすくなったから良いのでしょうね。(外枠として使われているのは、ストーンヘンジの忘れ形見のような気が…(笑))
ここも紅葉が綺麗で、より神秘的な場所に映ります。





石の鳥居と不動滝、何度見ても素晴らしい…、くぐると小人になった錯覚を楽しめます。
糸滝にも勢いがあり、紅葉の隙間から見られるのも秋ならではの景色でしょう。




水神様の祠です、新しくなったかと思っていたのですが以前のままでした。(良かった)
この前に見た時は、掃除して表面が綺麗になっていたんだと思います。(あまりにピカピカだったので、違和感があったのかと…)
この時期の不動滝も迫力があり、水龍を想わせる姿です。
友人と水しぶきを浴びながら滝壺へ向かい、身体と作品を水で清めて自然の気を宿します。
私はこういった事で創作意欲を高めて、自身の作品に取り組んでいます。(工房にこもって作るばかりでは、依代としての作品は誕生しませんので)
友人もこの場所の素晴らしさに感動して、目に見えない「何か」を感じてくれたようです。




新しい駐車場ができる前まで入口となっていた、大きな石の鳥居です。
これで「タカオカミノカミ」と読みます、漢字が難しすぎて普通では読めませんが新たに看板が出来たので、そこにルビをうって紹介されています。(滝の近くにある祠は、この神様を祀っています)
ここからも降りる事は可能ですが、管理人のお爺さんは新しい道から行くのを勧めています(笑)
ちなみに、お爺さんと色々と話して「管理人の成り手がいない事」を知りました。
誰でも良いようなので、本気で管理人に成ろうかなと考え中です(笑)
一週間に1〜2回くらいならできるでしょう、でもカメムシとウルルとの闘いは熾烈を極めそうですが…(笑)
もし管理小屋で簡易的な加工が許されるのならば、創作活動として最高な気がしますね…。(もちろん清掃や案内が基本ですが)




最後に姫川へ行って、ちょっとした鉱物探索を二人でしました。
「姫川がどういった川なのかも見ておきたい」との事で、河口の安全な場所を案内しました。
途中に面白いお爺さんがいて、ダイヤモンドヤスリで勾玉を加工しながら探していました。
話してみると私を知っていて、鉱物の話や加工の話で盛り上がりました。
地元のお爺さんにしては、「面白い楽しみを方してるなぁ〜」と感じました。(人力での加工なので、なかなかの強者です(笑))



少し雨が当たってきたので、昼食タイムに入りました。
友人が気になっていた、「ブラック焼きそば」なる料理がある店へ行きました。
私は食べた事がないので不安でしが、友人が食べたところ美味しかったようです(笑)
その後は天津神社へ参拝に行き、再び訪れる事を約束して案内を終えました。

今回も楽しい時間が過ごせました!
ほんの少しですが、糸魚川の魅力を紹介できて良かったです。
また来年にお会いしましょう!、それまではお互いに頑張りましょうね。


ちなみに糸魚川は、一般的に言うパワースポットとは少し違います。
なので糸魚川ヒスイも、パワーストーンと呼ぶのは適切ではありません。
パワー(力)とう言うよりは、ソウル(魂)であり、もっと根深い存在が根幹に在ります。(どうしても横文字で称するのなら、ソウルストーンでしょうね…)

糸魚川ヒスイは「自然そのもの」を神としている日本の核であり、それらと共生する意志と知恵が刻まれてきた存在と言えるでしょう。
そういった事を理解している人達と、今後も糸魚川の素晴らしい場所を巡りたいと思います。
2014年11月03日
今回は、オーダーで制作した翠ヒスイのペンダントを紹介します。

以前、友人のオーダーで勾玉を加工した際、僅かに残った翠のカケラを加工しました。
非常に良質のヒスイなので、カケラでも大切に加工すると素晴らしい作品に仕上がります。



お守りとして制作した勾玉は「自身の聖域に祀る事が望ましい」と助言した事により、普段使いも出来て、更にその勾玉に繋がる同じ母石で、ペンダントを制作する事になりました。
勾玉を常に身に付けてるのも良いのですが、こういった方法でも神器と繋がる事が可能です。



夫婦お揃いのペンダントで、柔らかな翠がシルバーに際立ちます。
丸く大きい方が旦那さんで、細長い方は奥さん用に仕上げました。
枠に合わせてルースを研磨するので、何度も合わせながら加工します。
磨きの行程も考えて、削りの行程では少しきつめにしておくのがポイントです。




どうしても翠の部分にはヒビが入る事が多く、面積が大きい友人用は避ける事が出来ませんでした…。
しかし、それも天然の景色であり、それを欠点と見る友人でもないので、あまり関係なかったです(笑)
それに友人用は裏が空いていない仕様なので、透過によってヒビが目立つ事もありません。
奥さん用は細長いので、上手くヒビを避けて仕上げる事ができました。
こっちはインクリュージョンが少し入って、光を受けると幻想的に透けます。





友人自身が出会ったヒスイでの作品なので、とても喜んでくれました。
このレベルのヒスイと現実に出会っている人もいますので、現在でも糸魚川の海や川には可能性はあります。(諦めず頑張って下さい!)

ルールを守って探すのなら誰も嫌ったりはしませんので、糸魚川へ遊びに来る切欠にはなるかと思います。
逆に赤珊瑚を盗っている連中と同レベルの輩は、奴奈川の地(血)に嫌われますので注意しましょう。(それは必ず災厄となって返ってきますので…)
2014年10月31日
今月も、姫川をモニターしてきました。
だいぶ冷え込むようになってきましたが、この日はとても良い日和でした。(風は冷たかったです)

今回は、根知周辺の報告です。
この場所は前回に引き続き、河川工事をしているようです。
ここの河川敷はとても広いので、将来的には何かに活用するのだろうか?
活用するのであれば、その際にはイノシシなどに注意する看板が必用かと思われます。
度々この付近の河川を、でかいイノシシがうろついているのを見かけます。





工事の邪魔になるのもいけないので、前から気になっていた場所へ向かいました。
川沿いを少しだけ上流へ向かうと、土手に階段が現れます。(以前はありませんでした)
ここも大水により削られて断崖となっていて、上から見たら分からないので注意が必要です。
簡易の看板には、「姫川の水量の変化に注意しよう」的な事が書いてあります。





階段を上って土手に上がってみると、舗装された道がありました。
左側は途中から砂利になっていて、更に進むと行き止まりになります。(工事している場所の付近に出ます)




今度は逆方向へ進んで行くと、けっこう長い道だと分かります。
土手の上からは、姫川をある程度見通す事ができます。(足下には注意が必要)
しばらく歩くと、こっちも行き止まりになっています。
ここは鎖で封鎖されていて、そこに辛うじて読める程度の「立入禁止」の警告が見られます。(ボロボロになっています)
この場所へ来て、初めて立入禁止だった事がわかります…。





この道はどういった目的のものなのでしょうか?(河川工事専用の道?)
最終的には、さっきの工事している場所に繋がるのだろうか?
もし、厳しく立ち入りを禁止するのであれば、土手の道にも看板が必用かと思います。
場所的には、とても良い所なので、一般の人も活用できる場所になれば良いかと感じました。(近くに線路があるので、鉄道ファンなどの撮影場所には良い気がしました)
ただ、川の逆側は農道なので、車で来ると農家さんの邪魔になるかと思います。
現段階では、近づかない方が無難なようです。(立入禁止だし)



その近くに「河川における行為の規制」の看板があります。
こういった看板があると言う事は、ここに来る人もいるって事なのかな…?(人の来ない所に、看板は立てないだろうし)




今回は、何処にも繋がらない不思議な道と出会いました(笑)
2014年10月29日
今回は、神緑のストラップの二点を紹介します。

高浪の池を想わせる色合いの翡翠で、神緑のストラップを制作しました。
非常に良質の翡翠で、その質感は「深緑に染まった氷」のようです。
このタイプの翡翠はヒビが多く、そのヒビにそって切断して作品を制作します。
今回は以前に制作した作品よりも、大きく切り出す事ができた分、値段も高めとなっています。
このレベルは川や海で出会える確立が非常に低く、原石での販売も見かけません。
糸魚川翡翠らしい、品格のある貴重な神緑の翡翠です。





透明度が非常に高く、弱い光源でも透けて輝きます。
ゼリーのような柔らかい透過が魅力的で、まるで水面を眺めているようです。




こちらも同じ翡翠で制作しました。
一色タイプではありますが、透明度が高い良質の翡翠です。
良く見ると濃淡があり、美しい自然の景色が映し出されています。
光沢も抜群で、反射と透過のバランスがとても良い理想的な翡翠です。
プレートになっていた厚さで曲線を出し、滑らかな仕上がりになっています。
二〜三等分にして品数を増やす方法もありますが、せっかく致命的なヒビのない大きさを切り出せたので、そのままを加工してストラップにしました。





透明度も抜群で、光を受けると生命の象徴色で溢れます。
こちらの作品の方が発色が強く、翠と緑が混ざり合っています。




このレベルの翡翠には、なかなか出会えないので作品も限られます。
既に切断されているので、厚みのある作品が制作できません…。(今現在は)
昔の翡翠なので、まだ同じタイプを持っている住人がいるとは思いますが、今後に出会える確立は高くは無いでしょう。

無傷の原石があった場合は、そのまま未来へ繋げて行くのが良いのでしょうね。
2014年10月27日
来年の3月に、本格的に北陸新幹線が開通します。
それに向けて糸魚川も観光に力を入れて行くようで、様々な旅行会社が糸魚川を含めた旅行のプランを考えているそうです。

団体のお客さんが魅力的に思えるプラン、現実的に楽しめるプランが絶対に必要なのでしょう。
そこで、初めに言える事は「石灰石に物語性も無ければ、カニに悠久の浪漫も無い」って事です。

この二つを持っている存在は、ヒスイ(加工可能な鉱物も含む)と縄文遺跡(古代遺跡)でしょう。
もちろんジオパークも、その魅力に入るのですが、この二つほど強力ではありません。
重要な事は「人と自然とが共生する以前の話は学術的すぎて、一般的に興味が低い」って事です。(文化に浪漫があるし、ジオパークに海外ほどのスケールが無い)
ヒスイが5億年前に誕生した事は、知識として学ぶには良いですが、未来に繋がる知恵には成り得ません。

ですが糸魚川の住人が、どれだけヒスイと関わり、古代遺跡に触れ合っているのでしょうか?
現実が追い付いておらず、極力現地の人間と接触しない方が、物語性や浪漫が高まるのが悲しい現実です。

何よりもリピーターを増やす事が、糸魚川と旅行会社の必須条件であり、再び単体で訪れたお客さんが現実を知って、幻滅するような事は避けた方が良いでしょう。(嘘偽りのパフォーマンスは必要ない)

これはかなり難しいかと…、初めから期待させなければショックも少ないのでしょうが、それでは観光として意味ありませんし…。
結局、糸魚川単体では企画が組めず、周辺を取り入れなくては成り立ちません。(団体での旅行は)

糸魚川での翡翠鉱物展を見れば分かりますが、糸魚川へ業者を招待しておきながら地元の業者を優遇し過ぎています。
しかも「生活をかけた本業よりも必死」という、意味不明な状態にもなっています(笑)
競うならスタートラインを同じくして競えって話で、やること事がいちいちセコイ、我田引水どろこの話じゃない。

実際、去年に来た業者さんの数人が、もう二度と出ないと言っていましたね…。(糸魚川の業者がセコイのと、大した売上げに成らないから)
まぁ、刺身のツマのような扱いを受ければ、当然の話だと思います。(でも例え引き立て役だとしても、十分な売上げがあれば我慢もするでしょうけどね(笑))

そういう者達が、コンクリートのように固まっているのが現状です。(石灰石のまちだけに…)
で…、劣化したコンクリートは現実として、どう処理されれいるのでしょうか?
それを考えれば、糸魚川が今やらなくては成らない事が見えてくるのだと思います。(ちゃんとした年輩者もいますが…)
とにかく、ジジイ同士で傷を舐め合っている状態が見苦しい…。(いい年して群れるなと言いたい)

いつになっても老害が改善していかないまち、糸魚川。
ヒスイの故郷と言うよりは、石灰石のまちである糸魚川。
この「物語と浪漫の背骨がへし折れたまち」で、プロがどれだけの旅行を組めるのか期待しています。
2014年10月25日
提出した河川モニターの返答を、貰いましたのでお知らせします。

大野付近の返答です。






「9月は比較的穏やかな日が続き、姫川の水も澄んでいたようです。モニター報告では、地区や区間を区切っていただき、内容が解り易くて助かりました。
 河川敷を巡回していますと、橋の前後にペットボトルや空き缶が捨てられていました。去年より、その量が減っている様に思います。ゴミの中には、家庭ゴミや電化製品も過去にはありました。最近では見かけなく成りました。春頃にはクリーン作戦を実施します。姫川環境改善のためにぜひ、ご参加いただきたいと思います。
 姫川にも、いろいろの目的で所々に階段が設置されています。今年度も8箇所新設致します。ご報告のとおり、川岸付近は、断崖になって危険なところがあります。人の立ち入りが多い箇所には、看板で注意喚起をしていますが、お気づきの危険個所があれば、注意看板を立てます。また、今年度は、翡翠橋左岸上流部で、低水護岸工事を行い、水衝部の防護を致します。堤防の保護と河川利用者の安全のための工事です。
  写真の滑落崖の断面は、自然に出来た地層と思われます。洪水の度に堆積と表面の洗掘による現象のようです。
 モニター報告では、河川利用者の立場から、個人としてのご意見や河川環境の改善の要望などをお待ちしています。
 これからは、日に日に寒くなります。お体を大切に無理をせずに活動して頂きたいと思います。」


との事でした。
この付近を利用する人は、あまりいませんので階段で下りた川沿いの断崖付近に、看板を立てるくらいで良いかと。
春先にはヨモギやフキノトウをとっている人達を見かけるので、階段が出来た事は良かったかと思います。

ゴミの不法投棄は、いつになっても無くなりませんね…。
糸魚川市はゴミ処理環境がとても良く、大抵の埋め立てゴミも無料で引き取ってくれます。(自転車も可)
わざわざ川に捨てる意味が解らない…、空き缶やペットボトルもコンビニに捨てれば良いのに。
どれだけ怠惰なのだろうか…、昔の話とは言え呆れてしまいます。

この時期は、河川のいたる所で工事をしています。
小滝川入口まで上がってみて、どこら辺が水衝部なのか大体分かりました。
でも、こんな場所に一般の利用者はいませんので、そこら辺は土建屋さんに任せれば良いのでしょうね(笑)

今月は、根知付近をモニターしたいと思います。
私の活用は、一般利用者と少し異なる?ので、あまり参考には成らないかも…。
基本的に自分が自然に適応するスタイルなので、要望も無い気が…。

人間は自然から一定の距離を置く事で進化したのだから、自然に近づき過ぎると危険度が増すのは当然ではあります。(他の動物とは逆)
その事は教育で伝えていくのが重要で、物理的な自然への干渉で完全に防ぐのは不可能でしょう。

まぁ、毎年私がモニター報告するわけではないので、今年は私の目線での報告で勘弁して頂きたい。
私の目線で、姫川を楽しんでいる人もいるでしょうから!、… 多分(笑)


ちょっとした疑問は、姫川自体(河川敷を除く)を楽しんでいる人達は、私の知る限り「釣り人」と「鉱物探索の人」です。
これは、古代から同じで「食料の確保」と「石器素材や建材の確保」から派生してきたのだと思います。
この人達の要望は簡単で、「魚がたくさん釣れる環境作り」と「定期的に川の環境を変えてもらう事」でしょう。
でもこの場合、自然に任せていれば良かったりします(笑)

他の活用目的の利用者はいるのだろうか…?
その人達と出会えれば、別の視点での改善点を知る事が出来るかと思うのですが…。(流石に古代同様「運搬や生活用水」に、そのまま姫川を利用している人はいないだろうし…)
2014年10月20日
今回は、月読命「月光」の二作目を紹介します。

白ヒスイの中でも特に透明度の高いヒスイで、小サイズの月読を制作しました。
柔らかな光沢と質感が、月の光を表現するのにピッタリな白ヒスイです。
水に濡れた雪のようにも見えて、冷たい夜空に浮かぶ清廉の月(精神)を映しているかのようです。



片面には不純物による景色があり、それらが月の表面を想わせてくれます。
まるでライチの果肉のような質感で、光を受けてぼんやりと透けて輝きます。(ヒスイ輝石が細かく、よく練られた良質の白ヒスイでの作品です)
若干、細め(厚さ7mm)に制作していますので、重量的にも身に付けやすいかと思います。




白ヒスイではありますが、光に透かすと淡い緑に染まります。
冷たいイメージを持つ白ヒスイですが、その内には生命の温もりが宿っています。
強い光を受ける事で、より表情が際立ち、闇夜に輝く三日月が姿を現します。




発色の良いヒスイと出会うのは困難ですが、このレベルの白ヒスイも入手は困難です。(現在の海や川で出会う事は非常に難しく、購入するのも高額です…)
表現したい作品が在っても、それを造形するヒスイと出会えないのは残念ではあります。
それでも、少しずつイメージに合ったヒスイと出会って、創作活動を進めて行きたいと思います。
2014年10月17日
最近、この二つがゴチャゴチャになっている勾玉が増えています。
以前にも同じ様な事を書きましたが、今一度、書き記そうと思います。

この二つの大きな違いは「魂の器」は生者へ向けた存在で、「死の棺」は死者へ向けた存在である事です。
見極め方としては、何度も書いているように誕生理由と存在理由にあります。
簡単に言えば、海外での大量生産での勾玉は論外、国内であっても理解して制作していない勾玉は「ただの色違いの棺桶」です。

前者の理由は簡単で、こういった生産方法で海外の者が日本に「魂の器」を制作する訳がありません。(むしろ率先して棺桶を作る事でしょうね)
最近では、糸魚川翡翠を中国へ送り委託加工している業者が多くなりました。(良い部分は盗られるそうです(笑))
要は「糸魚川生まれの中国育ち」って事ですね…。
それで満足する者ならば問題ありませんが、知らずに購入している人も多いかと…。(遊びとして楽しむ分には、問題ないって事かな?)

後者の理由は単純で「誕生理由と存在理由が存在しないから」ですね(笑)
まぁ、最低でも「換金の為の道具」と「暇つぶし」という理由は、在るのかもしれませんが。

色違いの棺桶の特徴としては「量産品で曲線がとれておらず、無駄にピカピカしている」ってのが多く見られます。(あとは営利目的で形が媚びている)
要は墓石と同じで、角張ってピカピカになっているわけです。(とは言え姿形だけで判断できる人は、かなり少ないでしょう)

では「魂の器」とは何なのか?、ですが、一言で言えば「生者のお守りであり、魂の継承」です。
ここで誤解があるのですが、魂の器としてのお守りとは、災厄や困難から身を守る事が目的ではありません。(結果的に、そいった事を兼ねているだけです)
本来の目的は、「災厄や困難にあった際にも魂を腐敗させず、生者を未来へ進ませる最後の護りである」って事です。(最終防衛の神器ですね)
絶望さえしなければ、人は前に進めますから。(生きていく事自体が試練だし)

そして「死者の棺」とは死者のお守りであり、鎮魂を目的としたのだと思われます。

私が思うに、古代からこの二つの勾玉は使い分けられていたように思えます。
よく古墳などから出土する勾玉は、その多くは「魂の器」として作られた勾玉を埋葬したのでしょうが、もっと以前では、血族に継承されていたのだと思います。
何故ならば、生者の為の「魂の器」を死者の安らぎの場に埋めてしまうと、成仏できないからです…。

もし血族がいない王族や豪族であるならば、その「魂の器」を砕いて解放させる必用があります。
それに死者の鎮魂を願うのならば、生前に身に付けていた緑溢れるヒスイでなく、心安らぐ色調の勾玉である必用があるかと…。(もっと言えば勾玉である必用は在っても、ヒスイである必用は無かった気がする)

でも再生や復活などの願いを込めて一緒に埋葬すると、魂だけはそこに留まる事になります。
この事が必用だったのかもしれませんが、死者にとっては迷惑な気が…。(エゴだった気が…)
生への執着なのか、権力への執着だったのかは分かりませんが、引き際を間違えると最悪の結果になりますね…。

血族に繋がれた勾玉は子孫と共に魂を共有できますが、埋められた勾玉は孤独に土の中で永遠とも言える時を過ごすわけです。
もう拷問でしかない気がする…、ですが「死者の為の棺」として作られた勾玉を埋めてあげれば、その誕生理由・存在理由から死者に安らぎをもたらし、留まる事なく天へ還るのだと思います。

もしかしたら古墳から出土した勾玉には、未だ魂が留まった勾玉が存在するのかもしれませんね…。
いつの時代から使い方が変化したのか興味が湧きますが、確かめる方法は無いですね。(それに他者と共有できる証明方法も無いし)

また、血族では無くても「他者の魂と共存して、その時代に存在したい」、という思いがあっての選択なのかもしれません。(基本的に芸術品とは、そういったものだし)
だとすると遺跡調査とは、孤独な魂の発掘を知らずに行っているのかもしれませんね。

私が考える「死の棺」は、現在の「色違いの棺桶」とは違い、誕生理由と存在理由もあるので役目を果たしますが、現在は生者が「色違いの棺桶」を喜んで持っている為、おかしな事になっています。(終活の一種だろうか?)
死の棺と唯一つ共通している事は、その勾玉は「魂の守護を願って制作されていない」って事だけです。(と同時に魂の解放も願っていないので、全くの別物ですけど…)

要は「魂の器」でも「死の棺」でも無く、ただの色違いの棺桶(抜け殻)と言うわけです。
厄除けにも成らず、魂の守護にも成らず、魂の解放にも成らない、ただの「物体」でしかないのです。

でも所有者が人生をかけて、それに意味を持たせて成長させていく事は、可能なのかもしれません。(それには「他者が換金の為に作った商品に、自分の人生をかけられる者」である必用がありますね…)


日増しに狂って行く人間社会ですが、こういった事を見ても当然のようにも思えます。
もっと別の「誰もが解りやすい前兆」も在るかと思いますので、ちょっとした異常を見て、その後の災厄を予測できるようになれたのなら、人間はより成長できるのだと思います。
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